「えーと、ちょっと情報整理させて。」
全てが語られると、隣に腰掛ける舞南斗は顎に手を当ててぶつぶつと独り言を呟き始める。そんな彼を横目にもう一人の舞南斗は茶を啜った。
二人を照らす温かな夕陽に照らされて、眼前に広がる景色を眺める。追憶の故郷が今ではどうしようもなく侘しいさを感じさせる。気位の高さ故に断じて言語化できぬ郷愁の念を誤魔化すように彼は湯呑みを握りしめた。
粉砕された破片がぱらぱらと地上に降っていくのを眺めていると、頭の整理を終えた舞南斗が声掛ける。
「おっけ、分かった。…つまり元の俺は二週間呪詛師に監禁されて特級呪霊であるお前を嗾けられた。けど俺が土壇場でまさかの領域展開を習得しちゃってお前は負けた。…んで、呪詛師に洗脳系の術式施されたせいで元の俺の意識がどっかいっちゃって、代わりにお前が暫く樹舞南斗を演じていた。…そして安達ってやつと色々あって高専の敷地に送り届けられた時に、何故か元の俺じゃなくて俺が成り代わっちまった。…あってる?」
随分と長ったらしい復習であったが、しかと要点を抑えている契約者に特級呪霊は点頭した。
「…なるほど、じゃあお前は俺が調伏した特級呪霊ってことね。」
「まあ大体そんなものだ。非常に、非常に不本意だがお前が俺を調伏した。」
「二回言う必要あった?」
不平を垂れながらも己が壊した湯呑みの代わりに新しく茶を注ぐ能天気さに呆れ返る。
「けど調伏したのは元の俺だから、俺に従う必要はないんじゃないの?」
「変わんねえよ。魂が同じなら俺の主人はお前ってことになる。」
ー不本意なことにな。
三度目の言葉は飲み込んで、湯呑みを口に運んだ。餅茶の独特な緑が喉を潤してくれる。その様子をじっと観察していた舞南斗は何を思ったのか目元を緩めて微笑んだ。
「お前、良いやつなんだな。」
「は?」
良いやつ?呪霊である俺が?
「…頭沸いてんな。」
「辛辣!だって、態々俺に憑依してまで助けようと思ってくれたんだろ?安達って奴にも、その時の状況を考えて敢えて俺のふりして従ったんだろ?...ならめっちゃ優しいじゃん、呪霊とは思えないわ!」
へにゃりと破顔する舞南斗は愈々馬鹿丸出しである。
違う。仮にも契約した己の主が呪詛師に都合良く利用されるのが気に食わなかっただけであり、そこに樹舞南斗個人を助けたいという勘案などなかった。安達に関しては、戻ってきた舞南斗が己が呪詛師と行動を共にしているという事実に絶望するのを愉しみたかっただけ。現に空白の一ヶ月間の説明だって、適当に省いたので肝心な情報の殆どは伝えていない。
俺が何か、舞南斗が何者か、それさえも教えていないというのにこの破天荒な馬鹿はどこまでも自身にとって都合の良い解釈をするようだ。まるで子犬のように瞳を爛々と輝かせて熱い眼差しを送ってくる阿呆を、最悪なことに良しとしている自分がいた。
「………最悪だ。」
思わず零れ落ちた本音にまたもや喚く契約者に、俺は何度目かの拳骨を落とした。
「あ、もう一つ聞いていい?」
頭に立派なたん瘤を作った舞南斗が尋ねる。
「お前が食べた宿儺の指ってどうなってんの。」
「いつでも取り出せるが。」
「え、まじ?」
宿儺の指に限らず呪物を取り込めば自ずと呪力量が増える。すると貯蔵する他者の呪力を自身の呪力と馴染ませることができるので、取り込んだ呪力が体外に漏出することはない。そう説明してやると「何それ便利。」瞳を輝かせて舞南斗は距離を縮めてきた。
「それと、俺はオナガアゲハだ阿保。どこをどう見ればドルーリーオオアゲハになる。」
こいつを生得領域に呼び出した一番の目的はこれだった。分不相応にも俺の本来の姿を間違えやがる無礼な契約者に文句の一つでも言ってやらねば気が済まぬと睨みを効かせれば、舞南斗は分かりやすく瞳を彷徨わせた。
「そうなのっ?いや、確かに色と後翅の形がちょっと違うなとは思ったけど、前翅はちゃんと長いし何よりでかいし。」
「次間違えたら目玉抉り取る。」
「ごめんなさい。」
正直此度の主人がこんなにも情けない愚図だと思うと泣きたくもなる。
「お前って名前ないの。ほら、特級呪霊なら名前あるだろ。ポチとかタマとか。」
「ペットかよ。」
