逃亡生活 八日目 夕刻
オルティゼル王国 山岳地帯の村 カソ
村長代理の錬金術師兼魔法使い「ミーシャ・ノルドマン」の自宅にて
あれから二時間ほど、リアナから無断外出のお叱りを受けた。
その席で俺は、ゴブリンシャーマン暗殺の趣旨説明をして、二度とリアナをどこにも置いていかないという誓約書を書く羽目になった。
「あの女……私の兄さんを小間使いにするなんて許せません」
たまにそうやって、ジェラジェラしたリアクションを見せるので、なかなか新鮮な経験だった。
普段、リアナから叱られる時は情けないやら何やらでおつらい気持ちになるのだが、今回は悪くない。普段は使わない『私の兄さん』という言葉に、不覚にも胸がキュンとしてしまった。
もしかしたら、俺の無意識下では妹に支配されたいという、どうしようもない欲求があるのかもしれない。
それと二時間の叱責と言っても、リアナは人に怒るという行為そのものに慣れていない。一時間もしないうちに、残念な妹は怒るネタが尽きてしまった。
「だから! 兄さんは! その……えっと、あの……なんです……なんですかもう……ううー」
何か言おうとしても言葉が詰まって出てこない妹は、とても愛くるしかったと言っておこう。そんなわけで後半はぐだぐだになってしまい、結局、俺があの手この手でリアナを慰める形になった。
「リアが怒るのは正当なものだよ。どんな理由があったとしても、約束を反故にした俺に責任がある」
「うん……」
「今回みたいなことがまたあったら、ちゃんとリアに相談する。俺たち兄妹に隠し事はなしだ」
「うん……うん……」
その場で思いついた適当な戯言を言いながら、兄妹の馴れ合いの時間としては十分に価値のあるものだった。数時間後にゴブリンとの最終決戦が迫っていたが、そんなものより妹のメンタルケアの方が万倍大事なのは言うまでもない。
結局、数時間程度しか寝ていないが、体調はそこまで悪くない。魔力も充実しているし、戦闘行為にも支障はなさそうだ。
◇
「うーあー、起きるぞー……」
ミーシャさんに起こされる前に、ノソノソとベッドから這い出た。たっぷりと睡眠を取っていたリアナは、ベッドの端に座って小難しい本を読んでいる。上から覗いてみたが、俺の寝ぼけた頭では半分も理解できそうにない。
「リアちゃん、おはよう……。その本、面白いの……?」
「おはようございます。もう夕方ですけどね。この本が面白いかどうかで言ったらエンタメ性が低いので微妙ですが、暇つぶしにはなります。なんせ活字中毒なもので」
リアナの言うとおり、これから夜になろうという黄昏時だったが、つい反射的に「おはよう」と言ってしまった。この村に来てからすっかり時間感覚が狂ってしまっている。
彼女の読んでいる本が気になったので、身を屈めて表紙を確認してみると、『深淵より覗く境界、自己の肯定』と書かれていた。本の装丁もやけに大仰だったが、タイトルもそれに負けず大仰だった。
『深淵より覗く境界』はまだしも『自己の肯定』……? これは魔法の学術書というよりも、もはや哲学の域に片足を突っ込んでいそうだ。
魔法と哲学の親和性は高いが、決して同列で扱えるものではない。まあ、魔法を使う上での気概や心の在り様を旨とした本なのかもしれないな。
今は妹の暇つぶしを気にかけている場合ではなかった。それよりもゴブリンとの決戦が始まる前に、何か腹に入れておかないと。
軽く身支度を済ませ、何も言わなくても勝手についてくる妹と共に一階に下りたところ、ふとした違和感に気づいた。
「おんや?」
いや、これは違和感なんてレベルじゃない。あるべきはずのものがないのだ。そう、一階の絶対的な主である雌牛のリッキーが忽然と姿を消している……!
