俺と三つ離れて生まれた妹は、蝶よ花よと育てられており、クリューガーの屋敷に住む誰からも寵愛を受けていた。
当時幼く、情緒も未発達だった俺ですら、妹との扱いに差を感じていたほどだ。
それでも気難しい姉も、妹といる時はよく笑っていたし、俺もまた妹に対し理由のない愛おしさを感じていた。
それが幼少のみぎり、ぼんやりとした思考のなかで芽生えた、兄としての最初の自意識だったかもしれない。
とまあ、今になって思い返してみれば、家族五人全員が含みなく笑っていた唯一の時期で。
……それはたった二年という、本当につかの間の幸福だった。
そんな彼女が言葉を覚えはじめ、会話らしきものが多少成立するようになった頃だろうか。
ある日、妹が当然いなくなった。
前日まで家族みんなで笑っていたのに、まるで煙のようにふっと姿を消してしまった。
妹のことを父や母に尋ねてみても「あの子のことは忘れなさい」と告げられた。
そんなことできるかと憤る反面、厳格な父が見せたことのない表情を浮かべていた。
母は、声を押し殺して泣いていた。
いままで、母が泣いている姿は一度だって見たことがなかった。
姉に至っては「親をあまり困らせるな馬鹿」と頭を強くはたかれた。
突然の暴力に文句の一つも言いたくなったが、彼女の噛んでいた唇からは血が滲んでいた。
そんな家族を見て、俺も次第に何も言い出せなくなっていた。
いつしか俺も「まあそういうものなんだろうな」と思うようになり、妹の存在はゆっくりと記憶の奥底へと埋没していった。
それから、十年後
アルメル共和国首都ノインベルト
クリューガー家 旧研究棟にて
クリューガー家本邸から幾ばくか離れた場所に、隠されるようにして建てられた魔法の研究棟があった。
遠い祖先が残した研究棟は老朽化が進んでおり、現在は使われていない。
ただ、最上階の一室だけ本来と別の役割として使われていた。
俺自身も何年も前から存在だけは知っていたが、初めて入室を許された最上階の部屋は、朽ちた外観からは想像できないほど豪奢な内装を誇っていた。
格式高いであろう手織りの敷物の上に、これまた絢爛豪華なテーブル、ソファー、ドレッサーといった調度品の数々。
大きな書棚には、統一感なく本が詰め込まれており、意匠が凝らされたガラス張りのキャビネットには、すぐにでもお茶会が開けそうなほどの多様な茶葉と菓子で満たされていた。
それと――家具に使われている胡桃油とは違う何かの香りが部屋からした。
「薔薇……?」
そう、それは薔薇だった。
そんな薔薇の甘い香りが、この空間を唯一無二のものとしていた。
そして、ここが先日十二歳の誕生日を迎えたばかりの少女の牢獄だった。
その部屋で一際存在感を放つ天蓋付きの寝台に、目的である少女を見つけた。
「…………」
彼女は腕を枕にうつ伏せになり、顔を見ることも叶わない。
背中まで伸びた長い黒髪を純白のシーツに散らかして、傍らにいる俺の存在に気づく様子もない。
まあ、実際は気づいているが、あえて無視していると言ったほうが正解だろう。
……十年ぶりの再会にしては、なんとも気まずい状況だった。
俺もこうやって少女に近づいてみたものの、何をするわけでもなく立ち尽くしている。
もし、眼前の少女が『赤の他人だったら』と思わずにいられない。
初対面の他人であれば、それなりに接し方もあっただろう。
だけどここにいる少女は正真正銘、俺と血の繋がった実の妹だ。
それも十年以上も会っていない。そりゃ気まずくもなる。
「……?」
ベッドの脇に、手編みの手袋が作りかけで投げ出されていた。
素人目から見ても、なかなか上手に作られていた。
もしかしたら、この少女が手ずから作ったものかもしれない。
だが俺は、彼女について何も知らない。
これは推測でしかないが、少女が使うのには若干大きめのサイズからして、別の誰かにプレゼントする予定だったのかもしれない。
とまあ……それは今、どうでもいいことだ。
不確実な推測に時間を浪費して、俺は少女に声を掛けるタイミングを完全に見失っていた。
「……は」
呆れと自戒の溜息が漏れそうになったが、寸前のところで堪える。
顔をこちらに向けていないが、耳まで塞いでいるわけでもない。
溜息など漏らそうものなら、只でさえ良くない(と思われる)印象が最悪のものになってしまう。
伏せている少女の姿を観察しながら、ずっと気になっていた違和感の正体に気づいた。
