逃亡生活 十二日目 夕方
オルティゼル王国 蚕の街シルクホロウ
シルキーグローブ商会「銀樹館」にて
山岳の村カソから、オルティゼルの首都であるサカラを目指して、俺たちは今、北へと進む旅を続けている。
本来なら、この養蚕で有名なシルクホロウにももっと早く着く予定だったが、道を一本間違えた結果、数百匹のゴブリンと殺し合う羽目になってしまった。
ただ、ミーシャさんからリアナの特殊な目を隠す薬を貰えたので、決して無駄な寄り道ではなかっただろう。
「兄さん、あの煙は何でしょうか?」
「多分だけど、煙じゃなくて煮繭の蒸気じゃない? なんでもこの街は養蚕が主要産業らしいし」
「あー、シルクの。だから変なにおいがしたんですね。端的に言えば、なまぐさです」
「……それ、街中では絶対に言わないでね」
「はあ、わかりました」
そうして今、新たな街の宿で、兄妹二人で一服していた。
宿の二階、夕陽に沈む街並みを眺めながら、肩を寄せ合って座る。妹の好きな紅茶はなかったが、宿のサービスでもらった蜂蜜入りミルクが温かくて心地よい。はあ、すっごい落ち着く……。
「この街、結構大きいから明日は買い出しに行こうか。お兄ちゃん、飴ちゃんも買っちゃうよ?」
この規模の街であれば、リアナの口に合う飴も扱っているだろう。
「おお、兄さんもたまには良いことを言ってくれますね。あと、本も買いましょう本も! そろそろリリアン・グレイの新作が出るとか出ないとか! 兄さんもリリアン好きでしたよね!」
『リリアン・グレイ』はリアナが贔屓にしている作家のひとりだ。彼女の作品は、心理的な緊張感と不安感を巧みに描写しており、読者を引き込む魅力がある。ジャンルとしてはスリラーに分類される。
「リリアンはアルメルの人でしょ? 地元のノインベルトなら置いてあるだろうけど、さすがにこの辺りじゃ販売してないんじゃない? だって、うちの国と戦争が始まるかもって話だし。流通も滞ってると思うけど」
行く先々の町や村で、戦争の話を聞かない日はなかった。俺たちは当然アルメル人だが、今後を考えると隠したほうが良いかもしれない。
「その辺はどうなんでしょうか。でもダメ元で寄ってもいいですよね? 私、本屋ってまだ行ったことありませんし」
「うーん……」
本当なら無駄遣いを理由にやめるべきだが、生まれて初めて行く本屋で何も買わないというのも悲しすぎるよな。
「よし、いいよ。それでもしあったら買っちゃおうか!」
「やたー! 兄さんサイコー!」
自分でも甘すぎると思うが、本の一冊ぐらいならいいだろう。妹の喜ぶ顔(無表情)を見るためなら、財布の紐なんて簡単に緩くなってしまう。
ここ数日は宿に泊まり、食事も三食きっちり食べているので、少々懐事情も怪しくなってきたが、まあいいか。いざとなれば働けばいい。単純作業や肉体労働に限れば、俺は大抵器用にこなせる自信がある。ただ俺たちの現状を顧みると、仕事はある程度選ばないといけないのが悩みどころだ。
「リリアンは前作も良かったですよね! 主人公の双子の妹だと思っていた存在が、実は自分の人格の一人だったという展開には度肝を抜かれました。家族との会話もよく読めば、主人公一人だけにしか話してませんでしたし、他の伏線も巧みで、二回目読んだ時の面白さも――」
リアナの悪い癖が出てしまった。本の話になると本当に止まらない。しかし『自分の人格の一人』ねえ。
「あ、そうだそうだ。リアに訊きたいことがあったんだ。……最近ご無沙汰だけど、あの素直モードのリアちゃんって何なの?」
「へ? 素直モード? ……兄さんは突然なにを言ってるんです? というか、私の話ちゃんと聞いてました?」
そうだった。素直モードと言っても理解してもらえるわけがない。リアナの話については、後半から全く聞いてなかった。
「ほら、俺以外の前だと別人のように振舞ってたじゃない?」
「あー、そのことですか。……とりあえず、普段の私が素直じゃないと言っているのと同義なので殴ります」
「痛い」
今は機嫌がいいので、脇腹を手刀で小突かれただけだ。
「……あれはもう使う気ないので、今さら説明するのもだるいんですけど」
「え? そうなの!? あの可愛いリアちゃんにはもう会えないの!?」
本の話はとんでもなく饒舌なのだが、魔法のことになると口が固くなってしまう。実は、あれが魔法なのかどうなのかもよくわかってない。
「普段の私が可愛くないと言っているのと同義なので殴ります」
「痛い!」
再び脇腹を手刀で突かれた。心なしかさっきよりも力が入っていた。
「……いや、別ベクトルの可愛さというか、俺も今のリアの方が一緒にいて落ち着くよ。妹といるなあって実感するし」
「はい。なのでもう使いません。同じ私ではあるんですが、あれはちょっと幼すぎたと思いますし」
「???? どういうことなの?」
同じ私? リアナの言っている言葉の意味が理解できない。俺の察しが悪いだけか?
