逃亡生活 五日目 朝
アルメル国境付近 パウリナの森にて
季節は春であっても、森で迎えた朝はとても寒い。
住居設備のない木造建築だと火が使えず、室内であっても冷え込む。
しかも老朽化が進んだあばら屋なので、すきま風がどうしても流れ込んでしまう。
そんな朝の湿り気を帯びた冷たい風に吹かれて、思わず身震いした。
「うう、寒い……」
目の前の湯たんぽを一段と強く抱きしめる。うん、ぬくいぬくい。
外套や毛布の一枚でもあれば大分違ったのだが、生憎とそんなものは持ってきてない。改めて、己の準備の悪さに泣けてくる。
昨日の時点では、怪我人を運ぶ事態を想定して荷物は必要最低限でいいと思ったが、その考えがそもそも誤りだった。
いざとなれば、必要のない荷物はその場に捨ててしまえばいい。そんな単純な発想にも至れなかった自分の要領の悪さに辟易してしまう。
薪割り小屋には、朽ちかけた薪と一緒に藁が積まれていたので、なんとか急造のベッドを仕立て、ノーマンさんたちに譲った。
彼は気を遣って一度は断ったが、病み上がりの体調とベリンダちゃんを理由にしたら申し訳無さそうにベッドを使ってくれた。
とまあ、いくら屋根があるとはいっても、底冷えする土間に着の身着のままはつらい。
だから俺は、コートを着て温かそうに寝ていたリアナを湯たんぽにした。
妹湯たんぽは想像よりもずっとぬくぬくであり、おかげで昨夜はつまらない夢も見ずに熟睡できた。
「……それで、私はなんで兄さんに抱きしめられているんですか。何か釈明があるなら今のうちですよ」
朝の清涼な空気を肺に取り込みながら、あれこれと考えていたところ、目を覚ましたばかりのリアナに釈明要求をされた。
『寝ていたから』というのを建前に何も言わずに妹を湯たんぽにしていたので、当然の反応だった。
「いや、その、リアが寒がると思って……」
「そーですか。私は別に寒くありませんけど」
「妹湯たんぽは! とってもぬくぬくでした!」とは口が裂けても言えず、しどろもどろにリアナ自身を言い訳に使ってしまう。
というか、俺のやったことを言葉にすると途轍もなく気持ち悪いな。……うん、俺は本当に死んだほうがいいのかもしれない。ふむ、どう死んだものか。
「ん……んんん。あ、でもこれ、意外と悪くないですね……。なんでしょうか、この言語化しにくい感覚。……うん、悪くない。今後はもっと推奨したい気さえします。……悪くないです」
己の命の断ち方について思案していると、リアナはなにやら呟いていた。その直後、俺の背中に腕をまわして、力いっぱい抱きしめる。
「うん、いい。いいですね。……まあいいでしょう。今日のところは不問にします」
「やたー! リアちゃん、やっさしー!」
情状酌量を汲んだ寛大な判決に、俺は諸手を挙げて喜んだ。こんなに優しい妹を持って俺は幸せ者だ。
「……でもその反応がなんか腹立たしかったので一発殴ります」
レバーを殴られた。痛い。
時刻は、早朝六時。
まるで計ったかのように、ベリンダちゃん親子が同じタイミングで起きた。宿経営ということもあり、普段からこんな時間帯に起きているのかもしれない。
(リアナを除く)それぞれが朝の挨拶を済ませると、今後の方針を決めることになった。
方針と言ってもやることは決まっており『いつ出発し、どうやって町に戻るか』それだけ。
こんなところで一夜を過ごしても、まともに休めやしない。朝を迎えたばかりだったが、みんなの疲労は色濃く残っている。それなら、まだ動ける体力と気力が残っているうちに出立した方がいい。
「慣れていない道を使うよりも、昨日と同じルートで町に戻ってはどうか」と提案すると、(リアナを除く)全会一致で賛同の声が上がった。
軽く準備を済ませ、俺たち四人は早々に出発する運びとなった。
一晩世話になった薪割り小屋を後にする。
ノーマンさんによると、この小屋は随分前から使われてなかったが、解体されずにそのまま放置されていたらしい。
彼は狼に襲われた時、この小屋の存在を思い出して、離れた町に戻るよりも近くのこの場所に賭けたのだという。それなら大げさでもなんでもなく、この小屋は二人の恩人だった。
俺にアニミズム思想はないが、外壁をマチェットで叩きつけてしまったことに少し申し訳なく思った。
そんな謝罪の念と一夜の屋根を貸してくれた感謝を兼ねて、なんとなく小屋に向かって何となく頭を下げてみる。
「…………!!」
リアナが口を手で押さえて、得体の知れない珍獣を目撃した目で俺を見ていた。……やめろやめろ! 兄をそんな目でみるんじゃない!
