逃亡生活 五日目 正午前
オルティゼル王国国境 パウリナの森にて
妖樹討伐から暫くして、自由落下のストレスで失神していたリアナが目を覚ました。
「う、ううん……う?」
彼女の身体に怪我がないか、全身をくまなくチェックしている最中だった。
「えっと……兄さんは私に何をしているんですか……?」
「うん、高いところから飛び降りたからね。怪我をしてないか調べてた」
「高いところ……?」
確認のためにコートを脱がせたので、彼女が今着ているのは黒のワンピースだけだ。
手足の関節を軽く曲げてみたが、痛がる様子はなく、腫れている箇所もない。折ったり捻ったりはしてないようだ。
次に擦過傷がないか調べる。たかがすり傷と思って甘く見ていると、化膿して大病になる可能性もある。
だから、どんな小さな傷でも心配しすぎということはない。ワンピースのスカート部分をめくり、普段は隠れている大腿部のチェックも怠らずに行った。
「……あの、兄さん?」
十五年物のヴィンテージな引きこもりだけあって、白く綺麗な肌だった。
きめ細かくて瑞々しく、それでどこか艶めかしい少女の柔肌。彼女が幽閉されていた間、日の光を浴びる機会もなかったため、シミひとつないのも頷ける。
「本当に綺麗な肌だな。スベスベだけど吸いつくような感じもする。まあ、すり傷もないみたいでよかったよ」
「……は、はあ。ありがとうございます」
つい思っていることを口にしてしまったが、リアナは肯定的に受け止めてくれた。というよりも、意識がまだはっきりしていないのか、どこかぼーっとしている。
「……ええと、なにがなにやらわかりませんが、兄さんは大丈夫なんですか?」
「俺? 俺は特に怪我らしい怪我はないかな。頭痛もコイツを倒したらすとんと落ち着いたし」
妖樹から物理的な攻撃は一度も受けなかったので、身体に怪我はない。ただ、呪いによって鼻血や血涙といった珍しい出血があり、多少の貧血はある。つまり、その程度だ。
「こいつ?」
「コイツ」
俺たちの傍らで横倒しになった元ブナの老木、現妖樹の死体(?)をコツンと叩く。リアナの位置からは、ただの朽ちた大木にしか見えないようで、妖樹の存在に気付いていなかったらしい。
「うーん? コレ、なんでしたっけ……?」
リアナが活動停止した妖樹をぼんやりと眺めている。うんうんと唸りながら、何かを思い出そうとしているようだ。……お兄ちゃん、なんだか嫌な予感がするぞ。
「リアちゃん! そんなばっちぃの見てもちっとも楽しくないよ! こっちでお兄ちゃんとじゃんけんでもして遊ぼう!」
「あ! ……あーーっ!!」
ついに思い出したのか、らしくない大声を上げると、顔が徐々に紅潮していった。元が白いため、赤くなると一目でわかる。
表情だけだと何を考えているのか分かりづらいので、彼女の顔色は機嫌を測る指標として丁度いいかもしれない。現在は危険を表す警告色の赤だ。
「……取り敢えず、兄さんはそこに座ってください」
「はい、座ります……」
得も言われぬ迫力に押され、頼まれてもないのに正座をしてしまう。リアナの無表情は相変わらずだが、全身から「私、怒ってます」オーラが滲み出ていた。
「いや、そのなんか、ホントにごめん」
今まで表面上は何でもないふりをしていたが、内心はかなり焦っていた。
リアナは寝起きだったため、現状の把握ができずにいた。しかし、倒れている妖樹を見たことで、何もかも思い出してしまったようだ。
……妖樹の一件を忘れて、このまま町に帰れたらいいなあ、とぼんやり考えていたが、その目論見は露となって消え去ってしまった。
「ほーう、兄さんは自らの行為が悪いことだと理解しているみたいですね。それでもやってしまったと?」
「はい、若気の至りでした……。ここはどうかひとつ穏便にお願いします……」
そんな俺の必死な懇願も虚しく、リアナは腕を組んでお叱りモードに移行した。
……姉からの叱責は、人としての尊厳を踏みにじられるこの世の地獄だ。
だが、妹から叱られるのは別の意味でつらい。とにかくつらい。自分という人間がどこまでも情けなく感じてしまう。
これが兄でもあり、弟でもある俺の生まれついてのカルマなのか。
「私をおんぶしたままで、どうしてあんなことをするんですか! ちょっとだけちびっちゃったじゃないですか!」
