妖樹に俺の存在を気取られないよう、ゆっくりとかつ慎重に、かつて泉だった一帯から離れる。
背中に受ける不快感から開放されると同時に、俺はなりふり構わず、ここに来た時と同じように全速力で走り出した。
「……くそ」
距離はある程度離れていたが、妖樹の出す呪いの言葉を聞いてしまった影響なのか頭がズキズキと痛い。
リアナがいる場所に戻るまでの時間が、泉に向かう時の何倍にも感じる。考えていた以上に精神的なダメージがあったかもしれない。
怖じ気づいて逃げ出したような後ろめたさを感じながら、なるべく平静を装ってリアナのもとに駆け寄る。
ここで、負の感情など見せてはいけない。怯えや恐怖は波のように伝播する。
今ここにいる人たちは、肉体的も精神的にも限界を迎えている。そこに俺が追い打ちをかけるなんて、もっての外だ。
「戻りました。……リアもただいま」
「…………んー!」
リアナがむすっとした様子で、俺の腕を抱きしめる。一人で勝手に行動したので怒りを買ってしまったのだろう。
さっきまで人前でも普通に喋っていたのに、またもやだんまりモードに移行している。いきなり『お兄ちゃん』と呼んだりと、昨日今日と何かと妹がわからんことが多い。
リアナの態度は気になったが、今はそれどころではない。ノーマンさんに見てきたものを伝えた上で、何かしらの方針を決める必要がある。
「相談もせずに勝手な行動をしてすみません」
「……いや、ここでの判断は君に任せるよ。今も君の足の速さに腰が抜けそうになった。……それで何か見つかったのかい?」
「恐縮です。それで発見したものですけど……」
……ノーマンさんはそう尋ねてくるが、アレはいったい、なんて説明するのが適切なんだ?
泉で目撃したモノは正気を疑うばかりで、冷静になった今でも理解に苦しんでいる。それを順繰りに説明したところでちゃんと伝わるかも怪しい。
そもそもとして、俺が見てきたものを適切に言葉にできるのか、そんな不安もある。
「あー、その……昨日話した件の泉なんですが、完全に呪われていました。あの場所はもう駄目です」
「……は? 呪いって……あの呪いのことかい?」
回りくどく説明しても要領を得ないと思ったので、端的に状況を伝えてみたが、案の定ノーマンさんは面食らったような顔をしていた。
それと、彼の言う『あの呪い』とは何を指すのかわからないが、俺と同じ認識として考えてもいいものか。
「多分ですけど、その呪いであっていると思います。それも今回の場合は『呪い』というより、あり方としては『祟り』に近いかもしれません」
「たたり? うん……まあ、細かいことは置いておこうか。それで泉が駄目とはどう言うことなのかな?」
「あの泉は、近づくだけで呪いによる毒気によって、心身ともに侵されてしまいます。もし人間があの泉に落ちてしまえば、藻掻き苦しんだ後、死んでしまうでしょう」
呪いについては座学程度の知識しかないが、おそらくあの泉の解呪は不可能だ。歪みの規模が大きくて人の手では対処不能。向こう百年はあのままだろう。
「にわかには信じられない話だけど……」
俺の突拍子もない話は、さぞ懐疑的に聞こえるはず。それはよくわかる。
だからといって、直接見に行ってもらうのは自殺行為だ。なんとかこの場で信じてもらうしかない。
それに……ここから先は更にとんでもない与太話が続く。ノーマンさんにはこんな初級編で躓いてほしくない。
「えっと……それよりも、泉のほとりに一本だけ生えたブナの木をご存知ですよね?」
「あ、ああ、知ってるとも。あのブナは森の御神木だったからね。昔から知恵と安定を授けてくれるとされてたよ」
御神木……。うう、そんな大層な謂れのある木だったのか。
これから伝える話を信じてもらえるか怪しいし、そんな地域信仰の対象が穢さていたなんて聞いたらショックなんじゃ。
あーもう、二つの意味で言いづらくなってしまった。……でもこれ以上、時間を掛けるわけにもいかない。よし、説明すべきことを一息で言わせてもらおう。
「あの木も泉と同様に呪われてました。それが暫定『妖樹』となって、現在周囲に呪いを撒き散らし、徘徊してます」
「…………なんだって?」
「このまま放っておくと、この森が呪われてしまいます。今はあの泉までのルートは通らずに迂回して、町まで戻ることに専念しましょう」
会話という人類普遍のコミュニケーションを放棄して、とにかく要点だけを伝える。少々早口になってしまったが、理解してくれただろうか。
「……ええっと、なに? なんだって? ようじゅ?」
まあ、そうなるよね……。
俺だって、全く同じ内容を昨日今日知り合いから言われても、信じられる自信がない。まず、話の内容以前に相手の正気を疑う。
「とにかく、今は泉を避けて町に戻りましょう。町に戻ったら直ちに仔細を町議に報告して、然る後、ご領主様にお伝えするのが筋かと思います」
「……わ、わかった。そうしようか。何にしても町に戻るのが先決だ。今の話もホラ話だと思われなきゃいいんだが……」
よし、それだけ伝われば十分だ。今は何より、四人全員で町まで戻ることが最優先。泉や妖樹の対処は、然るべき機関にやってもらう。
俺たち兄妹は、逃亡生活を続けなければならないので、これ以上余計なトラブルに関わっている暇はない。
「このまま放置すれば森に甚大な被害が出るのは確実ですから、そうなってしまえば論より証拠ってやつです。この森を失うのは大変な損失でしょうし、ご領主様もご納得頂けるかと思います」
「……うーん、どうだろうな。ここの領主はちょっとな……」
やっぱりというかなんというか、ノーマンさんにもここの領主は信用されていないみたいだ。
俺がこの町で知り合ったベリンダちゃんを除く大人三人が、ここの領主に悪感情を持っている……ん?