それ以上に敗北した己の脆弱さを呪いたくなった。
「……イ…」
「え?」
「.......イツキだ。」
馴染み深くも今となっては憤ろしい忌み名を口にすると、舞南斗は瞠目した。
「俺の苗字と一緒なんだな!」
「不敬、不本意、不愉快。」
「トリプルF!?」
呪霊より以前には神と親しまれて呼ばれていた己の名は今や特級呪霊なんてものに格下げされた。目の前の童が生まれる千年も前のこと。呪術全盛の記憶が脳裏に過ぎり、辛酸をなめたあの記憶が蘇ってくる。そんな俺の横顔を舞南斗は静寂のうちに凝視していた。
「三福。」
「は?」
今度はこちらが仰天する番だった。
「よく分かんないけど、その名前嫌なんだろ?じゃあ、三福はどう?数字の三に幸福の福。」
「お前、仮にも呪霊に福なんて付けんのかよ。」
「駄目だった?」
あまりにも項垂れる舞南斗の頭から二つの獣耳が垂れ下がっているのを錯覚すると「別に。」と承諾が口を突いて出た。舞南斗は無邪気に花笑んで俺の渾名を呼んだ。
どうせ人の話を聞かぬ部類だ、俺の下らぬ過去話など傾聴すらしないだろう。そう思い至ると如何いうわけかじわりと奥底に不思議な感覚が芽生えるのに気付かないふりをした。
「そろそろ戻れ。」
「何処に?...そうだ、俺倒れたんだった。」
「いや、お前の代わりに俺が出たから問題ない。お前が任務に出れるように説得しといてやった。感謝しろよ。」
こいつがこちらの世界の舞南斗になったことで高専側と彼との間に絶妙な亀裂が生じつつある。俺は腐っても呪霊だ。事情を把握できていない舞南斗の言動で、周囲が不幸に苛まれるのは愉悦の極みである。
「三福ってやっぱり呪霊とは思えないわ。ありがとう!」
飛輪のように表情を明らめる舞南斗の輪郭が透けて境界を失ってゆく。 どこまでも鷹揚な契約者への意趣返しに、俺は最後に嫌味混じりの言葉を残したーー。
ガタン!
「ーーーっ!?」
意識が覚醒して跳ね起きると、何かに頭をぶつけて呻き声があがる。瞼を上げれば鮮明になった視界に良質なレザーの背もたれが映った。尚もじんと痛む頭を摩りながら車内を見渡すと、総監部との話し合いの度に部屋の後方で控えている補助監督の西野さんが運転している。前を見据えて運転する彼は、俺の視線に気付いてバックミラー越しに俺を見遣った。
「そろそろ到着します。」
「あ、はい。」
それだけ言うと補助監督は前に向き直り、それ以降振り返ることはなかった。
窓の外の移りゆく景色を眺めながら、三福のことを思い出す。呪霊というわりには気だての善い、どちらかと言えば兄や父のような面倒見のいい性質の俺の契約相手。言葉を交わしていくうちに、彼の本質が厳島神社の神聖な境内のように、どこまでも清浄であることが判った。元の俺がいつ戻ってくるとか、具体的なことは何一つ教えてはくれなかったけれど彼がいるならこれから先の困難を乗り越えていけるような気がした。だからきっと大丈夫。俺は俺にできることを成していこう。
見上げたルームミラーに映る俺の面持ちは決意に満ちていた。
*
東京都立、呪術高等学校。広大な敷地の一角にある寄宿舎に一、二年生は集っていた。
「先生遅くない?」
「だからいつものことだろ。いいから座れ。」
「しゃけ。」
五分置きに部屋を彷徨き同じ台詞を吐き出す虎杖悠仁に、禪院真希が苛立ちを募らせる。
「つーか恵はさっきから暗いんだよ!いい加減顔上げろや。」
「それな。」
部屋の隅で陰鬱な空気を纏い一人掛けのソファに腰掛ける伏黒恵に、鬱陶しげな視線を投げかける真希と釘崎野薔薇。元々口数が少ない方だが、いつにも増して静かな伏黒。声をかけたのは真希なりの心配りである。
だがいつまでも俯いたまま返事をしようともしない伏黒に見かねた釘崎は近づいて屈み込み、そして目を見張った。
「ちょっと、なんて顔して..」
「樹、一ヶ月の間どんな思いで俺達の助けを待ってたんだろうか。」
「........。」
眉間にこれでもかと皺を刻ませ、見たこともない悔恨を二つの黒星に浮かべる伏黒に釘崎は勿論、その場にいる者達は皆表情を曇らせた。唯一この部屋にいない人物、今ではある種のタブーとなった樹舞南斗の名が挙がったことで室内の空気がどんよりと重々しくなっていく。誰もが三福が成り変わった舞南斗の鋭利な台詞が耳にこびりついていた。
