「何だ……この臭い……」
この村がゴブリンで溢れた総本山であることは重々承知しているが、つい声に出してしまった。屋外にいるゴブリンには聞こえなかったと思うが、今の行為は恥ずべきものだ。
二階の窓を壊した家は、牛が住んでいるミーシャさんの家が可愛く思えるほどの悪臭だった。嗅覚強化をしていない今でも、吐き気を催してしまう。
これはゴブリンの饐えた体臭ではなく、何かしらの腐臭だ。そんな強烈な刺激臭が家の中から漂ってくる。
あまりの臭いに鼻を摘まみたくなるが、片手が塞がる事態は避けたい。口呼吸を意識し、窓から部屋の中に侵入する。
二階の部屋はベッドルームのようだが、あちこちに動物の骨や木の枝が散乱していた。さらに、壁には何らかの顔料で描かれた奇妙な図が描かれている。俺には落書きにしか見えないが、やつらの文化では儀式的な意味があるのかもしれない。
ベッドが使われた形跡はない。では、ゴブリンはどこで寝ているのか。そう考えたが、無意味な思考だと気づいた。
……ゴブリンが何ヶ月も人家に住むと、こんな有様になるのか。こうして乗っ取られた村を見るのは初めてだが、ちょっとしたレポートが書けそうだ。
「…………」
魔法で聴力を研ぎ澄ましたところ、二階には誰もいないようだった。物音の位置から察するにゴブリンは一階にいる。
『ギャギャ! ゲギャギャ?』
『ギガガギャギャ!! ガギャゲゲ!!』
『ゲギギギギ! ゲッゲッゲッゲッゲ!』
一階から、言語学者が頭を悩ませそうな会話らしきものが聞こえてきた。声の数からして、最低でも三匹のゴブリン。そのうちの一匹が標的のゴブリンシャーマンであれば、理想的だろう。
二階から家に入ったため、当然一階の正面扉は閉まったまま。もし下手を打って気付かれたとしても、やつらに逃げ場などない。
……悪臭が凄まじく、これ以上はここに長居したくない。さっさと任務を終わらせて、リアナが起きてしまう前に村に戻りたかった。
『……ここで本気を出せば、何匹いようが殺しきれるんじゃないか』
ふと、そんな考えが頭をよぎった。…………あー、クソ。どうかしてる。どうかしているぞ。今のは極めて馬鹿な考えだった。自分の都合で物事を考えすぎだ。
今日は一日中、思考が散漫になっている。この家にゴブリンシャーマンがいる可能性は高い。どんなに有利な状況でも、相手は魔法を使えるのだ。なのに俺は、警戒を怠るための理由を探している。
ましてここはゴブリンの本拠地。一匹にでも逃げられれば、間違いなく何百ものゴブリンに囲まれる。浮ついた考えを振り払い、気を引き締める必要がある。
「ふう……」
まずは、一階に降りる階段を探す。この家は他と比べて大きいだけで、そこまで広いわけではない。床に散乱するゴミを踏まないように注意しながら、慎重にドアを開け、廊下へと進む。
……廊下の突き当たりに階段を見つけた。外観から推測される家の間取りと、ゴブリンの鳴き声から判断して、この階段を降りれば間違いなく鉢合わせになる。
『ゲッゲゲ、ギャギャギャ!!』
一階から聞こえるゴブリンの下品な哄笑が止まない。今は聴覚を強化しているため、騒音が耐え難い。それに、階段に近づくにつれて、腐敗臭もますます酷くなっていく。
「…………ううっ」
口で呼吸をしているが、この臭いには耐えられそうもない。この腐臭を肺に取り込んでいる事実にクラクラする。すぐにでも胃の内容物を吐き出したい、そんな強い衝動に駆られる。
「…………!」
――階段を登る一匹のゴブリンと目が合った。
やつらの下品な声に紛れて足音を聞き逃したのか、あるいは酷い吐き気で集中力が落ちていたのか。どちらにせよ、今となっては関係ない。
「ギッ――!?」
俺は足音が鳴るのを無視して全力で詰め寄り、ゴブリンの口を手で押さえる。腫れぼったい唇の感触に嫌悪感を覚えたが、何とか騒がれずに済んだ。
「……ギ……ギギ」
これ以上行動させないため、首筋にマチェットを当て、横に引く。力は入れていない。手入れをしたばかりの刃なら、軽くスライドさせるだけで頸動脈程度は簡単に切断できる。
血が勢いよく吹き出したが、ゴブリンはまだ生きていた。必死にもがいて抵抗したので、口を押さえていた腕により力を込める。今際の際であろうと、ここで騒がれたらたまったものではない。
首から噴き出す血の勢いが収まったころ、ゴブリンの体から力が抜けていくのを感じた。ギラギラと血走っていた瞳孔から光が消えていく。