薔薇の匂いの発生源は、どうやらこの子だ。
銘柄まではわからないが、何かコロンでもつけているのだろうか。
甘ったるく、それでいて濃厚な薔薇の匂い。
正直に言えば、キツいとも言えるものだったが、不思議と嫌悪感は覚えなかった。
それどころか、どこか懐かしさも感じる甘い香りを、このままずっと嗅いでいたくなる……。
いやいや……違う違う。
そうじゃない。そうじゃないだろう。
心の中で大きくかぶりを振って、くだらない雑念を捨てた。
手袋の件といい、今は余計な雑念に気を取られている場合じゃない。
俺がこの場で優先すべきなのはただ一つ。
目の前にいるのに、顔すらわからない少女とどうやって、物理的にも精神的にも向き合うかだ。
これまでの状況を簡潔に振り返ると、俺は滑りだしから少女との邂逅に失敗している。
部屋に入る前、俺は何度もノックもしたし、ドア越しにも何度も声を掛けた。
その行程をいくら繰り返しても、返事もなければ、閉ざされたドアが開くこともない。
少し間を置いたりもして、粘り強く待ってみたが、それも徒労に終わった。
部屋に入る前から、少女がいるのは知っていた。
魔法によって意識を集中させれば、ドア越しにでも息遣いを感じられた。
唾を飲む音もしたので、寝ているわけでもない。人は眠っている間は唾液を飲まないからだ。
俺は閉ざされた扉の前で、その日何度目になるかわからない溜息をついていた。
どうせ部屋のなかにいる少女には聞こえやしない。
仕方なく「入るぞ」と一声掛けてから、主の許可を得ずにドアを開け、部屋に入った。
鍵は掛かけられていない。
というよりも、この部屋は内側からではなく、外側からしか鍵を掛けられない構造になっている。
それも、姉が張った究極とも言える結界のオマケつきで。
一人の少女を閉じ込めるにしては、あまりにも大げさな牢獄だとこの時は思った。
それで、入ってみたはいいものの――。
俺は、ベッドの上でうつ伏せになった少女の傍で何をするわけでもなく棒立ち。
そうして、今に至るというわけだ。
今の俺は、端から見れば完全に不審者のソレだった。
「…………」
また溜息を吐きそうになるが、今度は唾と一緒に飲み込む。
長く続く沈黙に焦燥感と居心地の悪さを感じ、いい加減に我慢できなくなった。
……えーい、儘よ。もう何でもいいから話しかけてしまえ。
「……あー、はじめまして」
衝いて出る言葉が、よりにもよってそれか。
『はじめまして――』
それは、家族に対して使うにはあまりに寒々しく、なんとも気味の悪い言葉だった。
薄くではあるが、罪悪感すら憶えてしまう。
言った瞬間、この場では適切な言葉ではなかったと思った。
だけどいくら考えても、それ以外の言葉が思い浮かばなかったのも事実だった。
少女とは、人格がまともに形成される前に引き離されたので、向こうは俺のことなど覚えているはずもない。
まあ、有り体に言ってしまえば、今の俺たちの関係は『はじめまして』の一言に収束されてしまうほど、軽薄なものだった。
「…………」
俺のそんな『はじめまして』という挨拶に、少女は無言のままだった。
相変わらず、うつ伏せのままで何の反応も示さない。
聞くところによると、ここ暫くは食事すらも取らないで、ずっとこんな調子らしい。
彼女の身に何があったかまでは確認が取れなかったが、この状況をどうにかしてほしいからこそ、姉は俺に妹を任せたのだろう。
だったらこれは、思った以上に大任なのかもしれない。
そうでなくても、ここのところ俺は姉さんを満足させるような成果を出せないでいた。
こんな調子ではいよいよもって、姉から見限られてしまいかねない。
俺は、どんなことも耐えられる忍耐を訓練で身につけていた。
だが『姉から捨てられる』、その一点だけはどうしても耐えられそうもなかった。
うーん、かといってこれは困ったな。まず、どうしたらいいんだろう。
何か会話のきっかけになるものがないかと部屋の中を探してみると、バラエティに富んだ蔵書がまず目につく。
ふむ、意外と本の趣味が良い。俺が好きな作家の作品もいくつかあった。
続いてキャビネットを見ると、俺が年に数えるぐらいしか飲めない高級銘柄の茶葉が揃っていた。
なんとも羨ましい。あとでちょっと分けてもらいたいぐらいだ。
……でもなあ。
ほぼ初めて会ったばかりの兄妹でする会話が本や紅茶の話題もいうのもいかがなものか。
というよりも、この子は俺が兄だってことを知っているのか?
