綺麗な蝶には毒がある   作:れいめい よる

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千の風になって

 

 

呪詛師の洗脳にまんまと掛けられた哀れな未成年、特異な能力を有する総監部お抱えの呪術師、樹舞南斗に纏わるどのような肩書きも私にとってはどうでも良かった。 

 

昔からそうだった。術式持ちだけが人権を得る禪院家の分家に生まれ落ち、周囲から禪院の血筋らしからぬ軟弱な術式だと隔てを置かれても、同級生が任務で次々と数を減らしても、一級呪術師から補助監督へと異動する際に実家に勘当されても…人生の中でどれ程の一見気の毒な出来事に見舞われようとも私の平穏を乱すことはなかった。

 

西野智風はサイボーグと無能な非術師の女との間にできた血の通わない人形だ。生まれてこの方人間社会というものに一瞥もしてこなかった私にとってそんな世間の評価は寧ろ有難い程だった。無論、細やかな喜怒哀楽はある。同情や哀悼の意だってそれなりに抱く。ただ、いつだって私は自分さえ良ければそれで良かった。呪術界隈では五万といる利己主義者の一人に過ぎなかった。 

…彼に会うまでは。 

 

補助監督として担当した殆どの呪術師が私との不調和を理由に交替を望んだ。禪院寄りの脳味噌の腐った総監部の長老が欲望に塗れた醜貌で樹舞南斗の資料を寄越したときも無関心が移ろうことはなかった。 

正直云って、所詮は日影で養われた呪術師の私も禪院産の奸佞を極めた輩以外と拘った試しがなく、暢気で真率な絶滅危惧種というものに対する理解が至っていなかったのだ。 

 

——初めまして、俺は樹舞南斗です。気軽に舞南斗って呼んで下さい! 

とても呪いを扱えなさそうな間抜け面の彼にはパーソナルスペースというものがなかった。こちらが戦慄を覚えるほどの厚かましさで頼んでもいないのに自らを曝け出し邪険に追い払っては肩を落とす。単純明快な善意の塊と不本意にも接しているうちにいつしか胸懐を開きかけていた。 

何度断っても任務の度に差し入れを差し出し渋々受け取ればパッと明らめられる満面、あまりにしつこい誘いに根負けして訪れたカフェでふと垣間見たらしくない哀愁、顔を合わせる度に名前呼びを頼み込む性懲りのない頑固さ。 

 

以前、病院での任務で死に瀕した際には「嗚呼、これで漸く厄介者から離れられる」と何故か寂寞と安堵を同時に抱いた。…けれども目を開けた私がいたのは覚悟した地獄ではなく高専の保健室だった。私は大蜘蛛の呪霊に眼球を抉られ全身を斬りつけられて助かる見込みはなかった。反転術式でも有り得ない全快に困惑していると五条悟と夏油傑の同窓の女医に舞南斗に蘇生されたのだと教えられた。生死に干渉できるという呪術界の常識すらも逸した領域展開については事前に承知していた。だが領域展開が実現可能になったという報告は受けていなかった。 

 

——あの子が助けた命、馬鹿なことに無駄遣いしたら私が許さないから。 

そこはかとなく私に似た万年物臭そうな家入硝子が彼程までに敵意を剥き出しにするのを見たことがなかった。胸を痛めた憧憬は気の所為にした。厄介な立場にあっても猶、樹舞南斗と五条派を繋ぐ打算のない愛他には私のような卑屈な存在が這入り込む余地なんてないのだと。

だからこそ品川埠頭への別れ道で彼が最後に見せた表情が信じられなかった。 

 

『あの…本当に、今までありがとうございました。』

『舞南斗ッ!』

『はは、初めて名前呼んでくれた。』 

 

大きな器から溢れんばかりの優しさを溜め込んだ綺麗な笑顔は、彼が虎杖悠仁といった同級生や担任らへ寄せる全幅の信頼、何があろうと穢されることのない至情に満ち満ちていた。保守的で錆び付いた精神を患う連中に鼻薬を嗅がされた補助監督として五条派に警戒されているこの私に。補助監督ではなく一人の人間として思われていた。その事実がともすれば強情にも閉じようとしていた心の扉を完全に開け放った。 

