妹がいるカソの村に戻る。
ゴブリンに乗っ取られた村は、ゴブリンシャーマンが姿を消したことに気付いた頃だろうか。残念ながら、そいつは俺の担ぐ麻袋に詰め込まれている。
袋の中を確認すると、首が捻じ曲がったゴブリンシャーマンが己の背中を見つめていた。
「…………」
死体は何かを訴えているようにも見えた。だが、こうして死んでしまえば、それが何であろうと気にする必要はない。
村に着いたのは、昼を迎えた直後だった。
……リアナはまだ寝ているだろうか? そうでなければ、俺が身を粉にした意味がなくなってしまう。
ゴブリンシャーマンの死体の確保は、ミーシャさんの計画通りに進んだ。根城にいる他のゴブリンに気付かれずに、ゴブリンシャーマンを殺し、死体を村まで運ぶ――。振り返ると、いくつかのミスはあったが、それも許容範囲内だ。成果としては上々と言ってもよいだろう。
それでも、俺の精神状態は最悪だった。久しく感じていなかった正義感はとっくに消え失せ、胸のムカつきだけが残っている。
あの家でバラバラにされ、積み重ねられた死体の山。その中にあった一人の女の子の死体が俺の脳裏から離れない。
腐り落ちて空洞になった眼窩は何も映さない。開いたまま硬直した口腔からは何も聞こえない。だが、その目は俺を見ているように感じたし、その口は俺に助けを求めているように思えた。……それが、俺の陳腐な妄想だと分かっている。
あの子がリアナと同じぐらいの年恰好だったから、俺はここまで感傷的になっているのだろうか? それすらもわからなかったが、とにかく気分は最悪だった。
体は鉛のように重く、疲労も限界を迎えている。夜通しゴブリン迎撃をした後に、ろくに休憩も挟まずにこんな仕事をしたのだ。そんな状態であんなものを見れば、肉体だけではなく精神も消耗するに決まっている。
「妹の、リアナの顔が見たい……」
妹が眠るミーシャさんの家に入る。途中ですれ違う人たちは、奇妙な顔でこちらを見ていた。それは、俺が人間の子供サイズの麻袋を担いでいたせいだろうか。
「……どうでもいいか」
雌牛のリッキーだけは、いつもと変わらない様子で迎えてくれた。牛の臭いなんてもうわからない。嗅覚が完全に麻痺している。
地下まで降りて、ゴブリンシャーマンの入った麻袋を無造作に置く。
ミーシャさんは、普段掛けていない眼鏡を掛け、乳鉢で何かを粉末状に砕いていた。彼女の指先は黄色く染まっており、それはこれまでに様々な薬品に触れた錬金術師としての証だろう。
「……ミーシャさん、頼まれていたものです。ゴブリンシャーマンの死体です。俺はもう休みます」
ミーシャさんは、顔を上げずに作業に没頭していた。彼女が砕いているのは、これまで散々殺したゴブリンの爪だった。
「お疲れさま。大変だったでしょう。今は休んでもらって話は後で……ちょっと、君!?」
引き止める声がしたが、相手をする気にはなれない。気付かないふりをして階段を登る。
今の俺の中にあるのは、妹に会いたいという感情だけ。
……これではリアナが俺から離れないのではなく、俺がリアナから離れられないのではないか。そう自嘲してしまう。情けない話だが、今はそれだけあいつが恋しい。
◇
二階の扉を開けて、ベッドを確認する。リアナは出かける時と変わらず、そこにいた。安堵の息を漏らす。
横向きに小さな体をより小さく丸めて眠っている少女。その姿に心が満たされていくのを感じた。もう二度と、彼女から離れたくなかった。
「ん……兄さん……?」
声を掛けていないのに気配に気付いたのか、リアナがゆっくりと起き上がった。
「リアナ……」
この瞬間だけでもいい。愛称ではなく、呼び慣れた名前で呼びたかった。彼女は可愛らしく欠伸混じりで目を擦っていたが――俺の顔を見た瞬間に豹変した。
「……そ、それ以上、私に近づかないでくださいッ!!」
「…………え?」
眠りから覚めたリアナが発したのは、明確な拒絶の言葉だった。かつてないほど声を荒らげている。
