一ヶ月ぶりに帰ってきた教え子の様子がおかしい。
樹舞南斗は一般家庭出身の東京高専所属の一年生。悠仁と同じくクラスのムードメーカー。いつだって笑顔を絶やさず優秀な成績を修め、頻繁に職員室に身を運んでは様々な世間話で場を和ませてくれる可愛い生徒として教師からの評判も高かった。
彼が有する複雑な術式を見抜いた僕の推薦で高専に入学して以来順調に昇進し今では二級級呪術師にまで上り詰めている。卒業すれば総監部の目論みで特級呪術師への昇格が確約されていて、学生のうちに鍛えようと個人授業も何度も行なった。特に腐った蜜柑どもが舞南斗を狙っているので教職員上級生一同皆で地道に守りを固めていた。
そんな舞南斗が呪詛師との戦闘で一ヶ月も行方不明になっただけでも一大事だったのに、いざ帰ってくれば今度は人が変わったように振る舞うようになった。
慥かな異変を感じ始めたのは、元通りの毎日に戻ったと思われてから二週間が過ぎた頃だった。舞南斗と二人で買い物に出かけた野薔薇が、帰宅早々僕を呼び出して珍しくも真剣な面持ちで相談を持ちかけたのだ。
曰く、僅か数十分離れていた間に舞南斗の姿が消えてしまい、焦って探し回った末に見つけたものの、舞南斗は人混みを遠目に顔面蒼白に酷く震えていたと。何があったのかを訊いてみても彼はぎこちない空笑いで誤魔化そすものだから余計心配になったと、野薔薇は僕に事細かに報告してくれた。
保健室で目覚めた舞南斗は一ヶ月間の記憶がないと断言したが恐らくあれは嘘だ。というのも、質の悪い呪詛師に襲われた呪術師が廃人になって帰ってきたなんて悲壮な話はざらにある。だから僕と硝子は下手に刺激して彼の精神を不安定にさせない為に嘘に気付かないふりをした。けれど、報告にあがった野薔薇の話を聞いてから僕は直接的なカウンセリングが必要だったのかもしれないと思い始めた。だから一度消灯時間に寮に向かったのだが其処に舞南斗の姿はなかった。
それだけじゃない。舞南斗はあの日以降、滅多に学校に姿を現さなくなったのだ。
流石に様子がおかしすぎる。そこで僕は潜入中の傑を呼び戻して舞南斗の様子を観察することにした。傑は同じ操術系の術式を使用する呪術師として舞南斗を特に目にかけていた。舞南斗が職員室に顔を覗かせては傑に術式についてを相談をする様も昔から多々みられた。だからきっと、傑相手であれば少しは胸襟を開いてくれるんじゃないかと思っていたのだ。だがそれは大きな間違いだった。
次に明確化して起こった異変は吉野順平という男子校生を悠仁が高専に連れて帰ってきた時。舞南斗は悠仁が秘匿死刑に指定されたことであれ程嫌悪していたはずの腐った蜜柑どもの元に頻繁に足を運ぶようになった。そしてそれと同時期に如何いうわけか彼の任務先が神奈川に集中するようになったのだ。
極め付けは伊地知の報告を受けて現場に駆け付けた七海達の話。
順平の母親が蝶に助けられて気が付けば病院にいたと語ったこと。順平と悠仁が危機に陥った時にタイミングよく現れた舞南斗。真人という呪霊が殺す気で悠仁達を襲ったのに対し、舞南斗と対峙した途端に殺意を失わせたこと。去り際に舞南斗に意味深長な耳打ちをしたこと。...神奈川、吉野順平、里桜高校、新たに出現した特級相当の呪霊。
そう、舞南斗はさも未来を知っているかのように暗躍したのだ。議論の余地なき異常事態に学長は緊急会議を開いた。
「呪詛師と繋がっていなければあのような行動を取れるはずがありません。あの真人という呪霊と樹君は互いを知っているようでした。」
「腐ったミカンどもが絡んでるに決まってるじゃん。もしかすると潜入任務に就いてるのかもしれない。」
「だとしても、我々に通達がないのはおかしいだろう。」
「やっぱり呪詛師と繋がってるんじゃない?」
「ふざけんなよ、舞南斗はそんな子じゃない。」
「それは分からないでしょ。なんせ空白の一ヶ月があるんだから。帰ってきてからの彼の言動は明らかに異常。」
各々が思いつく限りの推測を出し合うが解を見出すには至らない。
たった一ヶ月、されど一ヶ月。舞南斗は本当に変貌してしまったのだろうか。様々な最悪の事態が過ぎっては払拭してを繰り返していると、とある調査を終えたらしい傑が入室して重大な報告をあげた。
「舞南斗達が任務先で遭遇した呪詛師についてだけど…悠仁達に聞いた特徴から合致した呪詛師が複数人いる。…洗脳、幻覚投影系の術式を駆使して呪術師、非術師を問わず拷問する反対勢力に連れ拐われていた可能性が高い。」
