昼過ぎになって、俺たちはようやく森から抜け出せた。緩やかな川の対岸に、国境の町サロが見える。
当初の予定だと、昼飯前には着くはずだったのに、リアナと泉で戯れていたらこの有様だ。
昨日の夕方近くから森に入ったので、一日近く森にいたことになる。体力には自信のある方だが、それでも心身ともにクタクタだ。
「ふーん。ふふーん。ふふふーん」
昨日からずっと思っていたが、森の中を歩き回ったリアナが妙に元気なのが不思議だった。今も泉で兄を散々からかえた喜びからか、三段活用みたいな鼻歌を歌っている。今日はまだスキンケアをしてないのに、お肌だってつやつやだ。
リアナは森に入ってから、一度も『疲れた』という弱音を吐いていない。『もう歩けないからおんぶしろ』ぐらいは言われると覚悟していたが、そんなこともなかった。
引きこもりの妹がこんなに体力があるなんて、お兄ちゃん全然知らなかったよ。
「さっきから私の顔をじっと見てどうしたんですか? ……ははーん。もしかして、このきゃわわな妹に惚れちゃいましたか?」
「――ハッ」
「あ、いま鼻で笑った。鼻で笑いました。グギギギ、なんという屈辱……!」
とまあ……本人に訊いたころで、要領を得ない答えが返ってきそうだから止めておこう。
森まで案内してくれたレナルドさんを捜してみたが、どこにも見当たらなかった。あれから一日が経過したので、当然といえば当然か。
……それより、ベリンダちゃんたちは無事に町へと戻れたのか。そこが一番の心配だった。
町の様子は昨日とさほど変わりなかったが、意識してみると規模に対して活気が少ない気がする。
昨日は気づかなかったが、働き手である若い男性の数が少ないのだ。近々起きるかもしれない戦争に備えて、領主が若者を徴兵している話は本当なのだろう。
「リアちゃん、本当にうちの国と戦争になるのかな。鉱石が掘れる島の領有権だけでやるとは思えないんだけど。勝っても負けても損失の方がデカくない?」
「そんなのどーでもいいです……。今は私に話しかけないでくださぃ……」
あまり表立って話せる内容じゃなかったので、ヒソヒソ声で話しかけたが、リアナの人見知りは平常仕様だった。
町の人の視線を気にして、俺の後ろにびくびくとくっついて歩いている。挙動が怪しすぎて、逆に目立っていたが、言って直せるようなものじゃないだろう。
……しかしさっきまでは、俺をからかって遊んでいたのに、この小動物のような変わりようはなんともいじらしい。
「あれ? 閉店中?」
約一日ぶりに宿泊先の金鹿亭に戻ってみると、『閉店中』の看板がエントランスの扉に掛けられていた。
この手の宿は基本的に年中無休のはずだが、やはり昨日の件が関係しているのだろうか。従業員が他のいたとしても、オーナーのノーマンさん不在では店を開けられなかったのかもしれない。
「…………まさか」
嫌な予感がした。もしかすると、ベリンダちゃんとノーマンさんはまだ戻っていないのか?
……妖樹にやられた聴力は、リアナのおかげで順調に回復している。あと一日もあれば万全になるだろう。
マナーとして最悪だが、聴覚強化の魔法を使えば、扉越しでも会話程度なら聞ける。
『――――』
町の喧騒を無視し、意識を扉の向こう側に集中させ、選択的聴取を開始する。
『今すぐ領主にこのことを伝えるべきだ! あいつらをこんなことで死なせたら寝覚めが悪い!』
この少し粗暴な口調は、森まで案内をしてくれたレナルドさんのものだ。あれからちゃんと家に帰ってくれたようで、余計な負い目を感じずに済んだ。
『しかしな。そんな話をご領主様が聞き入れてくれるかどうか。今は唯でさえ無茶な要求が多い。これ以上機嫌を損ねられでもしたら……』
この声は聞き覚えがなかったが、声帯の萎縮具合からしてご年配の方だと推察できる。話の内容からすると、この町の有力者のようだ。
『じゃあ、何さ。行きずりの私たちのために夫と子供の命を救ってくれた二人を見捨てろって言うの! ご領主様に若者と金を奪われるだけじゃ飽き足らず、今度はなけなしの良心も差し出したってのかい! ああもう! いよいよこの町もおしまいだね!』
『そうは言っていないだろう。……だが犠牲になったのが、ノーマンではなく、余所者だったのは不幸中の幸いだったかもしれん』
『……はっ! あんた、昔はそんなんじゃなかったのに、今じゃご主人様に尻尾を振る立派な飼い犬に成り下がったんだね!』
これは女将さんだ。極太の力強い声質で、非常にわかりやすい。それとベリンダちゃんたちが無事なようでホッとする。杞憂で済んだようでよかった。
……どうやら、俺たちが話題の中心だ。なんだかとても熱が入っており、店に入りづらい雰囲気だった。
「兄さん、さっきから扉の前に突っ立って、なにをしているんです?」
「……なにしているんだろうね」
今は周囲に誰もいないので、リアナが控えめに話しかけてくる。彼女には女将さんたちの会話は聞こえていないため、俺の姿はさぞ怪しく見えるだろう。
『町長も領主も頼りにならないんだったら、町のみんなで森に行こう! ノーマンさんが言っていた木の化け物だって、みんながいればなんとかなるに違いない!』
『ああ、そうだね! 今から旦那を叩き起こしてくるよ! ヘトヘトだろうが、声を掛けるぐらいのことはできるさ!』
なんだか大変なことになってきたな……。でも、これからどんな展開になるのか、このまま聞いていたい。
