爆風が足元を蹌踉めかせる。風塵が巻き起こり絶え間なく空気が唸る。電柱もかくやの大木が撓み、時化の海原の如く障害物を巻き込みながら襲い来る。悪意を宿した植物の怒涛の攻撃を断ち切りながら日下部は肺腑から叫んだ。
「応援はまだか!」
遡ること二十分前、駅前で待機していた彼等の面前に突如として奇襲を仕掛けた花御に追い立てられるように日下部班は戦闘に突入した。いくら一級から二級までの等級の術師が隊をなしているとはいえ対するは単なる特級の範疇には収まらぬ難敵。街の構築物に配慮せず人的損害という制限を振り払う為に近隣の公園へと逃れんと試みたとして、闇雲に帳から距離を置けば想像を絶する被害を被ることになるだろう。何より辿り着く前に自身らが全滅する可能性もなきしにもあらず。故に日下部は一般人を閉じ込める帳と術師を入れない帳の間を周回しつつ他の呪術師の助太刀を求めることを決した。
「うんともすんとも言ってねぇ!」
与の通信機を通して本部に救難信号は送っているものの彼此十五分応答はない。何らかの異常事態が方々で生じている推知も出来、本部による即応の望みは薄かった。
「皆、こっち!」
先頭を走っていた舞南斗が突如としてダストボックスへと手招きした。三人は不可思議に見合わせると彼に従う。全員が物陰に隠れると同時に四羽の蝶が追い付いた花御の前を通ってビルの中へと入っていった。
奇妙なことに花御は蝶を見留めるや否や、ダストボックスの裏の気配には目もくれず後を追い始めた。数秒後には建物内での烈しい破壊音が耳朶に届いた。
「ブータンシボリアゲハは幻覚を見せることができるんだ。アイツの目には四羽が俺らに見えてる。けどそう長く持たない。」
「よくやった。」
日下部は湿っぽい目元を拭った。右手にはぎっとりと血が付着していた。石礫に当たったのだ。
次いで彼は三人を見渡す。
パンダは右腕が千切れかけているものの左腕で戦う分には余力がある。与は班の中で最も等級の低い二級術師だがパンダの庇護のお陰で深傷は避けられた。至る所に切創があるものの十二分に戦闘に臨める状態だ。唯一舞南斗だけが細身を器用に利用して手強い追撃を回避し、擦傷の一つも見受けられなかった。
日下部は思索する。何れ花御が幻覚に心付き再び自身らを襲えば全滅するのは時間の問題だった。そうなった際に特級呪霊と角逐しうる最大の戦力は自身と舞南斗ということになるが…この事なかれ主義者、それなりの良識を持ち合わせていた。たとえ舞南斗が呪術界を牽引する精鋭に仲間入りしたとして、昇格したて、糅てて加えて他の一級術師よりも経験の浅い彼——それもまだ成人に達していない生徒——を無謀な賭けに引き込むわけにはいくまい。何せアレは通常の特級呪霊ではないのだから。
したらば択ぶべき選択肢は一つしかなかった。自身を餌に三人を逃す。能う限り抗戦しあわよくば七海あたりの援助を待ち焦がれるのみ。無論、最後の希望がどれ程果敢なく儚い願いかは重々承知している。然りとて否も応もなかった。
——ったく、最期に煙草でも吸っときゃあ良かった
己の畢生に懐古の情に耽る時間はないと眦を決して…
彼が作戦を言い渡すが早いか、ついと舞南斗に異変が起こった。
「う゛ぅッ」
「どうした舞南斗?」
前触れなく胸元を抑え蹲る舞南斗にパンダが寄り添った。日下部が慌てて近寄る。
もしや怪我を隠して…?しかし外傷は見受けられない。ならば心因性の発作か。
「なんだってこんなときに限って…!」
