綺麗な蝶には毒がある   作:れいめい よる

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岐れ路

 

 

夜蛾の制止を振り切って五条は渋谷の街に繰り出した。是が非でも己の眼で見定めなければ治療所に掛けられたパネルの一切合切を信じることなどできなかったのだ。

 

百貨店付近、街の一隅、駅周辺…パンダ、伊野、与、その他多数の呪術師及び補助監督が何物をも映さぬ眸で天を仰いでいた。地獄絵図だった。何処もかしこも咽せ返るほどの死が充満しており月面のクレーターの如き空洞のできた地帯では特段に屍臭が過酷であった。催すべき吐気はとっくに引っ込んでしまった。全方位何処を臨もうとも精彩を欠いた呪力が悲愴な現実を突きつけ、自身の不在の合間に逃げ場のない恐怖が遍く善人に齎されたという事実に打ち拉がれた。

親友の死は余計に信憑性を増していた。このまま地下鉄に行って本当に鼓動を止めた夏油の死体を目の当たりにすれば自分は教え子にどのような面様で対するのだろうか?一つの懸念が五条の脚を駅から遠ざけ、道傍に倒れる負傷者を救出しては治療所へと運び、また負傷者を探すという埒の明かぬ行動へと駆り立てた。 

そのうち己を誤魔化し続けてはいられまいと彼は腹を括った。 

 

ありふれた楼閣の頂上で嵐が過ぎ去ったばかりの景観を見渡す。高まる動悸は平常な呼吸で看過して。愈々高速移動しようと膂力が強張った矢先、つと真下の地上を駆ける見知った人影を見た。 

 

「真希。」

「悟っ?こんな時に一体何処に…!」 

 

目前に舞い降りた五条を認めると真希は喫驚よりも詰問しようとして、彼の窶れた面差しに言葉を失った。此程までに覇気のない五条を彼女は未だ嘗て知らなかった。何事かを問うことすら憚られて真希が緘黙すると五条は深刻そうに尋ねた。 

 

「無事で良かった。七海は?」

「ギリ生きてる。ジジィが死んで甚爾は七海さん担いで恵を探しに行った。陀艮と花御ってゆー特級呪霊二体はなんとか祓った。」

「そう。」 

 

よく頑張ったね。頭頂部に温もりが乗せられると柄にもなく彼女の目頭は熱くなった。何処を歩いても味方と非術師の屍しかない地獄で生存者を探す孤独は堪えた。殉死したかもしれない同級生の想像したくもない有様を思い浮かべながら大痛手を負っていれば尚の事。 

真希は五条の手を弱々しく振り払った。 

 

——世界が光で包まれた。

擬音にするならばカッと鮮烈に弘まるような光だった。まともに目を開けいられずに真希は固く瞼を閉す。謂うなれば真正面から烈風が吹き付けるかの前触れない力の氾濫だった。

天と地を包んだ正とも負ともつかぬ未知数の力に、咄嗟に真希を抱き寄せ築いた無下限の防御すらも貫通して漏れ込んだ不快を抱かぬエネルギーに五条は愕いた。 

 

やがて渋谷中を眩ますほど眩耀した光が収まると、二人は顔を見合わせ喫驚を共有した。卒爾とした騒ぎの後に二人が見出したのは彼程痛ましかった真希の身体の無傷の変化だった。その上擦り傷ひとつない五条は自身の裡から漲る闘志に拍子抜けせずにはいられなかった。それは家入の反転術式とも異なる感じたことのない生命力の源泉が天界から激ってきたかの感覚だった。

遠隔からのあらぬ治癒に二人の脳裏に真っ先に浮上したのは混沌の渦中に佇む一人の青年…

 

「舞南斗…間違いねぇ、今のは舞南斗だ!悟!」

「分かってる」 

 

領域展開の域を超えた現実離れした快復はきっと自身らだけに留まらない。宿儺ですら不可能だろう此程の規模の生得領域の特質の波紋に至る深刻な経緯が起こったに違いない。二人は早急に東京メトロへと身を移した。 

 

………。

 

渋谷ヒカリエShinQs地上階では凄まじい破壊音が絶え間なく生じ、屋内の奥行を眩ます程の土埃が立ち込めていた。不透明な視界の中心で何かが蠢く。音速で飛来したそれを驚異的な五感の敏捷性で捉えた五条はバリアを外し受け止めた。 

