高育が如く   作:レゾリューション

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今回、試験の終わりまで無理矢理詰め込んだので話しがめちゃくちゃ長いです。戦闘シーンだけ見るのもありかもしれないです


ワタポン様から素敵なイラストを頂きました!

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試験の結末

特別試験5日目の夜。Dクラスの空気はひどく重苦しかった。昼間の太陽の勢いが嘘のように、テントの下はまるで通夜会場。誰もが口を閉ざし、気まずい沈黙だけが夜の帳と共に広がっていた。

 

──結局、下着を盗んだ犯人は見つからなかった。

 

男子全体にかかった濡れ衣も晴れぬまま、一日が過ぎた。疑心と不信だけがジワジワと内部を侵食し、Dクラスは確実に綻び始めている。

 

そんな中、綾小路は焚き火の番をしていた。火の様子を眺め、たまに枝をくべる。それだけの単調な仕事。体力も気力も使わない、ある意味もっとも“平和”な役割だった。──もちろん、問題は別のところにあるのだが。

 

「ねえ綾小路くん。ちゃんとテント移動しておいてって言ったよね?」

 

女子の一人が近寄ってきて、少しイラついた声をぶつけてくる。

 

「言われた通り動かしたはずなんだが」

 

「もっと左に動かしてって言ったの。あれじゃ男子エリアに近すぎるの。意味ないでしょ?」

 

理屈よりも感情が先に来ているのは明白だった。綾小路は一拍置いて、小さく息をついた。

 

「……わかった」

 

ぐいっと首を振るようにして女子が去っていく。なんとも理不尽なクレームだが、反論する気力も湧いてこない。その場をやり過ごしたほうが、何倍もマシだ。

 

そして、入れ違いに桐生が現れた。

 

「手伝うぞ、綾小路」

 

頼もしい言葉だった。さっきまでの面倒くささが一気に半減する気がする。二人でテントを移動するのは一瞬のことだった。作業が終わってしばらくすると、また一人がやってくる。

 

「雑務を押し付けられて大変そうね」

 

皮肉とも同情ともつかない口ぶりで、堀北が現れた。

 

その言葉に、綾小路は火の揺らめきを見つめたまま、特に何も返さない。ただ、心の中で呟く。

 

“”堀北が俺を推したせいで、こうなったんだよな。””

 

あの時、違う誰かを推薦していたら……この空気も、今とは違っていたのかもしれないと思った綾小路だった。

 

テントの設営作業も一段落し、焚き火の前で桐生、綾小路、堀北の三人が自然と輪になって座っていた。特に話すこともなかったが、今のDクラスにおいて数少ない“まともに会話ができる”面子だった。

 

話題が流れるようにポイントの使い道へと移る。今や共有資源の扱いに関してもギスギスした空気が漂っており、安易な支出はクラスの不満に直結しかねない状況だった。

 

「……実際、もう無駄遣いはできないな」

 

綾小路がぽつりと呟くと、桐生がちらと堀北に視線を送った。そして、声のトーンを少し落として耳打ちする。

 

「……堀北、テントのアレも見せたらどうだ?」

 

一瞬だけ堀北が視線を泳がせるが、すぐに小さく頷いた。

 

「ついてきて。少し、見せたいものがあるわ」

 

堀北は立ち上がると、綾小路を女子テントの入口まで案内する。もちろん中に入ることはできないが、入り口の布を軽く捲って中を見せるだけなら問題はない。

 

「これは……」

 

綾小路は思わず声を漏らす。男子テントとは明らかに違うその光景に、彼の目が少し見開かれた。

 

中には薄く敷かれたフロアマットが並べられ、地面のゴツゴツとした感触を和らげている。いくつかの空気枕がテントの隅に寄せられ、さらには、風を循環させるためのコードレス扇風機まで──。

 

「反対側のテントにも、同じものが置いてあるわ。全部で12ポイント分。……桐生さんが止めなかったら、もっと消費されてたかもしれないわ」

 

堀北が淡々と説明する。快適性を追求したその中身は、試験としてのサバイバル感を薄れさせるに十分だった。

 

「なるほどな……」

 

綾小路はただ一言つぶやいた。テントの中の快適さと、今のクラスの緊張感。その落差が妙に印象に残った。

 

 

話す事を伝え、堀北は帰ろうとしたが、綾小路は唐突に口を開いた。

 

「なあ堀北、そろそろ白状したらどうだ?」

 

突然の言葉に、堀北は一瞬だけ目を細めた。

 

「白状? 一体何をかしら」

 

声色はいつも通り落ち着いていたが、その様子は完璧ではなかった。わずかに速まる呼吸。額に滲んだ薄い汗。暗がりでも分かるその変化に、綾小路は確信を深める。

 

「お前、この試験が始まったときから体調悪いだろ」

 

口調はあくまで淡々としていたが、言葉の芯には揺るがない自信があった。

 

“流石に栄養ドリンクだけじゃ、最後までは持たなかったか……”

 

堀北はほんの少し顔を背けながら答える。

 

「……別に普通よ」

 

そう答えた堀北だったが、綾小路の脳裏には、一つの比較対象があった。

 

桐生一葉だ

 

彼女は以前、喧嘩した後、栄養ドリンクを飲んで回復するという、常人では考えられない離れ業を見せた。彼女の持ち前の体力と精神力、そして圧倒的な身体の強さがあったからこそ、栄養ドリンクを一本入れるだけで、通常のパフォーマンスを取り戻すことができるのだ。

 

けれど、堀北は違う。身体を鍛えてはいるものの、桐生のような”武闘派”とは根本的にスペックが違う。ましてやこの炎天下が一週間も続けば、多少のドリンクなど焼け石に水だ。

 

だからこそ、堀北の「普通よ」という言葉は、何の説得力もなかった。

 

「堀北、もう話したらどうだ?」

 

「.....」

 

そう桐生は話して綾小路は、次の瞬間、堀北の腕を軽く取ると、そのまま額へ手を伸ばした。咄嗟に抵抗しかけた堀北だったが、力は弱く、拒み切れない。

 

触れた額は、思った通り熱を帯びていた。手のひらに伝わる熱感からして、おそらくは38度台後半。気力で動いているのが不思議なくらいだ。

 

「……やっぱりな。これじゃまともに動けるはずない」

 

言葉には責めるような響きはなかった。ただ、事実を淡々と告げるだけのものだった。それが逆に堀北の無理を際立たせる。

 