……クソ、最悪だ。今日まで服を汚さないよう気を付けてきたのに、まさかこんな目に遭うなんて。頭の先からつま先まで、全身がゴブリンの血で染まってしまった。
死んだゴブリンをその場に捨て、せめて顔だけでもハンカチで拭こうとしたが、それもまた血に濡れていた。
「はぁ……」
このハンカチは、いつもリアナの手を拭くのに使っていたものだ。シルクの手触りが心地よく、妹も嬉しそうにしていた。でも、こんなんじゃ処分するしかない。ああ、もう本当に最悪だ。
ただ、服とハンカチという二つの犠牲のおかげで、階下のゴブリンに気付かれずに済んだ。だとしても、階段を登るゴブリンに気付けないなんて、無能もいいところだ。
姉に捨てられてから、もう三年。かつての仕事からは足を洗ったため、情けないほど腕が鈍っている。
……いや、鈍っているのは腕よりも、俺の根本的な考え方だ。リアナとの安寧と怠惰な生活によって、物事を楽観的に捉えてしまっている。
「……はぁ」
本日何度目かの溜息を吐く。ここまで血塗れになると、やつらの嗅覚なら気付かれるのも時間の問題だ。この悪臭があっても、仲間の血ぐらいは嗅ぎ分けられるはず。それなら、やることはもう決まっていた。発覚される前に任務を遂行するだけだ。
姿勢を低くし、足音に気をつけながらゆっくりと階段を下りていく。血の臭いで発覚するとしても、わざわざ存在を知らす必要はない。
階段の踊り場に着き、ひとまず一階の様子を確認する。……ここからはゴブリンの姿は見えないが、食卓と思われる大きなテーブルが視界に入った。テーブルの上、床、そこには黒い塊のようなものが散乱していた。
「――――」
……こんな時に自分を誤魔化してはいけない。俺の目と頭は正しく状況を認識しているが、感情が理解を拒んでいた。
「……クソども」
一階のテーブルや床に散らばっていたのは、おびただしい量の人間の――腐肉の塊だった。しかも、ご丁寧に原型がわかる形で切り分けられていた。
腕、脚、腰、胴、頭、頭頭頭……どれもこれも人間のもの。それは大人だけでなく、子供や赤ん坊のものも含まれていた。あの肉塊のパズルを繋ぎ合わせると、一体何人分の人間ができ上がるのか。それすらもわからない。
目の前の死体の山に恐怖は感じなかった。ただ怒りを感じている。心の奥底で眠っていた義憤と呼ばれる感情が、湧き上がるのを感じる。この村に住んでいた人の無念を思うと、悪鬼の所業に目が熱くなった。
一匹のゴブリンがいた。こちらにはまだ気付いていないが、ゴブリンシャーマンではなかった。肉片の付いた骨を楊枝のようにしゃぶっている。それなら、残った一匹がゴブリンシャーマンだと考えていいだろう。
自分の家にいるかのように階段を降りていく。階下に着いてようやく俺に気付いたが、騒ぎ出す前に首を刎ねた。
「ギィ?」
今の物音に反応して、隣室の炊事場にいたゴブリンが振り返った。探していたゴブリンシャーマンだった。どこかの部族のような大仰な格好をしているから間違いない。部屋を隔てる扉は存在せず、こちらの姿も当然丸見えだ。
釜戸で煮ているのは、人間の頭部。煮込むことでこびりついた肉を溶かし、悪趣味な飾りの一部にするのだろう。
「ギャギギガガガッ!! ギャギャギャギャ!!」
外見だけは違うが、やかましい鳴き声は他のゴブリンと変わらない。こちらを見て、口汚く何かを喚き散らしている。どうやら激昂しているようだった。
『カシサタ! サシサオウダ!!』
悪趣味な飾りが付いた杖を掲げ、攻性魔法を唱え出す。ゴブリンシャーマンの使う魔法の深度はどのぐらいか。……三層? それとも四層?
どちらにせよ、この距離なら関係ない。現在の二点強化は『脚』と『腕』――。
「ほら」
手に持ったマチェットをゴブリンシャーマンに向けて放り投げた。刃は子供にボールを投げるような放物線を描く。そして、飛来するマチェットをゴブリンシャーマンは杖で振り払った。
その一瞬で、間合いを詰める。こいつは俺が目の前にいることに気づいていなかった。
「ゲギャ?」
詠唱が終わるよりも先に喉を掴み、強化された腕の力で声帯ごと握り潰した。これでもうこいつは二度と魔法は使えない。ミーシャさんから、死体を持ってきてほしいと言われているので、なるべく原型は留めた方がいいだろう。
「ギ……ギャ……」
逆流した血液がゴボゴボと口から溢れた。首をさらに絞め上げて子供のような矮躯を宙に浮かせる。一層苦しそうに顔を歪ませると、ドス黒い血を吹き出した。
「死ね」
その醜い顔を殴りつける。一撃で首がへし折れ、ゴブリンシャーマンは呆気なく絶命した。