いずれラスボスになる妹と、その兄のはなし   作:悠里@

8 / 52
08.焚火

逃亡生活 四日目夜

 

オルティゼル王国国境 パウリナの森にて

 

 

 

夜の帳が降りた森は明かり一つもなく、周囲は吸い込まれそうな闇の中にあった。

こうなれば、薪割り小屋からの移動は不可能だろう。

ノーマンさんの咬傷の治癒はリアナの手によって事なきを得たが、彼は未だ目を覚まさないまま。

意識のない彼を下手に動かせば、二次災害を招く恐れがある。

だから今は身体を冷やさないようにして、朝まで耐えるのが正解だ。

建物としての体裁を辛うじて保った小屋ではあるが、最低限、寝る場所としての機能はある。

俺たち兄妹は、宿を借りるまで屋根もない場所で野営をして過ごした。

今夜は、雨と風を防げる分だけ多少はマシと言えた。

 

あ……そういえば、レナルドさんを森の入口に待機してもらっていたが、彼は大丈夫だろうか。

ここまでの事態を想定していなかったので、彼には悪いことをしてしまった。

それは、金鹿亭の女将さんにしても同じ。すぐにでも家族の無事を伝えたいが、明日にならなければどうしようもならない。

あの人は、未だに帰らない家族を想って眠れぬ夜を過ごすだろう。

 

 

焚き火に薪をくべる。

木片の水分が弾ける小気味よい音、樹脂が焼ける香ばしい匂い。ゆらゆらと揺れる炎を見ていると心が落ち着き、今日の疲れが癒やされていく。

これで温かい飲み物でもあれば格別だったが、生憎、水しか持ってきていない。

時刻はまだ八時を過ぎたばかりだが、焚き火の心地の良い温かさで気を抜くと眠ってしまいそうだ。

 

「すう……」

 

ベリンダちゃんは、ずっと気を張っていたのだろう。

父親であるノーマンさんの傍らで、ウトウトと半睡状態だった。

 

「…………」

 

妹のリアナは、胡座をかいた俺の膝を枕がわりにして、いつもの無表情で焚き火を眺めている。

彼女と姉だけが持つ稀有な赤い目が、炎の光を吸収して神秘的な煌めきを灯す。

……そんな妹の顔にちょっとだけ見とれてしまった。迂闊だ。

 

「……今日はホントに疲れました。ここ何日かで一番しんどかったです」

 

極度の人見知りであるリアナが、ベリンダちゃんたちと合流してから初めてまともに口を開いた。

今であれば、俺にしか聞かれないと判断したのだろう。

 

「うん、お疲れ様。今日のリアちゃんはよく頑張ったよ」

 

膝の上の頭を撫でる。

少しくすぐったそうにするが、妹はこうやって撫でられるのが知り合った当初から好きだった。

 

「あの宿屋の人に魔法が使えなかった時……私は、呼吸の仕方を忘れてしまったような衝撃がありました。こんなこと生まれて初めてです」

 

リアナは目の前に手をかざすと、なにをするわけでもなく癒しの力を発動させる。彼女の手に纏った淡い光は、問題なく機能していた。

 

「でもノーマンさんの怪我はちゃんと治せたんだ。だったら何も問題はないよ」

「何を言っているんですか。問題大アリです。兄さんが言ってるのは、ただの結果論です。あの時、魔法を使えたのは、兄さんが私を支えてくれたおかげでした。ええまあ、非常に癪ですが」

「リアちゃん、『非常に癪』の下りいる? 言う必要あった? お兄ちゃん、ちょっと傷付いたんだけど」

 

リアナは、俺の抗議の声を無視して話を続ける。非常に癪だ。

 

「いつかまた、同じ状況に陥ってしまったらと思うと、怖くて怖くて仕方がありません。……きっと私は、また呼吸の仕方を忘れてしまうでしょう」

「大丈夫。リアナならできるよ。仮にもしそうなったとしても、俺が何度だって支えてあげる」

 

『リア』という愛称ではなく、『リアナ』という呼び慣れた彼女の名前で呼ぶ。この方が俺たち二人の間でしっくりくる。

 

「そうでしょうか……。私にはよくわかりません。……私は、私の知らない人が死んだとしても何とも思いません。ですが、それが誰であろうと私の責任で人が死んでしまうのだけは、絶対に耐えられないのです」

 