彼女は唇を噛みしめながら、焚き火の向こう側をじっと見つめた。誤魔化す術は、もうなかった。

 

「みんなに伝えなくていいのか?」

 

焚き火の赤い光が揺れる中、綾小路が静かに問いかける。

 

堀北は少し間を置いてから、強がるように言葉を返した。

 

「もう5日も我慢しているもの。ここでギブアップしたら、今までが無駄になるわ」

 

その声はか細くも、どこか決意に満ちていた。

彼女の中で答えはもう出ているのだ。

体調がどうであれ、最後まで耐え抜く。それが堀北鈴音の選んだ道だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6日目の朝。空は重たい灰色の雲で覆われ、どこか息苦しいような空気が漂っていた。昨夜、ひと雨あったのか、あちこちに水たまりができ、地面はぬかるんで足元が悪い。踏みしめるたび、靴の裏にまとわりつく泥の感触が不快だった。

 

空気は湿っていて、遠くの森が少し霞んで見える。天気予報などない無人島では、感覚が頼りだが、どうにも昼頃から本格的に雨が降り出しそうな気配だった。空を見上げた者はみな、同じようにため息をつくことになった。

 

 

桐生たちが採ってきた魚や肉は、池が上手く処理してくれていたおかげで、真夏でもまだ腐らずに保存できていた。だが、それだけでは人数分の食料としては心もとない。そう判断した桐生は、追加の食料を求めて一人森へと足を踏み入れた。

 

野生の木の実や小さな獲物を手に入れて、泥だらけになりながら戻ってくると、別行動していた堀北がなぜか、顔からつま先まで全身泥まみれになっていた。

 

“……何があった?”

 

桐生は眉をひそめ、近くにいた綾小路に声をかける。

 

「綾小路、堀北……なんであんな泥だらけなんだ?」

 

「……山内が、堀北に泥をぶっかけた」

 

「なに?」

 

桐生は一瞬、言葉の意味を取り違えたかと思った。だが、綾小路の表情は冗談を言っている様子はない。

 

“幾ら山内でも……あんなことすれば無事じゃ済まないって分かるはずだが.....”

 

堀北は目を伏せながら髪を軽く持ち上げる。服も髪も泥でベッタリ。明らかに不快そうだ。

 

「早く洗ったほうがいいよ、堀北さん。相当ドロドロだよ……」

 

そばにいた櫛田が心配そうに声をかける。

 

「……そうね。さすがにこのままじゃ厳しいわ」

 

だが、彼女の視線の先、シャワー室の前には軽井沢たちの姿があった。しかも三人並んでいる。

 

「あちゃ……シャワーは、無理かもね」

 

櫛田が肩をすくめる。あの軽井沢グループが、泥だらけの事情を汲んで堀北に順番を譲るはずもない。

 

「川を使ったらどうだ? それなら手っ取り早いだろ」

 

綾小路が提案すると、堀北は軽く頷いた。

 

「……それ以外、なさそうね」

 

「私も水浴びしよっかな、汗かいちゃったし。3人は?」

 

櫛田がにこやかに誘いかけるが、桐生は小さく首を横に振った。

 

“どうするか....”

 

   •入ろう

   •遠慮する←

 

“汗もかいてないし遠慮しよう”

 

「遠慮しておく」

 

「私はパス。泳ぐの、好きじゃないから」

 

伊吹もすかさずそう言ってそっぽを向く。それに釣られるように、佐倉も視線を下げながらつぶやいた。

 

「じゃ、じゃあ私も……」

 

どうやら男子の目を気にしているらしく、川に行くのは避けたようだった。

 

堀北と櫛田はシャワーを諦め、川の方へと歩いていく。一方、シャワー室の列はさらに長くなっていた。

 

軽井沢たち三人の後ろに、佐倉、そしてその後ろに伊吹。さらにその背後には、別の女子が二人、新たに列に加わっている。

 

川では水飛沫が上がり、笑い声が響いていた。木々の間から差し込む陽の光が、水面でキラキラと跳ねる。そんな中、数分して堀北と櫛田が水着姿で戻ってくる。

 

それから五分ほど経った頃、ふと列を見ると──ついさっきまで佐倉の後ろにいたはずの伊吹が、なぜか最後尾に並び直していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……綾小路くん、桐生さん、少し来てもらえるかしら」

 

その声に振り向くと、いつの間にか堀北が目の前に立っていた。姿勢こそいつも通りだが、どこか様子がおかしい。視線は落ち着かず、瞳がわずかに揺れている。

 

「どうした。何かあったのか?」

 

綾小路が静かに尋ねると、堀北は小さく首を振った。

 

「……ついてきて。ここでは話せないの」

 

そう言い残し、堀北は黙って森の方へと歩き出した。二人は顔を見合わせてからその後を追い、キャンプ地のざわめきが届かなくなるまで、黙々と進んだ。

 

やがて、堀北の足が止まる。

 

「……これは、私の油断。ミスだと自覚して話すから、聞いて」

 

前置きの言葉からも、その事態の重さが伝わる。

 

堀北が語った内容は──キーカードの紛失。盗まれたのだという。

 

「……マジか」

 

彼が眉をひそめる。Dクラスにとって大きな損失となるカードの喪失。その事実が全員に知れ渡れば、混乱は避けられない。

 

“伊吹……まさか、あいつか?”

 

佐倉の後ろにいたはずの伊吹が、いつの間にか列の最後尾に並び直していた。その不自然な行動が、桐生の脳裏に引っかかっていた。タイミング的にも状況的にも、十分に疑う余地がある。

 

「……ごめんなさい。先に戻ってもらえるかしら。私は少しだけ、この辺りを探してから戻る」

 

堀北が静かに頭を下げる。

 

「……そうか。分かった。じゃあ、俺は先に戻って、伊吹を見張ってる」

 

そう答えた桐生の声は低く、しかし明確な意志を帯びていた。ほんの少しだけ鋭さを帯びた瞳で、再び森の奥を振り返った。

 

 

 

約10分後、堀北がキャンプ地に戻ってきた時、空気がどこかざわついているのを感じ取った。原因はすぐに分かった。仮設トイレの裏手から、細く立ち上る薄暗い煙が見える。

 

「……あの煙は? 一体何が起きてるの?」

 