「はあ、頭の残念な兄さんですね。そんなに気になるなら、あの私がどういうものなのかちゃんと説明してあげましょう」
「やっほう。やったぜ、リアちゃん」
俺がよっぽど間抜けな顔をしていたのだろう。もう一度溜息を吐くと仕方がなしという様子で、話し始めた。
「まず、人格のコピーを作りました」
「待って。リアちゃん待って」
「……何か?」
「お兄ちゃん、さっそく頭がおかしくなりそうなんだけど」
「……そんなに難しいこと言いましたか? 自分の人格を二つに複製するだけですよ?」
「言葉の意味はわかる。理解もできる。だけど、重たすぎて飲み込めそうもない」
できて当然みたいな態度でリアナは言うが、そんなことできるはずもない。精神干渉が専門の魔法使いでも、人格のコピーなんて不可能だろう。そもそも、できるできない以前に倫理的にどうなんだ、それ。
「まあ、理解しているならいいです。話を続けますよ?」
「……はい。お手柔らかにお願いします」
率直に言うと、このまま話を聞いてもいいのか怪しくなってきた。
「コピー元を人格A。コピーした人格をBとします。Aは今の私のことですね。Bは兄さん曰く素直モードというやつです。ここまでは大丈夫ですか?」
「はい。リアちゃん先生、大丈夫です」
とてもわかりやすい。姉さんに似て人に教えるのが得意なのかもしれない。
「コピーしただけだと、AもBも同じ人格です。当然そのまま運用しても意味がありません。そのため、Bをカスタマイズする必要があります。対人向けに改造するわけです。それが素直モードなる人格Bです」
「カスタマイズ……? 具体的には何を?」
なんだか嫌な予感がしてきたぞ……! リアナはとんでもないことを何でもないように言いすぎだ。
「人格Bから対人関係の支障になりそうな過去の記憶をデリートします」
「待って。リアちゃん待って」
「……何か?」
待って無理しんどい。さっきの焼き直しになってしまったが、止めずにはいられなかった。
「そんなことしたら、どう考えてもやばいでしょ!?」
「ええ。やりすぎて少しばかり人格が幼くなってしまいましたね。調整には苦労しましたよ」
過去の記憶を削れば、その分だけ幼くなるのは当然だろう。素直モードのリアナの顔つきが幼く感じたのはそれが原因か。
それに俺とリアナの感じた懸念が食い違っている。彼女は俺の言葉を倫理的ではなく、技術的にしか捉えていない。
「……人格Bのリアナは、自分の過去が消されても文句は言わないのか?」
俺にも忘れてたくなるような過去はある。それでも本気で消してしまいたいとは思わない。トラウマは乗り越えられなかったとしても、何とか折り合いをつけて、向き合っていくものだ。
「だから、AもBも私なんですってば。自分のやることに文句なんて言うはずないでしょう?」
「意味がわからない。リリアンの小説のような二重人格というわけじゃないの?」
「……私にとって人格というのは、記憶の集積装置でしかありません。そこに魂が乗って初めて機能します。つまり、状況によって人格Aと人格Bを乗り換えていただけです」
「衝撃的な発言が多すぎて、正直困惑しているけど、とんでもないことをやっているのはわかった」
記憶の集積装置……。リアナからしたら人格は、単なる道具でしかないのか。人が人であるために必要な要素を、まるで粘土細工のようにこねくり回している。それは、とても恐ろしいことのように感じてしまう。
だが、俺の理解が足りなくて、妹を叱っていいのかもわからない。
「AもBも連続した私の同一線上にあります。なので、二重人格とは全くの別物です。魂の分割ができれば、そう定義してもいいかもしれませんが、今の私にそこまではできません」
魂の分割……。更におかしなことを言い出したが、できないようなので突っ込むのは止めておこう。話が進まなくなる。
「そうすると、人格Bのリアナが、俺のことを『お兄ちゃん』と呼んでいるのも、その記憶消去が原因?」
「そうですね。あの記憶は私の中でも上位に食い込むトラウマです。今思い出しても死にたくなります」
