「そういえば虎杖達は?」
「今頃青山霊園で冥冥と憂憂と待機している頃だろう。」
「順平は硝子と正道のとこで治療班に参加してる。高速三号渋谷線の料金所あたり。」
「そうなんだ。」
「ていうか美々と菜々中に偵察行ったっきり帰ってこないじゃん。迷ってるかもしれないし様子見に行った方が」
「駄目だ。」
与とパンダと話す舞南斗を盗視して、不穏な前兆が見受けられないことに日下部は愁眉を開いた。事勿れ主義ではあるが、少なからず懇意にしていた愛嬌溢れる生徒がどこの馬の骨かも分からぬ輩に洗脳されて帰還したという災難は本意ではなかった。入学当初から人懐っこい犬さながらの天真爛漫さで情による人脈を広げていった舞南斗が、まるで人が変わったように敵意を差し向ける様には教師一同が度肝を抜いたものだ。以前、夜蛾が請じた対洗脳術師の見解によると舞南斗はいつ何時正気を失い大事を為出かすか分からぬ時限爆弾のようなものだという。万が一にも待機中に彼が自我を喪失させ刃を剥いてくるかは予想が及ばぬが故に、この場の誰もが然有らぬ仮面の裏で警戒を神経に巡らしていた。
「そういえばこないだ久々に映画見に行ったんだけど…」
「あれつまんなかった。」
「えー!」
舞南斗を見詰めていると、視線に気付いた彼は日下部を見遣った。
無垢な目尻を細め、しなった唇が人情味のある敬意を湛える。これだ、この笑顔こそが俺の知っている樹舞南斗だ。この笑顔は一点の曇りも差し込む余地はなかった筈だと、日下部は胸中で悪態吐いた。舞南斗に対してではない、彼を堕落に突き落とした顔も知らぬ呪詛師に対してである。
「なんつー面倒くせェ…」
口内に広がる苺の風味にニコチンが含まれていればこの懊悩も些かは軽減されただろうか。考えても詮無いことに思い巡らそうとしている己に気付いて日下部は緩慢にそっぽを向いた。
……結局思案に耽る日下部の横顔を見詰める舞南斗の眼が薄らと蒼く光った。
口角は不気味に歪められた。
約三十分後、明治神宮前駅に新たな帳が降ろされた。
*
午後八時三十八分、渋谷ヒカリエShinQs地下一階は平日出勤時間の満員電車の如くごった返していた。帳により缶詰状態となった非術師が犇めき合い、我先にと押し合う所為で場は益々混雑を極めていた。
「二級以上の呪霊が多いけど大騒ぎする程じゃないね。少なくとも僕達呪術師にとっては。」
乗り階を下り副都心線B5出口と直結する通路に進むにつれて死と血の気配は濃厚になってゆく。先の惨状は容易に想像できた。円滑に進行するべく呪霊に乗り宙を飛行する彼を魂消て見上げる非術師には目もくれず、俄かに振動するポケットから通信機を取り出した。機械的な面相の円形小型通信機、メカ丸基与の製作物。渋谷での不明瞭な事変に備えて彼が加増したうちの一機である。
何を隠そう、与は真人と決闘した十九日の晩に裏切り者を完全に脱却し呪術師側に復帰していたのだ。相互理解が甚だしく欠如した舞南斗との取引の後、京都への帰路に着く与の前に現れたのは夏油だった。
実のところ、高専側は既に呪詛師との内通者の目星をつけており当日には窮追する手筈だった。しかし夏油と対面した際の与の諦観の自己申告により夏油は独断で処罰を保留。与が知る限りの舞南斗と敵の情報を開示することで免罪権を獲得、以後は潜入を本務とする夏油の配下に下り舞南斗の監視と呪詛師側の動向の詮索を担うことに。
安達が極度の秘密主義な為、又与が予め秘密厳守の縛りを結ばされていた為に根幹的な情報を得ることは叶わなかったものの、十月三十一日に呪詛師が何らかの一大事を惹起せんと目論んでいることが明らかとなり、高専は大至急手回しに奔走することとなった。五条、京都高専の面々も含め高専側は各班に一台の通信機を保持している。遺憾ながら十二日後に期限が迫っているうえに満足な事前情報もない状況では碌な対策もままならずさし向き舞南斗への要警戒と通信機の補充という最低限の準備をするに留まった。尚、舞南斗は小型通信機の存在を単なる連絡手段として認識している。
因みに与の裏切り発覚後の京都高専との悶着は痛切なものであったが、現在は皆鞘を収め和睦を果たしている。
『樹は問題ない。』
開口一番、与は帳外の状況を簡潔に述べた。パンダが通信に加わった。
『いつ出てこれんの?』
「厄介な気配が下にいるからまだ微妙なところかな。美々子と菜々子に外で市民の誘導を任せてるから私はこっちに集中するよ。」
『え?ミミナナこっち来てないけど』
「なら行き違ったのかもしれない。」
各人の制服及び活動服に装着されたラペルピンが装着者の生体反応を常時観測している。呪術師の安否は夜蛾率いる後方兵站及び衛生支援本部にてパネルで確認できる。表示は生存、生体反応消失、若しくは安否不明である。安否不明はラペルピンが何らかの事情で破損した場合に限る。
「まあ心配はいらないよ。すぐに片付けて出るから。」
その時、黒板を引っ掻くような不快な音が響めいた。
強烈な呪力の暴発が生じた。夏油は咄嗟に周囲を呪霊で囲み凌ぐ。