訝しむ堀北に、綾小路と桐生が駆け寄って合流する。すぐそばで騒いでいた池を捕まえ、事情を聞いた。

 

「火事だよ! トイレの裏で何か燃えてるんだよ!」

 

言葉の通り、仮設トイレの裏側に急いで向かうと、すでに何人かの生徒が現場に集まっていた。その中には平田の姿、そして伊吹の姿もあった。

 

堀北は伊吹に問いただそうと歩み寄るが、その横顔を見て、ふと足を止めた。

 

……彼女の表情が、あまりにも自然すぎたのだ。

 

驚きと困惑が混ざったような顔。まるで、本当にここで起きている事態に心から戸惑っているかのように見えた。

 

“伊吹じゃないのか? じゃあ誰が……”

 

疑念が揺らぐ。

 

だが、今は真相を追及する時ではない。まだ煙の量は多くないとはいえ、火が広がれば一気に被害は拡大する。

 

“とにかく、今は火を消すのが先だ”

 

すぐさま行動に移り火が完全に鎮火した。燃えた残骸からは白く細い煙だけが立ち上っていた。しかし、現場の空気は一向に落ち着かない。

 

池と篠原を中心に、男子と女子が真っ向から睨み合っていた。

 

「なんで毎回、俺ら男子だけ疑うんだよ! 下着の件とこれとは関係ないだろ!」

 

怒気を含んだ池の声が響く。

 

「そんなの分からないじゃない! 証拠を隠すために燃やしたって可能性だってあるでしょ!」

 

篠原も引かず、鋭く言い返す。その口調には苛立ちと不安が混じっていた。

 

昨日の下着盗難事件が尾を引いているせいか、両者の感情は高ぶる一方で、収まる気配がまるでない。

 

だが、その激しい言い合いの中で、一人の声が静かに割って入った。

 

「——いい加減にしろ。冷静になれ」

 

桐生の低い声だった。

 

怒鳴るわけでもなく、淡々と。それなのに、その声は周囲の喧騒を押し返すほどに強く響いた。

 

男子も女子も、思わずその場で口をつぐむ。池も篠原も、視線だけをぶつけたまま黙り込んだ。

 

桐生はその場を見渡しながら、一歩、前に出る。

 

「今は犯人探しより、これ以上被害を広げないことの方が大事だろ。誰がやったかなんて、あとでいくらでも追える。今、必要なのは協力だ」

 

その言葉に、誰も反論できなかった。感情をぶつけ合うには、状況が悪すぎる。

 

そんな中、ぽつり、と地面に水滴が落ちた。

 

「……雨か」

 

桐生がぽつんと呟き、空を見上げた。雲は先ほどよりも黒く、低く垂れ込めている。頬にもひとしずく、冷たい雫が落ちてくる。ついに本降りになる予兆だった。

 

騒然とする空気の中で、桐生はふと、堀北と伊吹の姿が見えなくなっていることに気づいた。

 

“どこ行った....?”

 

完全に作業が終わった15分後、桐生は静かにその場を離れ、二人の後を追って歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

堀北鈴音は、重い体に鞭を打つようにして雨の中を歩いていた。空は厚い雲に覆われ、太陽の光を遮っている。強くなり始めた雨は冷たく、視界も悪い。だが彼女はその足を止めなかった。

 

“”どこに行ったのかしら……””

 

目の前には誰もいない。それでも足元に続く泥の足跡が、確かに彼女がこの道を通ったことを物語っていた。ぬかるんだ地面が幸いした形だ。彼女の靴跡を頼りに、堀北は雨に濡れながら前へ進む。

 

ベースキャンプからおよそ百メートルほど離れたところで、足跡は左右にうねりながら続いていた。そして、その先に──

 

ぽつん、と一人の影が立ち止まっていた。

 

まるで誰かが来るのを待っていたかのように、静かにそこに立ち尽くしている。

 

堀北は思わず足を止め、近くの木の陰に身を隠した。だが、それも無意味だった。

 

「……どういうつもり?」

 

振り返りもしないまま、伊吹澪の声が雨音を突き抜けて響いた。

 

「追って来てるのは気づいてる。出てきたら?」

 

その声に、堀北は小さく息を呑む。隠れていたはずの自分は、最初から見抜かれていた。

 

雨の音が、徐々に激しさを増していく。

 

「どこまで追ってくんだよ。いい加減にしてくれない?」

 

苛立ちを滲ませながら、伊吹が振り返った。髪は雨でぴったりと肌に張りつき、吐き出すような声が冷たい空気に混ざる。

 

「私から盗んだものを、あなたから取り返すまでよ」

 

堀北は一歩も引かなかった。体は悲鳴を上げていたが、その意思だけは揺らがない。

 

「……落ち着いて考えてみて貰えない? もし私がキーカードを盗んだんだとしたら、そんな危ないもの、いつまでも持ってるわけないでしょ。誰かに見られたら即アウト。私自身、ポイントを失うだけじゃ済まない」

 

冷静な理屈。でもその言葉は、堀北にとって決定的なヒントになった。

 

“”私は、盗まれた《もの》と言っただけ。キーカードとは一言も言っていない。””

 

つまり伊吹は、今、自らキーカードの存在を認めたも同然だった。

 

その矛盾を突こうとした堀北だったが、伊吹はふいに、にやりと白い歯を見せた。

 

「私が自白した。なんて思った? 残念だけど違うよ」

 

「なら、どういうことなのかしら」

 

問い返す堀北に、伊吹は面倒くさそうに肩をすくめた。

 

「あんたとのお喋りにも飽きたってことさ」

 

そう言い放つと、伊吹はしゃがみ込み、両手で地面を掘り始めた。堀北の視線が、そこで止まる。

 

「……くっ」

 

突然、堀北の身体に眩暈と吐き気が襲いかかった。視界が歪み、立っているのがやっとだ。近くの大木に背中を預け、膝が崩れるのをなんとかこらえる。

 

「随分、体調悪そうじゃない?」

 

伊吹は掘る手を止めず、冷ややかな目で堀北を見下ろしていた。

 

「……はあ、はあ……」

 

荒れた呼吸を整える余裕もない。雨で濡れたジャージが、体温を容赦なく奪っていく。顔を上げることも難しい。

 

でも、もう後には引けなかった。

 

「伊吹さん。……力ずくで、調べさせてもらうことになるわ。それで構わない?」

 

