逃亡生活 四日目 夕刻
オルティゼル王国国境 パウリナの森にて
森に入ってから、一時間が経過しようとしていた。
時刻は五時を過ぎようとしており、既に夕刻と呼べる時間帯に差し掛かっている。
森の木々が陽光を遮る影となって、日没前でもかなり暗い。
季節は春に入ったとはいえ、あと少しで日没となり捜索活動が困難になる。
……本来なら、二次遭難を避けるため町に帰るべきだろう。
それでも俺は、多少暗くても何とかなるので、もう少しだけ粘ってみる。
「…………」
すぐ後ろを歩く妹の様子を確認するために振り返ってみたが、先程と同様に平然と歩いていた。
息を切らさないどころか、汗の一つもかいていない。
物心ついてから幽閉されて育ったリアナは、当然だが運動というもの縁がない。
なのに、どうしてこんなに元気でいられるのかと、不思議に思ってしまう。
もしかしたら、俺の目を盗んで体力作りのスクワットでも部屋でしてたんだろうか?
……いやいや、このものぐさな妹がそんなことをするはずない。
やるにしてもこの妹なら『私、頑張ってるでしょう?』アピールに俺の目の前でやるはず。
ただ、今は大丈夫そうに見えても怪我をしてからでは遅い。本人に現在の体調を確認しておこう。
「リアちゃん、少し休もうか?」
「いーえ、まだまだ歩けますよ。……あ、それもしかして、さり気なく私のこと心配してくれてます? そういうの妹ポイント高いですよ」
「……なんのポイントだよ。それ、貯まるとどうなるの? というか、そんなポイント制度あるの知って今ちょっと怖いんだけど」
こうしておどけてみせるし、本当に疲れてなさそうだった。
……いや、それよりもその謎のポイントはなんなんだ?
これまでの俺の行動如何によって、上がったり下がったりしてたのか?
「貯まると妹が喜びます。そして一定のポイントを超えると兄さんをちょっとだけ尊敬します」
指を数センチ開いて見せる。本当にちょっとだけだった。
「それだけ?」
「それだけです。……何か不満でも? 妹ポイント下がりますよ?」
反射的に「それがどうしたバーカ」と言いかけたが、それでその妹ポイントなるものが下がるのも、なんだか釈然としない。
仕方がないので、本日二個目の飴を下賜してやった。
それだけで「んふふー。これはポイント大幅増です」と上機嫌。この妹、大概ちょろい。
◇
そのまま休まずにベリンダちゃんたちの足跡を追って進むと、不意に森が切れた。
その場所は不思議な光景が広がっていた。森をポッカリと切り取ったような空間になっており、中心には楕円状の池。
水面は静かに揺れており、落陽の光を吸収してキラキラと輝いている。
「おー。これはおっきい」
そして、池の淵に老成した大木があった。他には一本たりとも生えていない。
思わず見上げてしまうほどの巨木だ。こんな大きな木を見たのは、人生で数えるぐらいしかない。
特徴的な灰白色の樹皮からして、そこらに生えているブナの一種だろう。
他の木々に比べると、幹が太さだけでは言い表せない、奇妙な存在感があった。
ブナの木は一説によれば、森の女王と呼ばれているらしい。理由については知らない。……見た目?
