今、とんでもなく聞き捨てならない台詞を膝の上の小娘が吐かなかったか?
「えーっと? お兄ちゃんそれ初耳なんだけど? 魔力を封印してから回復魔法しか使えないんじゃなかったの?」
「……それ、何の話です? 兄さん、屋敷から出奔した時に『今の状態で回復魔法は使える?』としか訊かなかったじゃないですか? それに私は『使えます』と答えただけです」
言われてみれば、そんな会話をした覚えがある。もう十日も前の話だから少し記憶が怪しい。
「マジかー。ちゃんと確認しておけばよかった」
リアナと二人で屋敷を抜け出した直後、国外脱出を画策していた俺は、兎にも角にも焦っていた。そのため、俺の魔力と体力回復に必須だった回復魔法だけを確認し、後はそれっきりだった。
彼女の性質を考えれば、大深度の魔法が使えないにしても、回復だけに制限されるのはおかしな話だった。うーん、思い込みは恐ろしい。
「と言っても、ホントに少しだけですけどね。この程度です」
リアナがワイングラスを持つように手のひらをかざすと、親指の上に小さな火が灯った。
「『火』……『水』『氷』『風』、それと、うっかり兄さんイチ押しの『回復』。他に何かリクエストありますか? 左手の指が五本ほど空いてますけど」
人差し指に水、中指に氷と、それぞれの指に指定した魔法が次々と発動する。その五つの魔法が球体状に変形したかと思うと、一斉にくるくると回り始めた。
「……それだけで十分じゃないか? 土は室内でやるのは汚いし、目の前で光源を出されても眩しいだけだし」
「そーですか。じゃあ正八面体にしてやります。私、この形が可愛くて好きなんですよね」
五色の球体魔法は、緩やかに回転しながら正八面体へと形を変えた。八つの正三角形で構成されたこの形が可愛いと感じるリアナの感性は、さすがの俺にも理解不能だった。
「にしても、よくそんなことができるよなー」
「そですか? 魔力出力がよわよわなので派手さなんかは皆無ですけど」
「いや、技術の方。テクニカルにもほどがある」
「…………??」
「ははは。この妹、本気で何も分かってないぞぉ」
はてな、という感じに可愛く首をかしげる。俺の膝に座っているから、顔がちゃんと見れないのが残念だ。
熱量や質量を伴う火や水の魔法はまだしも、青い光として視認できるだけの回復魔法を複雑な形にして回転させるなんて、まったく意味がわからない。
それに、リアナが魔法で火を起こせるなら、火打ち石なんて必要ないじゃないか。水にしても同様だ。無尽蔵に水を出せるなら、旅の間の飲み水にも困らない。
清潔な水は貴重品で、地域によっては酒よりも高価だ。というか、これまでリアナは俺がわざわざ水を買って持ち歩いているのを見て、どう思っていたんだろう?
何にしても、妹がこれだけ魔法を使えるのなら、旅の荷物も多少は減らせるな。
「…………えっ、ウソ? ウソ! なんで! ええええ!!」
「わっ、なんですか。急に騒がないでください」
これまで呆然とリアナの魔法を見ていたミーシャさんが上擦った声を上げると、浮遊する五色の魔法を食い入るように凝視する。急に立ち上がった勢いで彼女の座っていた椅子が倒れてしまう。
「なにそれ!! なんでそんな魔法が使えるの!?」
俺は、この力を持つ姉と妹の間に挟まれて生まれたので、今更そこまで驚いたりはしない。
そりゃ、今よりもずっと昔の子供の頃には姉さんに憧憬や嫉妬に近い感情を抱いていたと思う。しかし魔法の世界に触れるにつれて、それは何の意味のない感情だと悟ってしまった。
極めて単純な話だ。俺たちは血の繋がりこそあれど、姉とは比較できるステージにいなかった。空を飛ぶ鳥は地を這う芋虫を憐れまないし、地を這う芋虫は空を飛ぶ鳥を妬まない。芋虫である俺は、芋虫なりの生き方をするしかなかった。
でも……なんだろう。リアナの魔法を見ていると、何か引っかかるような感じがする。