弱々しいながらも、意思のこもった声が伊吹の耳に届いた。ぴたりと動きを止め、彼女が立ち上がる。そして、堀北の方へと歩を進める。

 

「力ずく? もっと具体的に言ってくれない? 暴力振るうってこと?」

 

挑発ともとれるその言葉に、堀北の表情がわずかに険しくなる。

 

「……最後の警告よ。素直に、返しなさい……」

 

静かに、でも確かに強い意志を宿した声が雨音に重なった。ふたりの視線が交錯する。

 

「最後の警告か……分かった分かった。だったら好きにすれば?」

 

伊吹は、まるで何でもないことのように肩をすくめると、手にしていた鞄を地面に落とした。そして、両手を軽く挙げて降参のポーズ。まるで“これで満足?”とでも言いたげな態度だった。

 

素直になった……ように見えるが、その目にはまだ何かを企んでいるような光が宿っていた。

 

それでも、ここで躊躇するわけにはいかない。

 

堀北は警戒を解かぬまま、一歩前に出て鞄へと手を伸ばす。その中を確認すれば、真実にたどり着ける。そう信じていた、その瞬間。

 

「っ——!」

 

伊吹の細い足が、鋭く顔面めがけて飛んできた。

 

ほんの一瞬の“まさか”という警戒心が、堀北の体を後方へと跳ねさせる。間一髪、直撃は免れたものの、跳ねた泥が防御姿勢を取った両腕にべったりと付着する。

 

「へえ。やるじゃん」

 

伊吹がニヤリと笑う。余裕の表情だった。

 

「……暴力行為は即失格よ」

 

堀北は息を整えながら、低く告げる。だが伊吹はどこ吹く風だ。

 

「こんな場所で、誰が見てるって言うんだか。それに——おまえもやる気だったろ?」

 

その言葉が終わらぬうちに、伊吹の手が堀北の肩を掴んだ。

 

「っ!」

 

次の瞬間、体が宙を浮くような感覚とともに、重力に引き戻される。受け身を取る暇もなく、堀北の体はぬかるんだ地面へと倒れ込んだ。

 

背中を打つ鈍い衝撃。雨に濡れた土の感触。そして目の前には、笑みを浮かべた伊吹が立っていた。

 

伊吹に胸倉を掴まれた瞬間、堀北の体は無理やり上半身を引き起こされた。その視界に映ったのは、握りしめられた伊吹の拳。そのまま食らえば、意識を刈り取られることは間違いない。

 

咄嗟に堀北は腕を払うように流し、地面を転がって伊吹の手から逃れた。

 

「……っ!」

 

泥が跳ね、服も髪もぐしゃぐしゃだ。だが、そんなことを気にしている余裕はない。

 

両手で泥だらけの地面を支え、堀北は必死に上半身を起こす。全身が重く、呼吸も乱れていたが——それでも、彼女の瞳は濁っていなかった。

 

“”初めてよ。武道をやっていて良かったって思ったのは””

 

かつて身につけた技術と勘が、今まさに命綱になっていた。

 

殴打と蹴りが交差する、荒れた応酬が続いた。

 

だが、堀北の体力はすでに限界を超えていた。動きのキレは鈍く、息は荒く、足元も覚束ない。そんな中でも、わずかに残った力を振り絞って放った拳が、伊吹の腹部を捉えた。

 

「っぐ……!」

 

苦悶の声を漏らし、伊吹は膝をつく。確かな手応え。しかし——

 

“”もう……動けない……!””

 

堀北の全身は鉛のように重く、追撃に転じる余力は残っていなかった。肩が大きく揺れ、視界が滲む。立っているのがやっとだ。

 

伊吹は、そんな堀北の前でゆっくりと立ち上がる。そして、無言のまま手を伸ばすと、堀北の髪を無造作に掴み、力任せに引き上げた。

 

「う……!」

 

頭が仰け反り、首に鋭い痛みが走る。反撃の余地すらない。雨に濡れた森の中で、戦いは容赦なく続いていた。

 

 

「……離しなさい……っ」

 

雨に濡れた泥まみれの地面で、堀北がかすれた声を絞り出す。

 

だが伊吹はその訴えを軽く流すように、冷ややかな笑みを浮かべた。

 

「悪いな。私もいろいろ立て込んでるんでね」

 

次の瞬間、フッと肩を引いて振りかぶった彼女の右手が、堀北の頬を狙って鋭く振り下ろされる。反応が遅れれば、そのまま意識を持っていかれていたかもしれない。

 

体も思考も限界に近かったが、それでも——負けるわけにはいかなかった。

 

掴まれていた前髪を思い切り振り払い、堀北はふらつく体を無理やり起こす。そして、よろよろと距離を取ろうと一歩踏み出す——が。

 

足がもつれ、力が抜けたように、また地面へと崩れ落ちた。

 

「……こんな強引な方法が……許されると思っているの……?」

 

泥にまみれながら、堀北がかすかに睨みつける。だが伊吹は答えず、薄く笑って言い放った。

 

「さあ。答える気はないな」

 

伊吹が再び距離を詰める。そして、無造作に高く足を上げると、ためらいなくそのかかとを堀北の顔めがけて振り下ろす。

 

その動きがスローモーションのように見えた。

 

——何度、頭の中で思い返しただろうか。

 

一人で背負い込み、一人でミスを取り返そうとして、一人でここまで来た。

 

その結果が、これだ。

 

堀北鈴音は、痛みと悔しさの中で、静かに自分の過ちを悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 

完全に意識を失った堀北を見下ろしながら、伊吹はその場で大きく息を吐いた。肩で呼吸するほどに体力を削られていたが、それでも彼女の目にはどこか満足げな光が宿っている。

 

「……はぁ。マジで手強かったわ」

 

泥まみれになった服を気にも留めず、伊吹は小さく呟いた。

 

もし堀北の体調が万全だったなら——そう考えると、自然と苦笑が漏れる。あのまま続けていたら、勝負の行方は分からなかった。それほどに、堀北鈴音は強かった。

 

だが今は、勝者は自分だ。それが事実だった。

 

ひと息ついた伊吹は、再び地面にしゃがみ込む。先ほどまで掘りかけていた場所を両手で手際よく掘り返していくと、ほどなくしてビニールに包まれた小さな懐中電灯と無線機が土の中から姿を現した。

 

伊吹は無線機を取り出し、余計な泥を拭って作動を確認する。

 

