「ねえ花妃さん、ビビッドストリートで歌ってみない?」
「うーん、遠慮しとこうかな。私、あんまり人前で歌ったことなくて」
私は返事を濁したものの、杏ちゃんは身を乗り出して手を握ってくる。
「だいじょーぶ、きっとみんな盛り上がってくれるから! ねっ、行こう!」
「……ごめんね。私、周りに音がある場所で歌うのが得意じゃ―――」
ぐいぐいと腕を引かれた私は、遠回しに断った。
「これだけ歌える人が近場にまだいたなんて、凪さんたちにも紹介しなくちゃ!」
「もうね、とにかく人前で歌いたくないんだよね」
彼女は、相手がはっきりと拒否するまではとにかく誘ってくれるタイプの人間だ。
私はぶっちゃけることにした。
「……仕方ないなあ、もう。……じゃあ、今回は諦めてあげる!」
まるで私が駄々をこねているような印象操作はやめてもらおう。
どちらかというと今日出会った女の子に突然連れ去られそうになっている私の方が被害者である。
「それにしても、あのセトリ……花妃さんもえちえちさんのファンなんだね」
「えち……なんて??」
なんてったこの子。
「えちえちさん。あれ、知ってるよね? あんなにえちえちさんの曲歌ってたんだし」
「杏ちゃん? そんな名前連呼しちゃダメだよ?」
……彼女、志歩ちゃんと同い年のはずなんだけど。
ネットから妙なものを吸収してしまったらしい杏ちゃんを見て、まさかウチの志歩ちゃんも、と心配になった。
……いやいや、ウチの子に限ってそんな、ねえ?
……よし、帰ったらお姉ちゃんの責任としてスマホの検索履歴を……いやそれは流石にプライバシーの侵害……けど……ううん、仕方ないよね……。
「凪さんがね、教えてくれたんだ」
「へえ」
私は組み上がりかけた闇の計画を白紙に戻した。
私は何も考えなかった。
志歩ちゃんのスマホのPINコードを以前うっかり見ちゃって、後生大事に覚えておいたりもしてない。
私は過干渉はしない主義なのだ。
で、ナギさんだっけ。
誰だか知らないけどこんな純粋そうな子にいらん知識を授けよってからに。*1
「えちえちさんの作る音楽はぶっ飛んでて、だけど歌には学べるところがある……って。だから、私も時々聴いてるの」
「とりあえずなんだけど」
「ん?」
「その人のことは、
イニシャルから取って登録したのは安直だったし、私が悪い部分もある。
だけどインターネット上で呼ばれるならともかく対面で、それも年下の子から口に出されると、心理的なダメージが大きい。
えちえちさんっていうのは良くない呼び方なんだよ。
私は杏ちゃんを諭した。
「分かった! えっと、これからはえちえちさん、って呼ぶね」
分かってもらえたようである。
……変わってない気がするのは気のせいかな……?
まさかナギさんって人は何も悪くなくて、杏ちゃんの発音が壊滅的なだけだった、なんてことはないよね。
だって私の歌にも英語の歌詞は入ってるけど、それは流暢に歌えてたし。
うん、きっとナギさんって人が悪いんだ。
そうに違いない。
杏ちゃんとは、何度か公園で会っては一緒に歌う仲になった。
この子、隣で歌ってると何もアドバイスしなくても勝手に上達していくから面白いのだ。
デュエットというには、杏ちゃんがやや挑発的な歌い方をするけど。
「今日もあつーい……」
「夏だね」
なお私の視界では雪が降っている。
私と杏ちゃんの歌声に勝手に集まってきた豆腐の一人が、先ほど降らせていったのだ。
夏に雪とか……まあ、視界は涼しくなったから褒めてやろう。
「空も真っ青。……青、青かぁ」
一通り歌った私たちは並んでベンチに座る。
二人でぼんやりと空を見上げていたところ、体力が回復してきたらしい杏ちゃんがふと顔をしかめた。
「ん? どうしたの?」
「また負けちゃったんだよねー」
「あー……遥ちゃん、だっけ」
「そう! 遥ってば、テストが返ってくる度に私の机まで覗きに来るの。それで、私の点数見て “フッ……” てしてくるんだよ! わざわざ! 自分の点数チラ見せしながら! チラ見せってところがホント遥って感じでもー」
仲が良さそうで何より。
「アイドル目指してるんだっけ」
「へー、そうなんだ……?」
……あっ。
「……杏ちゃんがこの前そう言ってたんだけど。もしかして忘れちゃった?」
「うーん……? 言ったかな?」
「言ってたよ。うん、言ってた」
「……言ったかも。遥から聞いたような気がしてきた」
もう、杏ちゃんったらお茶目さん……という話ではない。
完全にやらかした。
そしてその失敗を杏ちゃんに押し付けた。
これぞ年上としての嗜みである。
「遥がアイドル……うん、考えれば考えるほどしっくりくる。いつ聞いたんだっけ……」
危なかった。
杏ちゃんの中に存在しない記憶が生まれてしまったけど、私は助かった。
◇
夏休みに入ったのを良いことに私がパソコンと睨めっこをしていると、雫ちゃんが部屋に入ってきた。
ノックがないというのは珍しい、と思っていたら―――。
「あら? はーちゃん、いつの間に
ただの方向音痴だった。
自宅で迷子になれるのはもはや特技かもしれない。
「雫はかわいいね」
「? はーちゃんは私より可愛くて、綺麗で、素敵よ?」
ベタ褒めである。
私の容姿は雫ちゃんと同じく母寄りで、雫ちゃんの髪を肩のあたりで切っておっとり要素を引っこ抜いた感じ、だろうか。
可愛い要素はどこにあるんだって思うんだけど、雫ちゃんの目を通して見ればこんな私でも可愛く映るらしい。
「私より、なんて言わないの。雫は、かわいいかわいい私の妹だよ」
「!」
椅子ごと雫ちゃんの方に体を向けて腕を広げると、雫ちゃんは嬉しそうに膝に乗ってくる。
こういうのは、ずいぶん久し振りだった。
ちょうど胸の前に来た妹の頭を、ゆっくりと撫でる。
「……私のことを可愛いって言うのは、はーちゃんとお父さん、お母さんだけだわ。学校のみんなは、綺麗って言ってくれるのよ。……どうしてかしら」
「んー、雫は周りの子たちよりも背が高くて、髪も長いし……肌も綺麗だし?」
ぷに、と雫ちゃんの頬をつついて口角を持ち上げる。
雫ちゃんは、嫌がる様子もなくぐいぐいと手に頬を押し付けてきた。
うん、この顔を見たら学校の同級生たちも考えを改めるだろう。
「でも、雫はどんなに綺麗になっても私の妹だからね」
「はーちゃん?」
良くポヤポヤしてて、こうしてたまにお部屋も間違えちゃって、志歩ちゃんのことが大好きな妹。
この子が、いつかアイドルを志すとしても。
オーディションで圧倒的なグランプリを獲得しようとも。
「雫はこんなにかわいい子なんだって、私は―――お父さんもお母さんも、もちろん志歩だって、知ってるよ」
「……なんだか、恥ずかしいわ」
「今更でしょ? こないだだって世界地図開いてシブヤを彷徨って、みんなで捜しに行ったんだから」
「……今日のはーちゃんは、意地悪だわ」
雫ちゃんは、完璧にならなくてもいいんだよ。
今もアイドルを目指して努力を重ねているだろう少女の話を聞いて、ちょっと思うところがあった私は、雫ちゃんのことを存分に撫でることにした。