うちの父と母は基本的に帰りが遅い。
母は琴の奏者としては有名な人で、平日に開いている教室は常に予約で埋まっているそうだ。
平日に教室を開く関係上、母の仕事が終わるのは夜近くになることも多い。
そして土日となれば母は大抵家にいるのだけど、ミュージシャンである父の休みは不定期である。
小さな頃の雫ちゃん、志歩ちゃんが寂しそうにしているときは、一緒に暮らしている祖母か歳の離れた姉である私が遊び相手になるのが日常だった。
「はーちゃん、今いいかしら?」
「いいよ。……あっ」
妹たちがある程度大きくなってからは、段々とそんな時間も減っていったのだけど。
それでもこうして声を掛けられると、私は反射的に答えてしまう。
画面の中でカー◯ンクルにばたんきゅーされた自キャラを見ながら、私は襖を開けた。
「今度のライブについてなのだけれど」
「うん」
部屋にそそくさと入ってきた雫ちゃんは、心なし頬を紅潮させて話を切り出した。
既にチケットは確保している。
特典付きの席を取ったせいで私の財布には多大なダメージが入ったけど、必要な犠牲だった。
「マネージャーさんに聞いたのだけれど、関係者席? っていうのが取れるそうなの! 今回の会場では特別見やすい場所になるらしくて―――」
「!?」
「それで、良ければはーちゃんに来てもらえたらって……あら?」
……遅い、とは言えない。
雫ちゃんがこんなに目をキラキラさせるなんて、そうそうあることじゃない。
チケットはもう取ってある、なんて言ったらどっちの席に行くにしても彼女の笑顔を曇らせてしまうことだろう。
「―――ありがとう、雫」
「! じゃあ―――」
「うん。招待してもらえるなら、絶対行くよ」
「はーちゃん……! はーちゃんに見てもらえるなら私、いつもありがとう、って気持ちをいーっぱい込めて踊るわ!」
見ていてね、と言われた私は表情筋を総動員して笑顔を作り上げた。
雫ちゃんのこの言葉が聞けただけで、偉い人の
その後志歩ちゃんと両親を誘いに行った雫ちゃんは、志歩ちゃんには断られてしまい、しょんぼりしていた。
なんでも、Ioliteというバンドのライブに一歌ちゃんたちと行く約束をしていたらしい。
一人で行くなら予定を変えたかもしれないけど、みんなを誘っておいて自分で中止にするのは流石に、ということだった。
それはそう。
「あっ、朝比奈さん! ちょっと来てもらえる?」
「日野森先輩……?」
翌日、昼休みに中等部の教室を訪れた私は、朝比奈さんを見つけて声を掛ける。
高等部の生徒が中等部の棟を訪れるのはあまり褒められたことではない。
同じ教室の雫ちゃんが不思議そうに首を傾げて見てくるけど、この用事だけは雫ちゃんに見られるわけにはいかなかった。
「ごめんね、急に」
「いえ。でも、どうしたんですか?」
廊下の隅で朝比奈さんと顔を合わせる。
「えっとね、朝比奈さんってアイドルのライブに興味あったりしない?」
「えっ……?」
私は事情を説明した。
良い席がね、あるんだけどね。
どう?
「……誘って下さってありがとうございます。でも、ごめんなさい」
「そっか……何か予定入ってた?」
「その、勉強をしなくちゃいけないんです。ライブって、私にはよく分からないですし」
「……」
以前話した朝比奈さんとは、少し空気が変わっているように見えた。
「なので、ごめんなさい。そのチケットは別の人に―――」
「なら朝比奈さん。勉強、教えよっか?」
宮益坂女子学園は、世間から見ればお嬢様学校である。
そして日野森という家はそれなりに昔からある家で、言わば地元の名家である。
例え彼女には彼女の事情があるのだとしても、宮女の先輩に勉強を教わりに行くことは……あまり反対されないのではないだろうか。
優等生みたいなイメージが付きやすい学級委員もやってるし。
行事で知り合った高等部で学級委員やってるパイセンにぃ、勉強教えてもらいに行くんですぅ、って言ったら通るんじゃないかな。
「このチケットを受け取ってくれるなら、今度から私が朝比奈さんの勉強見てあげる。……ね、ほんとにライブ、興味ない?」
息抜きは大事だよ。
私は後輩を悪い道に誘った。
「私、は……」
朝比奈さんは―――。
後日、私だけでは後輩の勉強の面倒を見切れない可能性が浮上したので、優希を頼った。
優希は服飾科のある高校で服飾をメインにやっているのに、未だに私より勉強ができるのだ。
助けてくださいよろしくお願いします、と言ったら何だかすんなり引き受けてくれた。
私の様子がいつもと違ったとか、なんとか。
そう?