舞南斗の容態を伺う日下部とパンダの後ろで与はこの奇怪な展開を客観視していた。力なく頹れ彼の脳裏に万力で締め付けられたかの如く苦悶を滲ませる舞南斗は本当に痛みに喘いでいるようだ。懸命に苦痛を耐え忍ぶ弱々しい背中を眼差しているうちに与の脳裏には数日前、二人きりの際に舞南斗の口から吐露された本音が想起された。
『渋谷でもし俺に何かあったら皆のことを頼んだ。』
『今、なんと言った?』
『だから…もしもさ、大事な時に
深々と頭を下げた舞南斗の背中は今の彼と同じように心許なかった。あの瞬間、彼の自我が返ってきたのではないかと後に与は思った。若しくは本来の樹舞南斗を取り戻したあの一瞬が度々起こり、偶然己はその場に居合わせたのではないか。まるで多重人格者のように洗脳された舞南斗と正常な舞南斗という二人の人格が不規則に入れ替わっているのではないかと。
思いがけず自身を救済した晩の彼は奇跡的な確率で自我を取り戻し、恰も敵を装った舞南斗だったのでは…。
同情がないといえば嘘になる。実情、与は舞南斗以上の背信行為を意識のうちに犯した。肉体の尊厳を取り戻す為に身内の情報を靦然として呪詛師に売り払い、その結果姉妹校交流会の騒動が起こった。死者が出なかったのは幸運に近い。
——だが樹舞南斗は違う。こいつは俺とは違い生来の善人だ。時折自我を取り戻し自身の大罪に絶望に打ち拉がれても尚、誰にもそれを悟らせず己自身と決死の奮闘をしている。呪詛師によって奪われた倫理と過去現在未来を取り戻す為に…
斯様な憫察が果たして彼に降り掛かる不幸と的確に一致しているのか、与は見極めたくなった。ところが仮説を確かめる前に運悪く舞南斗は三福と入れ替わってしまい問い糺すことは叶わなかったのだ。
舞南斗は一向に回復しない。次に与が巡らした情景は初めて正対した三福だった。
物腰柔らかな舞南斗とは異なり三福は居丈高な目付きで与の存在を気にも留めず深夜の校舎を抜け出した。去り際に彼が僅かばかり露見させた憑依の風格自体は舞南斗本人と大差ない。仮に和順な生徒を演じられれば見分けが付かぬほどに。されど強いていうならば三福と洗脳状態の舞南斗——尚洗脳云々に関しては与のまったくの思い違いである——、それから通常の舞南斗では僅少な変化があった。
彼は未踏時代の安芸の宮島を囲う清浄な瀬戸内の水面さながらの碧眼をしている。加えては漆黒の横髪は桔梗から抽出したような奇麗な古代紫に変わる。そして顔貌は破壊衝動と蹶然たる敵性に染め上げられるのだ。
そう、喩えば今与の角度から覗ける、何事かを目論む禍々しき嘲笑の如く…
「ッソイツから離れろ!」
「え?」
パンダと日下部が消えた。瞬きの出来事だった。
与の警告に対応するように純粋な悪意が二人を襲ったのだ。三十メートル先まで吹き飛ばされた二人は路上の防護柵にぶつかり停止した。 騒ぎに気付いた花御がやって来る。
「
「ごめんって、ちょっと遊んでただけじゃん。」
今し方の悶絶が嘘のように舞南斗は腕弛るい手付きで前髪を掻き上げた。舞南斗本人か、三福か…与は一蹴りで後退し緊張を滲ませる。因みに正解は謂わずもがな三福である。
与の隣に立ち直った日下部が今度こそ再起不能になったパンダを抱えて並んだ。
「最悪だ。これは最悪中の最悪だ。」
一級術師が錯乱を起こし寝返った。そして彼の真横には先月東京高専で猖獗を極めた特級呪霊が構えている。これを最悪と謂わずして何と謂おうか。もはや悠長に近辺の被害を考慮する余裕は完全になくなった。差し違える覚悟で挑まなければこちらが瞬殺される、その認識だけを二人は共有していた。