 

「悠仁、大丈夫?」

「ウ゛ッ…って五条先生!?真希先輩!」 

 

彼が言い終えるよりも素早く大きな塊が急接近する。即座に張られた無下限の境界に人間の頭三つ分の拳が迫った。五条は虎杖を離すと手印をつくる。指先に甚大な呪力が結集する。 

 

「邪魔。」 

 

——術式順転、蒼。 

建物内に生存者がいる可能性が考慮された極微の収束の力が放たれる。目睫の間で五条の攻撃が直撃した崇徳天皇は壁を突き破り奥深くへと沈んでいった。二人は虎杖を頭の先から爪先まで見遣る。渋谷で死闘を繰り広げていたであろう彼も真希や五条と同等に、今し方崇徳天皇から受けた僅かな疵を除いて健常な状態だった。

五条と真希の登場に目色を明らめた虎杖だったが、すぐに面輪を曇らせた。夏油の亡骸を前にした舞南斗と同じく己が生み出した凄惨な現実に一度は絶望の淵に落下した身、今更になって逆流する滝の如く湧き上がった罪悪が舞南斗が與えた勇気をも凌いだのだ。 

 

「先生、俺…」 

 

幼なげな焦点を彷徨わせ言葉に窮する虎杖の頭を五条は撫でた。 

 

「何も言わなくて良いよ、全部分かってるから。悠仁は悪くない。」

「でもっ」

「悠仁は何も悪くない。」 

 

そんなはずがない、そう否定したくともいつにも増して慈愛を湛えた眼差しがともすれば凍りつきそうな胸懐を溶かして、虎杖は鼻先に込み上げる刺激を唇を噛み締めることで堪えた。今は感傷に浸っている場合ではない。虎杖は自身の肉体が宿儺に乗っ取られた経緯、爾後宿儺が行った殺戮の凡てを詳述した。細部を漏らさず打ち明けたうえで五条は柔く深められた笑窪を微塵も歪めなかった。 

 

「もう過ぎたことは仕方ない。これからどうするかを考えよう。」

「うん…あのさっきさ、不思議な光に包まれて」

「知ってるよ、舞南斗がやったんだ。」 

 

つぶらな眼がこれでもかと見開かれた。五条は今一度真希と虎杖に齎された渋谷における舞南斗の言動を惟みる。虎杖に宿儺の指を食わせ、特級呪霊と死力を尽くして闘っていた禪院班に乱入し敵を癒して加担した。ところが真希が懸命に語りかけると舞南斗は瞬時自我を取り戻し、しかしまた正気を失い漏瑚に伴われ撤退した。それから十五分も経たぬうちに彼の規格外の領域展開が呪術師と非術師を治療した。敵愾心剥き出しの常態と小隙に垣間見える純真無垢な呪術師の本質。

 

四時間未満の目紛しい紛擾で舞南斗は自己制御できぬ風見鶏の如く不安定な状態に陥っているものと思われた。彼の本意に拘らず、彼が通った路には必ず混乱が巻き起こる。 

——待てよ、真希と悠仁の怪我が治ったっていうことは死も覆されたってことだ 

呪術師としての信義に殉じた者達も蘇生された可能性もなきしにもあらず… 

 

「そうだ、若しかしたら傑も」 

 

曇天さながらの(うつつ)に一筋の曙光が差し込むかの心地だった。夏油だけではない、美々子、菜々子、パンダに半刻前に死亡宣告された狗巻や与、呪術師と補助監督が奇跡の復活を遂げたかもしれない。生きてはいるものの家入の反転術式ですら治療しきれない後遺症を負った者達も日常に復帰できるかもしれやも。それだけで五条の鬱積は希望と共に浮揚した。 

真希が呼びかける。彼は我に返って二人を明視した。 

 

「この先で鉢合わせる舞南斗が僕達の知っている舞南斗かは判らない。だけどきっとまだ間に合う。」 

 

イツキの加護を高専の儕輩に施したのならばそれは間違いなく本当の舞南斗に相違ない。 

 

「若しそうでなくても、彼があっち側だったとしたなら殴ってでも止めてあげれば良い。それができるのは悠仁、真希君達だけだ。」 

 

他でもない高専生として苦楽を分かち合ってきた同世代の学友だからこそ、伝わる想いがあるのだから。 

 

…瓦礫混じりの突風が三人の合間を通り抜けていった。虎杖の頬を掠めた剥き出しの骨組みが百メートル先の地面に深々と突き刺さる。合図を送り合うまでもなく三人は身構えた。 

 

——来る! 

