宵崎奏は赤面した。
どうしようもないくらいの、途方もないくらいの羞恥心を感じて、首の根元から耳の先まで真っ赤に染めた。
「お、お父さん! ……この曲、なに?」
「ん……? どうしたんだい、奏」
宵崎奏は音楽に愛された少女である。
父親がオルゴールに込めた音楽が母親の幸せを象ったように、奏自身も誰かを幸せにできるような音楽を作りたいと思っていた。
奏は音楽を愛し、ゆえに音楽に愛された。
奏が持つ音楽の原風景は、父親と母親の腕に包まれる自分という、かつてそこにあった幸せな家庭そのものである。
そんな宵崎奏は今、装着していたヘッドホンを衝動的に投げ飛ばすほど動揺していた。
奏が大切な音楽機材に無体を働いたのは、生まれて初めてのことであった。
「だ、だってこの曲……すごい恥ずかしい……」
「……どういうことか、詳しく話してくれるかい?」
「くっ、詳しく!? この曲を!?」
父親には知る由もないが奏にとってそれは、他人の情事について事細かに実況することと同義である。
まして、実の父親からそれを求められるなど。
奏は、説明しようとたった今聴いていた曲を思い返すだけで顔の熱が増すのを感じた。
「えっと、この曲は……」
「うん。僕には恋愛について歌った普通の曲に聞こえたんだ。普通と言うには、独特な伴奏があるけどね」
小学生の奏はまだ “そういった” 方面の知識は持っていない。
しかしこの旋律を作り上げた人物が、親しい誰かに対してあらゆる手段でもって熱烈に愛を伝えていることは理解できた。
撫でるように、抓るように、包み込むように、口に含むように……幼い奏からしてみればあまりにも “ねっとり” とした愛の表現であった。
頭の中で曲の構成を整理し直した奏は、未知の感覚が体の中を駆け巡るのを感じ―――。
「こ、この曲、は…………や、やっぱりムリ! こんなのダメだよお父さん!」
「ええ!? 奏!?」
少女は音楽に愛され過ぎていた。
◇
私は音楽に嫌われているらしい。
だけどそんなのは知ったことじゃない。
ぼちぼちと曲を投稿し続けて、私は中学生になった。
H.H. 名義のチャンネルには真っ黒いサムネイルがずらりと並んでいる。
下の方に並んでいる曲は低評価がこれでもかと付けられているけど、最近ではそんなこともなくなってきた。
かといって再生数が回らなくなったのかと言えばそんなこともなく、これは私の音楽が認められ始めていると考えても良いのではないだろうか。
「花妃姉。お風呂、空いたよ」
「ん、じゃあ入ってこようかな。ありがとう」
志歩ちゃんは小学三年生になって、父とよくライブハウスに行くようになった。
父がいるならおよそ心配はないのだろうけど、ライブハウスというのは良くも悪くも人の感情が激しく動く場所である。
私としては、志歩ちゃんが危ない目に遭わないか少し心配でもあった。
「はーちゃんっ」
志歩とすれ違いで父の作業部屋を出て、お風呂場へ向かう途中。
語尾にハートマークでも付いてそうな声音で雫ちゃんが私の前に飛び出してくる。
「これからお風呂?」
にこにこ。
小学四年生にして可愛いよりも美しいという形容が似合うこの妹は、前世で記憶していた通りの
そしてその対象には、言葉通り姉である私も含まれる。
油断すると一緒にお風呂に入っていたり、朝起きたら布団の中に雫ちゃんがいたり、小学校ではなく私の通う中学校まで付いてこようとしたり。
……最後のはただの方向音痴かもしれない。
別に私は構わないのだ。
雫ちゃんが幸せそうに笑っているならもうそれで良いんじゃないかと思っている。
だけど父も母も、なんなら志歩ちゃんも、そんな私たちの関係を是としなかった。
志歩ちゃんから無言で距離を取られるようになったあの時期は私の中で黒歴史である。
私は泣く泣く、雫ちゃんとベタベタするのを諦めたのだ。
「お風呂だけど……雫、先入る?」
「はーちゃんと入りたいわ」
即答。
第三の選択肢。
恐ろしい。
雫ちゃんにそんなつもりはないのだろうけど、私には雫ちゃんのにこにこ笑顔が恐ろしく見えていた。
私は試されている。
私の妹センサーは高性能であるからして、廊下の陰で志歩ちゃんがこちらに聞き耳を立てていることも把握済みだ。
もしここで私が『うん』と頷いてしまえば最後、また志歩ちゃんの警戒モードがオンになってしまうだろう。
「雫。一緒にお風呂は卒業しようって、この前話したよね?」
「大丈夫よ!」
何が?