そうして、朝霧が立ち込める森を四人で進んでいく。
少し後ろを歩くベリンダちゃん親子は仲良く手を繋いでおり、リアナは例によって息のかかる真後ろにいる。
気温がある程度まで上昇してからの移動も考えたが、まだなけなしの体力が残っているうちに行動したほうがいいだろう。
このゆったりペースでも二時間は掛からずに、森から抜けることができる。日はまだ昇ったばかりで、多少の霧も出ているが、それでも昨日森に入った時によりも明るい。
「……お母さんに怒られるかなあ」
「なに、ベリンダの元気な顔を見せてやればお母さんは喜んでくれるよ。みんな無事だったんだ。怒られるようなことは何もないさ」
「うん……」
親子二人の会話が聞こえてくる。俺たちも何かウィットに富んだトークをしたいところだが、こいつは他人がいると黙り込んでしまう。
一方的に話しかけてやってもいいのだが、壁に向かって話しかるのと変わらない状況になりかねない。後ろの二人から変な目で見られたくないので、それは自重しよう。
「えっと……こことここは、うん、削ってもいいですかね」
そんな妹は何やら小声で呟いていた。眼前に手を広げ、指を不規則に折っている。
な、なにやってんだこいつ……?
俺には全く理解のできない行動だったが……なぜか、少し魔力を帯びているような……。
「いや、マジでなにやってんの!?」
リアナからの返事は当然なく、結局二人からは不思議な目で見られてしまった。くそう。
◇
「お腹空いたな……」
ベリンダちゃんが誰に言うまでもなく、ポツリと呟く。
俺が時折話し掛けてやると元気アピールをしていたが、どこか根っこの部分で覇気を感じさせないものだった。
それもそのはず、昨日からここにいる全員は何も食べていない。だから、空腹感に耐えられずに言葉を漏らしてしまっても仕方のない話。
命を繋ぐ水だけは、それなりに持ってきたが、食料に関して言えば何もない。
小屋の周りには俺が昨日殺した狼の死体が転がっていたが、下処理もなしに肉食動物の肉なんて食べられやしない。
そんなものを腹に入れるぐらいなら、空腹に耐えて早々に森を出たほうがマシだ。
森にも自生している茸も生えているが、火を入れずに食べられる品種はそう多くない。そもそも間違った知識で、毒茸を食べてしまえば一大事だ。
他に食べられるような物はないか、ベリーなんかはまだ先の季節だしなあ。うーん。
何となくリアナの顔を見てみたが、それでこの難題から抜け出せるような叡智が下りてくるはずもなく――。
「……あ、食料あった」
本当に妹の顔を見て思いついてしまった。もちろんカニバリズム的な意味ではない。というか、今の今まで気づかなかった俺もとんだ間抜けだ。
「うん。あるある」
鞄の中から飴の袋を取り出す。これはリアナのご機嫌取り用の飴だ。自分じゃ舐めないので、食べ物というよりも妹をあやすための道具という認識が強かった。
「じゃーん。これなーんだ」
「…………わっ!」
飴の入った袋を見せてやると、リアナが人前なのに声を上げ、赤い瞳がぱっと輝く。
そうか、飴ちゃんがほしいのか。まったく、この卑しい妹め。
でも……数はあまりない。数えてみたら、残りは五個だけ。ここ何日かは、リアナに餌付け感覚で消費してたからな。
「お腹の足しにはならないかもしれませんが、飴がありました。お二人とも食べますか?」
「……飴!? 一昨日もらった飴ですか! 甘くてミルクの味がして、とっても美味しかったです! すっごく食べたいです!」
意気消沈していたベリンダちゃんが、水を得たように喜んでくれる。……その反応はなんというか、こちらとしても最高に渡しがいのあるものだ。