ああ……それは誰しもが、口に出さないだけで薄っすらと感じていること。

子供の頃、誰もが漠然と感じていた万能感は、大人に近づいていくにつれて無力感に侵されていく。

一人の手でできることは、どうしても限られてしまう。

すくおうとしても、手のひらから零れ落ちてしまうものは絶対にある。

それは、あの万能の姉だって同じだろう。

だから人は自分が何をできるかをしっかりと見極めて、折り合いをつけて生きていくしかない。

 

でもこれをリアナに伝えるのは正解じゃない気がする。

 

「…………私は、私の責任が怖いんです。トラウマがあります。常に罪悪感にかられています。今回と状況は違いますが、どうしてもエイラのことを思い出してしまいます」

 

少女の小さな肩が震えている。

リアナの言う『エイラのこと』。それは事故だったと聞いている。俺はその場にいなかったので、伝聞でしか知識はない。

 

「……でもリアナがノーマンさんの命を助けたのは紛れもない事実だ。人一人の命を救ったんだ。だから今日一番の功労者は間違いなくリアナだ。ベリンダちゃんもノーマンさんも、他の誰だって認めてくれるよ。俺は、俺の妹を誇りに思う」

「……そうですか。兄さんはそう言ってくれるんですね」

 

これもまた論点のすり替えであり、リアナが求めた答えではないだろう。

それでも俺は、今の本心を包み隠さず彼女に伝えた。

今日、俺の妹はとても格好良かった。俺という壊れた魔法使いには絶対にできないことをやってのけた。

誰かのために行動して、人の命を救う尊い行為を成し遂げた。

それは思い返すだけで、胸に染みる歓喜がこみ上げてくる。この感情は、何年経とうが形を変化させない財産だった。

 

……なんだか、この妹を無性に甘やかしたくなってきた。

もはやこれは肉親としての……いや、お兄ちゃんとしての本能と言えよう。

 

「ほーらほらー!」

 

今度は、頭と一緒に耳もわしゃわしゃと撫でてやる。

耳はリアナのウィークポイントなので、こうやって触ると大げさな反応をして面白いのだ。

 

「ひゃ、ん、んんっ! み、耳は反則! 反則ですよもー!」

 

「やめてやめてー」と体を捩らせて抵抗するが、瞳は恍惚によって細められた。ふはは、どーだ気持ちいいだろう。

 

ひとしきり間、そうやって撫でてやると、リアナはご満悦のようで「ふう」と熱のある息を吐き出した。

 

「でもまあ、そうですかね……。あなたの言うとおりに、私もちょっとは自分を誇ってもいいんでしょうか」

 

よしよし、少しは自分に自信が付いてくれたようだ。

ここはその自信を盤石のものにするために、もうひと押し、もう一度だけ、俺の本心をリアナに伝えてみよう。

 

「うん、誇っていい。だって世界トップクラスの引きこもりが人の命を救ったんだぜ。こんなに凄いことはないと思うぞ」

「………………兄さんは、そこの焚き火に頭を突っ込んで死んでください」

 

これまでの和やか兄妹ムードから急転して、リアナがじっとりとした侮蔑の視線を俺に向ける。

あれ? 何か言葉選びを間違えたのだろうか。予想だともっと喜んでくれると思ったのに、どうしてか俺が死ぬことになってしまった。そんなー。

 

うむむ。女心と妹心、なんとも難しい。

 

 

 

 

 

 

俺たち兄妹の間に気まずい空気が流れた後、ずっと眠っていたノーマンさんが目を覚ました。

曰く、怪我の具合は良好で、体調も貧血程度。それ以外は何の問題もないとのこと。

つまり、妹が完璧な仕事をしてくれたのだ。

 

膝の上に頭を乗せたリアナにグッと親指を立てると、彼女もまた同じように親指を立ててくれた。

焚き火による光の加減かもしれないが、朱色に染まった妹の顔は、照れくさそうであり、それでいてどこか誇らしげにも見えた。

 

「……娘と私を助けてくれてありがとう。君は命の恩人だ。感謝をいくらしても尽きないよ」

「礼なら俺なんかじゃなくて、この妹に言ってやってください。今日リアがここに居なかったらと思うと、ぞっとします」

 

当初の予定では、リアナを宿に置いていくつもりだったが、今になればその判断が誤りだったと内省する。

俺は、妹の安全ばかりに気を取られて、ここまでの怪我人がいる事態をまったく想定に入れてなかった。

 