『あんなこと』というのは、彼女を背負った状態で木々を飛び移り、最後は上空三十メートルから飛び降りるという壮絶な大立ち回りを演じたことだろう。……まあ、当然怒るよね。だけど、事前に説明したらリアナは絶対に付き合ってくれないよね。
あの場は生きるか死ぬか、森を放火するかの瀬戸際で、とにかく余裕がなく、否応なしに強行せざるを得なかったんだ。
「えっ、漏らしたのか。替えの下着は宿に戻らないとないよ」
言葉尻を捕らえて、何とか話を別の方向に逸らそうとする。……しかし漏らしたのか。漏らしてしまったのか、十五歳。
そういえば、ここ何日か分の洗濯物が溜まっているなあ。今着ている服も洗濯したいし、どうにかできないものかなあ。
「ちょっと! だけ! と! 言いました! というか、論点はそこじゃないです! 私はなんであんな馬鹿な真似をしたのかと訊いているんです!」
話を逸らそうとしたが、当然の如く妹様のお怒りは止まらなかった。俺もあの程度の論点のすり替えで騙されるような育て方を妹にしていない。
「いや、だってあんな場所から指さされてもわからなかったし」
その点に関しては、リアナにも多少の落ち度があると思う。俺には目の色の違いなんてわからないのに、無数にある妖樹の目の一つから見つけろと言われても、土台無理な話だ。
リアナは必死に教えようとしてくれたが、その姿がちょっと可愛いなと感じただけで、それ以上の成果はなかった。
「そこは分かってください! 私たち、兄妹でしょう!?」
「血を分けた正真正銘の兄妹だけど、それとこれとは話が別なんじゃないかな」
「兄妹なんですから、心は通じ合って然るべきじゃないんですか!?」
また難しいことを言う。たとえば、双子なんかはお互いに離れていても感覚的に繋がっているなんて話を聞くけど、正直それは眉唾だと思っている。
俺はリアナと幼年期に別離してからの十年間、同じ敷地内に幽閉されていた彼女にまったく気づかなかった前科があるのだ。
「リアちゃんは、兄妹に対して過度な幻想を抱き過ぎだと思う。俺はリアのことならともかく、姉さんのことは一つも理解できないぞ」
「は! ……い、言われてみれば確かに! 私もお姉様のことはこれっぽっちも理解できません!」
物凄い勢いで納得された。もっとも、あの人は『姉としても』『人としても』極めて特殊な部類なので、何の参考にもならない。『弟から見た姉』『妹から見た姉』そのどちらも『傲岸不遜で傍若無人。それでいて何を考えているかわからない』なのが共通認識だった。
「……それに、リアナを一人にしたら妖樹に狙われたんだろ? だったらあれが正解だって」
仮にコアの場所がわかったとしても、リアナをあの場に置いていく選択肢はなかった。妖樹を倒しても、妹が死んでしまったら何の意味もない。
そんなありもしない『もしも』を想像するだけで、俺の心は千々に乱れそうになる。それは、自分が死ぬよりもずっと辛いことだ。
「うぐぐ。た、確かにそうですね……。あのガン見具合からして、私を狙っていたのは間違いないです……」
「そうだって。でもリアに何も言わずに行動して、怖い思いをさせたのは悪かったと思ってる。それについては、本当にごめん」
これで矛を収めてくれたらいいんだけど。俺がこうやって謝っている以上、他にしてあげられることは何もない。
そもそも俺はリアナからどんな無茶な要求をされても、無条件で飲み込める出来たお兄ちゃんなのだ(奴隷精神が染み付いているとも言う)。
「まあ、妖樹の件はもういいでしょう。私も大人ですから、この件に関してはこれ以上追求せずに許してあげます」
「リアちゃんのご寛容な判断、誠に痛み入ります」
芝居がかった口調で「へへー」と言いながら、頭を地面に擦りつけた。これは極東の国で大流行している『秘技・土下座』だ。『正座』からの派生した由緒正しい技であり、俺たちの間でプチブームを起こしている。
一昨年出版されたサルマナザール著『フソウ国誌』は、謎とされてきた極東の神秘がこれでもかと網羅された名著だ。
リアナが大人かどうかは、肉体的にも精神的にも是非が問われるところだが、そこを流してあげるのが真の大人の対応だと言えよう。
「でーすーが! もう一つ! なんで目を覚ましたら兄さんは私の体をまさぐってたんですか!?」
「……『まさぐる』っていい方はちょっと好きじゃないかなー。もう説明したはずだけど、お兄ちゃんとして世界一可愛い妹に怪我がないか診察してただけだよ」