これぐらい器用にやってのけるのは、これまで読んだ文献やリアナの話からしても不思議ではない。不思議ではないが、胸がもやもやする。
こんなことが容易くできるなら、なんでこいつはあんな事故を……。
「絶対に不可能よ!! 絶対にあり得ない!!」
「絶対絶対って……絶対にあり得てるから、こうして使えてるんですけど」
リアナが「やれやれ」と言わんばかりに嘆息をついた。嫉妬はしないけど、こいつがムカつくことには変わりないな。
しかし、ミーシャさんは妹に会ってからというもの、驚いてばかりだ。初めて会った時はクールな雰囲気を漂わせていたのに、この愚妹と接してからはその仮面も崩れつつある。あとリッキーの所為で体臭も酷かった。数日前の話なのに何もかも懐かしい。
「複合魔法なんかじゃなくて、タイムラグなしの並行運用なんて……う、嘘じゃないのよね……!? そもそもとして、属性が全部違う魔法じゃない! わけわかんない! わけわかんない!」
「わけわかんなくないです! 使えてます! 兄さーん! この人、やっぱり怖いです!」
ミーシャさんが飛び上がるほど驚くのも無理はない。『扉と鍵』の例で言うなら、扉を開けた先にある魔法だけでなく、別の扉の先の魔法も同時に使っているのだ。
理屈の上では、扉に入るための体が二つ以上なければできない芸当だと言える。それに加えて、近い属性でもなく相反する火と水の魔法を同時に行使した。
「あー、そういうことか……」
ミーシャさんの反応を見て、姉が目の特性を秘密にしていた理由がわかったかもしれない。こんなデタラメが世に知れ渡ったら、大騒ぎになるだけでは済まない。現代魔法の土台となる常識が根本的に崩れてしまう。
いい加減な気持ちで彼女に教えてしまったが、今になって後悔している。これならクリューガー家の秘事として扱われていたのも納得できる代物だった。
◇
それから三十分ぐらい経ち、ようやくミーシャさんが落ち着きを取り戻した。
「深淵を覗く、ね……まさか言葉通りの意味だとは思いもしなかったわ……」
「まったくです。わけわかんないですよね」
『深淵』は『叡智の淵源』と同じ意味だ。『叡智の淵源』では言葉として長いので、口頭で使う際には『深淵』と呼ぶのが一般的だった。
「……私、結構すごかったんですね」
リアナは胸を張るわけでも威張り散らすわけでもなく、淡々と自分の能力の感想を述べる。ただ、その顔はいつも以上に無表情に感じた。
「凄いなんてものじゃないわよ……。無詠唱だけでも無茶苦茶なのに、属性別魔法の並行展開に並行運用……正直に言って、私なんかじゃ理解が追い付かない。もうリアちゃんについてあれこれ考えるだけ無駄みたいね」
ミーシャさんも光源魔法を展開しながら氷魔法を使っていたが、それでは属性別魔法の並行運用とは言えない。あれは単純に光源魔法を発動させた後に氷魔法を使っているだけだ。光源魔法の工程は完了しているので、後は魔力の消費だけで済む。
リアナがやったのは、時間的差異なしの並行運用とでも言うべきデタラメだ。それも五種もの魔法の並行展開と並行運用をやってのけている。もし妹の言う通りなら、左手も加われば最低でも十の魔法を同時に使えることになる。ミーシャさんの言う通り、あれこれ考えるだけ無駄というやつだろう。
「私からしたらどうでもいいんですけどね。こんな目、くだんねーです」
ミーシャさんのような才女が、目の前の非現実を受け止めてようやく絞り出した称賛の言葉に対し、リアナは「くだらない」と唾棄した。
自らを卑下しているつもりかもしれないが、これもまた他の魔法使いを侮辱する発言だとは気づいていない。
「……リアちゃんって、魔法使いを怒らせる才能も持っているのかしらね?」
「空気が読めないアホな妹ですみません」
うーん……過ぎた自虐や謙遜は、時として顰蹙を買うものだと教えてやらないと駄目だな。
「…………」
あれ? アホ呼ばわりしたのに何も言ってこないな?