「リッキーがいないんだけど……リアは知ってる?」
「いいえ? 私は兄さんの側でずっと本を読んでいたので知りません」
お別れが近かったので、今日は無視せずに挨拶しようと思っていたが、その目論見は不発に終わってしまった。
リッキーがいなくなり、がらんとなった一階には彼女の香りだけが残されていた。たったそれだけのことで、胸に一抹の寂寥感が去来する。
「おお……リッキーよ。お前はどこにいってしまったんだ。お前がいないと、俺の胸にポッカリと穴が開いてしまったようだ」
「あなたが何を言っているのか理解できません。頭は大丈夫ですか? 叩けば治りますか?」
情趣や哀感というものを知らないリアナから無粋なツッコミが入るが、無視だ無視。……そうやって無視していたら、「ていてい」と後頭部を叩かれた。
行方不明のリッキーについては、地下で作業をしているミーシャさんに説明してもらおう。
「おやや?」
そうして地下室まで下りてみたが、ミーシャさんの姿もなかった。部屋には血の匂いが残っており、これはゴブリンシャーマンの解剖によるものだろう。
「ミーシャさんもいないんだけど、リアちゃんは……」
「だから私は兄さんの側から一時も離れなかったので、知りませんってば。……あなたは、私の寝ている間にお出かけになられていたようですけどね!」
「その件に関しては、申し開きのしようもございません」
リアナに横目でギロリと睨まれる。くそう、片付いたはずの問題が再燃してしまった。
そうなると、一人の女性と一頭の雌牛が忽然とどこかに消えてしまったことになる。これは事件でもなんでもなく、ミーシャさんがリッキーを連れてどこかに行ったのだろう。
だけどもう時間も時間だ。日没が迫ってきているので、ゴブリンの襲撃がいつ始まってもおかしくなかった。それなら、ここで待つよりも外へ探しに行った方がいいかもしれない。
「リアちゃん、ミーシャさんを探しに外にいこうか」
「はいはい。どこまでもお供しますよ」
家の外に出ると、日没前なのに空が異様に明るい。頭上を確認すると、太陽とは別にミーシャさんの光源魔法が村全体を照らしていた。
少し気が早いとは思ったが、この魔法はそこまで燃費が悪くない(俺は使えないが)。彼女ほどの魔法使いなら、この程度はなんでもないだろう。
中央広場に続く道を歩いていると、村の人たちがあちこちで慌ただしく働いていた。武器の手入れをしたり、避難所の教会にバリケードを作ったりしている。ゴブリンとの決戦に備えての準備のようだ。
個人的には、いざという時のために逃走経路を確保しておくべきだと思う。しかし、村を捨てる決意があるなら、とっくにそうしているはずだ。
「…………うー」
リアナは人前に出ると、俺の数歩後ろをついてくる形になる。人見知りも多少は解消したので、今後はこういうところも改善していきたい。自主性を重んじる方針なので、俺の口からは極力言わないけど。
「おーい、そこの道行く少年。ミーシャさんを見かけなかった?」
誰も彼も忙しそうにしているので、気難しそうな年長者ではなく、比較的年齢の近い少年に話を聞いてみることにした。意図せずに尊大な言い方になってしまったが、彼は俺よりも年下に見えるので、その点は大丈夫だろう。
「あ、リアちゃんのお兄さんですね。はじめまして、こんばんは」
ハンチング帽を被った真面目そうな少年だった。背は俺よりも少しだけ低い。……俺が狭量なだけかもしれないが、自分と近い世代の少年に妹を「リアちゃん」と呼ばれるのは妙に腹立たしい。
「そ、それとリアちゃんも……こ、こんばんは。げ、元気そうだね」
「…………」
わざわざ俺の背後を覗き込むようにしてリアナに挨拶をしたが、彼女は完全に無視をしていた。なんとも気の毒な少年だった。
リアナも会釈の一つでも返せばいいのだが、さして面白くもない俺の背中をぼんやりと眺めている。
「うん、こんばんは。それで、君はミーシャさんがどこにいるか知らないか?」
理解に苦しむ妹の行動について考えても仕方がない。今は本題に移ろう。
「あ、村長……代理ですか。少し前に仔牛を連れて、村の入り口の方に向かっていくのを見ましたけど……」
「入り口の方か。わかった、ありがとう」