初対面の兄妹として話をするのなら、お互いに大事なそこからじゃないか。
ああ、やっぱりさっきは言葉選びに失敗したかなあ。
「えっと、その、なんだ。信じられないかもしれないけど、俺はお前の――」
「知っています。兄の人ですよね」
俺が言い切るより先に遮られてしまった。
突然の少女の言葉に驚かされたが、どうやら俺という『兄』の存在は認識していたらしい。
最後に別れた時は、妹がようやく多少の物心が付く頃だった。
だから、俺を覚えていたわけではないだろう。
でもあれから姉や、たった一人の従者に俺のことを聞く機会はいくらでもあったはず。
それなら俺のことを知識として知っていても不思議ではない。
あ、それともう一つ。
母の言いつけで何年か前にしていた『アレ』が良かったかもしれない。
もしそうだとしたら、ちょっと嬉しい公算だ。
それでも、うつ伏せの少女は顔を上げようとしなかったが、最低限のコミュニケーションは取れた。
これは大きな前進と言ってもいい。よしよし、これなら少しは話を聞いてくれるかもしれない。
「そうそう、お前の兄だよ」
「はぁ……。それで、その兄の人は何をしにこんなところまで来たんですか?」
どこか気怠げに息を吐くと、少女はようやく顔をこちらに向けてくれた。
……その顔は、何とも酷い有様だった。
血色がなく蒼白で唇も渇いており、何日もまともに寝ていないのか、目元はむくんで隈がはっきりと刻まれている。
成長してから初めて間近で見る妹の顔は、想像以上に憔悴したものだった。
「――――」
だが、俺はそんな妹の心配よりも、彼女の双眸に意識を持っていかれてしまう。
――赤。
……血を連想させる緋色の目。
姉さんと同じ、淵源の――紅玉の瞳。
彼女たちの間に生まれた俺だけに与えられなかったもの――。
「……ッ」
無意識のうちに舌打ちをしてしまう。
胸の奥からドロドロと黒いものが沸き上がってきたが、辛うじて平静を装い、その邪な感情を喉の奥へと嚥下する。
クソ、馬鹿か俺は。それをいま考えてどうする。
「ん? 姉さんから何も聞いてないのか? 今日から俺がお前の世話役になったんだぞ」
極めて平坦な口調で、さも当然のようにここに来た目的を少女に告げると――。
ずっと無表情を貫いていた少女の顔が確かに歪んだ。
「……出て行ってください!!」
拒絶するような言葉をピシャリと叩きつけられた。
いや、『ような』ではなく、これは紛れもなく拒絶の言葉だ。
まあ、そう言いたくなるのもわかなくもない。
兄だと名乗る怪人物に、いきなり身の回りの世話をさせろだなんて、そもそもが突拍子もない話なのだ。
ただ俺にしても遊びではなく、仕事としてここに来ているわけで……。
彼女に言われるがままに「はいそうですか」と出ていくわけにもいかない。
「俺みたいな得体の知れないやつに世話されるなんて嫌なのはわかるけど、これでも身の回りの世話をするのが得意なんだぜ。なんせあの姉さんに鍛えられたからね」
ここ数年間、俺は姉の従者をやっていた。
あの姉の前にして粗相をしようものなら、人としての尊厳を踏みにじられるほどの罵倒を浴びせられる。
「だから、ちょっとでも話を聞いてほしい。……差し当たり水分が足りてないみたいだし、紅茶を淹れようか? こう見えても結構得意なんだ。ああ……でも紅茶は利尿作用もあるから、今は普通の水のほうがいいかな」
あ、しまった。
人の世話が得意と言った側から、盛大にデリカシーを欠いた発言をしてしまった。
「…………」
だが、少女は俺のそんな失言に気付かないどころか、耳にすら入っていないようだった。