俺の膝に座るリアナの顔を横から覗き込むと、彼女は俯いて目を両手で押さえていた。
「……こんなくだらない目の所為で、私はエイラを傷つけ、今はお姉様に殺されそうになっています」
涙を拭うような仕草にも見えたが……それは俺の勘違いだった。突如、リアナの目を押さえつける手に力がこもる。
「もし……もしもですよ? 私がこの目を抉り取ってしまえば、お姉様は私を許してくれるのでしょうか? エイラもまた私に会ってくれるでしょうか?」
「な……おい! リアナ! 何を言ってるんだ!」
馬鹿な真似をする前にリアナの両手をとっさに掴んだが、もう力は込められていなかった。
「でも……それで本が読めなくなるのも、兄さんの顔が見えなくなるのも嫌です……」
目を抉り取る――。
それは決して本心ではないはずだ。だけど背中に冷たい汗が流れてしまう。ここまで思いつめた心情を吐露したのは、この旅で初めてのことだった。
「リアちゃんが銀炎に殺される……? ねえ、それってどういうこと?」
「…………」
ミーシャさんは、俺たちが姉さんに追われていることまでは推測していた。だが、俺たちが殺されるような事態にまで発展しているとは夢にも思わなかったのだろう。
「だから君たちは彼女から逃げてるの? あの人が自分の家族を手に掛けようとしてるの?」
更に追求される。ここはもう正直に答えた方が良いかもしれない。
「はい……その通りです。俺たちは姉さんに捕まれば確実に殺されます」
対抗手段はない。俺が相手では百人いようが千人いようが勝ち目はないし、リアナは姉と同じ才能を持ってはいてもまったく磨かれていない。百回挑めたとしても百回殺されるだけだ。
そもそも彼女は、決闘どころか喧嘩だって一度もしたことがない。類い希なる能力があっても誰かに攻撃できるような性格じゃないのだ。
「そう、わかったわ。……でも詳しい事情は聞かない。私なんかじゃどうにようもなさそうだしね。助けてもやれないのに話だけ聞くなんて無責任だもの」
下層クラスの魔法使いであるミーシャさんでも、姉にはどんな手を使おうとも到底及ばない。
これは失礼な話でもなんでもない。姉さんと戦いになる人間……いや、存在がこの世界どれだけいるのか。
あの人はかつて、国の依頼により村々を襲い宝を奪う、それこそ歴史書にも載っている不可侵の邪竜すらも葬ってみせた。
邪竜討伐を終えた姉は『デカいカボチャを初めて見た時もそうだったんだが、デカいってのはそれだけでなんだか笑えてくるな。トカゲもあれだけデカいと少し笑えた』とだけ言って、くつくつ笑っていた。
彼女ならば、人類未到の地、西の絶海を超えた先にいるとされている『魔王』とも渡り合えるかもしれない。
この世界に存在するすべての魔物は、魔王によって解き放たれた尖兵という説があった。伝説やお伽話の類ではあるが、数年に一度、魔王は不特定の魔物の口を介して己の存在を世界に示している。
まあ……そんな話どうでもいい。俺たちは姉さんに見つかれば、抵抗する手段もなく確実に殺されるというだけ。
「それでもね……私にしてほしいことがあったら言ってちょうだい」
「ありがとうございます。ですが、本当にいいんですか?」
事情を知った上で俺たちに手を貸してくれる。それは、姉に対する敵対行為と変わらない。それを聡いミーシャさんが気付かないはずがない。
「私とこの村のみんなは君たちに恩があるもの。前にも言ったけど、この村で良ければ匿って……住まわせてあげる」
「それは……」
それは、とても魅力的な提案だった。以前誘われたときとは違い、心にすっと落ちてくるものがあった。
「この村には治癒士がいないわ。私が錬金術師として、医者の真似事をしているけど、正直に言って人手が足りてないのが現状よ。だからリアちゃんが居てくれると大助かり。これは親切心だけじゃなくて、私なりの打算もあるのよ」
罪悪感を覚えさせないように、俺たちがここに居ても良い理由もちゃんと作ってくれる。この村にいれば姉の手から逃れられるのか。だとしたら……。
「リアナはどう思う? ここにいれば姉さんから逃げられると思うか?」
この世界で最も姉に近しい存在であるリアナに確認してみる。姉については俺よりも彼女の方が触れられる部分が大きい。
「……無理ですね。お姉様はいずれ私たちを確実に見つけます。少しでも長生きをしたければ、一箇所に定住するなんて愚かです」
『思う』でも『かもしれない』でもなく、無理だと断言されてしまった。
「根拠はあるのか? 封印は三つとも機能している。広域の探知魔法にリアナの魔力は引っ掛からないはずだぞ」
リアナの魔力は膨大だ。それを封じる方法を、彼女と出会った三年前からずっと探していた。本来は姉の手から逃げるための手段ではなかったが、結果としてそれがこうして役立っている。
「そういうのじゃないんです。……私にはわかるんですよ。お姉様は今とても苛立っています。私たちを見つけようと躍起になっているのが伝わってきます。あの時と少しも変わっていません。お姉様は私を本気で殺す気でいます」
リアナが自分の肩を抱くように、震える体を抑える。
「…………怖い……怖いです、兄さん……」
俺は、そんな妹に後ろからそっと抱きしめてやるしかできなかった。
「わかった。リアナがそう言うなら信じるよ。予定通りに今日ここを発とう。ミーシャさん……せっかくの申し出なんですが、俺たちは旅に戻ることにします」
根拠があろうがなかろうが、俺は彼女を信じるしかない。屋敷から逃げ出したのも、リアナが俺の提案に頷いてくれたからだ。
だから、俺はこいつの意向を遵守する。その先に続いているのが、たとえ天国であろうと地獄であろうとも。