綺麗な蝶には毒がある   作:れいめい よる

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走馬灯すら流れない 

 

 

肉体も精神も限界だった。たかだか生後一年未満の新米呪霊と一千年以上前の呪術師の癖して連携は秀逸。真人と接触しないように動きに神経を集中させればどこからともなく氷解が飛来してくる。すんでのところで回避すれば又もや冷却された呪力が足場を物理的に固められそうになる。避けて避けて…攻勢に転じる暇は与えられず傷だけが増えていく。挙句左眼が視えない所為で死角が拡がっていて二人は敢えて弱点を突くような攻撃を執拗にしてくるから溜まったものじゃない。世界中の蝶を呼び寄せたところで数と術式の優劣が変わらなければ消耗戦を延々と続けるだけだ。 

 

「どうしたの舞南斗、俺を祓うって言ってたじゃん!」

「くそっ!」 

 

拳が目睫の間に迫る。右ストレートだ。両手で顔面を防御して来る攻撃に備える。禍々しい色の呪力が込められた拳が間近に迫った瞬間、真人が嗤った。 

気付いた時には防御が崩れてしまっていた。いつの間にか静的な、けれども猛烈な悪意の乗った左拳が腹に減り込んだ。内臓が飛び出そうだった。思わず血痰を吐き出した俺に真人は「まだまだぁ」と下ろした右手を仕掛けてくる。顎にだけは食いたくなくて咄嗟に身を引けば斜め後ろから風を切る音がした。

 

「駄目じゃん、ちゃんと周りも見なきゃ。」

「五月蝿い…ッ!」 

 

極太な氷柱が右肩を見事なまでに貫いた。真人が黒閃を発動させたおかげで威力も速度も是迄までの比じゃない。確りと入ったボディフックは治るどころか激痛を増す一方だった。 

 

距離を取ってオオゴマダラの防壁を築く。

ドンッ、ドォン、一羽、二羽と大切な蝶達が俺を守る為だけに死んでいく様は胸が張り裂けそうだった。盾はあと一分も経たないうちに維持を崩してしまうだろう。

前言撤回、祓除はもとより消耗戦すら危うい。俺の体力が持ちそうにない。

 

それにどうにも解せない点がある。夏油先生を殺されたことで頭に血が上って冷静な判断力を失っていた。先生はあの最強の五条先生と張り合える程の実力者だ、真人や裏梅に殺められる程弱くない。仮に真人に殺されたとして遺体が一寸も変形していないのは奇妙だ。裏梅の氷凝呪法の痕跡もない。

これ迄に真人は幾度となく俺に触れる機会があったのに一度として魂に干渉しようとしてこないのも気に掛る。気まぐれに無為転変の使用を控えるには俺達が殺意をぶつけあった時間は長すぎる。

 

…脳内で閃光が迸った。気の所為かもしれない。けど、単なる考え過ぎで完結させるには違和感は重しのように胸奥に伸し掛かっていた。彼等は殺すというよりも寧ろ俺をこの場に留めるような消極的な戦い方をしている。若し、若しも時間を稼いで俺を引き留めようとしているのなら?譬えば夏油先生と美々子、菜々子という餌で街頭に惹かれる蝶の如く、まんまと誘き寄せられていたのなら…。 

 

脳裏に銀髪のサラリーマンの冷笑が過った。 

防壁が突破された。

バァ。振り上げられた真人の脚が真っ直ぐに。その脚を毒壊鞭で切り落として氷礫を叩き払うと俺は階段に向かって駆け出した。 

 

……思い至るのが遅かった。 

 

「崇徳天皇」 

 

殺伐とした場にはそぐわない落ち着いた声調が広く構内に通った。 

 

脳天に鋭い衝撃が走った。感じたこともない程の耳鳴りとともに真っ白になった視界が色彩を取り戻し始める。

一瞬、意識が飛んだと理解したのは彼が瞬間移動みたいに眼前に現れたからだ。唯一の右目から映る世界が真っ赤に染まっている。訳が分からない程にざっくりと切れた己の額から流れ込んだ血だなんて思いたくなかった。 

 

