国境の町サロを発ってから三時間ほど経ち、時刻は昼に差し掛かっていた。俺たちが今歩いている道は、まともに舗装されておらず、旅人の足で踏み固められたような悪路だ。
人通りの多い交易路を選ぶこともできたが、姉の動向が分からない以上、多少遠回りになっても人目は避けたほうがいい。
しかし、ここまで人通りの少ない道を選んだのは失敗だったかもしれない。少人数での旅は、野盗や魔物に襲われるリスクは常に伴う。特にリアナの身なりは旅人として明らかに浮いており、野盗から見れば絶好のカモだ。
ただ、今いる場所は木々の少ない平原で見晴らしも良好。物陰から襲われる心配もないだろう。安全な道にいるうちに、多少の休憩を挟むのも良いかもしれない。
少し後ろにいるリアナは、やはりというか疲労を感じている様子は見えない。大の大人だって、ぶっ通しで三時間も歩けば弱音の一つも吐きたくなるものだが、かつては引きこもり世界チャンピオンだった彼女はピンピンとしている。
この調子であれば、目的地の到着を早められるかもしれないが、無闇に急ぐ必要もない。やはりここは休憩を兼ねて、昼食を取ることにしよう。
「それで私たちはどこに向かってるんですか? 私、まだ何も聞いてないんですけど」
座り心地の良さそうな平らな石を見つけたので、その上にハンカチを敷いてリアナを座らせた。
「あ、それ聞いちゃう? 聞いちゃいます?」
「……兄のウザさがとどまるところを知らないんですけど。どうしたら死んでくれますか?」
今朝女将さんからもらったサンドウィッチがあるので、買ったばかりの水が入った水筒と一緒にリアナに渡す。サンドウィッチには、輪切りのゆで卵とカリカリに焼かれたベーコンが挟まっており、粗挽きマスタードの香りが食欲を程よく刺激する。
「では、リアちゃんに質問です。人から隠れるならどんな場所がいいと思う?」
「うーん、田舎のような人の少ない場所じゃないんですか?」
よしよし、想定通りの返事が返ってきた。妹ちゃんが兄の手のひらの上で踊っておるわ。
リアナが言う田舎は、人の出入りが極端に少ない。住人同士の顔が割れたコミュニティの中では、外からの人間はすぐに気づかれる。だから、潜伏先としてはお勧めできない。
「違うんだな~、それが。ヒントは『森に木』だよ」
「……私、もう森にも木にもうんざりしてるんですが。あと兄さんの得意気な態度が無性に鼻につきます。どうしたら死んでくれますか?」
今日まで五泊したうちの三泊は、森か林で夜を明かした。俺の計画性のなさが原因で、野宿率が異様に高い。この点に関しては、リアナに申し訳ないと思っている。
「もっと言うと『木を隠すなら森の中』。そんな言葉を聞いたことない?」
「……ああ、なるほど。『森に木』なら『町に人』。つまり、人を隠すなら人の中ということですか。ですが、人混みなんて無理です。御免被ります」
察しの良いリアナは俺の意図を即座に理解し、即座に拒絶した。
「いやいや、リアちゃん。少しはお兄ちゃんの話を聞く意志を見せようよ」
「ふーん。ま、聞くだけですよ。……さあさあ、このきゃわわな妹に言ってごらんなさいな」
まったく、偉そうな妹だ。でも、そこが可愛くもある。
「俺たちは逃亡者の身分だけど、別に犯罪者でもなければ、指名手配されてるわけでもない。しかもアルメルと違って、この国は姉さんの息がかかっていない。だから他国の人から見られたとしても――」
「はいはい、わかりました。その案は前向きに検討します。……それより、どこか静かな場所に家を買って、そこに永住するのはどうですか?」
ない頭で必死に考えた計画は、全容を言い切る前に妹の荒唐無稽なプランによって塗り潰された。いかんいかん、これは兄としての沽券に関わる問題だ。
「私は生涯をその家で引きこもりますから、兄さんは私の世話をしてください。それと大きな犬を飼いたいですね。ワンちゃんかわいいです」
「そんな家やペットを買うようなお金なんてどこにもないよ……。あ、リアちゃんが治癒師として働いてくれるなら、多少は現実味があるかも。うんうん、労働もそんなに悪くないぞ」
今後の路銀というか逃亡資金を考えると、リアナの得意な回復魔法を利用した仕事をしてもらうのは大助かりだ。俺の使う魔法は即金を稼ぐのには向いていない。やれて日雇いや冒険者の真似事が精々だ。
「働く? 労働? ……何ですそれ? そういうのは兄さんの領分でしょう。私はワンちゃんと家を守ることに専念します。ちなみにワンちゃんの名前は『アンリ』です。クリューガー兄妹を守る最強の番犬くんです。わんわん」
うーん、いつになくリアナのクソガキ度が高い。てか、その犬の名前。
