妖樹はもう、目視可能な位置まで来ていた。
三十メートルを超えた巨体では考えられないほど動きが速い。進行に邪魔な森の木をなぎ倒しながら、成人が走るのと変わらない速度でこちらに向かってくる。
「ぐ……」
……駄目だ駄目だ。スケールがヒトやモンスターと違いすぎて、比較できる対象が思いつかない。ここに到達するまで、あと数分あるかどうか……!
「あれがこっちに向かってます! おそらく狙いは俺です! ノーマンさんはベリンダちゃんを連れて今すぐ逃げてください!」
ベリンダちゃんは、既に泣き止んでいた。いや、もう泣くことすらできなかった。人は泣くのにだって体力を使う。
こんな異常事態なのに反応が薄く、ノーマンさんに抱きつき離れようとしない。もう少女の精神はとっくに限界を迎えていた。
「だ、だけど、君たちはどうするんだ?」
「俺のことは気にしないでください! ここで殿として可能な限り時間を稼ぎます!」
……場の勢いに飲まれて、漠然と考えていたことをつい口に出してしまう。
現状で考えうる手立てとして、それが間違いなく最善手だ。少しでも時間があれば、他の対策も思い付いたかもしれない。
だが、妖樹が目と鼻の先まで迫っている段階で、タイムリミットを迎えていた。
それにあいつが本当に俺を狙っているなら、唯一戦える俺がここで囮になるのが、適材適所というやつだ。
まあ、本音を言ってしまえば、そんなことやりたくないし、今すぐ逃げ出してしまいたい。
「だけど、それだと君が危ないだろ! いくら何でもあんな化け物を一人で相手するのは無理だ!」
ごもっとも。俺とあの妖樹では、質量があまりに違いすぎる。至極単純な話でデカいやつはそれだけで強い。ただの人間なんかが勝てるはずがない。
もし俺が、子供に読み聞かせるような物語の英雄であれば、ここで『皆の者、聞け聞け』と名乗り口上の一つでも上げて、あの化け物に立ち向かって見せただろう。
……だが、生憎俺はそんな能力も才能も持ち合わせていない。何もないから、俺たち兄妹は今こんなところにいる。
そんな、英雄英傑と呼べるような稀有な才能を持つ人物を一人……いや、二人だけ知っている。だけど、それは存在すらも不確かな神にすがるようなもの。
「俺のことは気にせずに、今は自分の娘のことだけを考えてください! いいから早く!」
「……わかった! 君もこんなところで死ぬんじゃないぞ……!」
そう、今は俺たちよりも自分の抱えている命のことだけを考えてほしい。
どうせ俺たちは、昨日今日の知り合いだ。俺がここで何も成し遂げずに死んだとしても、ノーマンさんたちの人生に何の影響もない。
この森から無事に生き延びて『ああ、そんな兄妹もいたな』とたまに思い出してくれば、それで充分。
「……おねーさん」
身も心もすり減らした少女が、消え入りそうな声で妹に話し掛ける。
「…………!」
そんなか細い声に対しても、リアナは無視して俺の後ろに隠れてしまう。……これが今生の別れかもしれないのに、この妹だけはどんな時も相変わらずだ。
「ベリンダちゃんも気をつけて! ……また懲りずに妹の相手をしてくれると嬉しい!」
リアナの代わりにはならないが、俺がそう言うと少女はコクリと頷いてくれた。やっぱりベリンダちゃんは良い子だ。彼女には何とか生き延びてほしい。
そして、ベリンダちゃんを抱いたノーマンさんは、一度も振り返らずに町の方角へと走り去っていった。
突然だが、妖樹はそんな状況を待ってくれたりはしない。
俺たちがもたついているうちに、全てを破壊しながら眼前まで迫っていた。
「…………う、あ」
情けない悲鳴とともに、たじろいでしまう。
不規則に並べられた無数の瞳が、俺たちの姿を一斉にギョロリと捉えたからだ。身の毛がよだつとはこのことを言うのだろう。
