「いやね、話を戻すけどあの総監部と加茂家のなぶり殺しについて悠仁が妙なことを主張していてね。」
「悠仁が?何をだ。」
「それが…正確には宿儺がなんだけど、ほらあの場所で彼も血生臭いのを見たわけだろう?そしたら毎晩精神世界で愉快げに嗤っているものだから気になって尋ねてみたらしいんだ。そしたらこう云ったそうだ。」
『こんなにも愉快なことはないから教えてやる。鏖殺の下手人は加波比良古に相違あるまい。』
加波比良古と聞いて真っ先に脳裏に浮かぶのは加波比良古操術の使用者である舞南斗だ。当然己の目の前で級友の返り血を浴びた虎杖は険しく何度も問い詰めたが宿儺は似たような発言を繰り返しただけだった。
揶揄っているのではと夜蛾が苦言を呈するが夏油はかぶりを振る。先日近畿にて担当した呪霊祓除任務の事前調査の際に虎杖と真希が県立図書館で文書を漁っていたところ西洞院家に纏わる稀有な古書を発見した。粉が零れて来るほどに古い素材の為に渋谷で店を構える有能な修復屋に持ち込んだところ、難解な顔をされつつも一部を修復することができた。
「西洞院時当の死後に行方を晦ましたイツキを捜索した時慶は旅の果てでこう締め括った。「加波比良古操術の領域展開は初代発現者である信基にのみ可能だった。イツキと契約した時点で西洞院家、分家の末路は定められていた。」」
「事実と違いますね。確か二人目がいたでしょう、西洞院時当が。」
「舞南斗もね。」
職業柄、各省庁等から修復の依頼を受けることが多々ある修復屋の鑑査によると古書が作成された年代と執筆時期は一致しているという。出鱈目とは考えれない。
「何が言いたいかというとね、領域展開の謎云々はさておきこんな過渡期に舞南斗の影が二度もちらつくのが引っ掛かるんだ。」
夏油がそう締め括ると一同の視線は五条に注がれた。彼は目隠しの上から眉間を揉んでいた。
「そんなこと言われても
「あの、夏油さんの話で私もお話ししたいことが。偶然かもしれないと思っていたのですが…」
逡巡しつつも七海は語り始めた。
先週末、広島県廿日市市での任務に狗巻とパンダを伴い赴いたところ妙な噂が流布しているのを漏れ聞いた。大昔に人間に愛想を尽かした厳島の主が永い年月を経て還幸された。…換言すれば神が土地に戻ってきたという旨の噂であるが、実際に厳島の主とやらと対面した地元民の中には身内の不治の病を治療してもらえた者もいる。早耳の権力者が真偽の程を改めるべく足を運んだが、神社本庁ではなく宮島町と神主家が鎖国もかくやの京都人並みの排他的な姿勢で門前払いを食らわした。神社関係者を装って三人が内偵を試みたところ衝撃の事実が発覚した。
「これだけは具申するべきか悩んでいたのですが…実は治療を受けたとされる方々から呪力が感じられなかったんです。」
沈黙が聞こえた。西野が困惑げに「念の為に訊きますけどそれは全く、雫程の呪力もなかったということですか?」と問えば七海は悩ましげに首肯した。夜蛾達も深刻さを眉根の辺りに這わせて押し黙っていた。
さもありなん、地球上にいる全ての人間が呪力を持って生まれ、それ故に体内で生成しコントロールの出来ない大多数の一般人が吐き出す負の感情が元となり呪霊が発生するのだ。それが七十億人に一人の傑物、呪力を全く有さない禪院甚爾と同等の人間が突如として複数人、しかも局地的に変異したということになる。呪霊の生まれない世界の実現を理想とする九十九が目の色を変えて飛んできそうな話である。明白な異常事態の進言先を誤れば由々しき展開になるのが瞭然に予測できる為に七海が出し渋ったのも頷ける。
「途中でこちらが部外者なのがバレてしまい調査を断念せざるを得ませんでしたが、見間違いなんかじゃありません。」
彼は附言した。