「君が私を治療してくれたんだってね。君が居なければ私は今頃、死んでいたかもしれない。本当にありがとう」

「…………」

 

ノーマンさんが優し気な口調で話し掛けるも、絶賛膝枕中の妹は俺の腹のほうにゴロリと寝返りを打つ。

 

「……こ、こいつは」

「は……ははは。嫌われちゃったのかな」

「妹は、コミュ障……いや、ちょっと人見知りなんで! どうか許してやってください!」

 

あまりに失礼すぎるリアナの態度に、家族として反射的に頭を下げる。

……しかし俺は、妹が人見知りだという説明をこの数日間で何回したのか。言う方も言われる方も、少し気まずいんだぞ。

 

「ごめんごめん。ちょっとからかいが過ぎたみたいだ。……妹さんのことは私も妻と子供から聞いているよ。少し変わっているけど、お人形みたいに可愛い娘だってね」

 

ベリンダちゃんと女将さんは、家族の団欒の中でも妹を話題に出してくれたらしい。

だとしたら、お世辞抜きで褒めてくれたことになるじゃないか! ううう、なんていい人たちなんだ……!

 

「だからまあ、そのお人形さんの顔が隠れて見えないのは、少し残念ではあるかな」

 

むっ、そう言われたのなら仕方があるまい。

この可愛い妹の顔を見ることができないなんて、長い人生における大きな損失だ。

だったらノーマンさんには、妹の尊顔を存分に堪能させてあげなければならない。

これは可愛い妹を持つ、お兄ちゃんとしての絶対の責務だ!

 

「す、少しお待ちを!」

 

俺の腹に顔を向けて、寝たふりをしているリアナを両脇から抱きかかえると、俺の膝の上へ強制的に座らせる。

 

「わっ、え? に、兄さん、急になにを……?」

 

決して意図したわけではないが、リアナの矮躯もあって、人形を抱きかかえるような姿になってしまった。

彼女の着ている服も黒を基調にしたフリル付き長袖ワンピースという、お人形さんみたいな格好なので、言い得て妙な話だ。

 

「~~~~!!」

 

俺の意図に気づいたリアナが、じたばたと子供のように暴れだす。

焚き火の明かりによるものとは明らかに違う理由で、妹の顔が真っ赤に染まっていた。

そんな荒ぶるリアナの後頭部が、俺の顔面に命中する。うぐ、鼻血出そう。

 

「……お、俺がこうやって押さえているうちに妹の顔を存分に見てやってください!!」

「ず、随分とわんぱくな妹さんだね……」

 

ノーマンさんは、何か見てはいけないものを見てしまった顔をしていた。

違う違う、そうじゃない。気持ちはわかるが、そうじゃないんだ。

俺は、この妹の可愛さについて存分に言及してもらいたいだけなんだ!

 

 

 

 

 

 

リアナは暴れ疲れてしまったのか、今度こそ俺の膝枕で寝息をたててしまった。

まあ、今日は何かと疲れただろうし、夜も更けてきたので仕方がないだろう。

……明日の朝、へそを曲げてなければいいんだけど。

ちなみにベリンダちゃんもまた、随分前に寝てしまった。どうやら子供たちはもうおねむの時間の模様。

 

そういうわけで今起きているのは、俺とノーマンさんの二人だけ。

彼はベリンダちゃんを小屋に移動させると、再び暖を取るために焚き火の前へと戻ってきた。

あ、そうだ。これは良いタイミングかもしれない。彼には訊きたいことが幾つかあったのだ。

 

「……あのう、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」

「ん? 何だい? 君たちは命の恩人だ。私にわかることだったら、何を聞いてくれても構わないよ」

 

ノーマンさんは突然の申し出に快諾してくれた。だったら、根掘り葉掘りとまでは言わないが、訊けることは訊いてしまおう。

そして、最初の質問はもう決まっていた。

 

「なんで、誰にも言わずに森のなかに入ったんですか?」

 

この場合の『誰にも』は、配偶者である宿の女将さんも含まれている。これは、最初に彼女から話を聞いた時からの疑問だった。

 

「ああ、それはね……。朝に娘と二人で魚釣りに行ったんだけど、娘が急に『森の泉に行きたい』と言い出してね」

「ベリンダちゃんが言い出したんですね」

 

