果たして詫びを唐突に受けた三福は何を思ったのか。本来は信基が死去すると同時に奪う予定だった魂を、羂索との約定と次なる生涯では更に辛酸を舐めさせてやりたいという興から見逃したつもりが如何いうわけかその頃には恨みは冷却されていた。穢土のあまりの世紀末ぶりに彼は不満や人間への憐憫を通り越して嫌気が差していたのだ。
輝くものが見たかった。既に信基の魂の所有権が己の掌中にあることが、過去の怨嗟を緩和させていたのだ。そこへきての謝罪は慥かにペシミスティックな思考への冷却を加速させたといえよう。三福もまた、着実に特級呪霊としての存在が変容しつつあった。
更に時は流れ平成、舞南斗の時代には出涸らしも同然となった負の感情の代わりに僅かばかりの愉悦を催すことで暇を潰していた。舞南斗を偽り羂索と久方ぶりに会った折——三福は舞南斗に初対面だと嘘を吐いたが——、とうに自由が夢となっていた彼にとって革命家は平穏を脅かす最大の敵となった。
『今世の私は青天の下潮の満ちた瀬戸のようなものか。』
『これ迄で一番面倒臭い人格だ。』
『そうか。』
『だが、悪くない。』
『…そうか』
海とともに満ち足りた、横道を正す明鏡さながらの大鳥居が再現された鬱然とした大都会の屋上は千五百年の郷愁を投影していた。舞南斗は余念も屈託もなく周囲の幸福を願った。桎梏に喘ぐことのない生き方、それこそが二人が心に求めていた在り方だったのかもしれない。己自身に解を得る為に駆け抜けた三世代分の茨の道行と呼ぶかは人によるだろう。
我が身の解放以上に二人が望むことは何もなかった。
『だが折角の苦労が気泡と化すとも癪に障る。』
悪癖が発揮されるときの強かな音色で時当は肩を竦めた。彼は天性の悪戯好きだった。この顔を正面にするのが最後だと思えば些かの愛着と愉悦心が刺激されるというもの。大層な満面で耳を傾ける三福と契約者は意気投合した。
『この時代では総監部と言ったか。彼奴らは皆殺しにしてしまえ。』
平成の革新保守中立派閥の実態を知らぬ時当が未来の己が現実に幻滅せぬようにと掃除を提案したところ、三福が制止を掛けた。舞南斗と行動をともにしているうちに骨のある術師らと見えたと。
『こうしよう。術師が呪術界とお前の何方かを選択せねばならないように仕向けるんだ。保守派の統率者が全滅すれば安寧を脅かす障壁は粗粗無くなる。』
『それは良い!術式対象の呪力を皆無にできる特質を備えている加波比良古操術は必ずや呪術界、延いては世界の幸福度の向上に貢献するだろう。あの気色の悪い脳味噌や一部の術師が喉から手が出る程欲しているものだ。』
呪霊が存在しなくなり呪術師が不要になる世界、派閥の垣根を超えて期待される鍵が実は生きていた。その時三福が見込んだ術師たちはどのような反応を示すだろうか。
『特に夏油傑という男は非術師をこの世から抹消しようと錯乱して五条家の後継と衝突したことがある。』
非術師の抹消、本を正せば呪いによって生じた強者と弱者の落差を無くし理想郷を創ること。
『今、脳裡で描いていただけの理想を手に入れる鍵が目の前に差し出されたら?』
二人にとって内輪割れほど飯の進む展開はなかった。舞南斗を取るか、術式を取るか。若し五条達が後者を選ぶならば…
「——あいつを永劫俺の箱庭に仕舞ってやっても良い」
「なんて?」
「…何でもない。これで謎が解けて満足しただろう。」
時当との回想も舞南斗に対する己の温情も、肝心な真実は殆ど告白せずに三福はこれ以上何を求めるのかと問うた。
「望みさえすれば呪霊を消し去ることができる。今の俺はそれだけの力を取り戻した。」
契約者と二人きりの閑静な永久のバカンスに心が傾きつつあるのを誤魔化すようにお座なりな物言いをした三福に釘崎が反問した。
「ていうか訊きたいんだけど。渋谷で私をビルから突き落として狗巻先輩ぶん殴って、虎杖に指食べさせたのってあんただったわけ?」
「お前を落としたのは時当だ。降霊直後で自我が希薄だったが頭が割れる寸前にオオゴマダラに救わせた筈だが?」
「あっそうなの?じゃあ良いわ。」
「良いのかよ…」
「それから本物の舞南斗は補助監督と千代田に居た。」
先述したように渋谷で真人の無為転変を受けて弾けたのは時当である。聖域展開の条件を達成するには術者本人が死ななければならなかったがそれが魂か肉体かは正確に定められていない。だから抜け穴を突き前世としての時当が身代わりになることで舞南斗は死を逃れたのだ。