心配している人たちに無事な姿を見せず盗み聞きなんて、悪趣味と非難されても弁解のしようもない。
「リア、凄いぞ。扉の向こうにヒューマンドラマの世界がある」
「えっ、なんですか? もしかして本の話ですか? 私、実はヒューマンドラマと銘打つ感動路線は、あまり好きじゃないんですよ。泣かせてやるぞ~みたいな過度の感情操作がどうにも。本から受ける感動や感情は作者ではなく読み手が決めるもので、決して押しつけていいものではありません。少し前に読んだ『七十七の涙』もそりゃもう最初から最後までベタな展開で、主人公は年老いた未亡人なんですが、半年前に亡くなった夫の日記を見つけるところから物語が始まります。夫が日記を書いていることを初めて知った彼女は悪いかなと思いつつも、少しずつ日記を読み進めていきます。そして、とあるページに夫の涙の跡を見つけるんですよね。何でもない一日が書いてあるだけなのに不思議だなと彼女は思うんですが、話が進むにつれてその真意に気づくわけです。物語の終盤、夫の涙に重なるように彼女の一雫の涙が日記に……その時の描写が何とも過剰で、不自然な展開や押しつけが……」
リアナによる謎の寸評が始まったが、そんなものより扉の向こうに広がる人間ドラマの方が何倍も楽しい。
『……お前たちの気持ちは相分かった。では、ワシが領主様にお伺いを立てよう。この老いぼれの首を一つ差し出せば、兵を貸してくださるかもしれん』
『町長……。あんた、昔の目に戻ったね……』
『なあに。この町もまだまだ捨てたものではないと、余所者にも伝えたかっただけじゃよ』
町長さん……少し前まで犠牲は俺たちだけでよかったと言っていたのに、気が変わるのが早すぎません? 普通ならここでもう一悶着挟むべきでしょうに。というより、会話の流れおかしくない? 俺が妹の相手をしている間に何があったの? この寸劇は早くも打ち切りなのか?
……でも何だろうか。この胸にこみ上げてくる熱いものは。
「うっわ! 兄さん、泣いてます? もしかして、私の本の話に感銘を受けたんですか……? 趣味わる!」
はい、泣いていますとも。もちろんリアナのわけのわからん話が理由ではない。
打ち切り当然のやっすいストーリー展開だったとしても、自分たちが当事者ならガラリと印象が変わる。義理と人情の世界って、こんなに素晴らしいものだったのか。
「こんな往来で恥ずかしいので、今すぐ泣き止んでください! さもなければ、死んでください!」
急に泣き出した俺に、妹が人目を気にしてオロオロしているが、そんなことはどうでもいい。
頬に流れる熱い液体を拭うのも忘れて、リアナの手を取り、金鹿亭の扉を勢いよく開けた。
「あっ、え。ちょ、ちょっと、兄さん!」
突然の闖入者に、三人の目がこちらに集まる。一階の酒場に賑やかさはなく、そこには女将さん、レナルドさん、それと町長と呼ばれていた老齢の男性がいた。
女将さんはやつれており、昨日からほとんど休めていないのが明白だった。お労しいや。
「ただいま戻りました!」
場の張り詰めた空気に似合わないかもしれないが、明朗快活に帰還の報告をした。俺を知らない町長さんは怪訝な顔つきだったが、女将さんは口元を手で覆い、驚きを隠せない様子でいる。
「あ、あんたたち……! 生きてたんだね……!」
おおう。俺たちは死んだと思われていたのか。それはそれでちょっとショック。
「ええ、生きています。生きてますとも。妹もこの通り元気です」
リアナの体を引き寄せ、みんなの前に立たせた。俺みたいな泣き腫らした男よりも、うちの小さくてかわいい妹のほうがウケるだろう。
「あ、う……」
三人の視線を突然浴びたリアナは、不自然な姿勢で固まってしまった。これ……ちゃんと息してる?
「おお、では君たちがノーマン親子を救ってくれたご兄妹か! 町を代表して礼を言う! 本当によくやってくれた!」
女将さんのただならぬ反応を見て、俺たちの正体を察したのだろう。町長さんは警戒レベルを下げて、俺たちを少々大げさに迎えてくれた。
「今まさにお前たちを町民総出で捜索しようという話になってたんだ……! だが本当によかった! 心配かけやがって! コノヤロウ!」
レナルドさんも声を震わせて喜んでいる。その事情は知っています。なんせ今の今まで盗み聞きしてましたから。
「いやあ、俺たちなんかのために、そんな大事にならなくてよかったですよ。ははは……」
背筋に冷たいものが流れたが、「実は盗み聞きしてました!」と馬鹿正直に言うのはまずだろう。決して後ろめたいわけではない。うん。
「よかった……! お嬢ちゃんが無事でよかったよ……!」
「~~~~!!!!」
リアナは恰幅の良い女将さんに目一杯のハグをされて、今にも死にそうな顔をしていた。
「お、おねーさん……!!」
酒場の騒ぎを聞きつけ、ベリンダちゃんが姿を見せる。俺以上に涙で顔が腫れていて、帰ってきた後も十分に休めなかったのだろう。それだけリアナを心配してくれたのだ。酷い話だが、それがとても嬉しく感じてしまう。
少女は、椅子や机にぶつかるのも構わずに駆け寄り、母親である女将さんと一緒にリアナに抱きついた。
「おねーさん! おねーさん! 嬉しいよお!」
……わあ、なんだかうちの妹大人気だな。人形みたいな外見とは違って、性格はそこそこクズと呼べるレベルなんだけど。
「――――」
そんなリアナは、母娘二人の抱擁という人の温かさに触れて、白目を剥いて喜んでいた。