刹那、敏速な弾丸の如き風圧が闇を引き裂いた。

無限の防壁に螺旋状の刃が牙を剥く。案の定攻撃は届かなかった。 

 

「あっはは!マジで届かないじゃん!」 

 

武器に変形させた手を元通りにして真人は軽快に宙を舞った。漏瑚の火炎放射を回避した虎杖が眼光を尖らせた。 

 

「真人!」

「あっれぇ虎杖じゃん。宿儺にカラダ乗っ取られてぇ、蛆虫ども駆除して無様に這いつく」 

 

激烈な一蹴が真人を遠方へと吹き飛ばした。崇徳天皇の猛攻に耐久し果敢にも攻撃力のバフが掛かった——舞南斗が意図せず付与した——腕力で弾き返した真希が聞くに絶えない罵詈雑言を吐き散らす真人に憤怒の矛先を向けたのだ。 

 

特級呪霊が三対。熱烈な歓迎である。五条の存在だけでこちらに利はあるが如何せん戦法の定かでない怨霊と特級という格付けだけでは計り得ない呪霊の覇者を相手に最強の呪術師を妨げずに戦えるか懸念があった。だが舞南斗に辿り着くには是が非でもこの難壁を突破するしかない。腰を落とし、折損した薙刀を構え戦闘態勢をとる虎杖と真希を五条は制した。 

 

「二人は先に行って。」

「え?でもコイツらは」

「行くぞ虎杖。」 

 

武器を納めず真希が虎杖の袖を引く。強過ぎず、されど抗えぬ程度の力に虎杖は気後れした面持ちで後目に五条を見遣った。 

あまりに透き通った二つの群青が虎杖を見詰め返した。 

 

「大丈夫。僕、最強だから。」 

 

いつも通りの、最強の呪術師の泰然とした笑顔が彼の懸念を瑣末にした。二人はもう振り返らなかった。 

 

舞南斗の元へと前進する二人の背をすかさず追尾せんとした火礫蟲は転瞬の間に消滅した。蒼により片腕を失っても尚肉食獣もかくやの威勢で真希達を仕留めんとした崇徳天皇は漏瑚を巻き添えに夜空に投げ飛ばされた。 

 

…耳が腐る絶叫が一面に轟く。崇徳天皇の咆哮に呼応するように大地が振動した。地底から迸発する唯ならぬ異変に五条は浮遊する。 

 

ゴゴゴ、地面が陥没し多数の穴隙が生じた。足場に注目する五条の頭頂に変幻自在の銃口が弾丸を発射する。凝縮された改造人間の弾は、しかし一寸も届くことなく弾かれた。距離を置くべく宙で身を捻る真人の片脚を掴み五条は投げ飛ばした。 

 

時空間が一気に深更へと加速しているようだ。悪夢を溶かしたかの墨色の天に一人と三体は正対していた。緊張、愉悦、放逸、憤懣…決して交差せぬ心持が各々の面貌に露われている。ひゅるりと目隠しを一脈の風が拐った。骨ばった指先が自然な仕種で重ねられる。 

 

「悪いけど今すぐ用事があるんだ。だからさ…さっさと死ね。」 

 

一度対戦した経験を想起した漏瑚だけがその脅威を熟知していた。一分前に生徒を見送ったときの人情味のあるグッドルッキングガイの面影はもうどこにもなかった。

 

 

地下二階に到達した頃、ピリリとした顫動が真希と虎杖の脊髄を迸った。危機を感知した二人の本能が足並み揃えてその場から跳び退く。驟雨の如く縦横無尽に降り注ぐ石礫、穿たれた床の向う岸に二人は彼の姿を見出した。 

 

「あれ、宿儺じゃないじゃん。しかも思ったより元気そう。」

「舞南斗!」 

 

真人の双子と見紛うような無神経な発言を云ってのけ、くるりと刀回しをする樹が正気か否かを判別するのは難しくなかった。彼の隣には紅白二色の風変わりな短髪の先を靡かせる麗人がいる。独創的な和装を纏ったその者と虎杖は半刻前に真向かっていた。正確には宿儺の視覚を介して。 