リアナの世話をするようになってから、ある日を境に『お兄ちゃん』から『兄さん』と呼ぶようになった。当時の俺は特に気にしていなかったが、何か理由があったらしい。少し考えてみたが、身に覚えはなかった。
「……俺が知ってること?」
「知らないことですね。……何があったか教えましょうか?」
妹の心的トラウマなんて本当は聞くべきじゃないんだろうが、俺にも関係する話だし、知っておきたかった。
「うん。リアが嫌じゃなかったら、教えて欲しい」
「良いですよ。あなたにも知ってもらいたいですし。……コホン。では実演を交えて再現しましょう」
「実演……?」
そう言うとリアナは席を立つと、つかつかと部屋から出てドアを閉めた。はて、何がしたいのやら。
◇
「久しぶりだなリアナ! 美人で格好いい最強のお姉様が会いに来てやったぞ!」
「!!」
勢いよくドアが開かれたと思ったら、そこに姉さんがいた。
いや、正確には姉さんの真似をしたリアナがいた。なにこれすごい。滅茶苦茶似ている。声も表情も雰囲気もそっくりだから、少しだけ失禁しそうになってしまった。
「あっ、お姉様! お久しぶりです! リアナ、とってもお会いしたかったです!」
その場でクルっと反転したと思うと、一人二役の一人芝居を始めた。
嬉しそうな声に反して、完全な無表情。こっちは自分で自分を演じているのか。昔はたまーに、自分のことをリアナと呼んでたな。今じゃちっとも言わなくなったけど。
これは、過去にリアナの部屋であった出来事を芝居形式で再現しているのだろう。妹の記憶力は確かにとんでもないが、まさかここまでだなんて。
「はは、愛い愛い。お前は実に可愛いやつだ。媚びて纏わりつくだけの無能な蝿どもとは違うな」
「?? 私はお姉様をいつだってお慕いしていますよ?」
当時の情景が目に浮かぶようだった。しかし、どこで身に着けたんだこの演技力。お兄ちゃん、妹の意外な才能に驚きを隠せないよ。
「まあいい。今日は私が紅茶を淹れてやる。出先で面白い茶葉を手に入れたんだ。お前も気に入るだろう」
「わあ! お姉様に淹れてもらうなんて留学以来ですね! 楽しみです!」
姉さんとリアナの姉妹仲が良好だ。それでいて留学後だというのに、そこまで苛ついていない。そうなると帰国してから何年か経過している。俺がリアナの面倒を見るようになった少し後だろうか。
というか、昔の自分の物真似をするのってどういう気分なんだ。心なしか声も高めにしているし。
「ふむ。顔色も少しは良くなったみたいだな。あれから眠れるようになったのか?」
「はい。お兄ちゃんがとっても慰めてくれました。エイラのことは夢で見ると飛び起きてしまいますけど……」
ああ、完全に三年前の話だ。あの時のリアナは今よりずっと素直だったなー。誰があんな罵倒と暴力の少女してしまったのか。……俺かー。
エイラの事件があって、傷心だった妹を慰めたという自負は俺にもある。こんな俺でも人並みにお兄ちゃんをやれるんだって。
「そうか。息災で何よりだ。……ところで『お兄ちゃん』とは誰だ? まさかとは思うが、アンリのことか?」
「はい。アンリお兄ちゃんのことですよ? それがどうかしましたか?」
「ぷ、ふふふふふふ。あはははははははははははははははは!!」
妹が怪演すぎる。姉の笑い方が実に堂に入っていた。お兄ちゃん、トラウマを刺激されて失禁寸前だ。
「……お姉様? ど、どうかなされたんですか?」
「いや、あの愚弟が『お兄ちゃん』ね。ぷ、くくくくくく。実に馬鹿みたいだな!」
「え? え? リアナは何かお姉様の気の障るようなことを言ってしまいましたか……?」
「いや、なんだ。どうせあの馬鹿が『お兄様』と呼ばれることに難色を示したんだろ?」
「は、はい。その通りですが……」
「だからと言って、それで『お兄ちゃん』か。あー、本当に馬鹿みたいだ! ハハハハハハハハ!」
「…………馬鹿みたい、ですか……。そう……ですか……」
あの時、俺を『お兄ちゃん』と呼ぶのを決めたのは他でもないリアナだった。だけど姉さんは、俺がそう呼ぶように強要したと思ったんだろう。だからと言って、あんなふうに笑っていいものじゃないが。
「……ご観劇ありがとうございます。ぺこり」