◇
ライブは最高でしたね。
雫ちゃんがいつにもまして輝いてた。
遥ちゃんと真依ちゃん、他のメンバーもいたけど、私視点では雫ちゃんが断トツでキラキラしてた。
それでライブには全力で参戦して、終わった後で雫がわざわざ会いに来てくれたんだけど。
近くにいた遥ちゃんが私に不審な目を向けてきたのが怖かった。
やっぱり杏ちゃんから名前が出ちゃってたのだろうか。
ごめんねって。
ちょっとした失言くらい、もう時効だと思うんだ。
強めの視線からは全力で目を逸らし続けて、私はその場を乗り切った。
「―――初めまして。宮益坂女子学園高等部二年、日野森花妃です。今日はお招きいただきありがとうございます」
幸せな記憶を思い返しながら、気力を振り絞る。
祖母から教わった礼儀作法に感謝して、私は腰を折った。
「いいえ? むしろお礼を言わなくてはいけないのは私たちの方だわ。まさか高等部の先輩がわざわざ教えてくれるなんて……何かの冗談だと思ったのだけど」
実在する先輩なんだよねこれが。
「……と、そうでした。こちら、よろしければご家族で召し上がって下さい」
「あら、これはご丁寧に。……ふふ、まふゆのこと、よろしくね?」
キツい。
「お邪魔しま―――」
「ごめんなさいっ」
「え」
まふゆちゃんの部屋に入るなり、彼女から頭を下げられた私は戸惑った。
「お母さんが、電話で無理を言ってしまったみたいで」
「……あ、そのこと。これぐらい、無理でもないし気にしないで。元々私が悪いんだし」
何故私が朝比奈家を訪れているのかといえば。
ライブからの帰り道、まふゆちゃんに電話が掛かってきたのだ。
今どこにいるの、から始まって、今まで繋がらなかったけど何してたの、あなたの話していた先輩はどこにいるの。
身体を竦めたまふゆちゃんを見かねた私がスマホを取り上げて話に出た結果、こうして家まで召喚されてしまった。
学校の制服を着てきたことが功を奏したのかは分からないけど、とりあえず後輩の平穏は守れた……といいな。
「それよりほら、勉強しよ。今日はそのために来たんだし、ね?」
「……はい」
あの様子だと、ドアに聞き耳を立てていたりはしないだろうけど……いつ覗きに来るか分からない。
どうせしれっとした顔で “おやつの差し入れ” とか言ってノックもせずにドアを開けてくるに違いないのだから、勉強道具は広げておこう。
まふゆちゃんは真面目なので、勉強を始めれば没頭して取り組んだ。
彼女が詰まった問題があればそれとなくヒントをあげて、私は問題集を広げながらも、雫ちゃんと志歩ちゃんは今何してるかなとか、思い付いたフレーズ弾いてみたいなとか。
そんなことを考えながら、妹の似顔絵を落書きして過ごしている。
「ん」
私の耳に、静かな足音が届いた。
私はペラペラとノートをめくって、書きかけの計算式があるページを開く。
姿勢を正して机に向かった私を、対面の彼女が見上げてくるので、視線を戻すよう促しておいた。
「―――あら、静かね。熱心なのは良いことだけど、頑張りすぎないのよ、まふゆ? それに、日野森さんも」
ドアが開く。
やはりノックはなかった。
「うん、ありがとうお母さん。でも私はまだ大丈夫だよ」
「私もです」
何もしてないからね。
「あらあら……二人とも偉いわね。でもクッキーを焼いたから、良かったら二人で食べて?」
「わあ……! ありがとう、お母さん!」
「手作りなんて、ありがとうございます。……まふゆちゃん。ちょうどいいから、休憩にしよっか」
「はい!」
「ふふ……それじゃ、ゆっくりね」
優しげな笑みを浮かべた彼女は去っていった。
「……いただきます。先輩もどうぞ」
「いただきます。……ん、美味しい」
「お口に合って良かったです。お母さん、料理も上手なんですよ」
「―――じゃあ、またね」
「はい。今日はありがとうございました」
それからは特に何事もなく、朝比奈家の勉強会は終わりを迎える。
クッキーは美味しかったんだけど……まふゆちゃんは浮かない顔をして食べていたことが気に掛かった。
今度呼ばれたら、スナックでも持って行ってみようかな。