 

「真希さん、アイツ宿儺と顔見知りっぽい。裏梅って呼ばれてた。」 

 

彼は忍び声で馴染みの薄い敵についてを真希に警告した。真希は裏梅を改めて見る。一階上の地上は五条と特級呪霊により激戦地と化しているのが音響で伝わってくるにも拘らず女は柳眉を微動だにさせない。万に一つ五条が漏瑚らを秒殺し階下へと降ってくる蓋然性には事ともせず、樹の右隣に従容として直立しこちらを静かに伺う様は成程一筋縄ではいかぬ雰囲気を放っている。樹は勿論のこと、裏梅との手合わせが時間を伴うであろうことは感じ取れた。 

 

爪先に力が籠る。殺気というよりはあるまじき不調和が各々の神経を恰も琴をすくい爪で素早くかき鳴らすが如く尖らせていた。誰ともなしに得物に、四肢に内包する流動する負力を集わせる。 

地上での爆音が沈黙を破る。間合いの駆け引きにも動きがあった。 

 

キュイン、と独特な機械音が耳朶の寸前に触れるときには無数の氷針が真希の眼前に迫っていた。真希は薙刀を振るう。いっぺんに押し寄せた針が穂に触れた瞬間、彼女は百メートル後方に吹き飛ばされた。 

 

「真希先輩!」

「余所見はダメだろ、虎杖」

「クソっ!」 

 

瞬く間に視界から消えた真希を追おうとした虎杖に切先が突きつけられた。呪力を纏って太刀を振り払う。

目線を滑らせる。いつの間にか裏梅と真希は異次元の攻防を繰り広げていた。恐るべき速度の氷塊を見事に薙ぎ砕きながら「私を気にすんな、お前は舞南斗をぶん殴れ!」と大喝する真希に緊褌一番の決意を固め遂に拳を交わした。 

 

「やだな、ぶん殴るなんて物騒な」

「いい加減にしろよ…!」 

 

明朗快活な性状に反して地を這うような音吐だった。防御から転じて握り拳を顔面目掛けて放つ。舞うような身軽さでいとも容易く避けると樹は上段蹴りを入れた。肉受けした手首にひびが入る音がした。 

虎杖は天井を突き破り上階へと蹴り上げられた。意想外の力強さに猛牛さながらに卓越した耐久を誇る虎杖も眦を裂いた。 

 

即刻、蝶の翅を開き樹が舞い上がって来る。 

眼球の先に太刀があった。間一髪で頬を掠める。つ、と一筋の生温かい感触が流れた。 

 

ひらりひらりと真紅の警告色の一羽が近付いてくる。 

豕」縺?※縺。繧?≧縺?縺!

それは奇声をあげながら爆発した。 

 

カッハ!虎杖は白目を剥く。生得領域で宿儺に五百回以上叩きつけられ脳震盪を起こしたときのように頭がチカチカと点滅した。樹の声も、周囲の音も聞こえない。五感が強制的にシャットアウトされたみたいだった。

 

「どう?変異させたアグリアスの咆哮。超音波で脳漿が揺れて動けないでしょ。崇徳天皇の見様見真似だけど。」

「うぁ…グ」

「……大したものよ。」 

 

虎杖は唇から垂れる血を拭って、安定のない震える両脚で地面を踏み付け立っていた。自身で舌を噛み切り激痛で失神を堪えたのだ。手負の獣もかくやの獰猛な瞳孔が己を睥睨すると樹は愉しげに目尻を緩めた。 

 

「ま゛、なと…」 

 

タイルが砕け散る。颯の勢いで彼の拳が急接近した。右に傾く樹の肩を引き寄せる。 

渾身の頭突きが決まった。 

 

「い゛っ…なんて石頭だ!」

「少しは、効いたかよッ」 

 

思わず額を抑え蹈鞴を踏んだ樹に虎杖は畳み掛ける。先の上段蹴りに報復せんとばかりの蹴り込みが鳩尾に入った。突如海底に放り出されたかの威力を一身に受けた樹は隕石のように吹飛んだ。すかさず虎杖は後を追う。

上階、下階を敏速に行き来しひっきりなしに追手と逃走者が入れ替わる。いつしか二人は崇徳天皇がつくった地下三階で呪いを交わしていた。全階と地下鉄B5構内とを垂直に繋げる空洞の手前で。 