妖樹は、逃げ出したノーマンさんたちを完全に無視している。それは、狙いが俺だという証拠だった。
「リアナ! お前はノーマンさんを追いかけろ! 今ならまだ間に合う!」
「んー?」
俺の懇願めいた言葉に対してリアナは、指先で口角を持ち上げ、意図的に厭やらしい笑みを作る。
その無理やり歪められた口から出てくる言葉は、今の俺には容易に想像できてしまう。
「いーやーでーすー。私は兄さんとずぅ~~っと、いっしょにいまーす」
ああ……わかってた。わかってたよ、畜生! だとしても、こう言わずにはいられない。
「お前は本当に馬鹿な妹だよ!!」
宿で聞いた『兄が死ぬ時は、妹も死ぬ時』という言葉から、こうなるものだと予想していた。
ベリンダちゃんを抱えて手一杯なノーマンさんに、リアナは託せない。
それでも……コイツだけは、妹だけは、絶対に死んでほしくない。だがリアナは、俺の側から梃子を使おうが動かないだろう。
「…………あ」
その時………一つの別の考えが脳裏を過った。
それは、過去からの、かつての自分からの呼び声だったかもしれない。
『今からでもリアナを抱えて、ここから逃げるべきじゃないか?』
魔法で強化された俺の足であれば、妖樹から逃げ切れる自信がある。
……それでもし俺を追って、妖樹が町にたどり着いたらどうなる?
あの町には戦えるような人は残っていないと、少し前に聞いたばかりだった。
下手をすれば妖樹によって、町が滅んでしまう恐れがある。
でも俺はそんな咎を背負ったとしても、この先の人生を多少の負い目を感じる程度で生きていける。
それと、俺には『妹のため』という大きな免罪符があった。
リアナの命のためなら『たかが町一つ』を犠牲にしてもいいんじゃないかという、そんな免罪符が。
いや、それは……それだけはできない。
リアナは昨晩『私の責任で人が死んでしまうのだけはどうあっても耐えられない』と言っていた。
『妹のため』……彼女の意志を本当の意味で尊重するなら、ここで逃げるという選択肢は絶対に存在しない。
それをしてしまえば、他でもない兄である俺がこの少女の心に一生消えない傷を作ってしまう。
「ふふ、何をおっしゃりますか。私は馬鹿な妹ではなく、美人で可愛いあなたの……あなただけの妹です」
「リアナは美人で可愛い最高の妹だけど、少しは奥ゆかしさを覚えようか!」
「あーでも、私だってこんなところで死にたくありませんしー。兄さんは、頑張って私を守ってくださいね!」
命の懸かった状況だというのに、この妹だけはいつもどおりだった。多少感情が高ぶっているが、恐怖を感じているようには思えない。
もしかしなくても、この少女は俺なんかよりもずっと肝が据わっているかもしれない。
だったら、だったらもう――。
「……ああああもう! やってやる! やってやるよ! あんな化け物なんかに俺の妹には指一本だって触れさせやない!」
「やったー! 兄さん、ちょーカッコいいー! ……でも植物の指ってどこですか?」
言葉の綾に心底どうでもいいツッコミが入ったが、俺の腹は完全に括られた。
こうなれば、あとはもう、やるかやられるかだけだ!
「今ここで!! あの化け物をぶっ倒す!!」
気を抜けば今にも吐き出してしまいそうな悲鳴を飲み込んで、大声で宣言する。
あんな木の化け物に、俺の言っている言葉など少しも理解できないだろう。
だからこれは自分自身を奮い立たせるため、そしてすぐ後ろにいる妹に対しての宣言だ。
ああ、ああ! 可愛い妹を守るお兄ちゃんとして、存分に格好つけさせてもらおうじゃないか!
ふと、服の裾をクイクイと引っ張られる。
「……それにしても、やっと二人きりになれましたね」
「それ、いま言うこと?」