 

伊吹は無線機で”あの男”に連絡を取り、疲労困憊のまま地面に座り込む。堀北との戦いは予想以上に手強く、精神的にも大きな消耗を残した。やがて見たくも無い憎ったらしい男、龍園翔が到着し、伊吹の行動を評価しつつも、デジカメの故障という“ヘマ”で予定が狂ったことを責める。

 

本来はキーカードの写真だけで済むはずだったが、撮影できず実物を盗む事態に。結果、堀北に正体を知られ、事態は悪化。伊吹は思わず「面倒なことになった」とこぼすのだった。

 

伊吹がポケットから取り出したキーカードを龍園に手渡すと、龍園は懐中電灯で照らし、「ホリキタスズネ」と刻まれた名前を確認。

 

次に、物陰からAクラスの葛城が現れ、龍園の指示でカードの現物を自分の目でも確かめる。天候や状況的に偽物を用意するのは不可能であり、葛城も「本物のようだ」と判断するが、それでも表情は険しいまま。

 

伊吹はその様子を見て、慎重すぎる葛城の性格に呆れつつも、龍園が本当にAクラスを取り込んでいた現実に戦慄する。

 

試験開始直後に「丸め込む」と言っていた言葉が現実になっていることに、改めて龍園の怖さを実感するのだった。

 

葛城は龍園に手を差し伸べ、「交渉成立」として彼の提案を受け入れると告げた。龍園はそれに不敵な笑みで応じ、「正しい判断だ」と一言。伊吹はそのやり取りを見て、詳細を知るために割って入る。

 

彼らが何を企んでいるのか、Aクラスを目指す自分にも知る権利があると考えていたからだ。

 

龍園は簡潔に「Aクラスと手を組んだ」と説明し、伊吹に衝撃を与える。葛城はそれ以上の説明を避け、余計なリスクを避けるためと言い残してその場を後にする際、堀北のカードを伊吹に返却していった。

 

龍園は何も言わず、そのまま闇の中へと姿を消した。無線の件、交渉の段取り、そして堀北のカードの奪取──全てが計画通りとはいかなかったが、致命的な破綻は免れた。そう判断したのだろう。

 

「ったく……あいつ、好き勝手しすぎなんだよ」

 

伊吹は一人残されたその場で、ふぅっと長い息を吐いた。任されたのは“後始末”。キーカードについた指紋の拭き取りだ。ぬかるんだ地面と雨の湿気で手元の感覚は最悪だったが、それでも抜かりは許されない。

 

「……これで、終わり」

 

慎重に確認を終え、カードをもう一度ビニール袋に戻す。あとはこの場を離れるだけ──そう思った、その時だった。

 

「何をしてる?」

 

背後から、静かで、それでいて冷ややかな声が降ってきた。

 

伊吹の体がビクリと硬直する。まさかこのタイミングで現れるなんて──いや、最悪の想定だった。

 

振り返らなくても、声の主は分かっていた。

 

 

桐生一葉

 

 

まるで幽霊みたいに、物音ひとつ立てずに立っていた。じっとこちらを見据えるその目は、まるで何もかも見透かしているようだった。

 

「……別に。ちょっと落とし物探してただけ」

 

伊吹は努めて平然を装いながら、カードを背中に隠すようにゆっくりと立ち上がった。

 

だが桐生の視線は、その仕草一つひとつを逃さなかった。まるで証拠を引き出すように、静かに、しかし確実に、彼女へと歩み寄ってくる。

 

伊吹澪にとって、最悪のタイミングで、最も厄介なのが現れたのだった。

 

 

「お前なんだろ」

 

低く投げつけられた声に、伊吹は眉をわずかに動かした。

 

「……は?」

 

「下着を盗んだのも、Cクラスのスパイも、キーカード盗んだのも、堀北を気絶させたのも──全て、お前なんだろ」

 

桐生一葉は一歩、ぬかるみに足を踏み出した。視線は逸らさず、感情の読めない表情のまま。

 

伊吹は一瞬だけ言葉を失ったが、すぐに小さく鼻を鳴らした。

 

「……だったら、何よ」

 

開き直ったようなその言葉に、桐生は静かに首を横に振る。

 

「聞く必要ないだろ」

 

その瞬間だった。

 

桐生の空気が一変する。まるでスイッチを切り替えるように、彼女の身体から漂う気配が鋭くなった。《ラピッドスタイル》をの構えを桐生はとる。──場数を踏んできた人間だけが出せる、無駄のない構えだ。

 

伊吹も黙ってそれを見ていたが、すぐに唇を歪めた。

 

「……いい度胸じゃん」

 

彼女もまた身体を沈め、重心を取る。両者の視線が交錯する。ぬかるんだ森の中、降り続く雨の音だけがその場を支配していた。

 

「リベンジマッチだ、桐生!」

 

戦いは、再び始まる。

今度は、お互いに一切の遠慮も容赦もなかった。

 

 

 

《高度育成高等学校 1年Cクラス 伊吹澪》

 

 

 

先に動いたのは伊吹だった。

 

彼女の攻撃手段は、やはり足技。接近するなり、迷いなく横蹴りを繰り出す。桐生の脇腹を狙った一撃は、まともに受ければ呼吸を奪う威力があった。が、桐生はそれをスウェイでかわす。

 

“前よりも鋭くなってるな....”

 

以前の蹴りより鋭くなった事に桐生は気づく。彼女に負けた後、鍛えたのは近藤だけではなかったようだ。

 

すぐさま伊吹は回し蹴りに繋げた。旋回する身体、鋭く伸びた脚に動きに無駄はなく、目にも留まらぬ速さ。

 

だが桐生は顔色一つ変えずにその回し蹴りをまたスウェイでかわすと、すぐさま反撃のジャブを一発、的確に放った。

 

「セィッ!」

 

「チッ……!」

 

拳がかすった伊吹は、一歩退いて距離を取る。けれどその目は怯んでいない。むしろ研ぎ澄まされたように鋭く、次の一手を測っていた。

 

足技中心の伊吹にとって、間合いを制するのは重要だった。近づきすぎれば桐生のパワーが脅威になるし、遠すぎれば打撃が届かない。

 

それでも伊吹は踏み込んだ。低い姿勢からの内股蹴り、跳ね上げるような踵落とし――連撃を畳みかける。

 