 

「伏黒も釘崎も死にかけの重症だ…皆お前を探してた。お前が心配で探してたんだ!それなのに、お前はどこで何をやってたんだよ!」 

 

床を突き破り逕庭拳が放たれる。寸秒のうちに生じた予期せぬ二度目の打撃を樹はまともに食らった。喀血した血液が地に落下する間もなく頭上から卍蹴りが落とされた。使いものにならなくなった利き足の代わりだがい如何せん破壊力は凄まじかった。 爆撃にも似た音を響かせて樹がぶつかった鉄柱が瓦割りの如く幾つも破壊される。 

 

ゴゴゴ!天井が落ちてきた。遥か後方で足場を失った真希と裏梅が華麗に着地した。二人の姿に虎杖は注意を逸らす。 

 

腹部が燃えた。鋭痛を見下ろす。 

 

…照明のなくなった暗がりで己の腹から身を覗かせる銀色が怪しく光った。乾いた血で赤茶けた唇が弓形にしなった。直ぐに引き抜かれようとしたソレを虎杖は柄を持つ手ごと握った。 

不意に、樹は動作を止めた。自身を決して離そうとしない強烈な握力に対してではない。矢庭に手を引かれ背中に回った気弱な腕に、肩に沁みだす温もりに対してだった。愕き窺おうとして石像に挟まれたように動けない。そればかりか嗚咽が間近で耳朶に触れると彼は瞠目した。 

 

「ぅ、はや゛く、はやく戻ってくれよォ…舞南斗!」 

 

魂の中心からの懇願だった。本当の樹舞南斗ではない、そう自覚していても尚虎杖の身を切るような哀切は彼の胸に浸透した。それを理解した途端、急激に興が削がれた。

…自身の背に回された感触に虎杖は徐に身を離した。吐息を感じる。

 

「舞南斗?」

 

項垂れた項が持ち上がる。ふふふ、と彼は笑った。一点の翳りもなく、清廉で屈託のない舞南斗の笑顔だった。

 

「良かった。俺は(、、)、ちゃんと皆に愛されてて」

「ッゥまなとォ!」

「い、痛いよ虎杖。」

 

戻ってきた。俺達の知る樹舞南斗が。虎杖は抱きついた。押し合った互いの傷口が疼くのも構わず堅く抱擁し合った。堪え性のない子供が泣きじゃくるように。

何百歳も歳下の童の感涙の横溢を樹は深厚に慈しんだ。しかし役者は間もなくの幕引きを悟っていた。

 

地上で轟音が起こった。訣別の時が来た。

 

「——真人、もう良いよ。」

 

りょーかーい。

行き成り、虎杖は突き飛ばされた。抗えぬ程の強さではなかったがあまりに突然のことで彼は尻餅をついた。前触れのない拒絶に彼は当惑を滲ませ前を見る。そして… 

 

「ぇ」

 

視界に映じた光景を情報として処理することができなかった。心が現実を拒んでいた。

 

「ク、ッハ!まひ…」

「余計なことすんなよ、折角虎杖殺せたのに」 

 

どうしてだか五条と交戦していたはずの真人がここに居る。変形した鋭利な鋸の手が樹の胸を貫いていた。それが回転しながら引き抜かれると樹は絶叫をあげる。ハッとして駆けつけようとする虎杖を樹は「来るな!」と制した。真人の隣には面識のない銀髪の男が立っていた。奇妙な立方体を懐に仕舞いながら。 

 

真人が合図を送ると、あと一寸で真希の脳天を貫通できる機会を妨げられた裏梅は舌打ち混じりに武器を収めた。瞬きよりも素早く彼女の姿は掻き消えた。前の障害物がなくなったことで最悪な状況を目の当たりにした真希は悲鳴ともしれぬ叫声を張り上げた。 

 

「お疲れ様、舞南斗。じゃあね。」 

 

魂に触れるような音色で真人は甘く囁いた。彼の手が完全に離れると樹は糸が切れたように崩れ落ちる。虎杖が慌てて駆け寄り彼を抱き留めた。自身に注がれる男の好奇の眼差しに虎杖は気付かない。そればかりかどよめく心は痛快な足取りで去り行く真人と安達をみすみす見逃した。 

