四度の季節が巡り今年も茹だるような夏が遠のいてゆくのを肌を撫でる冷風から感じられる時季。暖を取るペンギンさながらに身を寄せ合おうとも隙あらば己を蝕もうとする憂愁と孤独に呪術師が翳り、世の中では呪いが勢いを増す頃合。今宵も夜に首を吊るされ秋冬が過ぎ、春が来るのを待ち続けるだけの淀んだ閑静に身を浸すものだと、全国の呪術を生業とする者たちは誰もが思っていた。
或る逢魔時のことだった。叢林の其処彼処から無数の秋虫が管弦楽を奏で、木枯らしが大気を冷たく澄み渡らせ、鳥獣がねぐらへと帰るべく群れを成して遠ざかってゆく時刻が嵐の前の静けさだったなど一体何人が想像できただろう。良くも悪くも平常通り、血と呪いに満ちた東京高専に一入の殺戮が降りかかった。
虎杖と真希が総監部に呼び出された。初めての事だった。それまでに保守派が二人に興味を示したことはなく——そも、老害がランク付されるならば最高位に分類されるであろう彼等は宿儺の器と禪院家の落ちこぼれを毛嫌いしてきた——、近頃の任務その他諸々で個々人が何らかの問題を起こしたこともない。昨年の渋谷での大虐殺において一時期肉体の主導権を宿儺に奪われた虎杖が犯した悪行の数々に処分が早められる危険に陥ったこともあったが、五条と夏油の尽力によりどうにか当初の計画通りの全指の回収の後に処刑に収められた。その為、二人が腐敗の詰まった頂点に参上しなければならない理由がないのである。
何にも況して不吉な心地にさせたのは招き口上だった。
「茶菓子用意してるって何だよ。今時そこらの餓鬼でも釣れねぇよ。」
「いや、俺が餓鬼の頃だったらうっかり行ってたかもしんねぇ」
「お前はな。」
「罠って分かってても釣られてやらなきゃなんねェのが大人になるってことだ。」
「なら一生子供のままで良いわ。」
数多の思考の末に一周回って悟りを開いたかの面差しで緩慢に足を進める虎杖と真希に、年中濁った眼をいつになく気怠げに細める日下部がしみじみと云った。部活も終いの時間帯にふらりと隣り合ってどこかへ行こうとする二人を無断外出と誤解し詰め寄ったのが運の尽きである。
教え子の真希に対する心配の念は勿論、いくら死刑の判決を下された蛇蝎を宿す青年だとしても未来ある若者が死地へと向かわんとするのを目送するわけにはゆくまい。五条も夏油も任務の為に連絡がつかない日を見計らって接触してきたのを推察するに碌でもない呼び出しに相違なく、急遽日下部が同伴することとなったのだ。あまりに急な展開なので夜蛾にも一報できずに。
「これって無視してたらどうなったの?」
「さあな。命令違反だって出鱈目な言い掛かりつけられるんじゃねェの。」
「ええっ?自分で茶菓子くれるって言ったのに?」
「お前マジで茶菓子の為に来たわけじゃないよな?」
そうこうしているうちに目的地に着いた。調度品の一つも飾られていない殺風景な離れ棟の上階にたった一室ある居間の前で日下部は壁に凭れ掛かった。
「さあ着いたぞ。何の気まぐれか知らねェが、入ったらさっさと出て来いよ。
「うっす!」
「それができたら苦労しねぇよ。」
沈鬱な色を双眸に乗せてひらりと手を振った真希と覚悟を決めた虎杖が身体を反転させた。
…強い異臭が五感の鋭敏な二人の鼻腔を侵した。思わず鼻を摘む。揃って奇怪な行動をとった真希と虎杖に見送り人は眉根を顰めた。
「何だ」
「ウッ、その…血が」
「血?」
「この臭い!」
謂うなれば戦闘中に研ぎ澄ました神経が、颯と身近を擦過した呪いを感じ取るような感覚だった。帳の降りていない静寂で不気味な現場に訪った際にむわりと怖気立たせる悪意を実感するかのよう。今、確かに自身らの嗅覚を刺激したのは単数では有り得ぬ濃度な死だった。微風に孕まれた殺戮の痕だ。
この階層に窓はその居間内以外にない。原因が半開きの襖から漂ってくるのは一目瞭然である。そして客人を招き入れる目的で片手分開いているわけではなさそうだ。