右腕に感覚を感じない。恐る恐る辿ってみれば不気味な灰色の鬼のような手が嫌な方向に曲がった俺の腕を捻り上げていた。

崇徳天皇だ…!巨体の化物は不協和音を放ち音波で鼓膜を破ろうとして、安達に止められると沈黙した。平将門と違いどうやらコイツには人に従う意志があるらしい。 

 

「やあ舞南斗、元気…ではなさそうだね。威勢は良いようで何より。」

「安達…」 

 

掴みどころのない頬笑が俺を見下ろした。彼の目が後ろに流れる。 

闇に沈むトンネルから何かが近づいてくる。足音も立てずに徐々に人形を浮かばせて。二人分の曖昧な輪郭は緩慢な歩幅でこちらへと歩みやがて全貌を露わにした。 

 

俺は呼吸を失った。無様に抵抗の術を奪われている俺を見留めて信じられないとばかりの物怪の面相で自身の隣を見遣る漏瑚と同じように、頭の中が喫驚と困惑で占められていた。高専の制服、特筆すべき特徴もない顔立ち、平凡な黒髪黒目。鏡写しのようにその人物は俺と瓜二つだった。 

 

「な、んで」 

 

心臓が喧しく動悸する。言葉を失う俺に安達は何事もなく音色で云った。 

 

「呪詛師に命じて君に施した魔法(呪い)が解けかけていたのは知っていた。私としては君が呪術師と仲良くしているのは都合が悪くてね、そこで対策を講じさせてもらった。」

「何言って」

「紹介しよう、彼は西洞院時当だ。」

「なっ、そんなはずが!」 

 

ない、と云おうとして言葉よりも早く絞り出された脳漿は現実と無数の可能性とを具に勘定して、ある解を導き出していた。この世界では伏黒家は健在だ。伏黒のお母さんは生きていて、その因果が伏黒甚爾は星漿体暗殺への不参加に帰結している。俺が成り代わってからは一度も面したことはないけど彼がもう一人の原作生存者灰原雄と一緒にどこかの呪詛師の結社へと潜入していると蝶達が教えてくれた。何が云いたいかというと、渋谷事変におけるオガミ婆の動向は不透明なのだ。

伏黒甚爾が召喚されない、それがどのような弊害を生むのかなんて帳やら五条先生の封印やらで頭からすっぽ抜けていた俺には想像も及ばなかった。平将門に菅原道真、崇徳天皇と平安時代に生きた有衆の畏怖が現実化したのならば、その内の一人の悪縁が呼び起こされないだなんて如何していえるだろうか。だとすれば俺を時当と呼んだ平将門の出現に懐かしい気配がすると溢した三福にも得心がいく。 

 

俺の所為だ。浅はかにも諸悪の根源だけに焦点を当てて付随して起こり得るあらゆる事態を考慮に入れていなかった。帳と五条先生の封印、それから総監部の妨害といった肝要な課題を一人で解決しようとした時点で負け戦に踏み切ろうとしていたことに気付けなかった。

 

五条先生は封印されていない。けれども彼に代わって渋谷を守護する筈だった夏油先生の死とそれに伴う渋谷壊滅は全部俺の所為だ。 

 

「夏油先生はお前が殺したのか」 

 

笑っているくせに慈愛の欠片もない眼差しが美々子と菜々子に向けられた。 

 

「小さな餌でも二匹あれば大きな一匹を釣るのは容易だろう?そして大きな一匹は更なる大物を。五条悟は術式の厄介で殺害は一朝一夕にはいかないが夏油傑は便利は無下限を持っていない。呪霊操術には魅力を感じていてね、何れは肉体を貰う予定だったんだ。」 

 

良い機会だった。そう云って笑窪を深める安達に筆舌に尽くし難い吐き気が込み上げてきた。どす黒い熱が体の中心で渦巻き始める。心臓が唸り、その度に血液が逆流して激情を加速させる。この化物を許すことはできない。許してはならない。無下限をも突破してしまいそうな憎悪と脅威が俺を突き動かした。 

 