 

出血が酷い。見えてはならない背後の壁がぽっかりと空いた穴から見えてしまっている。虎杖の手は塞げそうもない穴の周りに懸命に添えられていた。脚を引き摺って真希がやって来る。今にも大粒の涙が溢れ出そうな気強な彼女らしからぬ顰めっ面に樹は吐息を漏らすように笑った。差し伸ばされる手に誘われて真希は虎杖の隣に座り込む。 

 

「心配、ないよ。こうなる…ん゛じゃないかっ…て、わかってた……おねがいが、あるんだ」

「い、いいから喋るなっバカ!直ぐに悟を」

「聞いてっ…西野さんを、おねがい。良いひとなんだ」

「わかった、分かったから!」

「どうしようっ、家入先生に治して貰わないと、今すぐ!」

「虎杖、真希せんぱい」 

 

虎杖の腹に刺さった大太刀が引き抜かれると、とめどなく血が溢れ出す。樹は二人を抱き寄せた。夜の川辺を彷徨う蛍のあの微光が二人を包む。切なく、虚しさを感じさせる温もりが衰えるにつれて真希と虎杖は自身らの鉛のような重さがすっと和らげられるのを感じた。

二人を癒しても樹は一向に離れなかった。 

こつり、靴音が荒廃した地下鉄によく響く。遅れて現れた彼の姿を樹は確りと見留めた。 

 

「舞…南斗?」 

 

中身の異なる樹は舞南斗が仰ぐ恩師をよく知らない。されども大切な人だと歯を見せて自慢した舞南斗の面差しを忘れようはずもなかった。 

 

「せんせ」 

 

彼の両腕が真希と虎杖を解放する。今際の際に笑窪に愛嬌を湛える樹は本当に幸せそうに。 

 

「ありがとう…ごめんなさい」 

 

ボコ、ボゴ。皮膚が、内臓が膨れ上がる。 

グプグプと表皮が凸凹に煮立ちやがて…弾けた。

 

今夜一番の血腥さが真希と虎杖に跳ね返った。目の前で原型を無くしたソレを三人は茫然と見詰めていた。 

 

「まなと?」 

 

返事はない。発声の為の口も喉も頭も、腕も胸も…上半身はどこにもなかった。あるのは目も当てられぬほどの夥しい血溜まりに沈む誰かの下半身だけ。暴発の拍子にポケットから零れ落ちた学生証が虎杖の膝下で開かれる。見紛いなどではない、舞南斗の顔写真を見た。 

 

死んだ。樹舞南斗が死んだ。殺された。 

 

「ぁぁあ、ァアあア」 

——うぁああああ!   

 

己の真横で血塗れの顔面を覆い慟哭しだす虎杖に真希は掛ける言葉がなかった。彼女自身、今し方目前で遂行された死を呑み込むことができなかったのだ。だが虎杖の収まらぬ叫喚を聞いているうちに、次第に後輩の喪失を死亡診断書でも眼差すかの他人事で受け入れた。

ツンと込み上げる何かを堪えて後ろを見遣る。陽炎のように不自然に揺らめく五条を見て、漸く自身が涙を抑制できなかったことを知った。 

 

身を起こし覚束無い足取りで現実から逃れるように遠ざかる真希を五条は引き留めることができなかった。

虎杖が泣いている。赤く染まった地に這い蹲り、わけのわからぬほどの大声で。 

何故?舞南斗が死んだからだ。彼の面前で心臓を貫かれ、剰え弾けたのだ。人間の身体が、恰もシャボン玉が弾けるように簡単に。 

 

ここに至って五条は愛しい教え子との死別を認識した。

瞬間、紺碧が稲妻の如く暗黒の空に光芒を放った。忿怒の化身と化した彼は渋谷中を驚異的な速度で探し回る。だが樹の死に報いるべき黒幕はもうどこにもいなかった。 

 

………。 

 

近畿と東京を襲った呪いの厄災は斯くして終焉を迎えた。序盤より劣勢に立たされ多くの犠牲者を出した呪術師側は、しかし終盤の果てに自我を取り戻した樹の神域展開により覆された全ての不幸を取り消した。たった一人、己の責を背負うように散った高専生の悲劇を除いて。 

 

渋谷事変、呪術師側、大詰めにて形成逆転の奇勝。

 

 

 

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