日下部は抜刀する。数秒後のことなどその時の自分に任せれば良い。
「与、戦えるな。」
問いではなかった。与は今一度舞南斗を見た。数分前とはまるで別人の舞南斗を。彼はかぶりを縦に振った。
——渋谷でもし俺に何かあったら皆のことを頼んだ。
「命の礼だ。願いは果たそう。」
「できるだけ夏油んとこに近付く。万に一つでもアイツが討伐を終えて出てくる可能性だってある。それまで持ち堪えるんだ。」
「了解した。」
二人は臨戦態勢に入った。舞南斗の顔が歪になる。
冬を先取りした空っ風が両者の間を吹き抜けた。爆発寸前の爆弾を前にしているかの極限の緊張が迸っている。まだ、誰も動かない。
ピポン!どこかの時計が三十分の経過を軽快に告げた。
日下部の合図に合わせて地面を蹴り上げようとした、その時だった。
不意に与が身動いだ。敵への警戒を怠らず日下部は右を盗み見る。身構えてはいるものの彼の瞳孔は縮小しており、隠しきれない動揺が冷や汗となり額に湧き出ている。
日下部は目線のみで問うてみる。ブリキのように首を回して、与の唇は絶望に震えた。
「夏油の生体反応が……消失した。」
寸秒、セスジスズメの鋭利化した尻尾が、研ぎ澄まされた樹枝が二人の鼻先で煌めいた。
*
渋谷料金所に設営された後方戦略及び衛星部活動拠点には少数名の治癒系術師と家入、順平、夜蛾が控えていた。開戦の狼煙が上げられてから一刻以上が経過しているが治療用寝台は既に埋まりつつある。目下激戦地は目視できないものの負傷者の益々の増加が予見できた。そこで夜蛾は担当が負傷した補助監督を後援に回し、且つ総監部に増援要請を行うことで今宵の闘諍を乗切る算段だった。
自他に対する反転術式ができる家入の居所が敵勢力に露呈すれば彼女の雁首を求めて大勢の呪詛師や呪霊が押し寄せるだろう。そのような事態を未然に防ぐべく、料金所には呪霊操術師の呪霊や夜蛾の呪骸が複数体巡回していた——。
宙は地上の混沌を表していた。鈍色の雲が一面に垂れ篭め重く濁った夜空を覆うている。星々は存在意義を失ったかの軟弱な明滅をしている。一つ、また一つ瞬くたびに誰かの息吹が吹き消される縁起の悪い想像を誰もが思い巡らしていた。
家入は頭上に向かって息を吐きかけた。やかんの蒸気抜きから空気が抜け出るように紫煙はくゆりと立ち昇る。嵐が来る前というよりかは台風の目の中心にいるようだと、漠然と思った。
つと、背中に人の気を感じた。
「煙草は辞めたんじゃなかったのか。」
「吸わなきゃやってられませんよ。」
返事がくる前に彼女は戦況を問うた。
「夏油からの連絡はまだない。五条もだ」
「嫌な感じ」
「言うな。」
口にしてはならない呪いがある。自らに沈黙が伸し掛かったかの面相で家入が噤むと夜蛾は空を仰いだ。皮肉にも数十秒前の彼女と同じ感想を抱いた。
尠くも美々子と菜々子が偵察の後に夏油の援助に回るとの連絡があった。今頃は三人で地下鉄に潜む呪霊を祓除しているだろう、というのが夜蛾の見込みだった。決して楽観視などではない、高専教師時代から一般家庭出身の夏油傑という生徒が特別特級術師に成り上がるまでの軌跡を夜蛾は間近で見守ってきたのだ。故に特級の二体や三体程度で彼がくたばりはしないことを、彼の実力を信じていた。
