尾道駅前から渡船に乗り、対岸の島の船着き場へ下りたあおいと千明。
桟橋を渡り、ちょっとしたアーケード街のようなゲートをくぐって、向島に降り立った。
『向島』
尾道市街からすぐ南、文字通り尾道の『向かい』に位置する島である。
しまなみ海道を尾道側からスタートした場合、最初に訪れるのがこの島だ。
江戸時代は塩田、近年は造船業や農業で栄えてきた。
映画『あした』や『男たちの大和』などのロケ地にもなっており、ファンの間では聖地とされている。
乗船場の前はL字型に道路が通っている。
道沿いには工場や商店もあるが、どちらかといえば民家が多く住宅地といった雰囲気だ。
正面に伸びる道には、両端にブルーのラインが引かれ、進行方向を示す矢印も書かれてある。
これはしまなみ海道サイクリングロードを示すもので、ここから各島を渡って今治市までずっと続いている。
なので、この線に沿って進めば迷うことはない。
しまなみ海道サイクリングロードは、全長約七十キロ。所要時間は平均で約八時間、早い人なら四時間ほどで走破できる距離だ。
あおいはサイクリストとしてはまだまだ初心者だが、それでも寄り道なしで行けば夕方頃には今治に到着できるだろう。
しかし、今回あおいたちは数日かけて旅することにしている。
基本的にはサイクリングロードに沿って進むが、途中の島で立ち寄りたい観光スポットなどがあれば、ルートから大きく逸れても寄り道していくつもりだ。
「――ほんで、最初の目的地はどこや?」
あおいは愛車のロードバイクにまたがると、レンタルの電動アシスト自転車にまたがる千明に訊いた。
今回の旅で立ち寄る場所については、ふたりで独自のルールを決めた。
それぞれの島で行ってみたい場所を、ふたり交互に決める、というものである。
最初の島であるこの向島では、どこに行くのかは千明が決めることになっている。
逆に、次の島ではあおいが決める。
お互い、どこに行くのかは教えていないし、相手が担当の島にどんな観光スポットがあるのかも調べないようにした。
相手がどこに連れて行ってくれるのかをサプライズ的に楽しもう、というわけである。
千明は事前にインターネットやレジャー雑誌で向島のおすすめ観光スポットを調べているはずだ。
さて、
千明はくいっとメガネを上げた。
「ふふん、聞いて驚け。最初の目的地はなんと……
得意げに宣言した千明だったが、あおいは冷めた目を向ける。
「いや、厳島神社って、確か広島の西の方やろ。ここ尾道やで、遠すぎるわ」
すると、千明は人差し指を立て、ちっちっちと振った。
「それは厳島神社の総本社だ。稲荷神社でいえば京都の
「日蓮宗でいえば
「神社と寺の違いがあるからその辺はよく判らんが、まあたぶんそうだろう。そんで、厳島神社も、全国に五百ほどの分社があるんだ。この向島には、その分社がふたつもあるんだぜ?」
「へえ、そうなんや」
「ああ。広島といえばやはり厳島神社は外せないからな。本社の方は、いま世界中から観光客が訪れて大混雑だそうだが、こっちの方はたぶん
「わかった。ほな行ってみよか。ナビは任せたで」
あおいがそう言うと、千明は「ふふん」と意味ありげに笑った。
「最初に言っておくが、これはかなり険しい道のりになる。イヌ子、遅れるなよ!」
千明は自転車を漕ぎ始めた。
ゴクリ、と喉を鳴らすあおい。
険しい道のり……急な上り坂を登るのか、それともルートから逸れかなり遠いところまで行くのか、あるいはその両方ということも……。
千明の自転車は電動アシスト機付きだからその辺は比較的楽だろうが、あおいのロードバイクは自分の脚力のみが頼りだ。
だが、この旅が厳しい道のりになることは既に覚悟していたことでもある。
サイクリストとして、最後まで走り抜けよう。
そう決意し、あおいは千明について自転車を漕ぎだした。