ふむふむ、あのぐらいの年頃の子供なら、急な思い付きを言い出しても何ら不思議じゃない。

 

「普段はそんな我儘言う娘じゃないんだけど、どうしても今日じゃなきゃ駄目だと駄々をこねてしまってね。……それで泉に着いたのはいいんだけど、それから少しして狼に襲われたんだよ」

 

宿で働いた時の彼女はとてもしっかりとしていたので、駄々をこねる姿が想像できない。

いやまあ、十歳前後の子供だし、家族にしか見せない顔があってもおかしくはないか。

……いや、待てよ。考えてみたらうちの妹はその最たる例じゃないか!

俺の前では小生意気な暴君、よそ様の前では借りてきた猫よりも大人しい。

 

「まあ後は知っての通り、なんとかこの小屋まで何とか逃げきたというわけさ。……だから娘がなんで、あの泉に行きたかった理由については聞けずじまいかな」

 

ふむ。ベリンダちゃんが泉に行きたかった理由か。……ん? 泉?

 

「あれ? あの場所は泉だったんですか? 水が湧いてる様子がなかったので、てっきりただの池か沼かと」

「ああ、君も見たんだね。あの場所はかつて水が湧いてたんだけど、何年か前に源泉が涸れてしまったんだ。だから今は『元』泉というのが正しいかな」

「マジですか」

 

……リアナが起きてなくてよかった。

妹に『あれは泉じゃなくて池だ』とマウントを取ったのだ。これを知られたら、ことあるごとに言われ続けるハメになってしまう。

念のため、リアナの頬をつついてみたが「ううん」と変に艶めかしい寝息が返ってくるだけだった。よしよし、完全に寝ているな。セーフ。

 

「昔、あの泉は信仰の対象だったから、みんな足繁く通っていたけどね。最近はご覧の通り水が湧かなくなってしまって、その足も途絶えてしまったんだ。……それで人の気配がなくなったから、狼なんかが出るようになったのかもしれないね」

 

なるほどなるほど。狼が出たのは完全にイレギュラーだったのか。

確かに普段から狼が出るような場所に子供を連れていくはずもない。これで色々と合点がいった。

 

……さて、次の質問だ。でもこれは、そのまま質問すると大きなトラブルが生じる可能性があるので、少し婉曲的に訊いてみよう。

 

「……妹が魔法でノーマンさんの傷を治したんですけど、教義上の不都合はありませんでしたか?」

 

特別な力を求めずに、魔法には頼らない自然治療を旨とする宗教はいくつも存在する。

もっともそれは山岳地帯の密教に多く、この辺りではまず信者はいないと思われる。なので、この質問の本質は『魔法に対しての忌避感はないのか』という意味だ。

 

「はは。何だいそれは。私たち家族は、どこにでもいるごくごく一般的なエソック派だよ。少なくとも我が家にそんな宗教的信念はないかな」

 

『ミラナ教エソック派』。

確か『慈愛と紀律と発展』をモットーとしたこの辺りの諸国では、ポピュラーな宗教の一派だ。

 

「それどころか、どこを咬まれたのかわからないぐらい綺麗になってたから驚かされたよ。魔法の力は凄いものなんだね」

 

リアナがいま使える回復魔法は、非常にゆっくりではあるものの、対象を懇切丁寧に治療する。

それも怪我や疾患だけに留まらず、肩こり腰痛筋肉痛などの温泉みたいな効能……ではなく効果もある。

他にも色々とあるのだが、屋敷から逃亡してからの三日間、不眠不休で妹を背負いながら国外まで逃亡できたのは、そんな力のおかげと言える。

……単純に傷を癒すだけでは留まらないリアナの力は、実際かなりレアものなので、あのコミュ障がなければ一財産稼げる代物だ。

 

「傷が残らなかったようで何よりです。じゃあ魔法に対して嫌悪感はないんですね」

「あー、なるほどね。いまの質問はそういう意味か。この町は国境が近いから人の往来が多いんだ。そんな古い考えを持っている人なんて、私の知る限り老人でもいないよ」

 

そうだとすると、レナルドさんには悪い事をしたな。余計な気の遣わせ方をしてしまったようだ。

しかし、彼は森の入り口に待機させたままになってしまったが、今は何をしているのか。ちゃんと家に帰ってくれてたらいいんだけど。

 