虎杖と真希に先んじて室内へと飛び込んだ日下部は絶句した。
「これは…!」
大の字に床に臥す者、襖紙を頭部から突き破る者、歪な剥がれ方をした鴨居にぶら下がる者、外れて刀剣の如く鋭利となった竪框に肉体を貫通させる者。誰も彼もが邪気の証を一身に受けて惨死していた。
二〇一九年十一月十三日、総監部壊滅。翌日、加茂家重鎮が全滅。
突如として不完全の平穏を脅かした大禍に稲妻の如く呪術界に緊迫感が駆け巡る。初日の晩、機転を利かせた日下部が殺戮直後の現場から虎杖と真希を逃したことで駆けつけた衛兵による即刻の処罰は免れたものの二人が招致を受けていたことが明らかとなり嫌疑が掛けられた。今年二月には潜入捜査体制に戻った夏油の元に秘密裏に送り出された真希と虎杖は当分行動を共にすることに。
事態を聞きつけ任務を早急に終えて舞い戻ってきた五条は自身らの一派が今や残り滓となった保守派の糾弾に反論をしたものの一週間後の二十日には対立が激化。もはや全面衝突は避けられぬ段階に至っていた。全ての術師達が明日にでもやって来るだろう大嵐に備えて神経を尖らせていた。
………。
表世界の裏側で殺伐とした空気が充満していようとも地球が変わらず自転するように呪霊は無限に発生する。態度を硬化させる保守派が呪術師としての本分を放棄したことで五条派は押し付けられる形で来る日も来る日も任務に明け暮れることとなった。彼等が祓除に拘っている間にも先方は着実に勢力をつけており、偵察に向かった甚爾と灰原の二名の報告によるとなりふり構っていられなくなった一部の強硬組が海外の傭兵術師に金を払って日本に呼び寄せている動きがあるとのこと。
更には各地に遠征任務に行った多数の術師から例年よりも呪霊の数が増えていること、未登録の術式所有者の民間人に対する犯罪行為が頻発していることから現状では窺い知れぬ暗部が徐々に浮上しているものと思われた。尚、舞南斗の遺したノートに記されていた情報から黒幕は推定できよう。噂を聞きつけて九十九や異国の特級術師が興味本位に場を引っ掻き回す前に早期解決が望まれた。
十一月中旬、夜蛾の招集により漸く仕事に一段落がついた五条、七海、夏油、西野は高専内の地下室に密かに集うこととなった…。
久々の故郷は相も変わらず陳套で田舎臭くて空漠としている。連日床寝する所為で寝違えた首を摩りながら西野は扉を開いた。既に全員揃っていた。一番乗りの五条が待ち侘びたとばかりに手招きする。
「やほ。どう?最近」
「何に対しての質問ですか。主語くらいつけて下さい。」
「うーん毒舌!ただの挨拶なんだから少しは肩の力抜きなよ。」
このように馴れ馴れしい応酬ができる程度には二人の関係性は修復されていた。舞南斗の存在が越えられるはずのない垣根を飛び越えて相対的な者達を結束させたが、その貢献者の不在の事実が彼の名を口にするたびに重くのしかかってくるので結局付かず離れずである。皮肉に謂えば佳境に差し掛かっている今日この頃、虎杖を除いた二年の引率を任されている西野の胸懐は無意識のうちにもう一掻き前進しようとしていた。
「半日以上帳の内側で生活しているので夜との見分けがつかなくなりました。最悪です。」
「あー」
身に覚えのありたくない愚痴に誰ともなしに苦渋の色を漂わせた。
パンッ、渋い柏手が打ち鳴らされた。珍妙になりつつある空気を一変させたのは夜蛾だった。
「あまり時間がない。俺から報告に入ろう。臨時の調査委員会と事件の現場検証を行ったが目ぼしい成果は得られなかった。」
上層部の惨殺事件の夜更けには東京高専の責任者として夜蛾が非番の術師を動員して捜査を行ったものの被害者らは全員刃物で切り付けられ、剛腕により振り回され、強靭に蹴り飛ばされたのみであり術式の類は一切使われていなかった。残穢がないのだ。
「居間の窓は内側からしか開けられない。だが表の扉が強引に開けられた痕跡もない。」
「犯人が窓から逃走したのなら誰かが相手を無防備に招き入れた筈だということですね。」