「あの時俺が残っていれば…!」
「そんなの…。」
筆舌に尽くし難い後悔と己の不甲斐なさに唇を噛み締め血を滲ませる伏黒。その悲痛に満ちた音吐に、舞南斗とは比較的関わる機会の少なかった吉野順平は慰めようとして、言葉を探し倦ねた。
一ヶ月間、舞南斗が受けた屈辱は人としての矜持を踏み躙る、耐え難いものだっただろう。誰よりも正義感が強く、心優しい彼はきっと最後まで呪詛師に屈しなかったに違いない。卑劣な呪詛師どもがどんな醜悪な手口で彼を堕としたのか、想像に難くなかった。
あの日、共に任務に向かった一年は勿論、二年の面々は一刻も早く彼を救い出すことのできなかった無力に失意のどん底に落とされていた。
そんな時、重苦しくなる一方の空気を振り払うように入り口の扉が開かれた。
「お待たせー!ってあれ、どうしたの皆して暗い顔しちゃって。」
「遅い!」
三十分遅れで現れたわりに快活な声調の五条悟に釘崎が青筋を立てる。今回ばかりは空気の読めない教師の存在が有難く感じられた。ついと、五条が腕に抱える分厚い巻物を虎杖が指差す。
「あれ、先生それ何?」
「これね、ちょっと調べ物してたんだ。…え、その顔おかしくない?」
よりにもよって不真面目代表呪術師の口から発せられた有り得るはずもない言葉に一同は言葉を失った。態とらしく嘆く五条は、しかし打って変わって協調性を欠いた普段の軽薄さを潜め真剣な表情になる。またもや生徒達は慄いた。
「じゃあ、今からちょっと大事な話するからよく聞いといてね。」
部屋の中央に設けられたソファーに座ると、五条は巻物を置いて全員を見渡す。虎杖達は静かに耳を傾けて次の言葉を待った。
「あの日、舞南斗の体を乗っ取って僕達の前に現れた特級呪霊の正体が判った。…けどその前に、皆には舞南斗の術式について説明しなければならないね。」
「術式?蝶を使役する術式だろ?」
「まあそうなんだけど、ちょっと特殊なんだ。」
パンダの疑問に五条はすかさず相槌を打った。
「今から加波比良古操術について話すけどくれぐれも他言無用だよ。色々疑問が出てくるだろうけど、取り敢えずは最後まで聞いて。」
加波比良古操術。蝶を使役する操術系術式。蝶の攻撃の殺傷力を術者の呪力で飛躍的に向上させることで相手に損害を与える。けれど一見シンプルなこの術式には実は途轍も無い秘密があった。
それこそが領域展開、舞庭新蝶常世神である。
舞庭新蝶常世神は対象の生と死、破壊と再生、輪廻転生を操ることができる奥義。...だがその前に、舞南斗が婿養子家庭で旧姓が西洞院である事実について語る必要がある。五条や禪院を含めた御三家の人間なら末端ですら周知の呪術家系としての西洞院家の断絶。
「じゃあ次はこの資料を見て。」
机の上に広げられた巻物を全員が覗き込んだ。
『西洞院家。
加波比良古操術が相伝の呪術名家。その血筋は平安時代末期の貴族、平信基(加波比良古操術の最初の発現者)にまで遡る。
平信基が備後国へ流罪となった先でとある特級呪霊に遭遇、調伏をしたのが術式の始まり。帰京した後、信基は蟄居生活を送ったとされているが、実は新たな呪術家系としてその名を馳せていた。室町前期には御三家に並ぶ名家にのし上がったとされている。以降、信基と契約した特級呪霊の加護により彼の直系は加波比良古操術の名家とされるようになった。*術式が発現するのは直系の血筋のみ。
加波比良古操術は西洞院家を本家に、平家(絶家)、烏丸気(絶家)、安居院家(絶家)へと脈々と受け継がれた。
しかし当時の当主であった西洞院時当が養子時慶を跡取りとして迎えたことにより、呪術家門としての西洞院家は絶家した。西洞院時当は特級呪霊を調伏することができた二人目の呪術師であったとされている。
永禄九年、時当は関東から京都に舞い戻り厄災を振り撒こうとした怨霊、平将門を鎮めて死亡。
平将門は半永久的に関東に追いやられた。』
「これが西洞院家についての記録。…おそらく舞南斗は何らかの経緯で生き残った西洞院家の末裔だと思う。」
思いも寄らぬ舞南斗の血筋に関する真実に絶句する生徒達を他所に五条は話を続ける。