村の入り口……この通りの終着点でブラッドさんの家がある辺りでいいのかな。他に入り口と呼べるような場所を知らない。何にしても、まだそこに居てくれたらいいんだけど。
あ、そうだ。話のついでにこの少年に例の秘密兵器について確認しておこう。
「……ところで君は、あの牛を何に使うか知ってる?」
ミーシャさんはリッキーについて村の誰にも説明していないと言っていたが、念のため確認しよう。決して疑っているわけではないが、あの秘密主義が俺たちだけでなく、村人にも及んでいるのか確認しておきたい。
「あの変な牛ですか? いいえ、何も聞いてませんけど……」
「うん、何も知らないならいいんだ。変なことを訊いて悪かったね」
やっぱりミーシャさんからは何も聞いていないか。だけど、変な牛とはなんだろう? リッキーは秘密兵器ではあるが、一見すると普通の仔牛にしか見えない。
「……あ、そうだ! 知ってますか? あのぐらいの仔牛って凄く美味しいんですよ。柔らかくて臭みがなくて……」
「いや、俺は別に肉質的な情報を知りたいわけじゃないんだ。でも助かったよ。また妹と仲良くしてほしい」
俺たちに良いところでも見せようとしたのか、仔牛の食レポを聞かされてしまった。
そもそも俺はもう、リッキーを食欲の対象として見られない。一見すると真面目そうな少年に見えたが、やはり血気盛んなこの村の住人だけあって、少しだけズレているな。
「は、はい! 是非ともリアちゃんと、仲良くさせてください! 今後ともよろしくお願いします!」
俺がお世辞程度に言った「仲良くしてほしい」という言葉に過剰に反応している。
……ははーん、さてはこいつ、妹に惚れている若い連中の一人か。しかし残念だったな。ゴブリンの問題が解決したら、俺たちは明日にでもここを発つ予定だ。
つまり、リアナと仲良くできる機会など二度と訪れないのだ! ふははは!
「うーん、我ながらそれはどうなんだ……」
「お兄さん、どうかされましたか?」
俺の自嘲めいた呟きに、少年は律儀にも反応してくれた。当然、リアナと仲良くしたいという下心もあるだろうが、それでも彼の心配は本心からのように感じる。
「ごめんごめん、なんでもないよ。気にしないでくれて大丈夫だ」
今の俺は、娘の恋路を邪魔する父親みたいな思考になっている。たった今も心配されながら「貴様なんかにお兄さんと呼ばれる筋合いはない!」と本気で思っていた。
仮にもしリアナを嫁に欲しければ、個人面談を済ませた後に男同士の殴り合いをして、万が一にでも俺に勝てたら一考してやらんでもない。もちろん決闘時には全力で魔法を使わせてもらう。
……俺はシスコンのつもりはなかったが、ここ最近の思考と行動を振り返ると、だいぶ怪しくなってきた。
「じゃあそろそろみんなのところに戻りますね。俺にできることがあったら何でも言ってください!」
「わかった、そうさせてもらうよ」
頭をペコペコと下げる少年と別れて、妹と村の入り口に向かって歩いていく。
「じゃあ、村の入り口に行ってみようか。……ところでさ、リアちゃんは今の少年をどう思う?」
「?? ……別に何も? 私が治療した一人だったと思いますけど」
「そうかそうか! それならいいんだ!」
「声が馬鹿みたいに上擦ってますよ? 変な兄さんです」
好きでもなければ、嫌いでもない。わかりやすく言えば、無関心というやつだ。残念だったな、少年。どうやら妹からの脈は完全にないようだ。
……それで心底ホッとしているのは、やはり俺がシスコンという証拠なのだろうか。
いい加減、変な意地を張らずに自分がシスコンだと自覚する頃合いなのかもしれない。まだ三年の付き合いしかないせいか、俺には妹離れがとてもできそうもない。リアナという妹の存在がこんなにも可愛いものだと思ってなかった。
振り返って、リアナの頬を撫でてみる。
「ん」
突然の俺の行動に少し驚いたようだが、特に嫌がる素振りは見せない。
それどころか、頬を撫でる手を優しく握ってくれた。小さくて柔らかく、少し冷たい感触が伝わってくる。あーもう、こいつホントに可愛いな!
「んん。もう、急になんですか。くすぐったいですよ。やっぱり今日は変な兄さんです。……略して変兄です。んふふ」
うん、俺も変だと思う。俺は、変なシスコンお兄ちゃんだ。その略し方についてはノーコメントで。