逃亡生活 四日目 昼
オルティゼル王国 国境の町サロ
オッシアン商会所属宿舎「金鹿亭」にて
目が覚めた。久しぶりにベッドでの眠りが浅かったのか、ひどく懐かしい夢を見た。
……本当に懐かしい夢だった。
その当時は、諸々の事情もあってあまり思い出したくないのだが、時折こうして夢で見てしまう。
「うーん、これはよくないかな……」
ただでさえ今は大変な只中にいるのに、朝っぱらから気分が沈みそうになる。
当時の俺は、今より最悪な状況ではなかったが、精神的な面に関しては、あの頃のほうがだいぶ疲弊していた。
そんな夢の主要登場人物である我が妹様は、すぐ隣のベッドで身体を丸めて眠りこけている。
「ぐへへ、兄さーん……」
まったく、どんな夢を見ているんだか。興味は尽きないが、俺には知りようもない。
ともすれば、俺たちは明日も知らぬ身。リアナには、夢の中だけでも健やかでいてほしかった。
昨晩はベッドについてあれこれとぶーたれていたが、この熟睡っぷりなら粗雑な寝台でも問題なさそうだ。
寝つきの悪い妹なのだが、この様子から察するにそれを無視できるほどの疲れが溜まっていたのだろう。
昨夜、俺たちは冷たくなった夕食を済ませた後、雑談もそこそこに眠りについた。
こうして屋根の下、二つのベッドでお互いに向かい合って寝る経験は初めてだったので、リアナは年甲斐もなくはしゃいでいた。
それでも、溜まっていた疲れが押し寄せてきたのか、五分もしないうちに眠ってしまったが。
上体だけを起こし軽く伸びをすると、昨日まで感じていた疲れがすっかりなくなっていることに気付いた。
夢見は悪かったのに、ある程度は熟睡できていたらしい。
筋肉痛も僅かに残っているが、リアナの回復魔法もあってか、この程度であれば飛んだり跳ねたり踊ったりする分には支障ないだろう。
「さて、さてと……んんん?」
私物である懐中時計を確認すると、昼を大きく過ぎていた。
……ふむ。ふーむ、やってしまった。やってしまったな。
当初の予定では朝のうちに起きて、そのまま出発する予定だったからだ。
「あああ~、寝すぎた。寝すぎてしまった~!」
おおよそ三日ぶりの睡眠に半日以上眠りこけてしまった。
でも仕方がないよね。疲れていたんだもの、眠かったんだもの。それだけ俺の体は睡眠を欲していた。
睡眠欲求に抗うわけにはいかないと、本質的には妹に似て怠惰な俺の脳味噌が、主を無視して判断したのだ。
所詮、俺という脆弱な表層意識では、根幹に根付く深層意識には逆らえない。
根がなければ花は咲けない。人は無意識に支配されて生きている。
「リアちゃん! 起きて起きて!」
ベッドから飛び起きて、妹の肩を揺らす。
起きない。強く揺らす。起きない。幸せそうな寝顔だった。
「…………」
……なんだか無性に腹が立ってきた。
「てい」
頭をひっぱたいてみた。
「ぶふ」と不細工な悲鳴を上げた。そして閉ざされた目蓋が開く。
「あ、起きた」
「……ふあ、兄さん、おはようございます……。なぜかおでこが痛いんですが……」
「うん、おはよう。寝ている間にどこかぶつけたんじゃないかな」
「……はい? どこかってどこです……?」
「どこかはどこかだよ? わからない? でも大丈夫だよ。これからお兄ちゃんと外の世界のことを一つずつ学んでいこうね」
「????」
それでも納得のいかない妹だったが、事件は既に迷宮入りを果たしている。
桶に溜めた水で顔を洗わせてから、寝ぼけ眼の彼女を食卓の椅子に座らせた。