「しぃちゃんも一緒に入ればいいと思うの。あのときはきっと、しぃちゃんも寂しかったのね」
「!?」
特に根拠のない確信が志歩ちゃんを襲う!
廊下の端の方から志歩ちゃんが慄いている気配が伝わってきた。
強い。
雫ちゃんが強過ぎる。
この頃の志歩ちゃんではまだ太刀打ちできない……!
流石に私も志歩ちゃんがそんなことを考えていないことは分かる。
あの子は単純に一人でいるのが気楽に感じる性格だ。
志歩ちゃんをいじめたいわけもないので、ここは反論しておくことにした。
「し、志歩は一人で入りたいんじゃないかな……?」
「……そうかしら。昔はあんなに一緒に入ってたのに……」
「それだけ志歩が成長してる、ってことじゃない? 雫もお姉ちゃんなら見守ってあげないとね」
「! お姉ちゃんなら……」
私のさり気ない一言が雫ちゃんにクリティカルヒット。
志歩から感謝の念が飛んできた。そんな気がした。
「じゃあ、そういうことだから」
雫ちゃんが “お姉ちゃん” の響きに衝撃を受けているうちに、私はお風呂場へ逃げ込んだ。
◇
私にとって豆腐とは、生まれたときから側にいた存在である。
私が何かで笑うとサイリウムを振って一緒に喜んで、私が落ち込んでいると物陰から心配そうに見てくる。
言葉を交わしたことがなくとも、親しみが湧くのは時間の問題だった。
だから私は、勝手に彼らと仲良くなったつもりになって、気が向いては彼らのためのライブを開催する。
そのためのステージとして、今日は家から少し離れた公園を選んだ。
「あー、あー……んんっ」
喉の調子を確認して、私は深く息を吸う。
豆腐の姿はまだ少ないけど、歌っているうちに集まってくるだろう。
「よし……『―――』」
(> <)(> <)(> <)(> <)(> <)(> <)―――!
歌う。
以前は出なかった声で。
屋外でも、マイクがなくても、遠くまで通るように。
腹の底から出した声で、空気を震わせる。
この瞬間が好きだった。
屋内とは違って、真っ直ぐに声が突き抜けていく感覚。
「♪―――!」
私は耳が良い。
ミュージシャンである父から良く褒められるのは歌だけど、その根幹にあるのは耳だ。
屋内で歌っていると、どうしても壁や床から跳ね返ってくる音がある。
四方八方で起こる音の響き合いは、嫌いではないけど好きでもない。
時として雑音のようにすら思える。
私が出した音は、そんな音じゃないのに、と。
「♪――、―――!!」
だから、こうして屋外で歌うのは好きだ。
一曲目の終わり。
空を埋め尽くして、まるで大海のように揺れるサイリウムを見ながら私は一息ついた。
「あー……疲れた」
散々歌って、日も傾いたのでライブを終える。
今日の夜ご飯はなんだろう。
たまには手伝わせてもらおう、か……な……?
へ?
『
そんな、見知らぬ曲がスマホ内のプレイリストに出現していたことで、私の思考は停止した。
なぁにこれぇ。
「……」
そっとアプリを閉じる。
スマホの画面も落とした。
……見なかったことにできないだろうか。