「そうか!だから六眼は舞南斗だと認識したわけだ」
「魂が同じなら呪力が同じなのは当然だ…くそ、してやられたね」
「騙される方が悪い。」
マジックの種明かしをされた子供のようにはしゃぐ五人は舞南斗の生存の事実を噛み締めている。それこそ数十秒前の究極の選択なぞ吹けば消える蝋燭の火の如くあっさりと捨て置かれて。もしや自身が課した挑戦をものの数秒で忘れたのではあるまいな。諍いを期待していた三福はこれでもかと顰蹙した。
「話を聞いていたか術師ども。舞南斗と俺のどちらを取るかと訊いているんだ。」
「え?舞南斗に決まってんだろ自意識過剰野郎。」
果然聞き直し方が悪かった。これでは浮気相手か己かを恋人に迫る女々しい奴ではないか。顳顬をひくつかせる三福の意図を当然五条と夏油は承知していたが…。
尠くとも彼等にとって舞南斗以外の選択肢などないことを三福は心得違えていた。保守派の上役が家柄毎屋並み崩潰したのは五条達にとって棚から牡丹餅でしかなかった。どの道不調和が瓦解し呪い呪われの応酬が繰り広げられるのは瞭然だったのだ。誰かが背負うべき殺戮が知らず知らず実行されて安堵に胸を撫で下ろさぬ者がいようか。
「舞南斗を封印しやがった糞塵が院生を敷いてんのが問題だね。この僕達が全国飛び回っても尻尾掴ませないんだから。」
「やっぱ九十九由基引っ張って来た方が安上がりじゃないかな。」
「先生、それは絶対に止めてください。」
「あんたほんと東堂先輩系統嫌いよね。」
「東堂先輩、系統…?」
総監部、加茂家の殺害の犯人が舞南斗本人でないのならばこの世の他の何事も大事ではない。しかし態々あれやこれやと微に入り細を穿って構想を用意していた三福からすれば堪ったものじゃない。前のめりになろうとして、膝で爆睡する子供が身動ぐと息を詰まらせ氷のように固まる様はこの場の誰よりも人間らしかった。
「何故信じる?俺がお前達を騙して揶揄う為に嘘を吐いてると思わないのか。」
虎杖が心底不思議そうに目を丸くした。
「え?イツキって舞南斗のこと好きじゃん。俺達のことは毛嫌いしてるけど。」
「はぁ?」
「うそ、自覚なし?」
喧嘩を売られているのか単に馬鹿にされているのか分からない。分からないが無性に腹が立った三福は青筋を浮かべた。虎杖が云った。
「此処に来る時に真希さんが言ってた。俺達を容疑者にしたのはイツキだけど、それはきっと五条先生達がイツキを探すように仕向ける為だって。」
「…………。」
「けどどうやって?」
「…若返らせてやるからお前らを呼べと命じた。」
「へぇ、確かにあんたなら超簡単ね。」
夏油の元に日下部が虎杖と真希を送り出すのを見越していた三福は舞南斗の存在を示唆する文書を忍ばせた県立図書館に彼等が辿り着くように仕組んだ。誰に頼まれてもいない苦労を自ら引き受けた。
「なんかそれってさー、恋してんのに素直になれない小学生みたいじゃん。」
「
何もかもが痛恨である。謂うなれば伝聞を信じて訪れた甘味処が最悪の舌触りの善哉を出されたかの気分だ。一層慎ましさを失せた顔色が噴火寸前の火山もかくやに紅潮すると夢をざわめきに侵された幼女が瞼を擦った。
いつきしゃま?良い、寝ていろ。だが意識が完全に覚醒した幼女が覚束無い足取りで立とうとすると三福はそれを支えてやった。今、彼は呪霊なのだろうかと誰ともなしに思った。
「ふわあ!おきゃくしゃんだ!」
「走るな童、転け…」
「わーい!」
「うお」
三福の忠告を右から左に聞き直して駆け出した幼女は早速壁にぶつかった。壁のように硬く鍛えられた伏黒の足に。額を豪速級のピンポン玉で打たれたみたいに尻餅をつきかけた子供の腕を虎杖が寸前で引き上げたが、三福が「ほらみろ」と窘める前に涙腺は緩んでいた。すかさず抱き上げようとした虎杖から釘崎が掻っ攫った。
「見せてみなさい…大した傷じゃないじゃない。泣いたら怪我も大きくなるわよ。」
「うぅ」
「代わりにコイツ叱ってやりなさい。」
「なんで俺なんだよ…」
「あんたが転かしたんでしょ。」
とんだとばっちりだと伏黒が抗議の目線を突き刺した。
小さな子供を取り巻き早速和みだす学生らを賑やかのあるがままに委ねて五条と夏油は向き直った。袴の皺を払って気怠い双眼が二人を射抜く。五条は一歩詰め寄った。
「さあ、舞南斗の居場所を教えてもらうよ」