俺は地面を抉る勢いで立上って崇徳天皇に渾身の蹴撃を放った。巨躯は五メートル程ずれ下がっただけだがそれで十分だった。踏まれていた毒壊鞭を手にとって安達に振りかぶる。首に迫っていても尚、ソイツは薄気味悪く片笑んでいた。 

 

「カッ、ハ…ぁ」 

 

…次の瞬間には俺は地面に伏していた。声にならない激痛で喉が引き攣った。

俺の頭を叩きつけた崇徳天皇の手が離れると支えを失った体が横に倒れた。痙攣する左腕を動かしてどうにか上体を起こそうと試みる。真人が「頑張れー」と面憎き応援を飛ばした。 

 

「お前みたいな外道に先生は渡さない」 

 

負け惜しみを憐れまれる前に目線をホーム柵へと流した。つられるように安達達も注意を流す。そこに夏油先生も美々子も菜々子も居ない。今さっきの五秒でクロコノマチョウに三人を隠蔽させたのだ。アレクサンドラトリバネアゲハも付けて今頃は地上に向かって先生達を運んでくれているだろう。そう信じてる。 

 

「賢いね。見込んだだけのことはある。」 

 

さして惜しくもなさげな安達を俺は嫉視した。

 

「正直なところ一番求めていたのは君の肉体なんだけど、悔しいことに真正の継承者でなければイツキを調伏させても領域展開はできない。」

「三福をものみたいに言うな。呪霊だからって誰かに呪縛されるような存在じゃない!」

「是非その言葉をあの日の彼に聞かせてあげたいよ。…死者を甦らせる、実に魅了的な響きだ。そこで私は考えた。たとえ君を奪えなくても君の存在さえ私の掌中に収められれば良い。」 

 

彼はやおらに後ろ手に隠していたそれを胸元に掲げた。身の毛もよだつ桔梗鼠色の立方体。各六面で獲物を探す瞳孔のない碧眼。それは東京を混沌に陥れた最大の要因…獄門疆だった。 

あり得なくない話だった。自意識過剰じゃないが俺にしかできない領域展開は自他を治癒できる家入先生の反転術式、天元様すら取り込める夏油先生の呪霊操術、五条先生の不可能のない無下限術式よりも価値が高い。イツキ神所以の寿命、生死、破壊と再生を司る術式だからこそ、総監部に対する俺の無理強いの大凡は五条先生のように罷り通った。

直感は間違っていなかった。コイツは俺を封印する気だ。 

 

状況を理解した途端、全身の血が凍りつきそうな心地に陥った。急いで逃げようとする俺をいつの間にか逼った真人が抑え付ける。四肢は碌に力が入らない。完全に詰みだった。 

 

「獄門疆、開門。」 

 

立方体が形状を変化させ、アメーバのような赫い奇形が不気味な単眼で俺を見据える。

うわ、きっも。舌を出す真人を漏瑚が嗜めた。 

 

「こんなことっ五条先生が許すはずが…!」

「それに関しては心配いらない。君には死んでもらう(、、、、、、、、、)から。」

「は?」

「反逆者、樹舞南斗をこの世界の誰も探し求めることはないだろう。」

「意味が、分かんない」

「ああ、君はそうだろうね。何も知らずに罪を犯してきたのだから。」 

 

同じ言語を話してる筈なのに水の中で言葉を交わしてるみたいに安達の言い分は意味を成さなかった。まるで俺ではない俺と対しているようにこの場にいる誰もが俺を見ていなかった。何か、無自覚でいてはならない肝要な出来事がすっぽ抜けているような感覚だった。こうしている間にも時間は秒刻みで刻一刻と過ぎてゆく。 

 

ふっと力が抜けた。どうせ逃げ場はないんだ、今更抵抗したところでどうなる。安達の真意は読めないが、現実は依然として呪術師側に与してる。五条悟がいる限り俺が封印されたところで当分は安達の潰走になるだろう。親友の死を彼は決して許さない。俺のことも然り。けどそれで良い。これ(封印)がきっと運命が俺に与えた贖罪なんだろう。誰にも知られず、誰にも偲ばれず悠久を独り耐え忍ぶ。他の誰かが封印されない為にも俺は絶対に自死してはいけない。

 