兄妹の詮無き諍いが終結したと思った矢先、別の禍根が浮上した。これは土下座のタイミングを見誤ったかもしれないぞ。
「少しは焦るなりなんなりしてくださいよ! あまりに平然としているから、こっちの毒気が抜かれたじゃないですか!」
「……いやいや、あの場面で焦ってたら逆にヤバいでしょ。インモラルでしょ。お兄ちゃんが妹の体を見て欲情する変態になってしまう」
正直な話をすれば……一緒に過ごした三年間でリアナの身長はそこまで伸びなかったが、出るところはしっかりと出たので……まあ、多少はドキッとしてしまうことはある。
それについては、真っ当な兄妹として過ごした期間が短いから仕方がないと思っている。とはいえ、これは兄としての威信をかけて墓まで抱えていく秘密だ。
「たしかに! 兄さんが私の体を見てぐへぐへ言ってたら相当キモいです! 死んでください!」
物凄い勢いで納得された。想像上のことで「死んでくれ」とまで言われてしまったが、ちょっとだけ後ろめたかったのも事実なので黙っておく。
妹による叱責は、兄を存分に辱めることで終わった。妹の理不尽に、兄は耐え忍ぶもの。これが世間一般の妹が求める理想的なお兄ちゃん像なのだ。たぶん。
◇
「……で、この妖樹なるものは何だったんです? 外の世界ってこんなのが日常的に跳梁跋扈してるんですか? 私、いまの生活に早速挫けそうなんですけど」
「お外ちょー怖いです」と言ってかわい子ぶっているが、この妹が怖がっているようには見えない。こんな化け物よりも、対人関係の方がよっぽど怖がっている。この愚妹は、何かにつけて引きこもれる理由を探しているのを俺は知っている。
「いやいやいや。俺だってこんなの見るのは初めてだよ」
ベリンダちゃんたちを捜索するために森に入ったら、いきなり現れて、いきなり襲われたのだ。狼や他の獣に襲われる程度の想定はしていたが、まさかこんな化け物と対峙するなんて夢にも思わなかった。本当は、今だって理解が追いついていない。
「ええー、じゃあこれは何なんですか?」
「『よくわからない』が正直な感想。……でもお兄ちゃんの妄想コミコミの推測でよければ聞く?」
「うーん、まあ聞いてあげましょうか」
教えを請う側なのに、どうしてこうも上から目線なんだろうか。まあいいけどさ。
「……昨日ノーマンさんが言ってたんだ。泉のほとりに生えたブナは御神木として信仰されていたけど、泉が枯れてから誰も寄りつかなくなったんだって」
「へー。わざわざ時間を掛けてまで、大きな水溜まりを見てもしゃあないですからね。フツーの判断だと思いますけど」
リアナの率直過ぎる感想はもっともだ。俺だってまず行かない。でも、リアナは泉に腕を突っ込んではしゃいでいたような。まあ、そこを指摘しても逆ギレされるだけか。
「信仰が急速に失われたことによって、呪いが発生する土壌が整ってしまった。これは『禍を転じて福となす』の逆パターン。つまり『良きものが転化して悪しきものが生まれた』」
かつて御神木として地域信仰の対象だった樹木が、『泉が湧かなくなった』という理由で蔑ろにされたのだ。
とある神が別の宗教では悪神として恐れられるように、誘惑や堕落によって天使が悪魔に堕ちるように。今回のような自然崇拝に依る御神木も表裏一体の関係にある。
「だけど今回のケースは、偶発的な祟りじゃなくて人為的な産物の可能性が高いと思う」
「ほうほう、その心は?」
確たる証拠は持っていないが、これに関してはほぼ確信していた。
「規模が大きすぎる。言っちゃ悪いけど、ただの地域信仰の御神木が反転しただけで、こんな大規模の呪いになるなんてことはまずあり得ない」
「ははー、つまり信仰を失って悪いものに変貌しかけていた御神木をベースに、『誰かさん』がこの妖樹になるように細工をしたってことですか?」
「その通り。流石リアちゃん」
たかだか地域信仰の木が信仰を失って、こんな規模の災禍が起きるなら、世界はもっと呪いで満ちあふれている。何者かがこの機会に便乗し、自分の都合の良いように御神木を作り変えたのだろう。
「まあ、俺たちとは何の関係もない話しだから、その『誰かさん』に見つかる前に、ここを早々に立ち去った方がいいかもね」
「おお、それでこそ私の兄さんです。『これ以上の悪行を重ねさせないために元凶をとっちめに行こう!』なんて言い出したら、余計なことを二度と喋れないよう顎を粉砕するつもりでした」