「……私も頂いていいのかい?」
「どうぞどうぞ。数は少ないですが、どうかお許しを」
ベリンダちゃんには二個、ノーマンさんには申し訳ないが一個だけ渡した。
自分のために用意された飴ちゃんが次々と減っていくのを見て、リアナは「あわわあわわ」と慌て出す。……許せ妹よ。今は非常事態なのだ。
いち早く舐め始めたベリンダちゃんが「すっごくおいしい!」と喜んでくれた。ノーマンさんも娘さんに倣うようにして、俺の地元ノインベルトの甘味を堪能する。
量は大したことないが、飴は砂糖の塊なので、疲れている体には薬以上の良薬だ。ベリンダちゃんも多少は元気になってくれたようで嬉しい。
「じゃあこれはリアちゃんの分。ゆっくりと味わってお舐め」
リアナには、残った二つの飴を渡す。
これにて飴ちゃんはおしまい。俺の分はなくなってしまったが、すべては妹のため。世界で一番、誰よりも何よりも大切な妹だ。背にも腹にも命にも代えられない。
というわけで、くうくう鳴いている俺のお腹にはしばらく辛抱してもらおう。
「あ……」
リアナは受け取った飴を俺の顔と交互に見比べ、何か言いたそうに落ち着かない。
「そんなふうに俺を見ても飴はもう出てこないよ。また今度新しく仕入れるから今はそれだけで我慢しなさい」
「……ち、ちが、そ、そうじゃなくて……!」
あれ? ベリンダちゃんたちがいるのにも関わらず、リアナが話している。
他人がいる時、自発的に声を出すのは稀にも稀だ。んー、そんなにお腹が空いていたのだろうか。
「だったら、お兄ちゃんの指でもしゃぶる? お腹はたまらないかもしれないけど、なんか味はするかもよ?」
ふざけ半分に指を差し出しても、いつもの鋭い舌鋒が飛んでこない。それどころか俺の前だと言うのに変に顔が赤い。今日は本当にどうしたんだ?
「~~~!! だ、だから、そうじゃなくて……こ、これ一個、お兄ちゃんに、あげる……!」
リアナはそれだけ言うと、ぽかんと開いた俺の口に飴玉を放り込んだ。
残った一つも自分の口に入れると「えへへ、これで、おんなじ、おんなじです」と僅かだが照れくさそうに顔を綻ばせる。
「あ、ありがとう……」
限界を迎えた俺のキャパシティでは、一言感謝を伝えるだけ精一杯だった。
……な、なんなんだ、この可愛い生き物は。というか、誰!? なに、その甘ったるい声!?
人前で極度の緊張をしているせいか、普段よりも口調が普段よりも幼くなっている。
それに『お兄ちゃん』って、出会って間もない頃は確かにそう呼ばれていたが、それ以降は一度もなかったはず。
うわわわわ、妹が愛おしすぎてニヤニヤが止まりそうにない。落ち着け落ち着け落ち着け。俺の表情筋、もっとちゃんと仕事しろ。
「お兄ちゃん。飴、いっしょに舐めよう?」
「う、うん」
いやあ、リアナが手ずから舐めさせてくれた飴が美味いなあ!
ミルキーな味がする! ママの味がする! いやいや、この場合は妹の味か! よーし、お兄ちゃんやる気が漲ってきたぞー!
さっさと町に帰って、リアナを愛でに愛でまくろう!
その時――轟音が響いた。
「ひィ!」
突然の事態に、ベリンダちゃんが短い悲鳴を上げる。
「…………!!」
だが俺は、それどころではなかった。
……耳が痛い。鼓膜が痛い。頭が痛い。耳鳴り。酷い耳鳴りがする。吐き気がする。視界がチカチカと明滅する。平衡感覚と回転感覚が保てない。足下がふらつく。
「……う」
こんな場所で倒れるわけにはいかない。咄嗟に舌を噛み、気付けにして、何とか体裁を取り繕う。
鼓膜が破けてしまったかと思ったが、ベリンダちゃんの悲鳴は聞こえていた。それなら、俺の耳は何とかまだ機能している。
今の音はなんだ……?