「次は特級呪霊についてだけれど、これを読んでみて。」
『特級呪霊イツキ。
平安時代末期、栄華を誇った平家に崇敬された厳島神社に住み着いた一頭の蝶。その姿形が平家の蝶紋に似ていることから守り神として信仰されるようになった。
厳島神社の古くの呼び名
特級呪霊イツキが転機を迎えたのは暇つぶしで備後国を訪れてからのこと。
流罪にされた己の氏子、平家の平信基を揶揄いに行ったところ、調伏されるという屈辱にあう。しかし、『信基の血を引く者は氏神イツキ様と同等の力を秘めた加波比良古操術を受け継ぐことができる』、『最終奥義である領域展開を習得できた者には、その者が天寿を全うするまで付き従う』という契約により以降数百年に渡り彼の子孫を影から見守り続けた。また、この契約の二つ目を交わすことを適応といい、適応者は己の否応無く一族の、そしてイツキの主となる。
二人目の主である西洞院時当の死後、特級呪霊イツキは消息不明となった。』
*
全てを説明し終えると、疲労混じりの息が無意識のうちに吐き出された。顔を上げればあまりの衝撃に思考が停止した生徒達の、滅多に見られぬ呆け顔に苦笑いが浮かぶ。いち早く正気に戻った恵が思わずといった風に口元を抑えた。
「じゃあ樹は、一ヶ月のうちに何らかの経緯で特級呪霊イツキを調伏したってことですか。あの特級呪霊は、舞南斗の術式そのものであると...。」
「そうなるね。呪術史の中でもたった二人しか適応者がいなかった特級呪霊に勝つなんて、流石僕の生徒だよ。」
味方が一人もいない孤独な状況下で死闘を繰り広げる舞南斗を想像すると、自然と舞南斗に憑依したイツキの言葉が脳裏を過った。
拘束部屋で僕が近づいただけで錯乱した舞南斗の悲鳴が今でも耳にこびり付いて離れない。
あの特級呪霊が言ったことは間違ってない。大事な生徒一人助けられないで何が最強だ。何が呪術界を変えるだ。無下限術式と六眼の使い手だからと調子に乗るのもいい加減にしろと自分に対して怒鳴りたくなった。
己が呪詛師に洗脳されていることすら知らずに、顔を合わせるたびに無邪気そうな仮初の笑みを向けてくる舞南斗に心臓が引き裂かれるような心地になる。
舞南斗に成り代わった特級呪霊イツキと補助監督が去ってから、僕を含めた東京校の教師陣は補助監督の新田明に話を聞いた。信じたくなかった。いくら呪詛師に洗脳されてるとはいえ、舞南斗が僕達と対立すると腐った蜜柑どもに直談判したなんてことは。
あの後、また別の保守派の補助監督が現れて僕達に警告紛いの言葉を残していった。授業や任務等以外での舞南斗への関与は一切許可せず、これに従わなければ離反したものと見做すと。ふざけた内容だ、つくづく腐った蜜柑どもへの怒りが募る。
けれども、こんな事態を招いたのは僕がもっと早くに救出できなかったから。あの日からずっと、多方面への憤りが消化できずに胸の内で渦巻いていた。密かに握り締めた拳に気付いて順平が憂げな視線を送ってくる。だから僕は、彼等を安心させるように引き締めた口元を緩めた。
「舞南斗を蝕む呪いは僕と傑が必ず解くよ。だから皆にも協力して欲しいことがある。...そう気張らなくていいよ。ただいつも通り、前みたいに舞南斗と接してくれるだけでいいんだ。」
悠仁が困惑をあげる。
「え?でも、」
「洗脳系の呪いがかけられている以上、下手に舞南斗を刺激したくない。それに…」
問題は特級呪霊イツキだ。一度適応してしまった以上、契約に伴いイツキが舞南斗から離れることはないだろう。なら僕達にできるのは、下手に奴を刺激して舞南斗の体を乗っ取らせないこと。更には腐った蜜柑どもに利用されている舞南斗が今後僕達への対応を変える可能性だってある。これ以上僕達との距離を遠ざけるわけにはいかなかった。
「だから皆はできるだけいつも通りでいて。その間に僕と傑、それに学長達が必ず解決策を見つけるから。」
そう告げると、一人一人が決意の籠った真剣な眼差しで見つめ返してくれる。頼もしいと、感慨深くなった。僕が…俺と傑、学長が育てた雛鳥達がいつかこの腐敗した呪術界に革命を起こして、そしてまた新たな世代を引っ張っていく。願わくばそこに舞南斗も…
天使のようなあの笑顔を思い浮かべて、僕は