「大体おかしくないですか。上層部が虎杖君と真希さんがまともな理由付けもなく呼び出されるなんて。これはまるで…」
まるで。その先は言葉にせずとも全員が分かっていた。綿密に丹念に用意された平舞台の上でおのがじし火種を持ち込み踊り狂う様を観るのを何者かが待ち侘びているかのようだ。
「あの、舞南斗の件で私も少し気になることが」
告別式の棺の前で故人を偲ぶかの雰囲気の中で西野が躊躇いがちに呟いた。これ以上澱む余地もない地下室で彼の声は重苦しく響いた。
「去年のことなんですけど、私が墓に置いたはずの彼の刀と学生証が失くなっていたんです。誰かが持っていったのかもしれないとその場にいた釘崎さんと伏黒さんが協力してくれて探したのですが見つからず。犯人も分からず終いでした。」
「大太刀か?」
「はい?ええ、そうですけど」
「…殺人に使われた凶器は大太刀だった。」
「…………。」
必然と渋谷事変の後、術師の間でマンデラ効果(事実と異なる認識を不特定多数の人が共有する現象)が起こったことが想起された。午後八時半には西野は舞南斗と平将門の祓除に当たっていた。ところが事後報告の際に奇妙な過誤が交差したのだ。
それというのも西野が奔走していた時刻よりも早くから舞南斗は日下部班と行動を共にしていた。十五分から少なくとも四十五分後までは渋谷内にいた筈で、よしんば彼等の時間認識に誤差があったとしても渋谷から大手町までの距離を短時間で往復するなど不可能だ。
西野の記憶では舞南斗が怨霊を鎮めたのは十時頃。その間、七海班や宿儺、狗巻と複数人が渋谷近辺で舞南斗と対峙しており全て時間が被っている。どれだけ記憶を洗い直そうとも供述は変わらず、書類上は舞南斗が対敵したことだけが記録された。一部の術師の間では舞南斗の生き霊が出たなどと頓珍漢な怪談を語る者もいた。
瑣末な窃盗事件が一年後に点と点として繋がれてゆく。まだ欠片が少なく全体像はあまりに朧げだ。しかしこの瞬間、確かに彼等の胸に共通する確信があった。誰かが何かを仕組んでいる。それは徐々に曇天色の輪郭を帯び始めやがて大きな大きな暗雲となるであろう。そして彼等はすでに台風の目にいる。
「彼の生前、我々はずっとイツキが樹君の肉体を乗っ取ることでしか活動ができないと思い込んでいました。」
七海が苦々しく云った。だが事変のときから科学的にも呪術的にも説明できない不可解な現象が頻発している。五条が死んだというのならば舞南斗は死んだのだろう。しかし六眼が幻に反応していた可能性も有り得る。
「若し、若しもイツキが舞南斗の姿を借りずとも活動することができていたら?」
それだけでは舞南斗が渋谷で同時刻に別の場所で現れた理由は解明しきれずとも筋道が通る。彼の死により契約が無効となった特級呪霊が自在に蠕動しているのか、将又契約者との縁が切れていないから顕現が可能なのか…。
汚染された世界で、更に認識の及ばぬ泥沼へと手招きされている不気味な心地に各々が悪心を感じていた。慎重な面持ちの夜蛾が纏めるように云った。
「舞南斗の墓を調べよう。」
四日後、夜蛾の知人の葬儀屋を営んでいる元術師が高専所有地の筵山に招かれた。彼は遺体を綺麗な状態に戻すことができる術式持ちで警察からの損傷の激しい遺体の復元といった仕事も熟している人物である。仕事の都合が悪く立ち会えなくなった夏油と五条の代わりに夜蛾と西野、日下部が同道した。
真夜中にスコップで土を掘り起こす一行は墓荒らしもかくやの様だったが誰一人無駄口を叩かず深さを増す暗い穴を見詰める眼差しは厳粛だった。成人男性二人で黙々と進める穴掘りは三十分で終わった。棺もなく家入が厳重に何重にも包んだ布は一年限定の保存の術式が解けどろりと滲出して時間の経過とともに水分を失った腐敗液が変色している。蛆虫が集り想像を絶する腐敗臭が顔を背けさせた。