どうやら、リアナの一人劇場が終わったようだ。お辞儀の姿勢を二秒ほどキープして、いつもの表情を俺に向ける。
「こうして、お姉様から散々笑われてしまい、死ぬほど恥ずかしくなった私は『お兄ちゃん』と『お兄様』の折衷案として『兄さん』と呼ぶようになりましたとさ。ちゃんちゃん」
取り敢えず、他の宿泊客の迷惑にならない程度に拍手をしておく。
「いや、マジですごかった。内容もだけど、リアナに演技の才能があったんだな」
「演技というか、当時の状況再現ですけどね。私にアドリブ力はないですし。それでもあなたに褒められるのはやぶさかじゃないです。てれりてれり」
急に『兄さん』と呼ぶようになったから不思議だったけど、その背景にこんな過去があったなんて。トラウマになってもおかしくないエピソードだった。
「確かに『お兄ちゃん』と呼んでくれたのは出会った頃だけだったしな。何にしても姉さんが酷い。とにかく酷い」
「人格Bの私は、今の記憶をぽっかりカットしています。だから『お兄ちゃん』と呼んでいます」
リアナは何も悪くないのに、ああやって馬鹿にしたように笑われたら、そりゃトラウマにだってなるだろう。
だけど、人間はどんな理不尽な仕打ちがあったとしても、それを積み重ねて大人になっていく。悪夢のような経験だって、自己のアイデンティティを確立するのに必要不可欠なものだ。
素直モードのリアナは、そういった過去を知らずに育った「もしも」の存在ということか。性格が全く違うのも頷けてしまう。
「なるほどね……」
こいつに掛けるべき言葉が見つかった気がする。
「事情はわかったよ。でもリアナに言っておかなきゃならないことがある」
「なんですか? も、もしかして怒ってます……?」
「そんなことはない」
「だ、だったら、どうしてそんな顔するんですか……?」
別に怒ってはいない。でも俺の真剣さは伝わったようだ。
「本気だからだ。だから、これだけは絶対に言わせてもらう」
「え? あの……私、何か悪いことしちゃいましたか……?」
リアナがたじろいたように後ずさりをする。怯えさせるつもりなんて毛頭ないのに。
「最後に、最後にもう一度だけ……」
「もう一度だけ?」
「素直モードのリアちゃんに会いたい!」
もう会えないなんて寂しいじゃないか! 彼女は俺をミーシャさんから守るために、両手を広げて庇ってくれたんだぞ!
「は……はあ!? 私の話聞いてました!? もう使わない言いましたよね!」
「でも会いたいんだ!」
「だーかーら! あの私も今の私も同一存在なんですって!」
「これはもう、そういう理屈じゃないんだ!! わかってくれ!!」
そう、理屈じゃない。もう一度だけあの妹に会いたいだけだ。それだけ素直モードのリアナは可愛かった。
特に彼女は俺によく抱き着いてくれた。妹おっぱいの感触はとても素晴らしかった!
「……兄さんの目つきが尋常じゃないです。こわ。……もー、分かりましたよ! これっきりですからね!」
「やたー! リアちゃんサイコー!」
「あなたは最高じゃなくて、サイコですよ……」
少しして、ミーシャさんの薬の効果で青くなった目が朱色に変化する。つまり、リアナは今、魔法を使っているということだ。
それに伴い、顔つきも幼くなったが、その顔は何か困っているようにも見えた。
「…………」
「リアナ……?」
「……ん。お兄ちゃん、ばか」
わお。素直モードのリアナにいきなり馬鹿呼ばわりされてしまった。
「ん」
「!?」
直後、座っている俺の頭を優しく抱きしめる。
「でも好き。大好き。ずっと……ずっといっしょ」
「…………」
それだけ言って、俺の頭を抱き寄せると、そっと後頭部を撫で始める。数分間……いや、それ以下の時間だったかもしれない。それでも、その短い時間には目一杯の愛情が込められていた。
「さてと……兄さんは満足しましたか?」
「うん……明日死んだとしても文句言わない」
いつの間にか、普段のリアナに戻っていた。目の色も俺と同じ青色になっている。
表情はいつも通りだったが、頬だけが真っ赤に染まっていた。
「お願いですから、今すぐ死んでください」