「けど京都組も結局京都に引き返しちゃったんでしょう。敵の方が一枚上手だったってことじゃないですか。」
「悔しいことにな。」
とはいえ、呪術界最強の術師が鬼に金棒の如く助け舟に足を向けているのだから近畿において進行する無秩序もそう長くは続くまい。
「それにあいつらを呼び戻した。」
珍しくも家入の枯れた眼は見開かれた。
「けど重要な潜入任務だったんじゃないんですか。」
「やむを得んだろう。」
「まあ…」
全速前進で東京に帰還していると夜蛾が零せば、二人の瞼裏には件の人物らが新幹線も使わずに脚力に物を云い列島を爆速で掛けている様が思い描かれた。今日に限って厭世的な思考から脱却できない家入は尚も懸念を表明した。
「若しさ、舞南斗がおかしくなったら…先生はどうするんですか。」
嫌な質問だった。
意外にも一般人の舞南斗を見出したのは家入だった。出張帰りに偶然立ち寄った定食屋で非術師には視えない蝶を伴い独り昼食をとる小学生に興味本位で話し掛けたのが全ての始まり。高専に戻った家入が五条にあらましを伝え、彼が直接六眼で術式の潜在能力を見抜いたことで舞南斗は東京高専に保護されることとなった。
爾来、入学以前より舞南斗は自身を見出した家入には格段に懐いていた。彼の術式の特異性を思料して家入は度々解剖や検視に立ち合わせ将来の展望が拓けるようにと真摯に教授した。中学に上がる前に彼の両親が病死してからは家入も含め高専呪術師は一層目をかけた。大人としての義務感のみならず、純真な慈しみを注ぐほどの人徳が舞南斗にはあったのだ。
…故に誰もが知る樹舞南斗の人格の喪失は皆の精神に大打撃を与えた。日を追うごとに舞南斗は呪詛師との繋がりを濃厚にし、呪術師として庇いきれぬ程の背信が果たされた。それでも彼が呪術界から追放されなかったのは偏に日下部や七海といった不発的な呪術師をも巻き込んだ救済への嘆願と、奇しくも総監部が舞南斗に存在意義を見出しているが故だった。
だが若し此度、家入の憂慮が現実化すれば今度こそ舞南斗の立場は危うくなるに相違ない。だからこそ彼女は不安を口にせずにはいられなかった。
決死にも似た彼女の問いかけに、夜蛾は可愛い教え子の笑顔を思い浮かべて言い放った。
「どうにかする。」
どうにでもなる、どうにかするしかない。いつになく硬質な声音から受動か能動かが読み取れずとも、彼が舞南斗を見捨てる未来が有り得ないのは判っていた。
…幸いに恵まれず、女の勘は大抵当たるものだ。
キュイーン!キュイン!
矢庭にけたたましい音が閑散とした料金所に鳴り響いた。家入と夜蛾は弾けるように背筋を伸ばす。間違えようもない不穏な音色は、与が用意した安否確認パネルが発していた。
「学長!家入先生!」
二階の治療所から順平が飛び出してくる。血の気は引き、蒼白な顔貌は夜空の雲の如く翳っている。禍々しい警鐘が二人の脳内に反響していた。 二人は顔を見合わせると治療所に駆け込み……そして絶句した。
『安否確認』
安否不明:
日下部篤也、与幸吉(救援要請後、最終位置:渋谷ストリーム近辺)
生体反応消失:
枷場美々子・菜々子、夏油傑(最終位置:渋谷駅)
パンダ(最終位置:渋谷ストリーム近辺))
*
『戦況』
京都:菅原道真 対 五条悟(進行中)
呪術高専京都校&呪術師多数 対 呪霊千体(進行中)
東京:崇徳天皇、脹相、足立景時(勝利) 対 夏油傑
平将門 対 樹舞南斗&西野智風(進行中)
花御&樹舞南斗(三福)(勝利) 対 パンダ&日下部篤也&与幸吉