「兄さん兄さん、全然似合わないアンニュイな顔しているところ恐縮なんですけど」
「一言余計な妹よ、どうしたというのだね?」
ユーテウス院の老人たちに憤慨していたリアナが、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。そして服の袖を引っ張り、壁の向こうを見るように催促する。
「ゴブリンがメッチャ集まってます。キモいです。キモいことこの上ないです」
さっきまで一匹だったゴブリンキングが、いつの間にか何十ものゴブリンを引き連れていた。何をするわけでもなくウヨウヨと密集しており、異様とも言える光景だった。
「う……ほんとにメッチャ集まってるわね。キモいわ」
「メッチャ集まってる。これは確かにキモい」
俺もミーシャさんも、リアナの言葉遣いが移ってしまった。リアナは基本的に敬語で話すが、ところどころが妙に崩れている。
出会った頃はそんなことなかったのに、まったく、誰の影響でそんな汚い言葉遣いを覚えたんだか。……あ、間違いなく俺の影響だ。猛省。
「うーん、これはいくらなんでも無視できないわね。といっても、どうしようかし……ら……?」
「あ、牛さん……」
リアナがぽつりと呟く。その言葉にぎょっとして、彼女の視線の先を追うと、数匹のゴブリンが一頭の仔牛の死体を運んでいた。
「リッキーだ……」
俺もまた、リアナと同じように言葉を失ってしまう。
体の表面に描かれた特徴的な模様からして、間違いなくリッキーだ。彼女は複数のゴブリンになぶり殺され、かつての愛らしい姿は見る影もなくなっている。
「ギャギャ!! ギャギャハ!! ギャハギャハギャハギャハギャハ!!」
リッキーの凄惨な死体を目の当たりにして、思考が混乱してしまう。
そんな俺たちに対して当てつけるように、ゴブリンキングを筆頭に悪鬼どもが一斉にケタケタと笑い出した。
『下卑た笑い』とはまさにこいつらの笑い声を指すのだろう。品性なんて欠片も存在しない。緑黄色の醜く歪んだ顔を見るだけで、根源的な恐怖心すら塗り潰す、絶対的な嫌悪感が湧き上がってくる。
「クソどもめ……」
この大陸圏に住む人々は、人種を問わずゴブリンという存在を嫌悪している。
なぜなら、ゴブリンについて親から言い聞かされるように育つからだ。やつらの残虐性や狡猾な生態を、子供たちは枕元で寝物語のように聞かされる。そしてそれは親から子へ、子から孫へと語り継がれていく。
親というものを知らずに育ったリアナでさえも同じだ。物語や文献に登場するゴブリンは、その危険性がほぼすべてに記載されていると言ってもいい。
ごく一部では『亜人種に対する差別や偏見だ』という意見もあるが、そんなものはゴブリンを見たこともない都会人の戯言に過ぎない。そういった意見は唾棄すべき少数意見として黙殺されるのが常だった。
やつらは、忌み嫌われ、許されざる存在とし、この世から根絶しようという意志さえあった。だからこそ、俺たちはゴブリンに対して、生理的反応とも言える嫌悪感を抱いている。
俺が知るゴブリンと対峙した際の基本原則。それは『油断せずに執拗に』……そして『一匹も残さず殺せ』だ。
◇
氷の壁の向こうにいるゴブリンが笑っている。
俺たちを見て笑っている。リッキーの死体に群がって笑っている。
その下劣な哄笑を、どこかで聞いた覚えがあった。
「まさか……」
ふと、ゴブリンによって潰された村の記憶が頭に浮かぶ。俺にはもう、ゴブリンキングが企てた凶行が読めてしまった。
これから始まる乱痴気騒ぎは、絶対にリアナには見せていいものではない。
「リアナ、俺と向こうに行こう」
「……どうかしましたか?」
もう遅かった。まるでタイミングを見計らったように、おぞましい宴が始まってしまう。
「ギャハー! ゲヒャヒャヒャヒャ!」