ともあれ、ベリンダちゃんたちの足跡もここまで続いている。
目的地はこの池なのだと推察できたが、捜している二人の姿はどこにも見当たらなかった。
「わー、なんですかなんですかー! こんなのお伽噺の世界みたいじゃないですかー!」
産まれてから一度も見たことのない光景に、妹のテンションが爆上がりだった。
……うんまあ、生粋の引きこもりだからね。
ブナの巨木や夕日による演出効果もあって、多少は幻想的な姿を見せている池に目を奪われるのもわからなくもない。
「あっ、そうだ! 泉と言えばアレでしょう! 斧投げますか、斧! 兄さんの物騒な鉈でもいいすよ!」
「これは鉈ではなくて、マチェット。あと投げても女神様は出てこないからね。池の底のマチェットを拾うのにお兄ちゃんがびしょ濡れになるだけだから。その後は気まずくなるだけだから。お互いに」
そんな俺の話を聞いているのかどうかも怪しい妹が、突然、池に向かって走り出す。
「あっ! おい! 俺の前には出るなって約束しただろ!」
「ひゃあ、冷たい! 冷たいですよ! 兄さん兄さん! この泉の水は飲めますかね!? ねえねえ、イッキいっちゃいますか!?」
俺が止めるより先に水面に右手を突っ込んで、池の水を掻き回すように遊んでいる。
うーん、これはどうにも先が思いやられるな。……しかしイッキって何だ。池の水を一気に飲み干せってことか。
「……残念な妹よ。残念なことにこれは泉じゃなくて、池だ」
泉は湧き水によって生じたものであり、方や池は窪地に雨などの水が溜まったもの。
この眼前にあるでっかい水たまりからは水が沸いているようには見えず、分類的には池に相当する。
リアナが想像する、清らかで美しい泉とは遠くかけ離れたものだ。
「リアちゃんも池の女神なんて聞いたことないよね。仮にいたとしても名前からしてなんかばっちい感じするよね」
世間知らずな妹に、物のついでにと追い打ちを掛けてやる。
引きこもりだからといって、無知を許容しないのもまた兄心。
「それと飲めるか飲めないかで言ったら飲めないよ。池や湖みたいな滞留した水は基本的に汚いからね。一見して綺麗な水に見えるけど、実際は目に見えない小さな生物がうようよしてるし。だから濡れたおててもちゃんとフキフキしましょうね~」
懐から愛用のハンカチを取り出して、華奢な指から水滴を一滴も残さずに拭き取ってやる。リアナはされるがままだ。
「うー…………」
妹のテンションが見るからに下がってしまった。
だけどこの温室育ちの箱入り娘には、無闇矢鱈に何でも触るのをやめさせないといけない。
社会的な経験値がゼロに等しいので、こういうところは本当に小さな子供と変わらない。
いまの一連の行動も心臓に大変よろしくなかった。
俺もおどけて見せてはいたが、心臓がばくばくと早鐘を打っている。
「ふう」
……でも俺には、妹をキツく叱るという行為そのものができないんだよなあ。
世話をするようになってから、ひたすらに甘やかす一方だったので、俺には所謂、親代わりは務まらなかった。
こうして知り合って三年、リアナの存在はとにかく可愛くて可愛くて仕方がなかったので、多少の粗相や狼藉も見逃してきた。
まあそんなわけで、リアナは世間知らずである以前に、かなりの我儘ガールに育ってしまった。
それについては完全に俺の責任だ。両親と、かつて従者だったエイラにはとても顔向けができない。
そういえば、父は今頃何をしているのだろうか。
勝手な話だけど、何も言わずに出ていった俺たちを多少なりとも心配してくれたら嬉しい。本当に勝手な話だけど。
「……はーあ。妹の情緒を解せない兄ですね。妹ポイント大幅下落で現在マイナスです。なので今すぐ死んでくださ……あれ? んー……んんー?」
「言いたい放題言っといて、なんて理不尽な。……んで、どうかしたのか?」
リアナが何かを探すように、キョロキョロと辺りを見渡し始める。
俺も倣うように視力を強化して周囲の警戒をしたが、特に目につくものは何もない。
元から強化してある聴力にも、不自然な音は聞こえなかった。
……俺には何の異常も感知できなかったが、妹は大きく息を吸ったり水面を覗いたりと、行動に一貫性がなく、妙に忙しない。