そうだ、これで良いんだ。 

屈服じゃない。獄門疆の中に留まることこそが奴等への細やかな返報なのだと。そんな心持ちでなければ自尊心を保てなかった。もう何も視たくなくて項垂れた。 

 

——空間が変容した。

目弾きの合間に俺は厳島神社にいた。…否、精神体だけが生得領域に呼ばれたんだ。 

 

体は現実世界と違って鈍痛の一つもなく軽やかだった。立上がって面をあげる。 

目の前には三福とどういうわけか西洞院時当がいた。

暮相の大鳥居の上で俺達は向かい合う。仮想の厳島はこんな時でも一幅の絵の如く超然と在った。茜色に色づいた雲間から垂れ込める光線が夕陽を跳ね返して輝いている。静謐な海は揺蕩い、とろりとした暖かさと冷え冷えとした冷気を一緒くたに孕んだ微風が弥山から紅葉を運んできた。 

 

「何故嘆く。」 

 

三福の抑揚のない問いが耳にこびりついた。それだけであらましを察してしまった。 

 

「全部、知ってたわけ?俺が平将門と戦ってる間に安達が渋谷に崇徳天皇を解き放っていたことも、夏油先生が殺されることも…全部。」

「ああ、知っていた。」

「どうしてっ」 

 

憤って詰め寄り三福の胸ぐらを掴んだ。いつもなら海に投げ飛ばされるのに三福は唯俺を見詰め返すだけだった。恰も全てに無関心を貫いて。 

 

「たかが人間だろ。虫けらのように儚い命だ。」

「お前はッ!」 

 

悲痛な心の叫びが空間に響めいた。 

 

「イツキは、その下らない人間達の信仰から生まれたんだろ!平家とか源氏だけじゃない、取りに足りないたかが人間達を嘗ては愛し見守ってきたんじゃないか!どうして、どうしてこんな酷いことが…ゴホっ」  

 

勃然とする胸中を全部全部激白しようとして、ぶち撒けたのは血だった。

肉体の限界が近づいていた。平将門、真人と裏梅との戦闘からの崇徳天皇の大打撃で五臓六腑は死の淵に臨んでいたのだ。何れにせよ時間の経過のない獄門疆に入らなければ数分後には死んでしまう程に。健全な精神体での吐血は肉体からの警告だった。 

現実世界での苦痛が蘇って俺は蹲った。 

 

「教えてよ…五条先生にどんな面して会えば良いんだよ…」 

 

答えは返ってこない。清白な宮島の領域を救い難い世を知らぬ蝶達がはなやかに舞っていた。 

不意に首根っこが掴まれて俺は起き上がる。親猫がそうするように俺を持ち上げたのは西洞院時当だった。 

 

「貴方は俺のご先祖様なの?」 

 

彼は応えない。俺を凝視して、失望か諦観の入り混じった微妙な溜息を吐くと三福を見遣った。この時になって、俺は初めて三福の変化に気付いた。先程までの俗世への淡白な態度とは異なり、狐に摘まれたように彼は瞠若していた。 

 

「心を決したのだな。」 

 

ご先祖様は息を呑むほど優しい顔つきをしていた。まるで呪詛師の呪縛から解き放たれたみたいに。三福は堅く瞼を閉ざす。複雑な選択を迫られているかの相貌で、再び見開いた時には聖域に相応しい透き通った双碧が俺達を見据えた。 

 

「往年ではなく当世を撰ぶのか。」

「…俺は」

「善い。そんな予感はあったのだ。実に永やかな時代が下った、誰が其方を責められよう。」

「嗚呼。八百年(、、、)は長い。」 

 

俺を差し置いて三福とご先祖様は二人だけの暗黙の感慨を交わしていた。素直に困惑を口にすれば二人は俺を見下ろす。同じ顔が三人もいるのは奇天烈な感覚だった。 

 

「良いか、一度しか言わないからよく聞け。」

——夏油傑も呪術師も、今宵生み出された全ての犠牲を帳消しにする方法がある。 

 