額に汗を伝わせる西野と日下部に夜蛾が慰労の言葉を掛ける。次いで目配せを受けて葬儀屋の男が合掌の後に手袋を着けた手で布を慎重に開いた。
白骨化の始まっている下半身だけの遺体には分解された体組織が辛うじて少ない面積に残っている。呪霊による行方不明者を遺体で発見した際のそれと何ら変わらぬ腐乱状態だ。男が術式を行使すれば見る見るうちに遺体は元の姿を取り戻してゆく。地面に浸透して栄養分としてとうに吸収されたはずの体液や血液が逆戻りし、朽ちた表面がくすんだ黒色から赤褐色、肌色へと変じてゆく。肉体を膨張させた腐敗ガスは無かったかのように引き締まった脚を形成し、弛緩した下半身から上半身が木が急速に育まれるように生成された。
程なくして完全に復元された遺体が横たわった。あの晩、遺体安置所で号泣する虎杖の背中の向こうに見た舞南斗だったモノに対する違和感は単なる悲しみの産物などではなかった、西野は錯綜とした情緒に陥った。夜蛾も日下部も一言も発さない。事情を聞いていた男は三人の反応から緘黙するしかできずにいた。
黙祷よりも遥かに長い時間が流れ我に返った夜蛾が呆然と声を絞り出すまで、四人は見知らぬ者の遺体を眺め続けていた。
*
水天碧の瀬戸内海と雄大な弥山原始林に育まれる信仰の島、安芸の宮島。夢枕で示現を受けた清盛公により寝殿造が造営され、栄華を極めた平家の威光は色褪せることなく朱色の建築美として聳えている。日本三景として知られる自然との調和が叶った水上の神殿には悠久の歴史が神聖を保っている。
市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命——殊市杵島姫命は
見捨てられた裏神様とともに市杵島姫命もまた忽然と姿を消した。世界中で神話が歴史へと変遷するように、創造者としての役割を終えてあるべき場所へと帰還されたのかもしれない。
もう二度と生きてお目通りが叶う機会は訪れぬやもしれぬ。何度の輪廻の果てにも。人類が人類史を歩み続ける限り。
それでも人々は信仰を止めなかった。いつかの奇跡を願って社の神聖を守り続けた。そうして千五百年後の現在、厳島は神有の島へと回帰した。尚、これは極限られた現地民と神社との縁故を頼れる立場の人々の間でのみ共有される極秘情報である。市杵島姫命の代わりに帰郷された裏神様は昔住処とされていた本地堂の奥の後庭の森で忍びやかに暮らしているという。
人間が立ち入り禁止とされる静謐な領域で、迷い込んだ幼児に膝枕をしてやって彼の者は居た。従事者の目を盗み忍び入ろうとしたはずが不思議と導かれるかたちで開かれた不明門を潜って、奥懐、弥山の山頂に五条達は至った。
縞袴に厳島の美景をそのまま紋付染に落とし込んだかの萌葱色の羽織を羽織った青年の風姿で。虎杖達二年生と五条、夏油が愛しみそれ故に離別をこの世の終焉の如く嘆き憤った顔が彼等に微笑んでいる。
「い、つき?」
消え入りそうなほど弱々しい呼び掛けだった。己を膝枕にする五歳の女児を見下ろしていたイツキは、三福はやおら面を上げた。
「遅かったね、みんな。」
去来する眩しく苦く生気に溢れる記憶。かけがえのない時間。忘れがたい思い出。胸も目頭もいっぱいに熱くなって真っ先に駆け出そうとした虎杖を五条と夏油は引き留めた。大切な教え子と再会を果たしたにもかかわらず眉を柔らかにおどけさせるどころか、荷の重い任務を背負わされたかの油断のない顔つきが前を見据える。双眼には怒気さえ湛えられていた。
伏黒と釘崎が概ねを察知した。
まるで小さな子供を人質に取られているかの剣呑な眼差しに三福は窮したとばかりの微笑をつくって問うた。
「なあ、どうして俺があいつを生かしたと思う?」