「……それじゃあ、今度は私から質問してもいいかい?  宿を経営している立場からして、本来はお客の事情を探るようなことは避けるべきなんだけど」

 

レナルドさんの心配をしていると、今度はこちらが質問される立場になってしまった。

これは想定外――とはいえない、実はある程度予測していた展開でもある。

傍から見て、俺たち兄妹はかなり異質だ。これは決して自惚れではなく、客観的判断に基づく事実だった。

世間知らずで、どこか浮世離れしたご令嬢とその兄の二人旅。しかも、宿泊した部屋では隠れるように過ごしている。

とまあ、どこからどう見ても訳あり兄妹だろう。なのでタイミングがあれば、いつ訊かれてもおかしくないと思っていた。

 

「ええ、答えられる範囲で良ければですけど」

「それはよかった。じゃあ早速こんな質問するのも不躾かもしれないけど……君たちみたいなとても身なりの良いご兄妹が、どうして二人旅なんかをしているんだい?」

 

うえぇぇぇ……。いきなり俺たちの核心を突く、ド真ん中な質問をぶつけてきたな。

ノーマンさんは優しそうな顔をしているが、俺と同じで好奇心旺盛なタイプなのだろう。

 

俺の着ている服は、お気に入りではあるものの丈夫なだけで大した代物でもない。

だが、妹の服はかなりのものだった。

デザイナー兼パタンナーである著名な魔法使いの作品であり、縫製の仕上がりも含めて何から何まですべて素晴らしい。しかも魔法によって、頑丈で汚れにくい。

この生死のかかった逃亡生活では、そんな服ではなく、もっと目立ちにくい旅向けの服を着せるべきだろうが、リアナが頑なに嫌がってしまった。

なにか重篤な病気を罹患しているのか、妹は黒くてフリルのあるようなひらひらした服しか着たがらない。防寒対策のコートを羽織らせるので精一杯だった。

 

「家督相続のことで、姉とちょっとばかし揉めに揉めまして……。それが嫌になって俺たちは家を出ました。どこにでもある普通の話です」

 

どこまで言っていいものかと迷ったが、この範囲なら問題ないだろう。少なくとも嘘は言っていない。

 

「そんな事情から宿帳には偽名を使いました。申し訳ありません」

 

ついでに虚偽記載の事実を金鹿亭のオーナーであるノーマンさんに白状する。姉の影響力が他国でどの程度及ぶかは定かではないが、用心に越したことはない。

……実は、妹の本当の名前は『リアナ』でもなく『リアーナ』というのだが、家族でその名前を呼ぶ者はいない。縮めて『リアナ』だ。

この生活で名前をそのまま呼ぶのは些か問題があるので、彼女の愛称である『リア』を使うようにしている。

……ただ一度だけ、ベリンダちゃんの前で『リアナ』と呼んでしまった気もしたが、その程度なら問題にならないだろう。

ちなみに妹が俺を名前で呼んだことは過去に一度もない。下手をしたら、名前を覚えていない可能性もある。

 

「そんなこと気にしなくていいよ。誰にも人には言えない事情ってものはあるものさ」

「過分なお心遣い痛み入ります」

 

少し大げさに頭を下げると、ノーマンさんは「なんだいそれ」と笑ってくれた。

 

 

……すっかり寝入ってしまった妹の髪を撫でる。

身だしなみの道具は宿に置いたままなので、明日の朝は髪の手入れできないな。ちょっと残念だ。

こうやって寝ている時のリアナは、少しだけ幸せそうに笑っていた。

起きている時の彼女は、無表情の無愛想なので、こんなにあどけない顔を見せるのはそれこそ寝ている時ぐらいだろう。

 

「……うちの娘が昨晩はずっと彼女のことを話してたよ。……確かにこの子は綺麗だ。将来きっと凄い美人になる――」

「で、でしょう!? 俺の妹は超美人になりますよね!?」

 

食い気味に偉大なる賛同者であるノーマンさんの手を取る。いやあこんなところに同好の士が――。

 

「ぐえっ!」

 

すぐ下から鶏を絞めたような声がした。「あっ」と思ったが、時すでに遅し。

ノーマンさんの手を取ろうと、腰を浮かし、前のめりになった瞬間。膝枕をしていた超美人(予定)の頭を地面に落としてしまった。

 

これにはお兄ちゃんも猛省。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。