桐生はそれらを紙一重で捌いていく。避けきれない蹴りには腕を使ってガードし、体幹の強さでそのまま耐える。

 

音が重く響くたび、桐生の肉体が“女”のそれとは思えないほどの頑強さを示していた。

 

それでも伊吹は止まらない。泥が跳ね、汗が飛び、吐息が荒くなる中、彼女は正面から打ち合う覚悟を決めていた。

 

そして、両者の足がほぼ同時に跳ね上がる。

 

「ハッ!」

「セイッ!」

 

鋭い気合いの声が、闇に響いた。

 

桐生と伊吹のハイキックが空中でぶつかり合い、衝撃音が鳴り空気が一瞬凍りついたような沈黙が落ちる。

 

 

 

 

 

 

 

 

桐生と伊吹には決定的な違いがある。喧嘩で培った経験、的確な技術、それももちろんある。だが一番の差は、筋肉量。女子としては上位の身体能力を誇る伊吹だが、桐生はその上をいく。

 

同じ女性とは思えないほど鍛え上げられた肉体。その差は、打ち合いになったときに如実に現れる。体格の優位が、力と勢いをそのまま通す。つまり、桐生は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女子には到底真似できない荒技が出来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊吹の蹴りが弾き返されるように押し戻された。

 

「嘘でしょ...!」

 

伊吹が呟いた。彼女の体重を乗せたキックも、桐生にとっては「多少重い打撃」くらいの扱いでしかない。真正面から受け止めて、返す。技術で捌く必要すらないと判断すれば、そのまま力で押し返す。まさにそれが、今だった。

 

「フッ!セイ!オラッ!ハァッ!」

 

桐生が踏み込み、無駄のない動きから繰り出された拳のラッシュとハイキックが、伊吹の上半身を捉えた。

 

「ぐっ……!」

 

伊吹の体が一瞬浮き、次の瞬間には後方へと吹き飛ばされていた。桐生は伊吹の元に近づき追撃する。

 

 

《踏み追い討ちの極み》

 

 

「ハッァ!」

 

桐生は間髪入れず、倒れ込んだ伊吹の顔面を容赦なく踏みつけた。

 

「っ……く……!」

 

鈍い音と共に、土の地面に押しつけられる伊吹の後頭部。容赦のない重さがのしかかる。

 

伊吹は後ろに距離を取り、地面に手をつく。踏みつけられた衝撃が効いたのか、鼻から血が垂れ落ちる。

 

“”クッソ、容赦なく顔踏みつけやがって.....このままじゃ埒が明かない。””

 

そう判断したのか、次の瞬間には彼女の戦い方が変わっていた。これまで足技中心だったスタイルに、拳も織り交ぜ始めたのだ。

 

「チッ……!」

 

鋭く踏み込みながら放たれるパンチ。その勢いに迷いはない。だが——。

 

“コイツ、拳はあんま速くないな。”

 

桐生の視線が、その拳を冷静に追いかけていた。確かに攻撃の幅は広がったが、拳そのものの速度やキレは、足技に比べるとどうしても見劣りする。

 

やがて、二人の距離はほとんどゼロにまで縮まった。回避も牽制も意味をなさない間合い。拳を交える戦いが始まる。

 

伊吹が真っ直ぐにストレートを繰り出す。狙いは正確、力も込められていた。だが——。

 

「甘い!」

 

桐生はそう言って、左手でその拳を下に払った。流れるような動作。そしてそのまま、身体をひねって――。

 

「ラァッ!」

 

「ガッ……!」

 

伊吹の顎に、桐生の肘が鋭く突き上がる。アッパーのような角度で、重く、鋭く。至近距離だからこそ成立する、手加減なしの一撃だった。

 

 

伊吹はふらつきながらも意識を繋ぎとめ、一歩、二歩と後退してから踏み込むように右ストレートを放った。

 

しかし桐生はその軌道を読み切っていた。すっと右側に身を滑らせて拳を空振りさせると、迷いなく左の拳を振り抜いた。

 

狙いは、背中寄りの腰のあたり——急所(腎臓)すれすれの位置に、重い一撃を突き刺さす。

 

「ハッ!」

 

「ぐっ……!」

 

伊吹の息が詰まったその瞬間、桐生はさらに動いた。続けざまに左手で後頭部をフックのように殴りつける。

 

そして右の拳を下から突き上げた、鋭いアッパーを繰り出す。

 

「セイッヤ!」

 

「ガハッ!」

 

顎が跳ね上がり、伊吹の身体がわずかに浮く。そこへ追い打ちのように、桐生の左拳が迷いなく伊吹の顔面を捉え、彼女の体を吹き飛ばす。

 

 

そして、桐生はスタイルを《不良スタイル》に戻し、倒れ込んでる伊吹を無理矢理起こし、最後の追撃(ヒートアクション)をする。

 

 

《超•不良の極み》

 

 

伊吹の右腕を桐生の左手ががっちりと掴んだ。逃げ場はもうない。

 

「ハッ!」

 

掛け声とともに、右の拳が振り抜かれる。横殴りの裏拳が顔面をとらえ、伊吹の視界が揺れた。

 

「セィヤッ!」

 

畳みかけるように、桐生は両手で伊吹の後頭部をがっしりと掴む。力の入った指先が髪を引っ張るように固定し、そのまま膝を勢いよく突き上げる。

 

ゴンッと鈍い音が響き、伊吹の顔面がまともに膝蹴りを受けた。

 

「ドリャァッ!」

 

最後は両手を組み、ハンマーのように頭上から思い切り打ち下ろす。頭部に直撃したその一撃は、まさに桐生ならではのパワープレイだった。

 

「き....りゅ.....」

 

追撃(ヒートアクション)を喰らった伊吹は崩れるように地面へ倒れ込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

伊吹を倒した直後、桐生はすぐに堀北のもとへ駆け寄った。

 

「堀北、しっかりしろ」

 

声をかけながら、その額に手を添える。体温が明らかに高い。戦闘で消耗しているはずなのに、発熱までしていたとは――。そんなことを考えていたときだった。背後に、何かの気配。

 

振り返ると、そこに立っていたのは綾小路だった。

 

「綾小路……どうしてここに?」

 

「堀北と伊吹、それに桐生までいなくなったら、誰だって心配するだろ。それで……伊吹は?」

 

「……ああ、伊吹はCクラスのスパイだった」

 

「そうか……」

 