「俺の名前を犬に付けないでくれ。……それとも、リアナは俺のことを名前で呼びたいのか?」
妹に突然本名で呼ばれて、俺もついリアナと呼んでしまった。今は誰もいないからいいけど、こういうところは日頃から気をつけないといけない。何事も習慣が大事だ。
「うーん、別に。兄さんが私の兄さんである以上、兄に類推する呼称以外で呼ぶ気はありませんね。…………『アンリくん』。う、違和感と嫌悪感がすごい。おえー」
「人の名前で吐き気を催すな!」
「まあ、ワンちゃんを呼ぶついでに兄さんも一緒に来たら面白いかなーと思っただけです。……あ、じゃあワンちゃんに『兄さん』と名付けるのがいいかも!」
「さも素晴らしいことを思い付いたように言ってるけど、全然そんなことないからね」
でもリアナが語る未来が本当に可能なら、それはそれで悪くないかもしれない。俺たちを知る人が誰もいない土地で、誰の目も気にせず兄妹二人で慎ましく生活をする。それは生産性もなく退廃的ではあるが、俺たちにしたら、幸福と呼べるような日々だ。
……だがそんなささやかな幸せさえも、今の俺たちには望外だった。それだけ抱えている問題が大きすぎる。
「……姉さんの心配がなければ、兄妹二人でそんな生活を送るのも悪くないと思うんだけどね。でも、その時にはリアちゃんにもちゃんと働いてもらうぞ」
「えー、やだー。私は読書と紅茶を嗜むだけで人生を終えたいです。それだけで私は幸せなのです」
聞いていてなんとも悲しくなる人生プランだ。リアナの本も紅茶も、そこそこの値が張るからなあ。衣食住の面倒は見るから、自分の嗜好品ぐらいは自分で稼いで欲しい。
しかし、労働意欲がゼロで人見知りが激しい妹にそれを実現させるのは、かなり難しそうなのも事実だった。
もし俺が誰かと結婚することになっても、この妹がオプションでもれなく付いてくるのか……。うん、なんだか一生結婚できない気がしてきた。
いかんいかん。リアナの甘言に騙されて、俺もすっかりその気になってしまった。いくらなんでも現実逃避にはまだ早い。今は目の前にある現実と向き合わなければならない。
「よし、リアちゃん。ご飯も食べたし、そろそろ行こうか。そのゴミ、ちょうだい」
「はい、どーぞ。お昼ご飯、美味しかったです。お腹いっぱいです」
腹が膨れてご機嫌なリアナから紙ナプキンを受け取り、鞄に入れる。誰もいないとはいえ、往来の真ん中にゴミを捨てるのは、妹の教育上良くない。
……リアナの食欲が以前に比べて増してきたな。俺と同じ量のサンドウィッチをぺろりと平らげてしまった。昔はお茶会をしただけで、その日の夕食には手を付けないことも珍しくなかったのに。
それだけ女将さんの料理が美味しかったのかもしれない。何にしても、リアナは低身長で痩せているし、いっぱい食べるのは良いことだ。おっぱいはそこそこあるけど、お兄ちゃんとしてはもう少し太ももの肉付きがよくてもいいと思う。
「それで私たちはどこに向かってるんですか? 大工さんですか?」
「……家は作らないからね」
繰り返すが、そんな金はどこにもない。大工に行ったところで、俺の所持金では門前払いされるか、ちょっと豪華な犬小屋を作ってもらうのがせいぜいだ。
「これ以上もったいぶっても仕方がないし、ここで発表しようと思います。……俺たちがこれから目指す場所は、このオルティゼの首都サカラです。大・都・会なんだぜ……! イエーイ!」
握った右手を北の方角、この国の首都に向けて全力で突き上げる。ここからはまだまだ遠いが、俺の心は既にサカラにあった。サカラは、オルティゼの首都であると同時に、世界有数の港湾都市だ。大きな港を抱えているだけあって、都市には世界中からさまざまな人種や物品が集まり、非常に栄えている。
今は逃亡中の身ではあるが、雄大な海を見下ろし、潮風が薫る街を想像するだけで胸が躍る。各国の都市観光は、姉の従者をしていた時から密かな楽しみの一つだった。
それに、一度はリアナに海というものを見せてやりたかったので、どうしても気持ちがはやる。
言っちゃ悪いけど、サカラの大海原は先の森で見た泉なんて比較にならないぐらいの絶景だ。リアナは読書家なので知識としては知っているだろうが、本で読むのと実際に目で見るのではわけが違う。 彼女は十年以上監禁されていた鳥籠から自らの足で抜け出した。だからこそ、この広大な世界というものを見せてあげたかった。サカラの大海原に喜んでくれるといいんだけど。
「リアちゃんリアちゃん! サカラといえば、海だよ海。港町だよ! イエーイ!」
「はあ、そうですか。いえーい……」
リアナもまた俺の行動に便乗してくれたが、その右腕は俺の半分ぐらいしか上がっていなかった。
「うん。全然関心なさそう」