宵崎奏は孤独を感じていた。
夕刻、中学校から帰宅した奏はリビングの隅に鞄を置くと、扉の向こう側へと声を掛ける。
「お父さん、ただいま……」
返事はない。
今日も作曲作業で手が離せないのだろう。
一週間ほど前から、父の仕事は難航しているようだったから。
精神的に追い詰められていて、恐らくは奏の声も聞こえていないのだ。
……聞こえている上で無視されている、とは思いたくなかった。
「……ううん」
お父さんの仕事は私のためでもあるんだから、と奏は首を振った。
あまり暗いことを考えるべきではない。
気を取り直した奏は、床に置いていた鞄に手を伸ばす。
帰り際に近所のスーパーで、やや油気の多い惣菜を選んで買ってきたのだ。
こってりしたものはカロリー補給に優れている。
つまりこれらの惣菜は効率的な食事と言えた。
少なくとも、奏の頭の中ではそうなっている。
「これがわたしの分で……こっちはお父さんの分」
ビニールをガサガサと鳴らしながら、食卓に惣菜を並べていった。
夕食を摂ることを父に伝えようかとも思ったが、仕事の邪魔にならないようにと、結局一人で食べることにする。
キッチンの明かりは……西日が眩しいから十分か。
レンジで温めることもなく、奏はひとり、モソモソと惣菜を食べ始めた。
「……」
静かな家で、なるべく音を立てないように小さな口へとおかずを運ぶ。
こんな食事風景が繰り返されるようになって、どのくらい経つだろうか。
以前であれば、仕事で部屋にこもりきりになる父を母が引きずり出してきていた。
母が仕方ないわねと笑って、父も悪かったと苦笑を浮かべ、幼い奏はそんな二人を見上げてまた笑う。明るくて、温かくて、賑やかな食卓がかつてはここにあった。
「……っ」
静けさに耐えられなくなった奏は、テレビの電源を入れる。
リモコンのボタンを押して、音量を極力下げた上でチャンネルを回した。
ある一つの局では、アイドルの特集を組んでいたようだ。
輝くステージで笑顔を振りまいて踊る少女。
あまりにも明るい光景は、今の奏にとっては毒ともなる。
すぐにまた別のチャンネルへ切り替えようとして―――小さく耳に届いた音楽が、奏の手を止めさせた。
「この、曲……」
海が見える。
青い空と、キラキラと陽光を反射した海。
上がる水飛沫。
それにこの楽しげなイメージは……イルカ?
イルカが、近くを泳いでいるのだろうか……いや、違う。
わたしが、イルカの背に乗せられているのだ。
それで遠くへ、もっと遠くへと連れて行かれようとしている。
「……ふふ」
何それ、と笑いが溢れた。
なんという、楽天的な曲だろうか。
この曲を作った人は、きっと大したことは考えていない。
誰かを幸せにしようだとか、救おうだとか、励まそうだとか。そんなことは一切考えずに、気の向くままにこの曲を作ったのだろう。メロディーからそれが伝わってくる。
もしかしたら、何かの作業の片手間ですらあったかもしれない。
「……変、だな」
笑いと同時に、雫が頬を伝う。
やはり、あまりにも眩しい。
いま薄暗い夕暮れの中にいる奏には、眩し過ぎる。
箸を置いた奏は、テレビの電源を切った。
……いつか、この曲を素直な気持ちで聴けるときがくるといいな。
奏はしばらく、胸を揺らした曲のフレーズを頭の中で反芻した。
◇
「では、高等部と中等部の交流行事については例年通り希望者を募り、後日学校新聞に当日の様子を掲載するという形でよろしいでしょうか。反対意見がある方は挙手をお願いします。……はい、いらっしゃらないようなので次の議題に移りたいと―――」
高等部と中等部の交流行事。
響きだけは良いんだけど、これがまたつまらない行事である。
もうホントに、何の “交流” にもならないような行事なのだ。
「花妃先輩が真面目そうな顔してる……」
私の横顔を見て、ひなたが呟いた。
これね、何も考えてない顔。
会議早く終わらないかなって。
「先輩にも確か、妹さんがいるんですよね。中等部に在籍しているんですか?」
「うん。でも、あんまり通えてなくて」
「ということは、何か学外で活動を始めたとか?」
「そう。アイドル」