 

…それから三時間後、舞南斗は下半身だけとなり帰ってきた。 

 

きっとあの時すでに、彼は己の死を覚悟していたのだろう。事後処理が落ち着いてから私は舞南斗に託されたノートを五条に渡しに行った。彼は片付けの済んでいない舞南斗の寮部屋に夏油傑と家入、夜蛾正道のみを呼び寄せた。あの子に託されたという理由で私も立ち会うことになった。そうして五人で中身を改めて…誰も肝を潰すこととなった。

 

百ページにも及ぶノートに直筆で記されていたのは渋谷での大惨事を惹起した黒幕、安達景時という男の正体。術式、目的、経歴。それから舞南斗が男と初対面を果たしてからの出来事と真人や漏瑚といった特級呪霊を利用した狡知極まる深謀遠慮の詳細。三十一日の晩、それ以前の段階で夏油は死ぬ手筈だったこと——正確な日付は書かれていない——、安達は獄門疆を用いて五条悟を封印し更なる恐慌を日本全土に齎そうとしていたこと…他にも高専の呪術師らを陥穽に貶める悍ましき計画が水面下で練り上げられていたことが判明した。一部は実行されてないことから舞南斗が呪詛師の意表をつき何らかの手段で阻止したものと思われた。

夜蛾学長は行方不明から帰還した舞南斗の背信行為とを鑑みて、以前尋問を行った際に呪いが半端に解除されたのではないか、その為に舞南斗は正気と狂気の狭間を彷徨い僅かな理性を手繰り寄せてノートを遺したのではないかという考察が成された。

 

五条は云った。僕の可愛い教え子なんだから当然だよ。呪詛師に洗脳され、特級呪霊イツキに翻弄され、心の片隅で己の立場を自覚し苦悶しながらも最期まで孤独に闘い抜いた舞南斗を一体誰が責めれただろうか? 

 

ところが心根の腐った老害はどこまでいっても人格破綻者を脱しない。人体部位を呪力で維持する術式持ちの補助監督により東京高専敷地内の死体安置所に一時的に補完していた舞南斗の遺体を総監部が回収したのだ。納得できる程の明快な理由付けもなく、どこからか仕入れた舞南斗と呪詛師の共犯関係という否定しようのない事実——しかも十中八九承知していながら黙認していた——に付け込んで。樹舞南斗は第一級咎人として名前を墓石に刻むことすら禁じられた。

 

多くの呪術師が反発したが総監部は断乎として意向を変えなかった。まるで臭いものにでも蓋をするかの鬼畜生の対応に五条と夏油の堪忍袋の緒が切れるのは至極当然の流れだった。 

しかし二人の謀反行為が目下守り培うべき若者達にどのような弊害を及ぼすかを疎かに考えるわけにはいかなかった。改革思想が扶植するまでは現状維持が好ましいと主張する夜蛾学長に五条達に賛同していた者達も渋々時機を待つことにした。 

 

舞南斗の遺体は御三家が一角、五条家の当主たる五条が権威を用いて強く言い立てたことでどうにか取り戻すことが叶った。総監部と彼等に従う保守派が存命な限り舞南斗を公に弔うことはできないので、彼は秘密裏に筵山の山頂に埋葬された。といっても毎日人の足が絶えないので結局は老害どもにお目溢しされているということだろう。 

 

……大樹が鬱蒼と茂る筵山は眼下に雄大な山々を臨める静謐な自然だ。フィトンチッドが充満し自立する森の生命が四季折々の色彩を描き出してくれる安眠には最適の場所だろう。瀬戸内海の青海原を展望できる弥山とまではいかないものの、大鳥居の代わりに東京高専の幾つもの鳥居が見渡せる。 

 

埋葬場所の一箇所として提案した一人でありながら此処に訪れるのは今日が初めてだった。いざ参ろうと一歩でも山を登るとどうしようもなく臆病になった。この歳になっても往生際悪く一人の呪術師の死を認められないのだから情けないものだ。 

 

ひやりとした落莫の秋風がたなびく霜月でも、目を細めたくなるくらいの錦繍が色付いている。ある場所は燃え盛る炎の如く赤を纏い、ある場所は繊細な黄褐色を輝かせ、その美麗に見惚れているうちに呆気なく散ってしまう。まるで彼のように。 

