その山は見たこともない植物で溢れていた。硝子細工の内側から電球が光っているみたいに輝いている花、色調の濃淡が華のように見える草、茎が透明で宙に浮いてるとしか思えない蕾。
極めつけは山頂にぽつんと佇むお社。小ぢんまりとした本殿が幾つかの鳥居の先に建てられていて、五条先生よりも上背のある男性が箒で綺麗な石畳を履いていた。一応イツキ様と民に敬われてきた特級呪霊と関わってきた身として、長い髪を後ろで一つに束ねた狩衣の背中を見ただけで「あー、神域かあ」くらいの軽やかな感覚で納得できたのだから慣れって怖いな。
恐らくその社の神様はつと掃除する手を止めると「ようこそ」と迎え入れてくれた。見返って微笑んだ神々しい尊顔に俺は即刻認識を改めた。拝殿の小規模な具合から勝手に末社だと思い為したけどとんでもない。此処は喩えるなら三福が全盛期に神力の癒し処として居座っていた弥山と同質の、到底人間が踏み入ってはいけない神聖な場所に造られた静謐な場所なんだ。だからこそ俺なんかが招かれたのが不思議でならないが。そんな疑問をテレパシーでも使って感じ取ったのか、神様は花開くように綻んだ。
「獄門疆の中にいた己が何故目覚めたら此処にいたのか、そう訊きたいのだな。」
「あっはい」
「私がお前の精神体のみを此処に呼んだのだ。肉体はまだあの中にある。」
成程、精神体なら合点がいく。封印の直前に三福が俺の精神を領域に連れ込んだような感じなのだろう。けどどうして?
「あんな箱に収まっていれば居心地が悪いだろうと伊都伎嶋に頼まれた。」
「三福が?」
不親切大賞を開催するならば他の参加者を足蹴にして優勝できるくらいには俺泣かせで隙あらば馬鹿にしてくるくせになんだかんだで情を向けてくれてるのだろうか。ペットに対する愛玩的な気持でないことを願うばかりだ。
手招きされて俺は恐る恐る本殿に背を凭れて隣合って座った。参拝者が来るわけがない領域だけどこうして鳥居の向こうの世界を眺めているだけで自分も同格の存在になったような心地がした。
どこからか這い寄ってきた一メートルくらいの体長の蛇を神様が慰撫している。野生ではなく眷属なのかもしれない。
「お前はお前自身について何を知っている?」
「すみません、質問の意味がよく分かりません。」
「ならば魂について判る範囲で話してみなさい。」
これまた難儀な質問だと眉根を顰めた。試すような目差しではないことから素朴な問いかけなのは押し測れる。
魂とは何か、そう訊かれて答えられることなんて自己紹介よりも短い。前の世界では魂だったり幽霊だったり神様だったり、目に視えないものを視えると公言すれば大抵奇異の眼で見られただろう。俺は神職の家系ではないし殊更霊感を持って生まれてきたわけでもないのでそういった類のものを身近に感じたことはない。現代人が不可視の概念に対する信仰を捨てたのは医学や心理学といった科学の目覚ましい発展により知覚能力の限界が頻繁に突破されてきたからかもしれない。だけど俺はそういう人達こそ盲人だと思う。
だって、目に見えないものを信じないのなら当然孤独や幸福、喜びや悲しみを起こす心自体を否定しているのと同義で、それなら人生の意味だって失われてしまうことになる。そしてこのような科学的根拠のない、現代の人間では解明と理解が行き届かない事物に対して頑なに嘲笑するような人間はいつかそれに足元を掬われるんじゃないだろうか。地球だって昔は平面だったんだ。
「俺的には絵空事だからって馬鹿にするより妄想力を働かせて人生を豊かにする方がよっぽど楽しいと思うけどなあ。」
論文を読んだって難しいことはよく判らない。だけど最先端の量子力学のような物理学の幅広い部門では一昔前にはトンデモ科学だのと揶揄されていた問題も常識になりつつあると聞いたことがある。
「呪術世界の俺と入れ替わって非現実的な世界で過ごすようになって魂は…そうだな、大学の数学を高校で齧る感覚程度には親しみを覚えています。」
「面白い答えだな。」
「あはは」
神様は学校なんて通わないから理解しづらい返答だったかもしれない。だけど会心の当たりだと柔和な目元が花丸を点けてくれた気がして俺は子供みたいに無邪気に喜んだ。その肩に回る蛇の硬質な頭に触れてみれば気持ち良さげに目を細めてくれるので夢中になって鱗を撫でていれば、不意と神様は云った。