そのうち負の波動が収まる頃には自身が乗っていた一体を残して呪霊は消滅していた。 数多の非術師が今し方の超音波に殺られ原型を留めぬ有様に成り果てていた。
「何なのよっ!誰かっ、誰か助けて」
「おお俺はなんもしてない!逃がしてくれぇえ!」
辛うじて呪力に適性のある極数名を除いて二階層が全滅だった。
再度、呪力の乗った咆哮が階下から膨張する。殺傷力は先程よりも格段に低く、されど生残者は留めの一撃に臥した。多数の呪霊が恰も地震の前兆に一斉に飛び立つかの如く下から上昇し、呪いでありながら一様に畏れを滲ませたそれらを夏油は好機とばかりに祓った。低級な呪いが恐れを成す程に邪悪な何者かが己を誘っている。
「そう急かさなくても行ってやるさ。」
真夜中に鏡の魔力に惹かれるように、夏油は股下の呪霊に全速前進を下した。
.......。
地下五階駅ホームには相も変わらず群衆が圧し合っていた。誰も彼もが先程の攻撃など端からなかったかの平然とした素振りで、只我こそが一足先に退散せんと周囲と揉み合っていた。何においても際立っているのは…
『何があった?』
「何でも。呪いが素敵なお出迎えをしてくれてるだけさ。」
白黒の明度の効いた法衣に黒光りするブーツを履いている男が一人、自身の手元に血液を浮揚させる様子は赤血操術を連想させる。
彼の隣に居丈高な仁王立ちで佇まうは薄梅鼠の肌膚に形ばかりの解れた布貫頭衣を纏った巨体。極め付けは双腕のみが形質転換を起こしたかの両翼と天狗鼻、鬼夜叉もかくやの風貌。
「…悟んとこは菅原道真って言ったっけ。」
『そうだぜ。』
「うーん、どうもねぇ。」
菫コ縺ッ螟ゥ迢励?鬥夜?倥□!
——崇徳天皇のお出ましだ
通信機のメカ丸の口辺が心なしか驚愕を表したように聞こえた。
『馬鹿な、三大怨霊が二体だと?』
『いや、二体もいるならきっともう一体いるはずだ。東京か、京都か、或いは列島の別の場所に。』
『残りって平将…』
強烈な不協和音がパンダの言葉を遮った。立て続けに怒号が聞こえる。夏油は眼前への注意を怠らずに声掛ける。 返答はない。
代わりにザザ、と雑音が走った。二秒後、通信は遮断された。
何かが音速に駆け抜けた。瞬時に夏油は呪霊から飛び降りる。
刹那、絶叫をあげて自身の呪霊は消滅した。掌の通信機もいつの間にか攻撃の隙間に放たれた血の鏃に破壊された。
「まあいい。とっとと調伏してやるから掛かってきなよ。」
「菫コ縺ッ螟ゥ迢励?鬥夜?倥□!」
………。
死後に数々の天変地異と飢饉を引き起こしたことから上皇の祟りとされ、鎮魂するべく安井金比羅宮に祀られた崇徳天皇は縁切りの神として人々に頼られている。その方で怨霊たる彼は窮まる怨念から見目形は奇形へと変貌し、命を断ち切る呪霊と化した。
実力は特級相当。呪霊、人間問わず他者の生命力を肉体から断ち切ることでエネルギーを呪力へと変換し凄まじい呪いの波動を発生させる。現代陰謀論における電磁パルス的攻撃、ゲームにおける法器、キャスターといった遠隔攻撃の遣い手だ。一撃の威力は驚異的で、周辺の民間人の守護と防御に徹するうちに夏油の手持ちは激減していた。
「私がどれほど苦労してあの数を貯めたと…」
圧縮された血液が自身の眉間目掛けて飛来する。庇い立った玉藻前の単に衝突して威力は分散された。無気力な仕種を見せつつも時折会心の一撃を放つ男もすこぶる厄介な存在であった。しかしまた同時に、何方も依然として力量の最大限を尽くしてこないのが妙に引っ掛かった。
消極傾向のある攻撃を防ぐことは容易だが、地下鉄に五万と居る非術師らを助け守りながら攻勢に回るのは中々に煩わしい。一騎打ちならば現状、夏油に分があるが如何せん背負うべき荷物が多過ぎた。この際多少の犠牲には目を瞑って奮戦して優劣を明確にしてやろうかと、彼の指先は新たな特級呪霊を召喚しようとした。
…軌条を軋ませて列車がやって来た。ゴーゴーと震動音を轟かせて、左から右へと流れゆく残像は次第に輪郭を取り戻し、そして停まった。
扉の向こうに覗ける人影、待ち侘びたとばかりに注目を移す崇徳天皇と男に夏油は彼等の目論見を悟った。
「増援か、生意気な。」
構内放送もなく扉が開く。
……改造人間とともに一人の男が姿を見せた。与の警告が蘇る。
——呪詛師と呪霊を束ねている男がいる。ソイツは暗色のスーツを着ていて一見柔和な顔つきをしている。額に縫い目があるからすぐに見分けられるだろう。ソイツの名は…
「安達景時」
囁くような言葉を安達は慥かに聞き取った。壮年の引き締まった容貌を惚けさせた。
「おや、私を知っているとは心外だ。」
彼の人差し指の第一関節が曲げられると、一斉に改造人間が行進する。涼しげな口元は一瞬にして冷淡な微笑へと変じていた。
ならこれは知ってるかな。
「この私が呪詛師に舞南斗を誘拐させ、洗脳させた。」
転瞬、激情が渦巻いた。
呪力の残量も顧みず夏油は蓄えを開放する。数百の上級呪霊が彼の憤怒に呼応して最も悪しき呪詛師を蹂躙すべく顕現した。
「八つ裂きにしてやる。」
かくも悍ましき殺気を放出する夏油に、安達の口角は薄気味悪く歪んだ。