思い掛けない発言に驚き呆れた。千年あまりに渡って認識されてきた加波比良古操術の意義を覆すようなカミングアウトだ。けれども三福との契約者が過去に二人しかいなかったことを鑑みれば未知数の領域展開に何らかの好手が秘められていてもおかしくはない。 

 

「加波比良古操術の真骨頂は規格外の領域展開、三福が神であった頃の名残だ。」

「ところでなんで貴方もイツキのこと三福って呼んでるの?」 

 

額を小突かれた。

曰く、本来ならば神にしかできない所業を人間が行うわけだからそれなりの代償を払わなければならないという。特に実力も経験値も奥義を使うには伴ってない俺がやるには反動が大き過ぎる。それでも自己犠牲を最小限に留める方法があるらしい。 

 

「幸いにも三福とこの私がいるからな。」 

 

そう云った時当さんは随分と誇らしげだった。肝心の代償とやらは確かに重かった。けれども皆の命に比べれば獄門疆と掛け合わせても随分と安い報いだった。だから俺は莞爾として頷いた——。 

 

* 

 

満身創痍で失意のうちに項垂れる舞南斗を安達はほくそ笑み見詰めていた。あと三十秒足らずで加波比良古操術の継承者は現世から一時的に抹消され己の手中に収まる。一千年、およそ一千年の歳月を経、満を持して作戦に踏み切ったのだ。広島湾に浮かぶ弥山ほどの複雑に入り乱れた因果を紐解き、一つの房を作り上げ、遠い未来で堂々飾り立てるときを待ち侘びていたのだ。

 

「加波比良古操術には奥義がある。」 

 

突と、息を漏らすように舞南斗が発した。安達の眦が怪訝に皺寄せられる。諦観とも絶望ともつかぬ彼の声が蒼然たる地下鉄の構内によく通った。 

 

「ロックオンした対象の生と死、破壊と再生、輪廻転生を操る。けどこれは標準を逸しない。領域展開の真髄は対象が死歿してから三分を超えても三十時間以内であれば蘇生できること。」 

 

但し極めて綿密で厳しい条件と代償が課せられる。

その壱、先述したように神代の威光を発揮して三十時間以内の再生を成すには対象が予め加護対象であること。とりもなおさず、本社、分社、呪霊、人間に限らず厳島神社参拝経験がなければならない。

その弍、厳島の面積三〇・三九平方キロメートル内に居ること。これも本社、分社は問わず、ない場合は予め生得領域の鳥居を顕現させ媒体にすれば良し。

参、行使者が反転術式を習得していること。

肆、行使者は三十時間以内に死ななければならない。尚、発動時の治癒は自身には付与されない。 

 

『死ぬ?けど現実に戻ったら俺は直ぐに獄門疆に…それに反転術式だって使えない』

『私が力になろう。行使者の役割は私が担える。』

『え?けど貴方はご先祖様で俺とは別人でしょ。なら意味ないじゃん。』

『…問題ない、其方は知らぬまま在れ。』 

 

渋谷には厳島神社の分社である氷川神社が造営されている。加えCタワーのヘリポートには偶然にも氷川神社の加護範囲外の領域を補うように時当の鳥居が建立している。斯くして条件は揃った。 

 

二点を中媒に膨大な正のエネルギーが厳島から流れ込む。滔々と流入したそれは忽ち渋谷中に横溢し万物の呪力と絡み合いやがて生命を無一物が支配した。蘇生の極意は正と負のエネルギーを用い零から事物を構築するところにあった。神力である。当然、異様な力の氾濫を安達らは感じ取った。その原因も。 

 

「真人っ、彼を黙らせろ!」 

 

手遅れであった。舞南斗は面を上げる。確固たる覚悟が安達とかち合った。

 

——聖域展開、開延神使常世神(カイエンシンシトコヨカミ) 

 

術式の奥義を言語化したことにより威力が倍増した神力は渋谷に存在する治癒されるべき存在達を癒した。崇徳天皇及び多くの呪詛師、呪霊が起こした傷害の殆どが無に帰した。

舞南斗の四肢を獄門疆が雁字搦めにする。街を充していた力は立ち所に失われた。 

 

「やられたね。まさか領域展開に進化形態があったとは。」 

 