俺はその間に、長い黒髪の手入れするため、櫛とオイルを用意する。
「ふあーあ、ねむーいねむーい。ねむねむです」
石鹸と清潔な布巾で定期的に身体は拭かせているが、そろそろお風呂に入れさせたいなと思う。
風呂は衛生面を保つだけではなく、疲労回復やストレスの発散にも繋がる。
このいつまで続けられるかわからない逃亡生活。妹には、多少なりとも贅沢をさせてやりたい。
うーんと……でもこの町に風呂屋はあったっけな? あとで女将さんにでも聞いてみるとしよう。
そんなことを考えながら、ひとしきりの間、妹の髪の感触を櫛と指で堪能する。
当然、スキンケアとマッサージも忘れない。
彼女もまた鼻歌など歌って、何とも機嫌がよさそうだ。
「はい、出来上がり。今日も美人さんの完成だ」
髪も艶を取り戻したし、顔色も昨日に比べて悪くない。
妹が一方的に懇意にしているデザイナーに誂えてもらった黒いワンピースにもほつれはない。
それと、大事な右手の指輪もちゃんと三つともある。
今は身支度の道具が限られているので、百点満点の出来とはいかないのは残念だが、こればかりはどうしようもない。
リアナは低身長もあって顔立ちは幼く、美人というよりも可愛い系の風貌をしている。
だけど、本人は美人と言ったほうが喜んでくれるので、髪の手入れをする際にそう褒めるようにしていた。
「えー。ちゃんと手入れしてもらうのも久しぶりですしー。もっと入念に髪を梳かしてくれても構わないんですよ-」
ゴロゴロとふやけきった猫撫で声で不服申し立てられた。
俺もリアナの髪の手入れをするのは大好きなので、その気持ちは痛いほどわかる。
だけど今日は我慢、我慢の日なのだ。
「だーめ、時間がないの。朝に起きるつもりだったけど、実は、昼をとっくに過ぎていた」
懐から時計を出して、文字盤を見せてやると、今まで眠そうに細められていたリアナの赤い目が大きく見開いた。
「って、大事じゃないですか! 何を悠長に三十分も妹の髪の手入れをしてるんですか! 私すっかり朝のつもりでいましたよ! 兄さんは馬鹿なんですか! 馬鹿でしたね! ええ! すっかり忘れてました!」
「何をって……そんなの昨日あれだけ奇麗だとべた褒めしてくれたベリンダちゃんに、リアのみっともない姿を見せるわけにはいかないだろ?」
妹が褒められるのは、自分が褒められるより何倍も嬉しい。
そんな当たり前の発見を昨夜ベリンダちゃんが教えてくれた。
だから、この行為は兄として至極真っ当なことなのだが、どうしてか妹が机に突っ伏してしまう。
「うわー、本物の馬鹿でした。兄さんはシスコンを拗らせすぎて頭がおかしくなってます。重篤です。この兄にはどんな名医も匙をへし折って窓から投げ捨てます」
はっ、何を馬鹿な。
妹を誰からも可愛く見てもらうと考えて行動するのは兄として当然の責務だ。何もおかしなことなんてない。
「お兄ちゃんを馬鹿馬鹿言うんじゃない。それとだな……言っておくが俺は断じてシスコンではない!」
妹想いであるという自覚はあるし、それについては誰にだって恥ずかしげなく言える。
そうだとしても、俺をシスコンと呼ぶには些か大仰ではないだろうか。
繰り返すが、身内を褒められて喜ぶのは家族として普遍的感情だ。
「つまりだな――」
そういった旨を声高に十分間ほど力説すると、感銘を受けてくれたのか、リアナがぽかーんとしていた。
「あ、はい。わかりまし、た……?」
納得してくれたようだ。ならよし!