「言っておくけど、この期に及んで下らない誤魔化しはなしだ。」
突と、陽射しが強くなった。舞南斗に瓜二つの、されど主張の激しい目元が天を見上げる。カスリタテハはとっくに飛び去ってしまったようだ。代わりに浮世絵に描写される天狗さながらに墨色の美しい鴉が雲間で遊んでいるのを捉えた。
最も高い岩に登り海を鳥瞰する。陽光を受けて月の出か、白の孔雀が舞うように輝く水面が溶け合っては解散してを繰り返している。こちらが手を伸ばしたところで興味の片鱗も示さぬ凪は遠くから眼差しているだけで心地良かった。
やおら美麗な袖がそよりと持ち上げられる。颯爽たる肩から辿った指先は彼方を指していた。
「あそこだ。」
三福は囁いた。ずっとずっと遠い海の底。東北、関東地方沖を南北に走る、最深部八千五十八メートルの日本海溝。其処の沈み込み帯に複数の予防線を張って。
挑戦的な目付きはそれ以上の闘志を激らせた眸に返された。
*
「質問です!」
「なんでも訊いてくれ。」
「その、魂の片方が消滅したなら不完全な存在のはずなのに、どうして俺はまだ生きてるんですか?」
隈取みたいに鮮やかな紅のアイラインが瞬きに合わせて歪曲した。
「正しくは消滅ではなくエネルギーの循環だから不完全な存在ではない。極稀だが魂の分裂はある。魂は器の容量に適合するように降ろされる。」
「へぇ。そんな仕組みなんですね。」
切断した箇所から細胞が再生されるプラナリアみたいだと思った。
尚、三福と信基の契約は⑴信基が死んだ時点で拘束力が弱まったこと、⑵魂の半分が消えて肉体が瀕死状態であること、⑶現在三福が信仰により力を取り戻しつつあることが要因で無効となった。悪堕ちしていた初代の頃の願いは自然消滅したが、腐敗を無くしたいという時当と自由になりたいという三福の願いは果たされたわけだ。
「全く異なる生涯、自他との関わり合いが伊都伎嶋の核を汚染していた呪いを祓ったのだろう。彼は正確には特級呪霊に堕ちたのではなく荒御魂となっていたのだ。」
「た、確かに。仮にも神様が特級呪霊になるっておかしい話じゃん…!」
しかし魂の成長は如何なる存在にもある、神様は莞爾として紡いだ。森のさざめきが一声になったみたいに鎮静効果のある声調だ。この人があの三福が頼った存在なのだとすとんと胸に落ちる風貌をしていて、だからこそ疑問に思った。
「どうして貴方は俺と三福を助けてくれたんですか?」
数秒の間があった。尋ねたのは俺で耳を傾けているのは神様なのに、どうしてだか問いかけの矢印は何者をもさし示していないような感覚がした。海底と地層の、この世とあの世を繋ぐ揺めきだけが可視されるポータルみたいな境界で自然的雑音が巻貝に耳を当てるように脳内で反響している。緑に占められた山頂で清々しい空気を吸っているのに感覚は海の中だ。
前触れのない五感の違和感に小首を傾げる俺に「時が来た。」と神様が呟いた。
「西洞院家の血筋が完全に断絶した世界も、そも信基や時当やお前が生まれなかった世界もある。この世には無数の宇宙がある。」
「そういう、ものなのかな。」
「そういうものだ。」
それって、なんてちっぽけな命だろう。多元宇宙の観点からすれば取るに足りない存在が輪廻転生だの生死だのと活力を奮ったところでそれが永遠にも等しい世界の時間に何の影響を及ぼすのだろうか。難儀な運命を背負ったと悲喜したところで、結局は三福も俺も、五条先生や夏油先生や虎杖達だって呆気ない終わりを迎えるのだろうに。
なんだか幻を航海してきたような虚しさが込み上げてきて項垂れた俺の頭に温もりが乗った。目線を上げてみれば酷く優しい眼が俺を見守っている。
「一生懸命に生きた証を後代に残せる人間は尊い種族だよ。たとえ今日の行いが無意味に思えてもいつか、綺麗な山茶花を咲かす為の糧となることを忘れてはいけない。」
此処に咲く花々は私が苦難を乗り越えた証でもある。そう云われて改めて見回した山は地球上のどんな花畑よりも美しかった。
ついと眠気が襲ってくる。瞬きの間隔が狭まってきて、なんとかさよならを伝えたくて瞼を擦ろうとするけど腕が持ち上がらない。
「お前を待っている者達がいる。」
海淵に落ちる。気泡が四方から迫ってくる。神様の姿が次第にぼやけていって、三度目の瞬きのときには懐かしい人影が見えた気がした。手を伸ばして指先と指先が触れて…ネモフィラの花が瞼の裏に泛んだ。