「ところで入れ替わりではないよ。」
「え?」
「お前は本来呪術の世界に属する存在だった。」
困惑を滲ませる俺を神様は見詰めるだけで疲労が癒やされそうな仏のような面輪で見下ろしていた。絡まったネックレスを解くように、結び目を一つ一つ見出す声遣いで「先ずはお前が忘れたお前について教えてあげよう。」遠く空を仰いだ。
…今や周知の通り、加波比良古操術の初代発現者である西洞院信基は流罪にされたところを揶揄いにきたイツキを調伏し契約に至った。調伏という字面から察せられるように当時の二人の関係は険悪だった。流罪というのは律令制以前には神の逆鱗に触れた愚か者を島に捨てるといった意味合いから由来した刑罰であり、信仰の源たる氏神が堕落するばかりか氏子を愚弄したことは魂を穢されるも同然だったのだ。片やイツキは満更ではないとはいえ望んでもない信仰の対象として祀りあげられ、勝手に信仰が失われてそればかりか特級呪霊扱い、嘲笑と心配半ばに氏子を様子見に行けば調伏されるという屈辱に遭う散々な境遇である。
「平家の再興を望んでいた信基が提示した契約は平信基の血を引く者は伊都伎嶋の加護が付与された加波比良古操術を受け継ぐことができること、最終奥義である領域展開を習得できた暁には、彼が天寿を全うするまで付き従うことだった。対して伊都伎嶋は契約を全うすれば彼の魂を我が物とすることを条件に加えた。」
「ちょっと待って下さい、おかしいですよ。それだと契約が二者間一代で完結しちゃうんじゃないですか?」
「間違っていない。後代の子孫が領域展開を習得することは端から契約に含まれていなかった。」
だったらどうして西洞院時当と俺は領域展開を習得できたのだろうか。整合性がないじゃないか。脳漿を絞っても不束な頭では腑に落ちなくて首を捻る俺に神様は最後まで聞くようにと優しく窘めた。
「初めて加波比良古操術の領域を展開したとき、何を思った。」
「えーと…うーん」
「感じたままを言ってみなさい」
この世界に来て初めての領域展開は病院での任務だった。呪霊の生得領域に引き摺り込まれて対決して、首の皮一枚繋がるかぺりっと剥がされるかという瀬戸際で術式の真髄が発揮された。あの時、殺された西野さんを甦らせて自分の瀕死の重傷を治した感覚はとても未体験とは思えない懐かしさ、デジャブを感じた。
それを具に伝えると神様はさもあろうと言いたげに点頭した。
「お前は幾度も領域展開の極意を身を以て体感したはずだ。」
「はい。俺のは特殊で、だからこそ五条先生達が特別な庇護下として総監部の連中から守ってくれた。確かに、生と死、破壊と再生、輪廻転生を操るなんて…なん、て」
人の生死を覆した。理に干渉した。人間には持て余す力の絶大さを体現した。だからこそこの世の術式の中で最も異質な舞庭新蝶常世神で卓抜している輪廻転生の危険性と潜在力を隅々まで承知しているつもりだったのだ。
まさか、そんなことがあって良いのだろうか。波動砲を直接脳内に撃ち込まれたみたいな衝撃に絶句する俺に神様は無情の肯定を送った。
「時当が信基としての前世を思い出したのは元服を迎えてからだった。その頃には積み上げてきた人生が新たな価値観を形成しており彼の望みは変容していた。」
往時、平家の滅亡と共に没落した呪術家系に取って代わった御三家は支配権闘争に明け暮れていた。戦禍の飛び火は西洞院家にも及び熾烈な権力争いに巻き込まれて憔悴しきった時当は権勢を欲しいままにせんと不埒を尽くす者達の腐敗っぷりを憎んだ。平家なんてどうでも良くなってしまったのだ。またこの頃の三福は人間の泥臭さに辟易して、宿儺や特級呪霊達が跳梁跋扈し純真に汗と血を流していた時代の再来を願っていた。
「話を戻すが平安全盛、信基の時代に契約に口を挟んだものがいる。それが羂索だ。」
「安達、あの男が…」
「人類の進化と呪力の最適化を望むの野望と当初の二人の希望は図らずも当面一致していた。それは時当の代になっても同様だった。」
利害関係の一致による協力関係。
『三福をものみたいに言うな。呪霊だからって誰かに呪縛されるような存在じゃない!』
『是非その言葉をあの日の彼に聞かせてあげたいよ。』