 

舞南斗の死から二週間が経った今も仏花は途絶えない。そも仏花というのは残された生者がどんな過酷な未来と向き合わなければならなくとも花のように耐え忍び生きていくという仏への誓いから由来しているという説がある。本来ならば手向けの竜胆の一輪でも供えるべきだが、それ以上に返さなければならない物があった。 

私は綺麗に手入れされた墓石に学生証と大太刀を立て掛けた。戒名は彫刻されてなくともこっちの方がずっと心安らかに手を合わせられた。 

 

「そろそろ貴方が気になっているだろうことを伝えに来ました。一度も顔を見せなかったことは謝ります、忙しかったので。」 

 

渋谷で死傷した呪術師、補助監督多数は土壇場に至って舞南斗の超越的な領域展開により復活した。加波比良古操術とはいえ人間では能わざる力を行使できるはずがない、よしんば生きていても何らかの重い代償を払わなければならなかったのではないかというのが日下部篤也の見解だった。真人に殺されることを予期していたのかは判然としないが宿儺ですら不可能な範囲に生得領域の効果を及ぼしたということは我が身を顧みなかったということの証左となる。とまれ、渋谷内で引き起こされた凡ゆる身体的損傷は後遺症の一つもなかったことにされた。 

 

「同級生は揃って一級に昇格しました。貴方とお揃いだと喜んでいましたよ。」 

 

一年も二年も普段通りの砕けた距離感で日常を送っているものの空元気を隠しきれていない。

喪失を知悉する大人達の誰もが時間が癒してくれるなどという耳当たりの良い言葉を掛けることはできなかった。同じ悲劇でも心が追う傷の深さは人それぞれ、特に面前で舞南斗の上半身が弾ける様を目撃した虎杖と禪院は直後の一週間はこちらが憐憫を抱くほどに悄々としていた。  

 

ところで舞南斗が内密に救済していた九相図の二名、それから渋谷事変の中途で呪詛師勢力から離反した脹相は各々の情状を酌量され夏油の提案で身分秘匿捜査に加わるとになった。当然総監部の存知するところではない。 

 

「私は呪術師に復帰しました。貴方と同じ等級なのは癪に障りますが。少なくとも貴方を殺した連中が断末魔をあげて絶命するまでは続けようかと思います。…別に復讐とかじゃありません。差し入れの礼をしていなかったので。」 

 

さらりと色なき風が頬を撫でた。返事なんて返ってくるわけがない。 

即席で削られた灰色の墓石は問えども語らず墓参者を無機質に見詰め返すだけ。この土の下で彼が眠っているとは到底思えなかった。 

 

瞼を閉じれば暗黒に浮かぶのは遺体安置所で初めて対面した舞南斗の亡骸。獣に食い荒らされたように腰から上をなくし無慈悲な白布が強制的に死の実感を与えてきた。舞南斗の死ではない。殺風景な空間に寝かされている死体の有様だけを受け止めた。だって、上半身もなくて男子校生らしくない男らしい足腰を実際に見たことがないのだからどうやってそれが舞南斗だと認識すれば良い?それでも担架に身を預けて幼児のように泣き噦る虎杖の背中が直視したくない現実を無理矢理に突きつけてきた。 

 

「…だから嫌だったんですよ。貴方のような人種とだけは、関わりたくなかった。」 

 

人の心に土足で踏み込み平気で掻き乱し、絶対に癒えぬ痕跡を残して消えていった。呪いのように脆く儚く、束の間の日々が嘘のように過去に流れた。端から何もなかったはずの胸が空っぽになったような心地だ。寝ても覚めても聴こえる彼の幻聴をどうにかしたくて、けれども墓参りに行けば益々酷くなるのではという不安が重苦しい時間を過ごさせる。おかげで不眠症が悪化した。 

 

…落ち葉を踏み締める音がした。尻目を背後に流せば真っ白な短髪が微風に揺れている。 

 

「ツナ?」

「彼の遺品を届けにきただけです。けど丁度良かった。貴方に渡しそびれていたものがあります。」

「明太子?」 

 