想像したくもないイメージにぎりと歯が軋むのを感じた。固く拳を握り締め憤懣を滲ませているのは僕だった。それは即ち、その手のプロに誘拐された舞南斗は辛く耐えがたい苦痛に晒されたということで...。人格を変容させなければ自己を保てないほどの苦しみを味わう大切な生徒の姿を思い浮かべては腑が煮えくりかえりそうになる。
「…もっと早く助けに行けてたなら。」
後悔しても詮無いことだ。それでも舞南斗が独り苦難に脅かされているときに側にいてやれなかった己が面目なくて狂ってしまいそうだった。
「暫くは経過観察とする。」
学長が最終決断を下せば誰も異論を呈することはなかった。恵達にも最大限の精神的サポートを頼もう、そうすればきっと舞南斗も正気に戻るかもしれない。しかし薄っぺらい願いは無情にも打ち砕かれた。
舞南斗に関する事のあらましを受けて恵達一年生をはじめとして上級生の皆も外出や食事に誘ったりとおのがじし凝らしてくれた。けれども、舞南斗は僕たちから距離を置く一方だった。
彼は毎日、任務以外の時は必ず何処かへ独り足を運んでいる。一度冥さんに依頼して動向を探ってもらうと、頻繁に渋谷に訪れていることが判明した。そう、野薔薇と買い物に行った際にも変調をきたしたあの渋谷。
一度任務の報告書を提出しに現れた舞南斗を傑と二人で待ち伏せた。何があろうと味方でいるから、いつでも助けを求めて欲しい。縋るような思いで掛けた言葉は、しかし舞南斗本人の核心をつかませないような態度によって躱され、彼は逃げるように任務に向かってしまった。
冥さんには相当額を払って引き続き舞南斗の監視をお願いした。舞南斗を救うことに比べればこんな端金、痛くも痒くもなかった。
九月に入り姉妹校交流会が迫る頃、事は起こった。
久々に試験を受けに教室に顔を覗かせた舞南斗の様子が目に見えておかしい。机に向かって試験を受けてはいるものの、手は震え足は忙しなく組み直して落ち着きがない。不審に思った僕は冥さんに頼んでその日中の監視をつけてもらった。
案の定、晩に舞南斗は行動を起こした。
冥さんから舞南斗が職員室に侵入して例の名簿を奪ったという旨の緊急連絡があった。
大至急現場に駆けつければ、一足先に到着した傑と素知らぬ顔で会話する舞南斗がいた。
「こんばんは、夏油先生。…最近はよく会うけど石川の呪詛師教団への潜入任務はもう終わったの?」
何気なく放たれたその言葉がどれほどの威力を持つのか本人は理解していないのだろう。彼の言葉をもって、
「舞南斗、こんな時間にどこに行くつもり。」
「任務予定を確認したけど次の任務は明日の午前十時からだよね。他県でもない限り今から外出するのはおかしい。」
「........。」
平然と嘯く舞南斗に覚悟はしていたものの筆舌に尽くし難い思いに奥歯を噛み締めた。
冥さんが声をかければ、愈々喜怒哀楽を消し去った能面のような表情となった舞南斗が臨戦態勢に入る。僕は悟った。今、僕たちの眼前にいる舞南斗はもはや僕達の愛する樹舞南斗ではないと。
極限まで緊迫した校庭、相手の出方を伺っていると舞南斗が先に行動を起こした。
襲いかかる無数の蝶。その隙間から、舞南斗が見たこともない技で大きな翅を広げて天高く舞った。夜空に流れる無数の星々の煌めきにも負けないくらい、透き通った新橋色と猩々緋の相対的な羽ばたきは奇麗だった。けれど見惚れている場合ではなかった。
舞南斗は攻撃の手を緩めることなく、呪力の毒玉を発射したのだ。ドォンッ!天空から夥しく降り注ぐ強力な技。凄まじい轟音を響かせて地面が抉れ、雲のように黄塵が吹き上がる。ジュウジュウと禍々しい液体を沸き立たせる穴を見下ろせば、下手な呪術師では一瞬で溶けて無くなっただろうと内心冷や汗を掻く。冥さんと傑は烏と呪霊を犠牲にして回避したようだ。
傑が蝶の大群を薙ぎ払い一級呪霊を放った。準一級呪術師とはいえ、下手したら特級相当の呪霊だが舞南斗は最も容易くそれらを祓った。蝶の飛ばした斬撃が傑の頬を斬った。傑の鋭い視線が僕に合図を送ってくる。それに従って一直線に飛んだ。
傑と冥さんに気を取られていた舞南斗は、そこで漸く糸に気付く。だが既に手遅れだった。
「ごめんね。」
「...........!」
何に対しての謝罪だったのかは正直自分でも分からない。こんな事態になる前に救ってあげられなかったことか、それともこれから彼が直面しなくてはならない現実に対してか。
意識を失うとサラサラと掌から零れ落ちる砂のように消えゆく翅。落下しそうになる舞南斗を受け止めると地上に戻った。無言のうちに傑に視線を送れば、意を汲み取った傑は舞南斗を抱えて校舎に帰った。
冥さんを見返る。