雷が近くに落ちたのかと思ったが、今日は紛れもなく快晴。それ以前に雷とは別種の音だった。
山のような巨人が地表を無理やり引っ剥がすと、あんな音がするかもしれない。
木々に止まっていた野鳥が、危機を察知して一斉に飛び立っていった。
いままでの朝の静寂が嘘だったかのように、森全体がにわかに騒がしい。
……少し前までは穏やか雰囲気だった。しかし、一瞬の凶事でその空気は霧散した。
「な、なん――だ。いった――い……? ベリ――ダ……!!」
耳鳴りと頭痛が酷くて、ノーマンさんが何を言っているのか聞き取れない。
突然の出来事に動揺しているのはわかった。親としての正しい姿と言うべきか、混乱の中でもベリンダちゃんを守るために抱きしめる。
「リア、ナ――」
リアナ、リアナはどこだ。俺の後ろからいなくなっている。
……警戒網として常時行使していた聴力強化が轟音により、使い物にならなくなった。
耳だけではなく、頭もガンガンと痛い。魔法によって、常人とは比べ物にならない聴覚だ。それは視覚情報以上の警戒網であり、生命線だった。
その生命線が、ここで完全に裏目に出てしまった。
「……も――いや。いや――だよお!!」
ノーマンさんに抱えられたベリンダちゃんは耳を塞いで、ついには泣き出してしまう。
昨日から続くストレスと恐怖から、もう少しで開放されるはずだった。それがたった今、叶わなくなったのだと本能的に察したのだ。
「ノーマン――ん、こ――森に魔物は?」
辛うじて吐き出した自分の言葉ですら、何を言ってるかわからない。
だけど今は、この場で唯一戦える者として、状況把握に務めなくてはならない。
平衡感覚は回復してないが、何でもないフリをして、ノーマンさんに尋ねる。
どんな小さな情報でも、集めておく必要があった。昨日、女将さんたちにも同じ質問をしたが、それでも万が一を考えて彼にも確認する。
「この森に――ない。祖父たちの代ま――大き――魔物もい――う話は聞い――はあるが、それ――う何十年も――話だ。それにあ――大きな音、生まれ――ら一度も聞いた――ない!」
耳鳴りのせいで正確には聞き取れなかったが、言葉の前後から察するに『ここに大きな魔物はいない。かつてはいたがそれも大昔の話だ。あんな音は聞いたことがない』と言っているようだった。
つまり、地元の人間も知らない良くないことがこの森で起きているのだ。
あまりの轟音に、音の発生源すらうまく掴めない。
……残された体力的に悩んでいる余裕はない。それでも、向こう見ずに行動するのは許されない。
これは、俺一人だけの問題じゃない。ここにいる全員の命が懸かっている。
進むべきか、戻るべきか、留まるべきか――。
それを判断するための材料がどこにもない。せめて、せめて音の発生源さえわかれば……!
未だ鳴り響く耳鳴りと頭痛で思考が纏まらず、己がすべき事を見失いそうになる。情けない話、何も答えが見つけられないまま、俺は立ち尽くすしかできなかった。
「…………」
そんな動揺と混乱の渦中、リアナは俺たちから少し離れた場所で佇んでいた。いつも以上に無表情で、木々の間を見つめている。
「リア、ナ……?」
彼女には、何が見えているのか。赤い瞳には何を映しているのか。兄である俺には何もわからなかった。
そして、ある一点を指さす。
「兄さん、今の音の原因はこっちです。……この方角から『もわーん』と『ずうーん』と『ぞわぞわー』な感覚がしました」
一番離れているのに不思議と妹の声だけは、透き通るようによく聞こえた。
多少の時間経過によって、聴覚が回復したのだろうか。さっき『お兄ちゃん』と呼んでいた時と違う、聞き慣れた彼女の声。
リアナの指差す先、それは俺たちが昨日走り抜けた道であり――。
そして、今まさに俺たちが向かおうとしていた場所――泉の方角を指していた。