完膚なきまでの誤算だった。加波比良古操術に関する文献や口伝が僅少なばかりに博学な呪術の知識を有する安達すら奥の手を予測することができなかったのだ。 

舞南斗は笑っていた。最初で最後の呪術師らしき悪質な嘲謔だった。

 

「じゃあな羂索(、、)、どうかお前らが呪われますように。」 

 

在らん限りの怨嗟を吐き捨てた舞南斗に安達は顔面を切歯扼腕に歪めて、されど上機嫌な音調で返した。

 

「嬉しい告白をどうもありがとう…閉門。」 

 

封印。

微動の後に七つの眼球が閉じる。塗装が成されるように全面がより濃厚な煤色へと変じた。

静寂が訪れるや否や真人の磊落な笑い声がよく響いた。 

 

「あはっ、俺南斗のことホント好きになっちゃった。ねぇ、また会えるんだよねー?」

「そうだね、百年後か、或いは千年後に。」

「待ちきれないなぁ!」 

 

平家と西洞院一族の中でもたった二人しか存知せぬ無敵の相伝の秘術に安達は恍惚としていた。俄然として舞南斗への欲望が増大したのは底無しの探究心を宿す男にとっては当然の心理作用であった。 

灼熱を帯びた漏瑚が迫る。 

 

「貴様、よくも儂を苔にしおったな!獄門疆は夏油傑に使うのではなかったのか!」 

 

さもありなん、からっきし渋谷事変における真の意図の説明を施されなかった漏瑚がこの場に居ない花御と陀艮をも代弁して問い詰めるのは無理もないことだった。しかし漏瑚の憤慨を「熱いよ」の一言であしらうと安達は獄門疆を持ち上げる。

…持ち上げようとして、それは叶わなかった。 

 

最初に凄まじい重力が伸し掛かった。安達は咄嗟に手放す。 

 

瞬間、獄門疆は地面に亀裂を走らせめり込んだ。封印と同時に情報を処理しきれぬほどに被封印者の技量が優れている時にのみ生ずる極めて稀な現象だった。宜なるかな、加波比良古操術の継承者である樹舞南斗にはおよそ千余年あまりの歴史が詰まっているのだ。さすれば次から次へと予測を超える沈黙の可能性を露呈させる舞南斗に腹の底からの娯しみも込み上げてこよう。 

 

「ハ、ハハハ!アッハハハ!まったく、君は私を飽きさせないね舞南斗…良いだろう、少し付き合ってやるよ。」

「樹舞南斗を戦闘不能にするという約束は守った。宿儺様にもお会いできた。私は先に退がらせてもらう。」

「まあそう言わないでくれ裏梅。私と君の仲じゃないか。もう一つ頼み事をしたい。」 

 

矢庭に柳眉が神経質に顰められる。安達の発言に対してではない。尋常でない速度で此方へと急接近してくる複数の気配を察知したのだ。 

呪術師だ。舞南斗の領域展開を受け何事かを測知った勘の鋭い者達が一堂に会そうとしているのだ。獄門疆が移動可能になるまでの時間を悠長に構えている場合ではなくなった。舞南斗の封印を知られるわけにはいかない。 

 

「崇徳天皇、呪術師どもを持て成してあげてくれ。できる限り長く。」 

 

崇徳天皇は勇み吠えると天井を突き破り地上へと挑んでいった。裏梅と漏瑚は辟易としつつ戦いに備えることにした。安達は背後を見返る。 

 

「さてと、樹舞南斗。折角だから一芝居打ってもらおうか。君にあの子の真似事はできるかな?」 

 

喪われた栄光の時代の遺産を姦悪な男は見詰めた。無論、時が満ちて己が現代に返り咲くのではなく用済みとなる未来は数分前に理会していた。しかしそれは最悪の呪詛師による命令などではなく、自らの意志と三福の意向で。樹舞南斗の魂に根ざす呪術師に相応しい病的な執念と不退転の精神を見くびっている限りは男が白星をあげることは永劫ないであろう事実に心中で嗤笑して、樹は静かに首肯した。 

 

「問題ないよ。俺はこういう騙し合いが大好きなんだ。大昔からね。」

 

 

 

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