咄嗟にリアナの頭を抱きしめ、目と耳を塞ぐ。これから起きることは絶対に見せてはいけない。
これまで外の世界を知らずに育った少女にとって、あまりにも毒が強すぎる。
「ギッ! ギッキャー!」
そんなゴブリンキングの奇妙な合図によって、ゴブリンがリッキーの死体に向かって一斉に飛び掛かった。
リッキーの頭に喰らいつく。足に喰らいつく。腹を喰い破り、腸を引きずり出す。人間以上に発達した咬合力が、皮を容易く突き破り、肉を喰いちぎる。文字通り、血の滴る肉を咀嚼し、それを飲み込んでいった。
「ゲッヒャー!! ゲヒャハヤヒャー!!」
悪鬼どもが、リッキーの鮮血で口をべったりと赤く染め、歓喜の絶叫を上げた。
これまで家畜として大切に育てられた仔牛だ。粗食なやつらにとって、さぞや上等な食事であろう。今まで生きてきた中で一番のご馳走に違いない。
……そんなリッキーの味なんて知りたくもなかったが、どうしてか想像できてしまう。
『知ってますか? あのぐらいの仔牛って凄く美味しいんですよ。柔らかくて臭みがなくて……』
村の少年の話を思い出してしまった。彼に罪がないのは承知しているが、俺とリアナにあんな話を聞かせたことが堪らなく恨めしい。彼の言葉を思い出した途端に、胃酸が喉に込み上がってくる。
「ギャギャ! ギャハハー!」
狼狽える俺たちを見て狂喜に震えていたゴブリンキングもまた、狂った饗宴に飛び込んだ。そのまま他の連中と同様にリッキーの肉へと喰らいつく。
「ああ、クソ……そういうことかよ」
俺たちを追跡するリスクを冒してまでやろうとしたのは、勝つための秘策なんて大層なものじゃない。
あいつがやりたかったのは、このリッキーを貪り喰うための催しだ。このイカれた催しを俺たちに見せたかった。それだけが目的で俺たちを追跡した。
辛酸を嘗めさせられたゴブリンキングは、唯一の収穫物である仔牛の血肉を喰らい啜るところを俺たちに見せつけ、多少なりとも鬱憤を晴らしたかった。本当にそれだけが目的だった。
馬鹿げていた。そんな行為に合理性なんてあったものじゃない。ああ……だけど効果的だよ。
俺たちは今日に至るまで、リッキーを家族の一員のように可愛がっていた。
そんな事情をあいつが知る由もない。だが、そのゴブリンキングの思惑を超えて、俺たちの心を深く傷つけることに成功した。
「兄さん……私は大丈夫ですよ」
「リアナ、無理をしなくていい。こんな底の抜けた悪意に当てられてまで、俺に気を使う必要なんてないんだ」
リアナをより強く抱きしめた。本当は今すぐ彼女を連れて逃げ出したかったが、こんな惨状に妹の友達であるミーシャさんを一人残すわけにはいかなかった。
ゴブリンの悪意は単純だ。しかし、その単純さゆえに純度が高い。よく磨かれたナイフのような鋭さがある。そんな悪意のナイフで胸を貫かれれば、その鋭さから心の奥底にまで突き刺さってしまう。
「いえ、平気です。私は兄さんに嘘はつきません。心配してくれるのはすっごく嬉しいですが、少しだけ苦しいです。ちょっと力を緩めてください」
俺の胸に顔を埋めたリアナが、身じろぎをして俺の腕から逃れようとしている。
「いいんだ。いいんだよ……」
だけど、放してなんかやるものか。時間が止まった世界から放り出されたリアナは、これからも様々な悪意に晒されるだろう。
それでも、彼女があんなにも可愛がっていたリッキーが、ゴブリンどもに貪り食われる光景なんて絶対に見せてはいけない。
無知で無力な俺には、こうして妹の体を強く抱きしめることしかできなかった。
「いやいや、大丈夫なんですって! というか、痛いです! い、いたたたた! 折れます折れます! 折れてしまいます! 妹の首が兄の手によって折れてしまいます!」
「はあ……」
ゴブリンの饗宴が始まってから、一言も発さずにいたミーシャさんが、呆れ果てたように溜息を吐いた。そして、氷の壁に向かって一歩分だけ距離を縮める。