そのとき、堀北が微かに声を漏らした。

 

「ん……っ」

 

意識を取り戻しつつあるようで、ゆっくりと、けれど確実に目を開いた。視線はまだ焦点を結ばず、状況が飲み込めていないようだった。

 

「堀北……」

 

ぼんやりとした声で、彼女がつぶやく。

 

「っ……頭、痛い……」

 

「相当熱が出てるからな。無理しない方がいいぞ」

 

綾小路がそう助言すると、桐生はもう一度堀北の額に触れた。熱はかなり高い。このままでは本当に危ない。早く処置しなければ。

 

“……リーダーの交代には正当な理由がなければいけない……”

 

桐生の脳裏に、その制約が浮かんだ。ただの交代は認められない。

 

だが——その時、桐生の中である考えがよぎる。

 

“……今の堀北は、熱が出てる。明らかに体調が悪い。このまま試験を続けさせるのは無理がある”

 

試験のルールは厳しいが、無理を通してまでやらせるほどではない。これが、明確なリーダー交代の理由になる。

 

“……正当な理由として十分通る筈だ”

 

桐生はもう一度、苦しそうに呼吸する堀北を見つめた。すでに彼女自身の体は、続行不能というサインを出していた。

 

「堀北、お前はもう危険な状態だ。すぐにリタイアしろ」

 

桐生の声に、堀北は眉をしかめながらも首を横に振った。

 

「私が……リタイアしたら、30ポイント……失うことになるわ……それだけは、避けないと……」

 

「その体で、ベースキャンプ地に戻れるのか?」

 

綾小路が静かに問いかける。その一言に、堀北は言葉を失った。

 

返答の代わりに、堀北の瞳が揺れた。自分でも分かっている。今の体で戻るのは無理だ。無理なのに、それでも戻ろうとしていた理由――それは、責任感の強さゆえだった。

 

しばらくして、堀北はポツリと語り出す。誰かに頼ればよかったこと。体調の悪さを隠さず、素直に伝えていればよかったこと。自分はこの試験で何も成果を出せていないこと。クラスに、迷惑をかけたくなかったという想い。

 

その強すぎる責任感が、彼女を一人にしてしまっていた。

 

桐生も綾小路も、その言葉を黙って聞いていた。そして桐生は口を開く。

 

「堀北、目先の勝利に囚われるな」

 

桐生の声は静かだったが、芯が通っていた。熱でぼんやりする堀北の意識にも、それはしっかり届いた。

 

「まだ最初の試験だ。今回がダメだったなら、次に活かせばいい」

 

その言葉に、堀北の瞳がわずかに揺れる。今まで彼女が繰り返してきたのは、勝たなければ価値がないという考えだった。だが、桐生の言葉はそれを否定するものだった。

 

「……でも……」

 

何かを言いかけた堀北を制すように、桐生は続けた。

 

「この先、平田だけじゃどうにもならない時が必ずくる。お前の力が、絶対に必要になる。そん時にお前がクラスを引っ張るんだ」

 

桐生の言葉は、堀北を責めるものではなかった。ただまっすぐに、彼女のこれからに期待しているという思いが込められていた。

 

「ええ...必ず出来るように....なってみせるわ....」

 

その言葉を最後に堀北はまぶたを閉じた。

 

綾小路と桐生は船のデッキに行き時刻は午後7時58分。かなり際どかったがリタイア申請は、すぐに通った。

 

 

 

 

 

8月7日。無人島生活もついに終わりのときを迎える。

 

『ただ今試験結果の集計をしております。暫くお待ちください。既に試験は終了しているため、各自飲み物やお手洗いを希望する場合は休憩所をご利用下さい』

 

そんなアナウンスが流れ、生徒たちが一斉に休憩所へと集まっていく。

 

拡声器のスイッチが入る音が砂浜に入ると、真嶋が姿を見せる。

 

「そのままリラックスしていて構わない。既に試験は終了している。今は夏休みの一部のようなものだ。つかの間ではあるが自由にしていて構わない」

 

そうは言われても生徒たちの間には緊張が走り、雑談は瞬時に消え失せる。

 

「ではこれより、端的にではあるが特別試験の結果を発表していきたいと思う。なお結果に関する質問は一切受け付けていない。自分たちで結果を受け止め、分析し次の試験へと活かしてもらいたい」

 

 

「これより、特別試験の順位を発表する。最下位は──Cクラス、0ポイント」

 

その瞬間、静寂を破るように須藤の爆笑が響き渡った。

 

「ぶははははっ! ほら、見ろ! やっぱり0ポイントじゃねぇかよ!」

 

腹を抱えて笑いながら、龍園の方を指さしてはしゃぎ倒す。まるで子どもが勝ち誇ったような無邪気さで。

 

さっきまで龍園に煽られたからその仕返しもあるだろう。

 

一方の龍園はというと——。

 

「……0、だと?」

 

ショックというより、理解が追いついていない。そんな表情で、ぽつりと呟いた。状況が飲み込めていないのか、目の奥にあった光が一瞬だけ鈍くなる。

 

だが、真嶋はそんな空気を気に留めることなく、淡々と次の順位を読み上げる。

 

「続いて3位は、Aクラス。150ポイント。2位、Bクラス。174ポイント」

 

ざわ…ざわ…と微かなどよめきが広がる。予想を裏切る順位、そして意外なポイント差。

 

そして最後に、残る一つ——。

 

「Dクラスは……」

 

一瞬だけ、真嶋の声が止まった。目元がわずかに動き、言葉の出だしが遅れる。

 

だがすぐに、何事もなかったかのように言葉を続けた。

 

「……255ポイントで、1位となった。以上で、結果発表を終わる」

 

その瞬間、空気が変わった。誰もが一瞬、信じられないという顔でDクラスの方を見る。

 

「どういうことだよ、葛城!」

 

怒鳴り声が反響する。声の主はAクラスの男子生徒。目を見開き、葛城の胸ぐらを掴む勢いで詰め寄っていた。

 

「……何かがおかしい。こんなポイント差、ありえない……ま、まさか……」

 

混乱と焦りが広がる。Aクラスの休憩所周辺は、明らかに異様な空気に包まれていた。

 

その中心で、葛城は無言だった。

 

額には汗、唇はわずかに震えている。普段は冷静沈着なはずの彼が、今は何かを隠しているような、あるいは――追い詰められているような表情をしていた。

 