「冥さん、今日はありがとう。」
「いいってことよ。...それにしても、どうやら大変なことになったようだね。私の烏もお陀仏になった。」
「お礼は明日伊地知にさせる。」
「よろしく。...ああ、そうそう、」
ーついでだから言っとくけど、樹君の使役していた
傑が舞南斗を例の部屋に拘束してから程なく、学長が連絡を受けてやってきた。
「そうか。」
「今朝学校にいる間はずっと震えていた。もしかすると彼の意思はまだ生きているかもしれない。」
「確かめるためにもまずは僕と傑だけで話させて。」
「…分かった。術式で操られている場合もある。そういった呪いの解呪の専門家を呼んでおく。」
*
部屋に向かえば舞南斗は既に意識を取り戻していた。
監禁された理由が判らないと述べる舞南斗の手首からは痛々しい鮮血が滲んでいる。乱れた制服からも拘束を解こうと酷く暴れたのが窺える。
舞南斗を取り巻く災難の正確な現状を把握したくて、手始めに幾つか質問をすれば予想通り正取ってつけたような回答が返ってきた。更には傑が畳み掛けるべく潜入先についての話をすると周章する始末。
引き潮だ。月の引力で海水が引っ張られるように言葉を交わすたびに、舞南斗は呪詛師という忌々しい力に引き摺られ暗澹の海を漂ってしまう。そうして、一度僕の袂を去った彼は、彼の意思は帰っては来ず何処にもあらずな気がしてしまってそれが余計に僕の胸を締め付けた。このまま彼を遠ざけてはいけない、そんないいしれぬ不安に苛まれ自然と足は前に進んだ。
途端に怯えて震えはじめる舞南斗。その瞳に映る恐怖という感情から彼にはまだ自我があることが分かると僕も傑も心底安堵したものだ。だが、
恐れを抱く生徒を慰める為に接近するにつれ、彼に異変が起こった。
「本当に知らない。」
「本当に知らないって云ってんだろ、お願いだから来んなよ!」
これでもかと汗を滲ませ拘束を解かんと暴れだす舞南斗。椅子の脚が床に固定されてなければ椅子ごと転げ落ちてしまいそうなほどの乱暴ぶりだ。
「悟、拙いんじゃ。」
「分かってる、」
ポタポタと赤い血が舞南斗の指を伝い水溜まりをつくっていくと、とうとう異常を察知して傑が制止をかけた。一度拘束を解いて落ち着かせてやろうと手を伸ばせば、今度は涙を振り乱して支離滅裂に叫び出した。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「ひっ、許してもう嫌だ!」
「うわぁあああああ!」
「ッ舞南斗!」
何度呼びかけてもこちらを見るどころか、焦点の合わない眼で朧げに虚空を見つめる舞南斗。フラッシュバックという単語が脳裏を過ぎると傑が気絶させるよりも早くその肩に触れた。
静寂が訪れる。
隣の片割れを見遣れば、いつになく厳粛した顔つきで眉間に深い皺を刻ませる傑が舞南斗を見下ろしている。握り拳の隙間から白んだ肌が覗いていた。かくいう僕も他人のことなどいえない程に憤っているのが判った。意識だけが肉体から離脱して、噴火寸前の火山溝を眺めているかのような熱が心の何処かで目覚めているのを感じた。
意識を失った舞南斗の涙の跡を拭ってやり二人揃って退出する。
いつの間にか外の廊下には恵と野薔薇、それに順平が佇んでいた。僕達の登場に盗み聞きしていたことがばれたかのように僅かに肩を躍らせつつも、心配が募った彼等は駆け寄ってくる。悠仁も心配してたから、後で教えあげないと。
「五条先生っ!」
「先生、舞南斗は…。」
「舞南斗は当面は任務も授業もなしになるよ。」
「あいつ、ちゃんと元に戻んの…?」
酷な事実を告げれば三人はしょげた犬のように項垂れた。そんな彼等の頭を撫でであげる。或いはそれを望んでいたのは僕自身だったのかもしれない。
「僕と傑が必ず救うよ。大丈夫、僕達は最強だから。」
「悟の言う通り、舞南斗のことは私達に任せなさい。…さぁ、もう朝も近いから早く行きなさい。」
幾分か胸を撫で下ろして部屋に戻っていく恵達の姿が見えなると、糸を限界まで引っ張りあったような張り詰めた空気が戻ってきた。隣を一瞥すれば能面が見返してくる。
「舞南斗を痛めつけた奴は徹底的に潰す。死んだ方がマシだって思わせてやる。」
「そうだね、呪詛師の炙り出しは私がする。それと、彼が頻繁に訪れていた渋谷の調査も。悟は舞南斗にかけられたと思わしき呪いの解呪をしてくれ。」
「当然。呪いを解くまでは別の部屋に隔離する。」
必ず助ける。それは態々言葉にしなくとも互いに痛いほど伝わっていた。
............。
「縺薙l縺ッ諢画え縺ョ莠域─縺後繧九」