「馬鹿は馬鹿だと思っていたけど、ここまでの大馬鹿者だったとはね。あーあ、余計な心配して損しちゃった」
それは話す内容に反して、とても冷淡な語り口だった。俺たちや村の人に語りかけるような優しさは微塵もなく、底冷えするような氷の感情を露わにしていた。
「……ミーシャさん?」
彼女はリッキーを貪るゴブリンたちを、片時も目を逸らさずに見ていた。その時の表情を思い返してみると、初めはあまりの凄惨な光景に表情さえ失っていたかと思った。
だが、彼女はゴブリンに憎悪を向けていたか? 家族同然のリッキーを喰われて悲しみ嘆いていたか? いや、そのどちらも違う。
あの顔は以前、俺の体に刻まれた術式を観察していた時と同じ、魔法使いとしての冷徹なものだった。
「ほ、ほら兄さん言われてますよ! 大馬鹿者って! 大馬鹿者な兄は、さっさと放してください!」
「え? え? 違う違う。君たちの話じゃないわ。こっちのゴブリンキングのオツムのこと。それに……もう終わったから、君たちは遊んでていいわよ」
ミーシャさんの言葉を聞いて、思わずリアナを抱きかかえていた腕を放してしまった。「もう終わったから」と彼女は確かにそう言った。
「……終わったって、何がですか?」
俺の腕から解放されたリアナから鋭いローキックを脛に受けたが、それよりも彼女の話が気になった。脛は当然痛い。
「この戦争の、かな? それが終わり。私たちの勝ち。はあ……後始末が面倒よね。麓に卸す建材の納期も遅れちゃったし。あーあ、偉い人に怒られると思うと憂鬱だわ」
「は? ど……どういうことです?」
話が全く見えないが、ミーシャさんは目の前のゴブリンよりも、その先の未来の心配をしている。もう何が何やらだった。
「私は最初からリッキーの肉をゴブリンキングに食べさせるのが目的だったのよ。本当は根城に戻ってから食べるものだと思ってたんだけど、まさか現地で食べちゃうとわね」
「……リッキーに何かしらの毒でも仕込まれていたんですか? でもゴブリンたちはピンピンしていますよ」
ゴブリンキングもそこまで馬鹿ではない。他のゴブリンが食べるのを見届けてから、リッキーの肉を食べ始めた。万が一に備えて、毒見役を立てていたのだろう。
「うん、アンリくんの言う通り、これは毒よ。作用するのはゴブリンキングだけだけど」
「え、でもあいつはピンピンしてますよ? そもそも、ゴブリンキングは殺さないという話でしたよね?」
ゴブリンキングを殺すと、命令系統を失ったゴブリンが散り散りになって各地で暴れ回るから、彼女から殺さないように厳命されている。それなのに、そのゴブリンキングに毒を盛るとは、どういうつもりなんだ?
「まあまあ、見てなさい……そろそろ起きるわよ。私の一週間にも及ぶ不眠不休の成果が結実する時がね」
それだけ言って、ミーシャさんは氷の壁に向き合った。それは、俺たちにも見るよう暗に促している。
「うわわー、グロいですね。グログロです」
リッキーがゴブリンに貪り食われるのを見て、リアナは僅かに顔をしかめたが、特に悲しんでいる様子はない。本人の言う通り、本当に大丈夫そうだ。だとしたら、俺の心配はなんだったのか。
「ゲ……ギャ……?」
突然、肉を食らっていた一匹のゴブリンが胸を押さえながら苦しみ出した。そして、そのゴブリンを皮切りに、他のゴブリンも次々と苦しみだす。
これがリッキーに仕込まれた毒の効果か? でも、それだと彼女の話と食い違うような。
「もしかして……遅効性の毒ですか?」
「違う違う、そんな単純なものじゃないわ。……アンリくん、まだ気づかない? ほら、あいつよ」
ミーシャさんが一匹のゴブリンを見るように指で指した。そのゴブリンも他のゴブリンと同様に苦しんでいるが、何かが違うのか?