 

試験が終わり、解散となった一年生たち。船の出発まではおよそ二時間――それまでの過ごし方は自由だった。

 

桐生も荷物をまとめて、乗船口へ向けて歩き出す。

 

「やあ諸君。一週間の無人島生活はどうだったかな?」

 

ドリンク片手に、まるで迎えの王子様かのようなテンションで、船のデッキから高円寺が声をかけてきた。髪はいつも以上にツヤツヤ、肌もテカテカ。どこからどう見ても元気そのものだ。

 

「てめぇ高円寺!お前のせいで30ポイント失ったんだからな!」

 

怒りをぶつけたのは池。だが高円寺は悪びれる様子もなく、優雅に笑みを浮かべた。

 

「落ち着けたまえよ、池ボーイ。私は体調不良で寝込んでいたのだ。仕方ないだろう?」

 

“絶対嘘だな”

 

……心の中で桐生がそう思った。いや、思ったというより、確信していた。誰が見ても、あの艶と張りのある肌に病人の気配など1ミリもない。

 

男子たちから集中砲火を浴びる高円寺のそばに、少し遅れて堀北が姿を現した。

 

その表情には、まだどこかしんどさが残っている。青ざめた顔が、回復しきっていない体調を物語っていた。

 

堀北の存在に気づいたクラスメイトたちの視線が、自然と集まる。どこか気まずそうに、けれど心配するような目で、彼女を見つめていた。

 

「す、鈴音。もう体調は良いのかよ」

 

ちょっと口ごもりながらも、果敢に声をかけたのは須藤だった。

 

“験前にも一度、下の名前で呼ぼうとしてたな、堀北のことを”

 

「そこそこね。まだ万全とは言えないわ。ところで須藤くん」

 

堀北はピシャリとした口調で続ける。

 

「勝手に私を鈴音と呼ばないで。いいわね?」

 

「う……わ、わかった」

 

あっけなく撃沈。意気込んだ須藤の挑戦は、一言で沈められた。

 

場の空気が少しだけ和らいだところで、堀北が周囲を見渡す。

 

「でも──どういうこと?どうしてDクラスが1位に……」

 

本来なら、彼女は責められる立場にいると思っていた。途中でリタイアし、クラスを支えられなかった自責の念があったのだろう。だが、周囲の反応はまるで違った。

 

「そ、そうだよ。どういうことなんだよ平田!さっぱりわかんねぇ」

 

須藤の問いに、注目が集まる。だが平田は、答えるより先にやるべきことがあるとでも言うように、一歩前に出た。

 

「それは……軽井沢さん。まずは君から堀北さんに話すべきことがあるんじゃないかな?」

 

名前を呼ばれた軽井沢は、俯いたまま姿を現す。そして堀北と向き合い、口を開いた。

 

「ごめん」

 

はっきりとした謝罪だった。

 

「私の下着を盗ったの、伊吹さんだったんでしょ。しかも堀北さんが逃げようとした伊吹さんを問い詰めようとして、それで倒れたって……全部、綾小路くんと桐生さんから聞いた」

 

「え……?」

 

思いがけない言葉に、堀北は目を見開いた。視線を自然と、綾小路と桐生のほうへ向ける。

 

「それに、先に平田くんから聞いたんだよね。堀北さんが、AクラスとCクラスのリーダーを見抜いたって。だからこんなにポイントが高かったんでしょ。だから……いろいろごめん」

 

そう言い残して、軽井沢はそそくさと女子たちの元に戻っていった。

 

「ちょっと待って。私が……リーダーを見抜いたって、だって私はリタイア──」

 

「謙遜する必要はないよ、堀北さん。この結果は間違いなく君の力だ」

 

平田の言葉は断言だった。堀北はまだ状況が飲み込めていないようだったが、それでもクラスメイトたちの視線は明らかだった。誰も彼女を責める者などいない。むしろその逆だった。

 

「綾小路くん、桐生さん。あなた達、何を──」

 

混乱と疑問が交錯しながらも、堀北はふたりに問いかけようとする。だがその前に、クラスメイトたちが堀北を取り囲んだ。

 

「堀北さんチョーすごいじゃん!マジで天才じゃん!」

 

「リタイアって聞いたときは終わったかと思ったけど、おーるおっけーだね!」

 

「ちょ、ちょっと……!」

 

あれよあれよという間に、堀北は賞賛と感謝の渦に飲み込まれていく。

 

 

 

 

 

 

綾小路が姿を見せない中、堀北が動くのは当然の流れだった。

 

状況を整理するためには、話を聞く相手が必要だ。そして今、この場にいる中で一番“知っていそうな”人物は──桐生一葉に他ならない。

 

堀北が桐生の元に歩み寄り、真正面から見据える。

 

「説明して。あなた達、一体何をしたの?」

 

その問いは、責めるというより、確かめるためのものだった。理解したい。知らされていない何かを、きちんと自分の中に落とし込みたい。そんな感情がにじんでいた。

 

堀北が桐生に説明を求めたのは、無理もない話だった。彼女にとって、この結果はあまりにも想定外だったのだから。

 

“そりゃ、気になるよな...”

 

桐生は静かに目を伏せ、ひと呼吸置いてから話し始めた。

言葉は丁寧ではなかったが、嘘はなかった。綾小路がどう動いたか、どうやってAとCクラスのリーダーを見抜いたのか、全てを包み隠さず話した。

 

堀北は黙って聞いていた。時折小さく眉をひそめることはあっても、言葉を挟むことはない。彼女はただ、事実を、真意を、受け止めようとしていた。

 

「……そう。そういうことだったのね」

 

しばらくの沈黙ののち、堀北はぽつりとそう漏らすと、少しだけ目を細めた。

それは怒りでも悲しみでもなく、どこか納得と覚悟を滲ませたような表情だった。

 

「私は、ちゃんと変わらなきゃいけないわね」

 

桐生は何も言わず、ただわずかに頷いた。

 

波の音だけが、静かに二人の間を流れていた。

 

 

 




所用で居なくなる綾小路は直前に自身の計画を桐生に話しましたが全てを話していません。話したらとんでもなく厄介な事になるので必要な所だけ桐生に説明しました。それでも、彼女は納得しないので「クラスを引っ張っていくには“信用”という土台がいる」と説明しなんとか納得させた感じです。

これで無人島試験編が終了し干支試験に入ります。
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