千明はブルーのラインに沿って真っ直ぐ南へ進む。
そして、その約
「よし。最初の目的地到着だ」
千明はガレージのある広場の前で自転車を停めた。
後ろのあおいは「早っ!!」とツッコミを入れる。
広場には『厳島神社専用駐車場』という看板があった。
向島厳島神社は、駅前渡船船着場のすぐ近くだ。
「どこが険しい道のりやねん。ほとんど目と鼻の先やないか」
と、あおい。
「フ……主観の相違だな」
千明はあおいの言葉を軽くいなし、駐車場に自転車を停めた。
まあええわ、とあおいも自転車を停める。
駐車場を出て道なりに少し進むと、参道を示す看板があったので、そこを曲がった。
『向島厳島神社』
向島渡船船着場から徒歩三分の場所にある厳島神社の分社である。
海の神様が祀られてあり、尾道水道を行き交う船舶の守り神であることはもちろん、造船の神様、漁業の神様、そして交通安全の神様でもある。
しまなみ海道の自転車旅の際にはぜひとも参拝したいパワースポットだ。
「……いいか、イヌ子。神社に参拝する際には、絶対に守らなければならない五箇条がある。もしこれを破れば、それはそれは恐ろしいたたりが――」
おどろおどろしい声で大袈裟に言う千明に、あおいは
「いや神社の参拝方法くらい知ってるから。アホなこと言うてないで、行くで」
と言って、先に進んだ。
――まずは、境内に入る前に一礼、と。
あおいは参拝のマナーを思い出しながら、会釈をしてから境内に入る。
参道の中央は神様が通る場所なので端によって歩き、身を清めるための
分社だけあって、敷地はそう広くはない。地域住民に親しまれている神社、という雰囲気だ。
観光客らしき姿はあおいたち以外になく、近所の住人と思われる年配の女性が一人、敷地内を熊手で掃除していた。
おはようございます、とあいさつを交わし、さらに進む。
手水場は
そこでお清めをしようとしたら。
「わ、なんやこれ、カワイイな」
思わず笑みがこぼれる。
手水場は球体状の鉢になっているのだが、その上に狛犬がちょこんと乗っているのだ。
「向島厳島神社の、名物手水鉢だ」
千明が言った。
「この愛嬌のある姿がイイだろ?」
千明の言う通り、狛犬は全体的にデフォルメされた姿で、凛々しさよりもカワイらしさがあふれている。
さらに、なぜか左足だけをだらーんと投げ出して座っており、そんなところもまたカワイイ。
あおいの友達には犬好きが多い(というか野クル関連の友達は全員犬派だ)。
これは喜びそうだ。
あおいはスマホを取り出すと、いろんな角度から写真を撮った。
ひと通り撮影した後は作法にのっとり手水で心身を清め、拝殿へ向かう。
拝殿の前の鳥居でもう一度会釈。
ちなみにここにも狛犬がいるが、こちらはデフォルメされていない凛々しいタイプである。
写真を撮るのは後にして、まずはお参りだ。
鈴を鳴らし、お賽銭を入れ、二礼二拍手一礼。
あおいは今回の旅の安全を祈った。
参拝を終え、鳥居を出たところで千明が言う。
「ここの社務所は休憩処があって、自家焙煎コーヒーやクラフトコーラとか飲めるらしいぞ。行ってみようぜ」
総本社のような大きな神社にカフェが併設されていることはあるが、こういった町中の神社に飲み物を提供するお店があるのは珍しい。
あおいは千明について行く。
社務所は注連石を出て少し右に進んだ場所にあった。
入口の隣にお守りや絵馬やおみくじを頂く場所があり、さらにその隣は日当たりの良い部屋の一角が開放され、テーブルとイスが置かれてあった。
小さな古民家カフェ、という雰囲気だ。
テーブルの上にはメニュー表がある。
見ると、驚いたことにコーヒーの他に生ビールやワインまで販売している。
お酒まで提供している神社はかなり珍しいのではないだろうか。
「
「まったくだ」