◇
旅支度を終えたので、部屋の見える範囲の掃除を軽くしておく。
宿側からしたら余計なお世話かもしれないが、ここは俺たちが一晩過ごした部屋だ。
多少なりとも綺麗にしておきたかった。
妹には「それも料金のうちに含まれているのでは?」と呆れられたが、こんなのは別に大した手間でもない。
数日ぶりに人間らしい場所で眠れたのだ。宿泊費以外にも何かしてやりたくなっただけの話。
それに、ベリンダちゃんも良い子だったしね! お兄ちゃんは良い子からは良く見られたいのだ。
少し悩んだが、ここを発つ前にちゃんとした食事を取ろう。
朝のうちに発つという当初の予定はすでに頓挫しているが、基本的には兄妹二人だけの根無し草の旅だ。
とにかく、姉の手から逃げることが主目的なので取り急ぎの予定もない。
何か食べられるものはないか、女将さんに聞いてみてもいいかもしれないな。
……昨日食べた店名物のシチューがあれば望外なんだが。あれは冷めきっていても存外美味しかった。
妹を連れ立って、一階の酒場まで降りる。
まだ日中と呼べる時間帯なのもあってか、テーブル客はまばらであまり賑わってはいなかった。
カウンターが少し騒がしかったので、様子を見てみると、ベリンダちゃんの母親である女将さんと、三十半ばぐらいの見知らぬ男が話をしていた。
「なにかあったのかな?」
ついでに辺りを見回してみたが、ベリンダちゃんの姿はどこにも見当たらない。
彼女には昨日よりも可愛く仕上がった妹を見せてやろうと思ったけど、いないのなら仕方がない。とても残念だ。
「う……うう……」
ちなみにその可愛く仕上がった妹は、おどおどした調子で俺の服を摘まんで歩いている。
正直に言って、かなり歩きにくい。
いつもの人見知りが炸裂して、他人の視線を過剰に気にしているようだった。
そんな残念な妹と一緒にカウンターに近づくと、女将さんはどこか困った様子。
「ん? なんだ?」
唐突に現れた俺たちに、女将さんと話していた男が怪訝そうな視線をこちらに向ける。
……別に睨まれたわけでもないのだが、リアナが「ひっ」と短く悲鳴を上げた。よしよしと頭を撫でてやる。
「もうお昼を過ぎてしまいましたが、おはようございます。昨日は美味しい食事と温かいベッド。どちらもありがとうございました」
後ろで怯えているリアナのため、俺たちが『金鹿亭』の宿泊客だと情報を開示した上で、女将さんに挨拶をした。
ここは国境からほど近い宿泊所だ。外国人の余所者は、珍しいものではないだろう。
「ああ、二人ともおはようさん。そう丁寧に言ってもらえることなんてそんなにないからね。嬉しいよ」
昨日の快活さとは打って変わって、どうにも浮かない顔だった。
さっきも気になったが、何か問題でもあったのかもしれない。どうかしたのだろうか?
……今の俺たちは、よそ様の事情にかまけている余裕はない。
それは重々承知しているが、どうしても気になってしまう。
多少の老婆心と、多大な好奇心。自分でもどうかと思うが、これも性分だった。
「立ち入った話に割り込むようで恐縮ですが、どうかなされたんですか?」
「……ぉぃ」
リアナが掴んでいた俺の服を強く引っ張る。
どうやら余計な揉め事に首を突っ込むな、という意味らしい。
だけど、人前だろうがなんだろうが、言いたいことがあったらはっきりと声に出して言おう。
じゃなきゃ何も伝わらないのだ。というわけで、無視だ無視。
「あーうん、その……なんだね」
女将さんは俺たちに事情を話していいものかと逡巡していたが、男と目配せをした後にぽつぽつと事情を話てくれた。
「いやなにさ……うちの旦那と娘が今朝から釣りに行ったまま帰ってこないんだ。いつもだと遅くても昼前には帰ってくるんだけどね」
女将さんは客に心配にかけないようにするためか、それとも自分に言い聞かせようとしているのか、なんでもないように言う。
声色は至って普通だったが、表情だけは隠しきれずに苦虫を噛み潰したように険しい。
娘、というと十中八九ベリンダちゃんのことだろう。他に姉妹がいたなんて話は聞いていない。
姿が見えないとは思っていたが、まさかそんな事になっていたなんて。
父親が同伴しているとはいえ、まだ十歳かそこらの子供だ。心配するに余り有る。
時計を確認すると、間もなく午後三時を指そうとしていた。
なんの連絡もなしに帰ってきてないのなら十分に遅いと言える時間だ。
「……それと、この人が川の近く森の中に入っていくのも見たといってね」
女将さんの隣の男がコクリと頷くと、補足するように話し始めた。
「娘さんが一人だけなら声を掛けるところだったんだが、隣にノーマンさんがいたから心配ないと思ったんだ。……だが、今になればそれが間違いだった。本当にすまないことをした」
そう言って、男が女将さんに頭を下げた。女将さんと違って男の声は深刻そのものだった。