先日開花した闘拳の才能を見せつけるかのように、軽いジャブ二回からキレッキレのジョルトブローを披露する。
「……えっと、リアちゃんはお兄ちゃんに嘘をつかないんだよね?」
「はい、そうですけど。それがなにか?」
「いいえ、なんでもないです……」
本音を言えば……そんな大層な正義感ではなく、俺の中の小さな好奇心が疼いていた。ただ、今はリアナを守るためにそんなものに構っている余裕はない。
……『誰が』やったのか。これについてはあまり気にならない。俺たちの姉のような高名な魔法使い――たとえば、この国の大アーヴィング卿のような人物の仕業でないのは明らかだ。
なぜなら呪法や死霊術の類は、その性質から違法性が高く秘匿が求められているため、身内だけの閉じた世界になっている。特にうちの国では、大昔の事件によって死霊術は関わるだけで重罪だ。簡単に言えば、即縛り首。
そんな秘匿性の高さから、犯人の特定など、この世界から引退した俺では足がかりすら掴めやしないだろう。特殊なコネクションがなければ、まず不可能ということだ。
それよりも『なぜ』やったのか。こっちの方が重要だった。つまり、動機がまったく見えてこない。
どこかの誰かさんは、何を考えてこんな辺鄙な森で大規模な儀式を行ったのか。この手の土着の儀式魔法は、手間も費用もべらぼうに掛かる。下層クラスの魔法使いが必要なのも間違いない。徒らにやるには、いささかコスパの悪い代物だ。だったら何の意味があって――。
「……そんなに物思わしげな顔をしてどうしたんですか。顎でも砕きますか?」
「いいや、なんでもない。なんでもないから砕かないでください。てか、そんな『お茶でもしますか?』みたいな気軽さで兄の顎を狙わないでほしい」
これ以上、妖樹について考えるのはやめよう。今は姉さんから逃げることにすべてのリソースを使うべきなのだ。
「ふふふ。じゃあ宿に戻りましょうか、兄さん」
リアナはぎこちなく笑って見せると、俺に手を差し出した。
うん……? これは『手を繋いでほしい』という意味だろうか? 普段は俺の後ろをついて歩くばかりなのに、なんとも微笑ましい。
「いや、森は危ないから俺の後ろを歩こうよ。これ、最初にしたお兄ちゃんとの約束。無事に宿へ帰るまでが捜索です」
「うーん、ムカつくほどのド正論。いつか兄にぎゃふんと言わせてやりたい」
俺は、ぎゃふんと言っている人物をこれまで見たことがない。今後も見る機会はないだろうけど。
◇
帰りがけに例の泉に寄ってみたら、なんと呪いが解けていた。
妖樹が完全に停止したことで、呪いの影響を受けた草木と土壌が元の状態に戻っていた。それに気づき、もしやと思って泉に行ってみると、泉もまた元通りになっていた。
……いいや、『元通り』というのは語弊がある。なぜなら、涸れていたはずの泉が再び湧き出していたからだ。おそらく妖樹が引き抜かれたことで、地下の水脈に影響を与えたのだろう。
妖樹と転じたブナの老木がなくなり、泉の形が少々歪になってしまったが、これでまた町の人が行き来するようになるかもしれない。それなら、今回の騒動にも多少の価値はあった。
そんな感慨に耽っていたら、後ろにいたはずのリアナが、目を細めてニタニタしながら俺の前に立っていた。
彼女は、人と触れ合わない生活をしていたので、表情筋がとにかく硬い。そのせいで、喜怒哀楽の表現が下手くそなのだが、こういういやらしい表情だけ妙に上手いのはなぜだろう?
「ここは『池』ではなくて『泉』でよかったんでちゅねぇ~。知ったかぶりをする兄さんも少しは勉強になりまちたかぁ~」
「……はい、知ったかぶりをしてすみませんでした。今後はリアちゃんに負けないよう精進したいと思います」
復活した泉を見て、リアナが水を得た魚のように喜びだした。それも泉が復活したというポジティブな理由ではなく、実兄をからかえるネガティブな理由なのが、実に俺の妹だと言えた。
「あ、そうだ! 『ぎゃふん』と無様に鳴いてみたらどうですか?」
「…………ぎゃふん」
「あれれ~? 全然聞こえませんよ~? 声が小さいですね~? 恥ずかしいんですか~? 恥ずかしいんでちゅかねぇ~?」
「ぎゃふん!!」
「あははは。無様な兄が無様に鳴いています。最高に滑稽で最高に愉快です! まさかこんなに早く機会が訪れるとは思ってませんでした!」
俺は、妹の育て方を間違えたかもしれない。