俺が彼女から拒絶されたのは、出会った時の一度だけだ。どんなに悪態を吐こうとも、いつも俺の側にいてくれた。そんな妹からの拒絶。
想像すらしてかなった言葉に頭が真っ白になる。手足が痺れてしまったように感覚が失われる。
「な……なんなんですか! どうかしてしまったんですか!?」
「リアナ……何を言ってるんだ。俺はお前のお兄ちゃんだぞ……」
自分でも馬鹿みたいな台詞だと思ったが、今はそれぐらいしか言えなかった。
「知ってます! そんなのは今どうでもいいです!」
正常に会話はできている。怖い夢を見て混乱しているわけでもない。彼女は状況を理解していながら、俺という存在を明確に拒絶していた。
「いいから! 兄さんは、今すぐここから出てってください!」
ああ……それは、リアナに初めて会った時に言われた言葉だ。あの頃の俺は、彼女に多少の同情を抱いていただけで、特に好きではなかった。それどころか、煩わしいとすら思っていた。
だが、たった今吐き出された言葉は、あの時とは異なり、心臓が潰れてしまうほどの痛みを伴った。『言葉で人は殺せる』なんて下らない戯言だと思っていたが、それは真実だ。俺はリアナから拒絶されたら生きていけない。
絶望なんて言葉は、十八年生きた人生で何度だって口にした。でも俺はまだ、そんな絶望の淵にも立っていなかった。
「な、なんで……そんなこと、言うんだよ。はは、止めてくれよ。冗談だろ……?」
絶望と悲しみで声が震える。堪えようとしても涙が浮かびそうになる。
駄目だ……リアナの前で泣いてはいけない。それでは彼女を余計に混乱させてしまう。俺は、二度とこいつの前では泣かないと誓っている。
昔一度だけ、彼女の前で泣いたことがあった。その時にリアナは俺の壊れかけの心を救ってくれた。あの日から俺たちは、本当の意味で兄妹になれたかもしれない。
「んんん? ……なんでって、もしかして自分の有様がわかってないんですか?」
「リ……アナ?」
要領を得ない発言だった。まるで、俺の方に問題があるという反応だ。
「……兄さんは頭がおかしいんですか。今のあなた、桶で頭から被ったように血塗れですよ」
ちまみれ?
「そんな姿の兄さんに起きがけに詰め寄られる私の身にもなってください。タチの悪い冗談かと思いますよ、もう」
血塗れ……?
「それとヤバいぐらい臭いです。エグい臭いで目に沁みます。兄さんは今すぐお風呂に入るか、さもなければ死んでください」
「あ、ああああああッ!! そ、そうだ!! ゴブリンの血を全身に浴びたんだ!!」
「は? ど、どうしてそんな奇行を……?」
それよりも前には、ゴブリンの臭い腰巻を塗りたくっていた。ショッキングな出来事があって、俺の現在の外見、及び体臭のことをすっかり忘れていた。
「そりゃミーシャさんも村の人も変な目で見るわけだ! ……でも臭いと言うのだけはやめて。お兄ちゃん、今とっても繊細だから」
涙に濡れた目を拭こうとしたが、服の袖口はべっとりと血で濡れていた。鼻を鳴らして袖を嗅ぐと、リアナの言う通りエグいぐらい臭い。どうりでリッキーの悪臭を感じないわけだ。自分がそれより何倍も酷い状態だったなんて。
そういえば、リアナの前で泣かないと決めたけど、何日か前に金鹿亭のエントランスでも泣いた記憶があるな。でもあの時は、情緒が何かおかしな方向に入ってたので、ノーカン扱いにしよう。
「もしかして村の外でなにかしたんですか? ……まさかとは思いますが、私を置いていったわけじゃないですよね?」
「な、何言ってるんだ。そ、そんなわけないじゃないか。……さーて、風呂でも入ってくるか!」
「ちょっ……兄さん!」
バレたら確実に大目玉だ。さっさと風呂に行って、体の汚れと一緒に何もかも綺麗さっぱり忘れてしまおう。
……リアナから拒絶されたわけではなくて、本当によかった。絶望の底に叩き落とされた状態から救われた反動のせいか、心がだいぶ軽くなった。
俺という人間は、自分が思っている以上に単純な精神構造をしているのかもしれない。