だからこそ直前に招待された虎杖と真希に疑惑の矛先が向いたといえよう。
加茂家での一件は京都高専学長の楽厳寺が調査を行ったがこちらは微かな残穢が殺害現場にのみ付着していた。しかし刺客は周囲に跳躍できる足場のない窓を出入りとしていることから謎が深まるばかり。
「空でも飛んでない限り殺害は不可能だ。」
「ていうか子供二人に呆気なく殺されるくらい自分達の長は雑魚でしたって裏返しに主張してることに気付いてないの終わってんね。」
加茂重鎮らの殺害事件に関しては斯様な芸当が可能な術式や呪具を所有していない虎杖と真希では不可能だと夜蛾を筆頭として調査に携わった複数の術師が反論をしたものの、学生二名に冤罪を課すことで五条らを手っ取り早く一網打尽にできると目論む保守派の連中との間で膠着状態が続いている。呪霊を使役できる夏油が内密に呪霊を貸し出しただの、甚爾を使っただのとアリバイのある人物までもが容疑者候補に挙げられる始末。そも、論理的な思考且つ倫理観を徹底的に母体に置き忘れてきた者どもは手段を選ぶことなく濡れ衣を着せたいようだった。
「私としてはあそこまで必死になられると寧ろやましいことがあるんじゃないかと疑いたくなるけどね。」
「それな。」
「仮にそうだとしてもあの老害の残り滓如きができることじゃないでしょう。」
「どうでしょうか。悪巧みに長けている連中なので姑息な手を使ったのかもしれません。…五条さん達が以前見せてくれた例のノートもありますし。」
「羂索ね」
渋谷事変に一区切りがついた頃に何れ来る戦争に備える五条達は極少数の信頼できる味方に呪術界、延いては列島全域に忍び寄る脅威についてを打ち明けた。真実を知った者達の間で烈しい心火の炎が燃えたのは謂うまでもない。眼前で実際に対峙し盛大に憤怒を掻き立てられたにもかかわらず不覚を取った夏油の自己嫌悪は計り知れず。次相見えたときには必ずや仇討ちを果たさんと皆が意気込んでいた矢先、正に次なる事変がやってきた。
「腐った蜜柑どもを殺したのがアイツかは分かんないけど…」
「少なくとも今保守派の裏で糸を引いているのは彼だろうね。」
「うん」
認めたくはないが五条の庇護下の高専生を誘拐洗脳し、剰え渋谷事変を引き起こした約千五百歳の悪鬼は好敵手以上の難敵と称するに相応しかろう。
「ところで最近悠仁と真希どう?」
これ以上話したところで行き詰まるだけだと断じた五条が話頭を転じた。
一応は副担任の職種にも就いている夏油の元に身を隠した二人は潜入捜査——因みに彼等と甚爾、灰原とは別な潜入組である——を手伝いつつも勉学を教わっていた。特に虎杖の呪力操作と真希の体術強化の特訓は過酷で、脹相達が冷や汗を流しながら見守るのが茶飯事と化している。
「皆仲良くしてるよ。二人が気さくだから美々子も菜々子も懐いてる。」
いつ何時争いが勃発しても戦力として加味できる程度には仕上がってきているという。夏油にとって焦眉の急を要する問題は学生達の実力不足ではなかった。
「少し、いやかなり変な質問をさせてもらうけど」
——本当に舞南斗は死んだのかな?
零度の冷ややかな膜が狭小な地下室を覆い包んだ。氷室にいると錯覚するほどの重みが増し、恐らくは虎杖と真希が総監部惨殺の現場に立ち会ってしまった際と然程変わらぬ歯の根が合わぬ空気があっという間に二人の神経に触った。
「どういう意味ですか。まさかこの期に及んで下らない妄言を吐き捨てるためにのこのこ現れたわけじゃないでしょうね。」
「は?当たり前だろ。俺の目の前で弾けたんだけど、馬鹿にしてるわけ?悠仁と真希にんなふざけたこと言ってないだろうな。」
「落ち着いて下さいお二人とも。まさか意味もなく夏油さんがこんなことを訊くわけがないじゃないですか。」
今にも呪力の乗った拳を振り上げんばかりの形相をする五条と西野を七海が制した。場を鎮める為に呪霊を召喚しようとしていた夏油が小さく礼を述べた。