「何を言ってるんだい。それじゃあまるで旦那と娘が帰ってこないみたいじゃないか。縁起でもないことを言わないでおくれよ」
女将さんは冗談めかしているが、もう心情を隠す余裕もないのだろう。語調に険しさが帯びている。
……今はまだ、日中と言っても差し支えのない時間帯だ。
だが、森の奥に踏み込んでしまえば、暗くなるのは町よりもずっと早い。
そんな場所で視界を奪われれば、土地勘のある地元民であっても迷ってしまうのは想像に難しくなかった。
これは、想像以上に深刻な事態なのかもしれない。
どうやら、俺たちが呑気に惰眠を貪っている間にとんでもない事態が起こっていたようだ。
「それで、今に至るまで帰ってこないんですか。あー、それは確かに心配ですね。……ちなみにこのあたりには亜人種の根城があったりしますか?」
こういう時に一番に確認すべきは、森に棲む魔物の情報だろう。
亜人種――。
言うなれば、ゴブリンを代表とするコボルト、オーク、トロールといった人間に形だけ似た種族の総称だ。
人間や家畜に害をなす邪悪なものとして分類されており、その多くは人目のつかないところを住みかとしている。
「いんや、この辺一帯はうちらの組合の自警団と傭兵が一掃したから、もう何年も見たという報告はないよ。それにあの森で魔物の類が出たという話は聞いたことないな」
「……そうですか」
確かに、地元の人間であるのなら、日中であっても魔物が棲む森に入るような馬鹿な真似はしないだろう。
だからと言って、安心だと片付けられる話ではない。
魔物でなければ、次は狼や熊といった大型の獣の可能性を考慮しなければならない。
今はようやく春を迎えたばかりの季節だ。
冬眠から目覚めた獣は、状況次第では魔物以上の脅威になりうる。
もしかしたらベリンダちゃん親子は、そんな獣に襲われて動くに動けない状態かもしれない。
女将さんたちも決して口には出さないが、それが一番の懸念なのだろう。
『想像したくない最悪の可能性は口にすると現実のものになる』。
そんな口伝はどこの国や地域でもあった。
「……私が探しに行くべきかねえ。レナルド、ちょっとの間でいいから店の留守を任せてもいいかい?」
「いいや、今回の件は俺の落ち度だ。俺が行くよ」
「何言ってるんだい。アンタは結婚したばかりだろ。万が一のことがあったら、カトリナになんて言えばいいんだ」
「あいつなら俺がいなくても十分やっていける。心配しないでくれ」
二人とも自分が捜索に行くと言って譲ろうとはしない。
正直な話、女将さんが探しに行くのは論外だ。
申し訳ないが、その体型では獣に襲われた時の対応ができるとは思えない。
レナルドと呼ばれた男も女将さんほどではないが、太り気味で鍛えられた様子もない。
肉体労働に従事していないのは、ひと目でわかる。
「その、口を挟むようなんですが、さっきの話で出てきた自警団の人達には頼れないんですか?」
傭兵の手を借りたとはいえ、亜人種に対処できる自警団だ。
自警団とは名ばかりの屈強な戦士たちなのだと想像できた。
「…………」
……あれ? 女将さんたちの反応がどうにもおかしい。
俺が『自警団』と言った途端に口をつぐんでしまった。
もしかして、言ってはならない禁句だったんだろうか?
「ああ……それなら赫々たるご領主様が町の若い者と一緒に連れて行ってしまったよ! 戦争になった時のために今から立派な兵士にするんだと! はっ! まだ起こるかもわからない戦争のために随分と景気のいい話だね! ご領主様の武勲を立てるためにせいぜい我々領民の命と金を無駄に使ってほしいものだ!」
男が妙に芝居がかった口調で、吐き捨てるように言い放つ。……うわあ、藪蛇だった。
女将さんも今の話に同感なのか、何も口を挟まない。
それに日頃から領主に対して鬱憤が溜まってなければ、こんな長々とした口上は出てきやしないだろう。
というか、その戦争をするという下りはどう考えてもうちの国の話だ。
いや、もう本当にごめんなさい。
二重の意味で口には出せないが、どう贔屓目に見ても、あの島はあなた方の国のものだと思います。
だってうちの国が島の領有権主張しだしたのは、鉱脈が発見されてからですもの。
とまあ、予想外の別件でヒートアップしてしまったが、つまるところ、この町お抱えの自警団は領主によって、もう存在しないらしい。
どうにも今の話しぶりから察するに、戦えそうな若い領民さえも徴兵されてしまっているようだ。
これではもう、八方塞がりに聞こえてしまうが、打てる手は一つだけあった。
少し面倒だが仕方がない。リアナには悪いが、これは緊急事態なのだ。
「これから森に入ったら、夜を迎える可能性があります。もし二次災害にあったら大変です。俺がベリンダちゃんたちを探しに行きます」
「――はぃい!?」
自分たちには関係のないことだと、ぼんやりと話を聞いていた妹がなんとも愉快な悲鳴を上げた。