「…………んー!」
さっきから何か変な感じがすると思ったら、リアナが俺の腕を引っ張っていた。
「んー! んー!」
もしかしてこの妹ちゃんは、お兄ちゃんをどこかに運ぼうとしてるのだろうか。しかし体格差もあって、俺の体は微動だに動かない。……やっぱりインドア派(超好意的解釈)だけあって力ないな。
「……お兄ちゃん、大人の人と大切な話をしてるからね。後でいっぱい遊んであげるから、ちょっとだけ我慢しようね」
赤子をあやすような口調で、妹の頭をポンポンと叩いてみたが、どうにもこうにも不満そうだった。
どうやら話があるみたいだが、リアナの口は閉ざされたままで、一向に開く様子がない。……さっきまでは普通に話していたのになあ。
だけど必死なのは伝わってくる。いつも以上にぐいぐいと引っ張るので、余程のことだと推察された。うーん、しょうがない。
「少し妹と話してきます。少々お待ち下さい……」
「あ、ああ……君も大変だね……」
ノーマンさんに少し引き気味な同情をされてしまった。うちの妹は決して可哀想な子ではない。ちょっと照れ屋(超好意的解釈)なだけなのだ。
リアナに引っ張られるままに歩調を合わせると、近くの木の陰まで連れていかれる。ここなら向こうの二人に会話を聞かれる心配はないだろう。
「リアちゃん、それでお兄ちゃんになんのご用かな?」
「……えっと、その、ですね。に、兄さんに緊急妹速報があります」
脱力のあまり、思わず膝から崩れ落ちそうになる。
余程の緊急性を要する話かと思ったら『緊急妹速報』ってなんだよ。お兄ちゃん、そんなの初めて聞いたよ。リアナも自分で言っておきながら、ちょっと恥ずかしそうにしているし。
「うん、オシッコならあの辺の茂みで一人でしてね。流石のお兄ちゃんもそこまでは面倒見きれないよ」
「違います。デリカシーのない兄さんは死んでください」
「じゃあなにさ? もしかして、大きいほ――」
「シャラップ。……あなたの言う妖樹でしたっけ? それがここに向かってます」
「………………は?」
今この妹はなんと言った? 妖樹がここに向かっている?
「その……何気ないように言ってるけど、何かの冗談じゃないですよね?」
あまりの発言にリアナのようなヘンテコ敬語になってしまう。兄妹であってもあまり似ていない。
「だーかーら、私は兄さんに嘘は絶対につきませんってば。死んでほしいと思うことは度々ありますけど」
「そこだけは嘘だと言ってください。お願いします」
今の話……本当かどうか確認するまでもない。
少し前にリアナは遠く離れた妖樹の存在を指で示していた。……だから疑いようもない事実だ。
だけど急にそんなことを言われても、何の言葉も出ないし、何の考えも纏まらない。
眼前の妹は現状をあまり理解していないのか、焦りも恐怖も感じていないように見える。鼻息をフンフンと鳴らし、少しだけ興奮気味だ。
「……あー、振動がしますね。これなら兄さんにもわかるでしょう?」
リアナの言う通り、何かを破壊して引きずるような振動が足の裏から伝わる。急な展開に頭が追いつきそうもない。
「……伝わってきた。これは間違いないかな」
「でしょう?」
俺が同意すると、リアナが得意気に目を細める。随分と余裕な態度だった。
なんにしても、あの化け物ツリーが俺たちに向かってきている。……つまりそれは、俺たちに襲いかかるということ。
「まさか……偵察の時に気づかれていたのか」
言い訳がましいが、妖樹が俺に気づいている様子はなかった。
気配も魔力も可能な限り消していたし、物音一つ立てなかった。そんなスキルを使って飯を食べていた時期だってある。
それでも状況的に、何かしらの落ち度が俺にあった可能性が高い。
「別に……褒めたければ褒めてくれてもいいんですよ? ふふーん」
妹から渾身のドヤ顔を披露された。状況から乖離した妄言をのたまうリアナを無視して、踵を返しノーマンさんのもとに駆け寄る。
「ノーマンさん! さっきまでの話は全部なし! 全部なしで! お二人は今すぐにこの森から逃げてください!」
「何を言って――あ、あれはなんだ……!?」
そうして、彼の見上げた視線の先。
耳慣れない地響きと共に、木々の切れ間から覗く禍々しい樹木――『妖樹』の姿があった。