ある日の任務帰りに舞南斗が後部座席に置き忘れてしまった彼への誕生日プレゼントがあった。二十二日以降は終日任務があったので一度も高専に帰る機会がなくあの晩が訪れた。先日異動手続きの後に車内を整理していて存在を思い出したものだ。

私は青リボンの装飾が施された透明な紙袋を狗巻に手渡した。 

 

* 

 

包装を外してギフトボックスから取り出された物に狗巻は不器用に空気を短く吸い込んだ。生前の舞南斗がよく使役していたオオナガアゲハのアクセサリー、それと紫キャベツの風変わりな具材が入った開閉式おにぎりのストラップ。昨日のことのように思い出せる、舞南斗が行方不明になる以前のありふれた日常の一幕。

 

呪霊祓除任務の帰り道、コンビニで買った物珍しいキャベツのおにぎりを見て舞南斗がつと云い放った。

 

『先輩ってさ、おにぎりの具のバリエーション増やそうって思ったことないの?』 

 

狗巻の眸は淀みのない茄子紺をしている。そこで舞南斗は噴飯物の提案をした、紫キャベツを語彙に追加してはどうかと。 

 

『試してみてよ、ねね。』

『紫キャベツ。』

『………。』

『………。』

『なんか、ごめん…いてっ』 

 

変色した紫キャベツのおにぎりは存外美味しかった。

丁度一年前の麗らかな秋の日暮。二人を照らした斜陽の温もりも、その後の車内で己の膝を枕にして爆睡する舞南斗の頭の重みも、まろやかな声も笑った時の素敵な眦も、何もかもを憶えている。 

紙袋の中には直筆の手紙も据え置かれていた。

「棘先輩、お誕生日おめでとう!今度一緒におにぎり博物館行こ!」 

 

「ふ…うっ、ぅゥ」 

 

二つのアクセサリーを丁重に握り締め狗巻は屈み込む。筋を引いて流れる涙を拭もせずに顔を埋める彼を西野は生気を欠いた眼差しで見守っていた。そのうちそれすらも耐え難くなって現実を描き出す凡ゆる事象から逃れるように天を仰いだ。

 

雲が泣いている。否、薄青を滲ませているのは己の視界だった。一度それを自覚すれば悲涙というものはとめどなく溢れてしまうものなのだと、西野は思った。もう他人事として誰かの悲しみを無みすることなどできなかった。 

 

………。 

 

舞南斗の露草色の呪力を反映した大空が茜色に染まり始めた頃、墓には誰もいなくなった。日没が早まり山脈の彼方に陽が沈みかかっている。逢魔が時にも拘わらず堪え性のない低級呪霊達は我が物顔で山頂に屯していた。

 

キキキと奇形の一体が墓域に近寄る。呪具の大太刀の呪力に誘われて、好奇の眼球をぐるりと回しながら墓石に触れようとして...音が弾けた。指鳴りとともに辺りに集うていた呪霊は紫煙を払うが如く雲散した。

 

ゴム底がわくら葉を踏み付ける。長脚が安らかな区画に侵入した。やおらに伸ばされた手は墓石に預けられた学生手帳と大太刀を掴み取る。名前も真正の亡骸もない積み上げられた御影石を彼は愛おしげに撫でた。

 

「人間とは不思議なものだな。本人不在の石塊に恭しく拝むとは。...嗚呼、そういえば奴等は知らないのか。クク。」

 

思いのほか笑いの込み上げる己が三福は不思議で仕方なかった。縞袴に大太刀を差すと学生証を懐に収める。部分的な若紫の横髪と綿津見を投影した双眼を除いてはその姿態は樹舞南斗本人であった。

まあ善い。

 

「契約者よ、また会おう。なに、そう待たせはしない。」

 

伏せられた睫毛が再び上げられる。群青に宿っていた墓石への興味は全く失われていた。三福は早々に踵を返して仮初の墓を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

渋谷事変(完)




これにて渋谷事変終了となります。死滅回遊編に突入する予定がないので残り一話で完結となりますが、とある理由で先に別作品の「天与呪縛はつらいよ」が完結します。ご了承下さい。
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