嗚呼、トスカよ。慈母の恐ろしき愛に生きよ。 作:ぱる@鏡崎琴春夜
ここすきもください
ナイフの切っ先が指先を滑る。その刃はスルスルと肉を割いて、腕まで切れ目が入った一本の筋からぷっくりと赤い赤い液体が膨らみ、次第にその滴は重力に引かれ下っていきます。
その滴は試験管の中にピタリピタリと溜まっていく。それはまるで聖なる杯。これは何の目的か。それは簡単なことでしょう? お母様への捧げモノ。研究のために、この身を捧げることのなんと素晴らしいことでしょうか。
「トスカ、今日はそれくらいで十分です」
はい、お母様♪ トスカはお母様のお役に立てて光栄です。
指先から手の平を下り、肘の裏側まで引き裂いたナイフをナイフケースに収める。腕には赤黒いインクの線が様々な模様を描き、白い肌を赤く汚していきます。えぇ、痛いという感覚はトスカにも勿論ございます。けれど、それがどうしたというのです? トスカの命はお母様のモノ。命令あらば如何なるモノでも提供してこそ娘のはずでしょう?
あぁ、トスカのことなどどうでもよいのです。お話を進めましょう。お母様は研究材料であるトスカの血を捧げると研究室の方へお仕事に向かわれました。トスカは頭が良くないのでどのような研究かは存じ上げませんが、きっと崇高な目的があるのでしょう。お母様のなされることは正しいことのはずです。
しかし、お母様が研究なさっている間、トスカはする事がございません。そのようなときにはこっそりと外へお出かけするのです。
「出かけるのか、トスカ」
あら、早速見つかってしまいました。でも大丈夫、咎めるような方ではありません。サオリ姉様はとってもお優しい方。深い夜空のような青みがかった黒髪。その裏は穏やかなる海のように静まった碧。あぁ、神から二つも賜ったかのようです。
あぁ、話が逸れてしまいました。言葉の限りを尽くすのがトスカの悪い癖なのです。今日はサオリ姉様がお母様に会いに来るような用事はなかったはずなのですが、一体どうしたというのでしょう。何か緊急で会いたいことでも起きたのでしょうか? いいえ、そんなはずはございません。だって、彼女は急いでなんか居ないのですから。そう、ちっとも急いでなんかいやしません。つまり、お母様の元へ行かせるわけには行かないのですが・・・・・・
「・・・・・・トスカ?」
サオリ姉様の後ろからひょっこりと顔を覗かせた少女。背はトスカよりも少し上ぐらいでしょうか。月の光のように真っ直ぐ白い髪の毛と福音書から写し取ったかのような翼。はい、トスカは彼女を初めて見ました。瞳は不安とトスカを映しています。でも、その最奥にはとても強い意志を感じます。そうですね・・・・・・嗚呼、そう、記憶の中の幕が上がり、彼女の瞳の光はトスカの頭の中でハッキリと像を結ぶのです!
トスカがそう呼びかけると、白髪の少女はとっても不思議そうな顔をしました。えぇ、サオリ姉様はとっても苦い顔。ふひっ♪ また始まったのかと言いたげな顔。これで何度目なのでしょうか?
「気にするなアズサ・・・・・・あー、トスカは、その、よくわからないあだ名を付けるのが好きなんだ」
よくわからないと言うのは少し心外。トスカは見たままを呼んでいますのに・・・・・・あぁ、そうです。サオリ姉様もトスカからすれば『
「・・・・・・あるわけないだろう。マダムには会えないのか?」
くふひひひ。えぇ、会えるはずがございません。お母様は忙しいのですから。急ぎでないのでしたら時間を改めたほうが大変よろしいのですが? とトスカとしては言いたいのです。けれどサオリ姉様は組んだ腕の指をまるで秒針の様に刻んでいるものですから、きっと本当は急いでいるのかもしれません。
「できれば、早めに会いたいのだが」
そうですか。お母様によく怒られてしまうトスカにはわかりませんが、サオリ姉様は頭が良いのですから、きっと何か考えがあってのことでしょう。えぇ、トスカはお母様の邪魔をするのは嫌です。ですので、もっともっと、まるで地球の端から端まで歩き倒すかのような時間をここで浪費したいほどなのですが、サオリ姉様を止めるすべをトスカは持ちません。それに、お母様の研究の手を止めるに足るものなのかもしれません。そうであれば、トスカがするべきことは今すぐにでも案内することでしょう。
嗚呼、サオリ姉様、一つ問わせてくださいましょうか? お母様の時間をいただくに足ることなのですか?
「あぁ、そのはずだ」
コンコンとノックの音がお母様の居城の廊下に響き、トスカとサオリ姉様とアズサの三人はお母様の返事を待ちます。扉はしばらくの空白を過ごしてから開き、そこには少し機嫌の悪そうなベアトリーチェお母様が椅子に座っていらっしゃいます。
「マダム……先ほど、トリニティの生徒が接触してきたのですが」
サオリ姉様は、お母様の顔色を窺いながら話を切り出すのです。荒唐無稽を絵に描いた、夢物語の理想論、なにをいけしゃあしゃあとと言うような案ではないでしょうか。和平の証としてアリウスの生徒をトリニティに送り出すなんて、そんなものきっと捧げられた子羊と何の違いがあるのでしょう。Trinityの何に確執があるのか、トスカは全くわかりません。なんだかみんなが恨んでいるという程度しか知りません。しかし、お母様の敵であるならトスカの敵でもあります。そこに何も疑問を持つ必要もないのです。お母様がわかっていればよいのです。トスカはただお母様の言うことを聞けばいいのですから。ねぇ、そうなのでしょうお母様?
「……和解? 呆れるほど純真無垢な発想ですね。罠でなければおかしいくらいです。ふむ───まぁ、急ぐことも無いでしょう。無垢なのか、それとも腹黒い蛇なのか、ひとまず見守ることにしましょう」
お母様は断るという選択。ただつまらなそうにおっしゃられます。この話は少し興味深いといった声をしていたのが、直ぐに平坦な声に戻るのでした。
「それは断るという……事ですか?」
「もちろんです。和解の象徴? 何を寝ぼけているのか。トリニティの情報を得る道具として利用しましょう」
サオリ姉様はそれでも何かを言いたくて口を開こうとしますが、お母様が先にそれを制して言葉を継ぐことができなかったのです。
「下がりなさい……あぁ、トスカはそこに立っていなさい」
お母様はトスカに銃を構えて引き金を引きます。えぇ、お母様の時間を無駄に浪費してしまったのはトスカなのですからしかたありません。
「なにを!?」
「近づくなアズサ!」
お母様の手にはライフルのような大きさの拳銃。その銃弾はトスカからしてもとっても痛いものです。あぁ、こんなに痛いのはお腹を掻っ切ったときのことを思い出すほど……あぁ、本当に血が出ているのですね。どおりで痛いはずです。
「やはりここまでになれば多少は効くのですね」
お母様は弾丸を装填してもう一度引き金を引こうとするのです。これは実験の続きなのですか? そうであるなら、お役に立ててとてもうれしいのですが、チラリと横を見るとアズサをサオリ姉様が止めています。
「近づくとお前もくらうんだぞ、アイツはあれで……」
ふふっ、それが正しい選択と言うのですよサオリ姉様……。