野クルで静岡県の伊豆キャンプ旅行をした際、温泉後に思わずビールを飲んでしまった鳥羽先生のことを思い出す。
あの時はまだキャンプ場に着いていなかったので、急遽運転代行を手配したのだった。
そんな思い出話をしながらふたりでホットコーヒーを注文する。
尾道は海が近いだけあって風が冷たく、事前に想像していたよりずっと寒い。
冷えた体をホットコーヒーと暖かな日差しで温め、ふたりは同時に、ふわー、と、大きく息を吐いた。
「――いやこんな時間からまったりしてる場合か。ウチらまだ五分も自転車漕いでないんやで」
我に返るあおい。
旅はまだ始まったばかりだ。
ゆっくり休憩するにはあまりにも早い。
「だな。ようし。じゃあ、そろそろ次に行くか」
ふたりはコーヒーを飲み終えると、店員さん(神社なのでこの言い方が正しいかは判らないが)にお礼を言い、向島厳島神社を後にする。
そして駐車場に戻り、自転車にまたがった。
「次の目的地は向島もうひとつの厳島神社・
千明が言った。
「岩子島?」
「ああ。この向島のすぐ西にある小さな島だ。今度は少し距離があるから、頑張ってついて来いよ?」
ということで、再び千明の先導で自転車を漕ぎだした。
しばらくはサイクリングロードに沿って進むそうで、二分ほど南下し、国道に出たら右へ曲がって南西へ向かう。
住宅街を一〇分ほど進むと、正面が開けて海が見えた。
ここも尾道水道と同じく細長い海で、二百メートルほど離れた場所に島がある。
あれが岩子島だ。
千明は島の左側・南の方を指さした。向島と岩子島を、赤いアーチ状の橋が繋いでいる。
「あれで渡るんだ。さ、行くぞ」
海沿いに続く道をさらに五分ほど南下すると、橋の袂に着いた。
向島と岩子島を繋ぐ、全長一四〇・一メートルの向島大橋である。
「さあイヌ子、ここからが本番だ」
そう言うと、千明はブルーラインのルートをそれ、橋手前の横道に入った。
そのまましばらく進むと上り坂になる。橋を渡るためには、当然のことながら坂を上らなければならない。
ここまで平坦な道だったから、初めての上り坂だ。
先導する千明は電動アシスト機付の自転車なので、苦も無くスイスイ登っていく。
よっしゃ、とあおいは気合を入れる。
ギアを調整し、ペダルを強く踏み込んだ。
勾配はやや急ではあったが、距離はそれほど長くなく、三分ほどで橋までたどり着いた。
先に上がって待っていた千明が「お疲れさーん」と言った。「どうだ? 最初の坂は?」
「これくらいやったらまだまだどうってことないで。肩慣らしならぬ
この先あおいたちはいくつもの橋を渡る。
それも、この向島大橋よりもずっと大きな橋ばかりだ。
そのたびに、今とは比較にならないほどの長い坂を上ることになるだろう。
このくらいではまだまだ根をあげてはいられない。
千明はにひひと笑った。
「ようし。じゃあ、そんなイヌ子のために、次は
「特別ルート?」
「ああ。神社は、橋を渡ってすぐ左に曲がり、海沿いの道を南回りで行った方が近いんだが、今回は、あえて北へ向かってみよう」
「いや、わざわざ遠回りすることはないんやけどな」
「まあそう言うな。行ってみる価値はあるんだぜ?」
千明は意味ありげに笑うと、
「じゃ、行くぜ」
と、自転車を漕ぎ始める。
しゃーないな、とあおいも続く。
橋の高さは海面から一〇メートルと言ったところだろうか。
右手側の下には漁船が何そうも停泊しているのが見えた。
海域の幅が狭いので川のようであるが、これは立派な海。
海なし県民のあおいと千明にとって、海の上を橋で渡るのは人生初の経験だ。
「アキ」
「ん?」
「海上サイクリングデビューおめでとう」
「おう。イヌ子もおめでとう」
海なし県民にしか判らないかもしれない初体験をお互い祝福しながら、ふたりは岩子島に上陸した。