わなわなと唇を震わせ、今まで身体を預けていたベッドから勢いよく起き上がる。
「……すぐに! すぐにここから出て行ってください! 私にはもう従者なんて必要ありません!」
弁明の余地もなく、再び出てけと言われてしまった。
それは激昂というよりも、悲哀に満ちた声色に聞こえた。
そんな少女の思わぬ胆力に、少しだけたじろぎそうになる。
「はあ……」
今度は少女に聞こえるように溜息をついた。
「俺は別に……お前の従者になるとは言ってないんだけどな」
姉からは「お前を役目から外す。今は妹の面倒だけを見ていればいい」と言われた。
だからといって、付きっ切りで面倒を見てやる義理もない。
そう益体もなく考えていたところ、少女はいつの間にか手に取った枕を俺に向けて投げつけようとしていた。
「ちょっ……おい!」
咄嗟に両手で顔を庇ってみたが……いつまでたってもシルクと羽毛の優しい衝撃はやってこない。
「う、ううううう……ッ!」
代わりに聞こえてきたのは、言葉にならない嗚咽。
少女は赤い目に涙を限界まで溜めて、今にも零れ落ちそうになっていた。
俺からしてみれば、枕をぶつけられるよりも、そっちのほうがよっぽど衝撃的だ。
「お、おい。大丈夫か?」
反射的に慰めようと少女の肩に手を置こうとしたが、寸前のところで払いのけられてしまう。
……払いのけられた右手が少しだけ熱を持った気がした。
「出てって!! もう、出てってよお!! うう、うううああ……!!」
ついには溢れる涙が頬を伝い、形振り構わずに泣き出してしまう。
「…………」
俺が、この少女の兄だと言うなら、こんな時どうしてやるのが正解なんだろうか。
しゃくり上げながら「出ていって」と懇願する少女を無視して「大丈夫だ」とでも言って、抱きしめてあげるべきなのか。
「くくっ」
知らず知らずのうちに自嘲めいた笑みがこぼれてしまう。
まったく、何を考えているんだか。
俺はこの少女がなんで泣いているかも知らない。
だというのに、何が「大丈夫」なんだ。馬鹿にするもの大概にしろ。
俺たちは、今まで他人同然に育ってきた。
本心を言えば、今日初めて会ったばかりの女の子が急に泣き出したようにしか見えなかった。
俺たちには、兄妹として過ごしてきた時間というものが存在しない。
妹というが、俺は彼女の性格も知らない。
好きな食べ物も知らないし、趣味の一つも知らない。唯一知っているのは、その不幸な生い立ちだけ。
兄と妹、肉親としてはあんまりな関係に再び乾いた笑いがこぼれそうになったが、今度はギリギリのところで抑え込む。
まあ、なんてこともなかった。これは簡単で単純な話。
俺という名ばかりの兄は、泣きじゃくる妹に対してしてやれることは何一つだってない。
そういうこと。たった、それだけのこと。
「うん、わかった。今日はもう帰るけど、また明日来るからな」
それだけ言い残して、俺は泣いている少女の前から逃げるように立ち去った。
あのまま部屋に居座ろうとしても、ろくな結果にはならなかったのは明白だっただろう。
「……うーん、どうしたものか。このままだと駄目そうだし、何とかしてやらないとな。取りあえず、あの子に何があったのかちゃんと調べておくか」
部屋の外、誰もいない廊下で、言い聞かせるわけでもなく独りごちる。
だが、頭では口から出た言葉とは違う、まったく別のことを考えていた。
薔薇の匂い――。
彼女が感情を露わにした瞬間、最初は僅かだった香りが、むせ返るほどに強くなっていた。
それは、華やかだが、濃厚で甘くツンとくる、赤い薔薇の香りだった。