私もね、最初に交流行事って聞いたときは雫ちゃんとか、来年入ってくる志歩ちゃんと学校で何か一緒にやれるんじゃないかって期待したんだよ。
でもね、内容を聞いてみたら “中等部生からのお悩み相談”、“大学受験のために中等部からやっておきたいこと” ときて、唯一まともそうなのが “オススメの本紹介”。
雫ちゃんは読書好きだから、最後に関してはちょっと楽しそうなんだけど。
前二つがもう、絶望的なつまらなさを放ってる。
なんなら本紹介でもドカドカと参考書が積まれて終わりかもしれない。
そんな息が詰まりそうな行事に妹を誘うわけにもいかないので、私はこの会議に何もモチベーションを持てていないのだった。
「アイドルは……確かに、学業との両立は難しそうですね」
「そうなんだよね」
なお、学級委員は全員強制参加の行事である。
ということで、迎えた宮益坂女子学園中高交流会の当日。
「―――はじめまして。中等部一年、朝比奈まふゆです」
「同じく中等部一年、日野森雫です。ふふっ」
うん。
「えっと……日野森先輩、ですね。今日はよろしくお願いします。あの、もしかしてお二人は……?」
彼女は脇に置かれたネームプレートをちらりと見遣って、問い掛けてきた。
「高等部二年、日野森花妃です。よろしく、朝比奈さん。考えてる通り、雫の姉なんだけど……ごめん、ちょっとやりづらいよね。別の先輩呼ぼっか?」
「あ、いえ! それは大丈夫です。じろじろ見ちゃってごめんなさい。お二人が良く似ていたので、つい……」
慌てた様子で両手を振る朝比奈さん。
似ていると言われた私と雫ちゃんは喜んだ。
「椅子はそこにあるのを使ってね」
二人を机の対面に座らせた私は、朝比奈さんに目を向ける。
「じゃあまず朝比奈さん、何か先輩と話してみたいことはある? もしなければ、私の方から高等部の授業とか時間割について話して、聞きたいことがあったら聞いてもらう感じになるけど」
「はい、えっと」
私が聞くと、彼女は手元のメモ帳を確認した。
今日相談することについて予め書き留めてきていたらしい。
几帳面な性格である。
「この学校に上がってから、時々板書のペースに付いていけないことがあって」
うんうん、それは先生が悪いね。
「定期試験も近いのでノートを見返してみたら、内容が飛び飛びになってしまっているんです」
「そういうときは……うーん、そういう先生ってさ、話してる量もめちゃくちゃ多かったりしない? 問題の答えを何回も口に出してたり」
「……あっ。言われてみれば、多いです」
「授業のペース早い先生は、生徒側が顔上げないで、話してることを聞き取って書くだけで授業の内容追えるように工夫してることも多いんだよね」
「そうだったんですね……!」
「ふふ、今度から意識してみると、ちょっとは変わるかも」
私は板書諦めるけどね。
日本語のリスニングなんてしてられるか。
「でもね、はーちゃん」
呼ばれた私は、両手を膝の上で組んでにこにこと笑っている雫ちゃんを見た。
「朝比奈さん、とっても勉強熱心なのよ。予習も復習もちゃんとしていて、私が分からなかったところを教えてくれたりするの」
へえ。
「雫がお世話になってるみたいで……ありがとうね、朝比奈さん」
「いつもありがとう、朝比奈さん。私からも何かお返しできたら良いのだけれど……」
「そんな……日野森さん―――雫さんに教えるのは、私の復習にもなるんです。気にしないでください」
それに、と小さく微笑んだ朝比奈さんは続けた。
「雫さんは、アイドルのお仕事もあって大変だよね。私、雫さんのこと凄いなって思ってて……だから、少しでも応援になってたら嬉しいな」
「朝比奈さん……! ええ、私、頑張るわ!」
その後、朝比奈さんはいくつか質問をしてきて、私はそれに答えた。
最後に英単語の勉強にオススメの本は、と聞かれたので私が使っているものを教えた。
でも、あの子はあらゆる英単語と引き換えにでも “クソバ◯ア” って単語を覚えるべきだと思う。
それから雫ちゃんは終始笑顔で私たちを見守って、朝比奈さんとともに帰っていったんだけど。
あの子はあの子で何をしに来たんだろう。