「……んんん? この泉、もとい池、なにかおかしくないですか? いえ、おかしいのは、こっちの大きな木なのかな……」
「……なにかって、なにがだよ」
腑に落ちない態度で、なんともはっきりしないこと言い出す。
リアナの奇行はいつものことなのだが、今日は殊更におかしい。
「なにかはなにかですよ。……もわーんというか、ずうーんというか、ぞわぞわーというか、ほらほら、わかりません?」
両手を広げぶんぶん振ったり、寒さから耐えるように自らの体を抱きしめたりと、身振り手振りも交えて俺に伝えようとしている。
「…………は?」
うん……駄目だ、全然わからん。この妹は急に何を言い出すんだ。
「お兄ちゃんには、妹ちゃんの言ってることが抽象的すぎて理解に苦しみます。もっと具体的にお願いします」
本の虫で語彙は豊富なはずなのに、なんでそんな『もわーん』や『ずうーん』と言ったオノマトペ的な言い回しになるんだろうか。
「……はぁ、わからないならもういいです。馬鹿で鈍感な兄さんに妹は心底がっかり。がっかりです」
「諦めるの早いよ!? ちゃんと兄妹の交流しようよ!? ここもっと粘って然るべき場面だと思うんだ!」
「愚鈍な兄さんと違って、私だけが違いのわかる女ってことにしますー。でもでもそういうのもなんだかミステリアスでちょっと格好いいかも。ふふふ」
ミステリアスな女というより、頭の残念な子供にしか見えない。
リアナの話は多少なりとも気になったが、今はそんなことにかまけている場合ではない。
ベリンダちゃん捜索の続きをしなければ。
「んふー。んふふー」
ミステリアスな自分を演じているのか、妹は陶然とした様子でくねくねと腰を揺らしている。
そんな残念な妹の襟首を掴んで、俺は足跡を追って池の反対側まで進んでいった。
「あれ?」
これまでは異常のなかったベリンダちゃん親子の足跡が急に乱れ始めた。
森のなかでも、歩き慣れた様子で等間隔をキープしていた歩幅が深く広いものになっている。
「…………つまり、ここで走り出した」
こんな足場の悪い森の中で走り出すなんて只事じゃない。
「……痕跡の様子が急におかしくなった。なにかあったかもしれない」
「え~? なにかってなんですかね~? もっと具体的に言ってくれないと、私にはわかりませんけど~?」
さっきの意趣返しに、俺の言葉尻を捕らえたリアナが調子に乗っているが、今はそれどころじゃない。相手をせずに乱れた足跡を追う。
「ここから森の奥の方へ走っていった。……これはマズい事態かもしれない」
走るにしても、どうせなら町の方に向かうべきではないのか。それとも、それすら許されない状況だったのか。
池から離れて、森の更に奥へ続く足跡を追っていくと、これまで二つだった足跡が一つになった。
唯一残されたのは、大人のものだけ。
……ベリンダちゃんの姿が突然消えてしまったように見えるがそうじゃない。
「ここでお父さんがベリンダちゃんを担いだんだ。何かから逃げるために」
そしてその何かとは、おそらく狼だ。
魔法で鼻を利かせると森の匂いに混じり、微かだが狼特有の獣臭がする。
狼の尿は、動物の忌避剤として使われているほど強烈なので、一度嗅げばすぐに判断ができる。
だが、子供一人を担いだ状況で、狼から逃げられるはずがない。
どんなに優れた健脚を持っていたとしても、襲われるのは時間の問題だった。
「狼から追われて、どれだけ時間が経っている……?」
ベリンダちゃんたちがここに来たのが昼前だと考えても、少なくとも六時間は経過している。これはもう……。
「リアナ、急ぐぞ」
「え? え? どうしたんですか!? ひゃあ!」
問答無用でリアナを両腕で抱きかかえる。お姫様だっこというやつだ。
両腕が完全に塞がってしまったが、今は人命が最優先。急いで二人の後を追わねばならない。
リアナを抱きかかえたまま、全力で走る。
途中、木の枝に引っ掛かった衣服の一部を発見する。
それに捨てられた釣り竿や、川魚の入った麻袋――間違いなく探している二人の荷物だ。
そして、足跡を辿っていくにつれて、獣臭も強くなっていく。
一頭だけじゃない。何頭かいる。
それに、血の匂い。これは動物のものではなく、嗅ぎなれた人間の血の匂いだ。
「……くそっ!」
そんな匂いに、どこか曖昧だった危機感がはっきりと形を作り、現実のものとなった。