「何がです?」
「わからないかしら? ……リッキーの肉を食べてないゴブリンも苦しんでいるの」
言われて気づいたが、ミーシャさんが示したゴブリンは、口の周りが血で汚れていない。壁の向こうには三十匹前後のゴブリンがいるが、そのうちの半数近くは食いっぱぐれていた。しかし、どういうわけか、そいつらも苦しみだしている。
「俺はリアナに構っていたので……」
「私はこのシスコンに殺されかけました!」
ミーシャさんがゴブリンを観察している間、俺はリアナの目と耳を塞ぐのに必死だった。そんな状況で、やつらの様子なんてわかりっこない。
彼女の言う通り、毒入りの肉を食べていないゴブリンも苦しんでいるのだとしたら、なんとも不思議な話だった。
「要するに、何が言いたいかというと――」
ミーシャさんが結論を教えてくれるようだ。それはつまり、俺が今まで知りたがっていた『秘密兵器リッキー』の正体になる。
しかし、今の感じだと俺の想像していた秘密兵器とは大きく食い違ったものになりそうで、少し残念だ。実のところ、盛大に爆発する何かだと勝手に思い込んでいた。
うーん、これから肉を食べたゴブリンが一斉に爆発してくれないかな?
「ゴブリンの群れ……というかコロニーは、主にゴブリンキングとその子供たちで構成されているのよ。私がリッキーに仕込んだ毒はそういうこと」
「はー、なるほどです」
俺よりも先に妹が納得している。やばい。全然わからない。一体、ミーシャさんはどんな毒を用意したというんだ。
リアナが「うんうん、そうなんですね」とでも言いたげな態度で頷いているが……こいつ、本当にわかっているのか?
「毒を摂取した対象の子々孫々を殺す毒です。えげつないです」
「リアちゃん、大正解」
俺の心中を読んだかのように、リアナが正解を言い当てた。うう、お兄ちゃんなのに、意味もなく疑いの目を向けてごめんよ。
「ゴブリンシャーマンの死体が欲しかった本当の理由はそれね。ゴブシャーの遺伝情報は、この毒を作るのにすごく役立ったわ。氷の壁のフィルタリングにも使ったけど、こっちの毒が本命で、壁に関してはオマケみたいなものね」
やばい。説明されてもわからない。ゴブリンキングが摂取すると、子供のゴブリンが死ぬという作用だけはわかったが、その理屈はまったく理解できない。
というか、なんでリアナはわかったんだ? 妹がわかって兄の俺がさっぱりというのは体裁的によろしくない。よし、ここはわかったフリでもしておこうか。
「ゴブシャーの死体がお役に立てたようで何よりです。へへ、俺もそんな気がしてましたよ! ……本命は別にあるんだってね!」
ゴブリンたちがもがき苦しむ声を聞きながら、それっぽく話を合わせてみる。あ、なんだか悲しくなってきた。
「ゴブリンくんが黒くなっています。子ゴブリンを構成する情報因子が崩壊して朽ちていますね」
「そうそう、今のこいつらは、ゴブリンキングの遺伝情報を差し引いたような状態なのよ。……リアちゃんも意外と詳しいわね?」
リアナの言う通り、ゴブリンたちが足元から黒ずんでいく。しかも、これは親であるゴブリンキングが毒を飲んだことが原因だという。……うーん? 何がどう作用すればこんな毒を作れるんだ?
ミーシャさんの手掛けた毒は魔法使いとしてのものではなく、錬金術師としての領分だろうが、俺にはネクロマンサーが使う呪いの類にしか見えない。
「え? そんなの見ればすぐにわかりませんか? 馬鹿にしないでほしいです。……ですよね? 兄さん?」
「うん……まあ、情報因子は大事だからな! そこにダメージを受けると身体を維持できなくなるよな!」
二人が会話内容を組み合わせて、話を適当にでっち上げてみる。実は何もわかっていなかったが、リアナが信じてくれている。ここは嘘を貫き通すしかない。
……無教養であるために、嘘で見栄を張るしかできない自分があまりにも情けない。
「ギギ……ガ……」
そうしているうちに、黒く染まったゴブリンの体がグズグズと崩れ落ちていった。まだ生きている個体も何匹かいたが、それも時間の問題だった。
このまま放っておけば、いずれ全てのゴブリンはここで死に絶え、土塊へと還るだろう。