道理であの男があんな反応をしたわけだ。加波比良古操術と西洞院家、三福に纏わる因果が前提として呪われていたのだから。平成時代になって樹舞南斗として魂が輪廻転生したとき、三福にとっても俺にとっても羂索にとっても舞台が整っていたのだ。渋谷事変でオガミ婆の術式によって時当が蘇り、もはや俺は不要の塵も同然となった。だけど二人は俺を助けてくれた。
「何故?それに俺が記憶を取り戻してないのは単なるバグか遅延だとして、どうして同時期に舞南斗が二人いたことになってるんですか?」
威厳と気品を兼ね備えたお顔には茫漠とした何かが滲んでいた。その感情を俺は知らなかった。
「伊都伎嶋と時当にも心境の変化があったということさ。入れ替わりと勘違いしたことに関しては、それこそお前の言ったバグのようなものだよ。」
俄に囀りが降りてきた。仰いだ蒼穹に一頭のカスリタテハが舞っていた。囀りと謂うにはか細いクリック音のような発音をする珍しい種類だけど、本来の天敵に対する威嚇というよりかは囀りみたいな音だ。漆黒、褐返、純白の翅の綺麗なモザイクパターンに見惚れていると今更な感嘆を抱いた。蝶は輪廻転生の象徴だ。
*
一頭だと思っていた蝶がぐるりと旋回すると翅が分身した。否、二頭の蝶が重なって飛んでいた為に一頭だと見誤ったのだ。或いは本当に一頭の蝶が二頭に分裂したのやも。
既視感覚が蘇って静かに失笑する三福に夏油が鶯眉の尻をしならせた。古代紫の横髪が風に攫われ、碧眼が流される。
「魂は同じでも時当は愚鈍だった。平将門を鎮めて共倒れしたときに己の転生を設定したが満身創痍の状態では能力が正しく発動されなかった。」
要は領域展開の失敗だ。領域展開の一度に怨霊の祓除と自己回復、転生付与を試みた為に三つ目が不完全な効果となってしまった。…魂が二つに分かれたのだ。事もあろうに分裂した片方はこの世のどこかを彷徨することになった。ドッキングに失敗した衛星が永遠に宇宙を漂うが如く徐々に距離の遠ざかる欠片を三福が見つけ出すのに掛かった時間は計り知れない。然る知古の神の後任に諮問し、ようやっとつれ戻した時には反動で融合すべき一方は消えてしまった。即ち、呪術世界で生まれ育った舞南斗の消失だ。
「人の苦労を返してほしいものだ。生まれ変わるたびに愚かになっていくのは俺が呪った所為か?ならば自業自得だな。」
「言葉のわりには愉しそうじゃん。」
「愉しいだと?まあな。呪詛師に振り回される阿呆に振り回されるお前らを観るのは愉しかったぞ。」
「酷ェ!」
ふん、鼻にかかったしたり顔がそっぽを向いた。定められる焦点のない遠望の眼に伏黒は覚えがあった。過去に一度きり、実家について興味本位から父親に尋ねた彼は同様の眼を目の当たりにした。あれはまるで夕闇に包まれた路地裏で、空に立て篭もる冷たい夜を値踏みするかの冷然さだった。
平家の再興は今となっては夢のまた夢。腐敗の構造は時代を生きる者に委ねるのが正しく、世は依然として世紀末が上辺を変容させたに過ぎない。民主制度への侵食を図る権威主義の構図としての概念もまた転生を果たし、一人間如きが擬態する人の醜悪さに立ち向かうなど到底馬鹿げた話である。Cタワーの屋上で云百年ぶりに邂逅した時当は悲劇を多分に含んだ溜息を吐いた。
『何の為に願いを繋いできたのだか。』
三福は鼻で嗤った。契約者に向かってではなく己に対して。
『所詮目標に至るまでに潰える程度の夢だったのさ。そういうものは個々の価値観の変容に容易く惑わされる。ならば価値観とはなんなのか』
時代によって多様化し画一化する、時勢に呆気なく流され偶に酷似した川辺に辿り着くがまた理解と受容が抱擁する前に流されてしまう。加波比良古操術の魅力は時代が下れど秩序整然と運行する宇宙銀河の如く不可視の法に守られているがその使役者が矛盾冷覚の極みとは、甚だ嫌味な真理である。
『私もお前も人間から生まれ、清濁混同する想いに育まれてきたということだな。』
『まあそうなるな。癪だが。』
ぐらついてしまいそうな苦笑に三福は何故か彼が生きていた時世にしたためるように吐き出された謝罪を思い出した。腸が煮えくり返ろうとも収まらぬ苦杯の辛さはこの先百度転生しようとも忘れ得ぬと阿修羅の形相で云い切った男が、今度は驕る者どもに踏み躙られる立場を味わった。誰であろうと何であろうが一方的に蹂躙されることなどあってはならなかったと、時当は瞼を伏せたのだ。彼にとって最大限の謝意だった。