此処は東京の郊外。とある山の中腹にコンクリート造りのブロック小屋が佇んでいる。正面に扉が一つ、窓の一切ないその小屋の中に四人の人影があった。
「ぁ…っ!」
ドカリと鈍い音を狭い空間に響かせて、一人の青年が汚い床を勢いよく転がる。後ろ手に縛られて抵抗できないのを良いことに、三人の男達は早朝から恨みもない青年に口にするのも悍ましい暴行を与え続けていた。この薄暗く陰気臭い部屋に監禁されてから早二週間、時間の感覚も失われた青年に反抗する気力などあろうはずもないというのに。
彼の名前は樹舞南斗。約二週間前、任務帰りに同級生を庇い呪詛師の集団に拐かされた東京高専の一年生だ。対して、彼に嗜虐の限りを尽くす三人の男は呪詛師集団の構成員。彼等は高専関係者からとある機密情報を漏洩され、只の呪術師奇襲を装い舞南斗を誘拐したのだ。
「しぶといな。」
「初めから大人しく従っときゃ良かったってのに。」
男達が舞南斗との距離を縮めるにつれて、水浸しの床がぴちゃりと音を立てて跳ね上がる。数日前から排水管が壊れ冷水が溢れ出る部屋に寝転がされている舞南斗の意識は朦朧としており、冷え切った身体は低体温症にかかっていた。
「そろそろ頃合いだろう。」
「まだ上からの指令がない。やめておけ。」
「いいじゃないか。どうせやることは同じなんだ。」
無抵抗ながらにも決して観念の意思を表明しない剛毅な青年に痺れを切らした男達は上司の許可を待たずに得意の洗脳系の術式を施そうと舞南斗に近寄る。一人の手が舞南斗に触れようとした瞬間、入り口の扉が開いた。現れたのは別の呪詛師だった。
「待たせたな、上に指示を仰いできた。…何してる。」
「……何も。」
シャトルランの如き敏捷さで舞南斗から離れ、視線を彷徨わせる二人に男は疑いの眼差しを突き刺した。終始静観していた一人が見兼ねて間に入る。
「それで、どうするんだ。」
「…ああ、そうだったな。」
呪詛師の男は懐から何かを取り出した。
「…蝶?」
「封印された特級呪霊だ。」
「触るなよ、毒が回って死ぬぞ。」
それは半分に切り離された蝶の羽。片方だけでも一五センチメートル程の大きさの巨大な羽には片方ずつ文字の違う小さな札が貼り付けられている。男は説明する。
「片方の羽を樹舞南斗に食べさせて、呪霊の封印を解いて戦わせる。樹舞南斗が術式を使い調伏できれば適応成功。できなければ俺達で好きにすればいいとのことだ。」
「今毒があるって言ってただろうが。んなもん食わせて成功もクソもあるかよ。」
「よく分からんが樹舞南斗の術式とこの特級呪霊は密接に関係しているらしく、斃せなくとも殺されはしないそうだ。」
男は徐に舞南斗の顔元で屈み込むと、指先を揃えて思い切り腕を振った。
「う゛ッ…!」
「起きろ。」
室内に大きく響き渡るほどの容赦なき平手打ちに、鋭い衝撃に舞南斗は虚になりつつあった意識を取り留める。三人が分外にも憐憫の視線を注いだ。
ー頬が燃えるように熱い。身体中が氷柱に刺されたように痛くて冷たい。
無理やり覚醒させられた意識の領域で舞南斗はぼんやりと思った。一方、舞南斗の意識が覚醒したのを確認した男は左手に摘んでいた羽の一片を薄く開いた舞南斗の口に押し込んだ。
「ーーーー!」
「呑め。」
突然口内に押し込まれた異物を吐き出そうと試みるも、鼻を抑えられた息苦しさで舞南斗は羽を呑み込む。忌々しい男の手が離れ、上体を起こして咄嗟に嘔吐こうとした一刹那...
「がぁっ...!」
身体の中心で暴れだした異なる呪力に魂が突き刺された。地獄の釜もかくやの猛熱が血液を通して身体中を行き渡り、千本の針が細胞を縫い合わせるかの激痛が迸る。尋常でない悲鳴を上げて悶え苦しむ舞南斗に呪詛師の一人が懸念を溢した。
「おいおい、本当に大丈夫なのか。」
「問題ない、すぐに収まる。それよりも封印は解いたか。」
「ああ、あとは札を外すだけだ。」
「ならさっさと外して先に出てろ。」
「へいへい、分かりましたよっと。」
そうして封印の解除を一任していた新米の呪詛師達が去り行くのを視界の隅に、男は舞南斗の術式封印の呪いが施された縄を解いた。
「樹舞南斗。今から現れる特級呪霊を調伏しろ、いいな。」
反応もままならず、のたうちまわり果たして聞こえているかも怪しい舞南斗の耳元でそう囁いた男は、足早に小屋を後にした。
*
数分後、漸く激痛が幾許か治った舞南斗はふらつく体を壁で支えてゆっくりと立上がった。
一人取り残された部屋を見渡せば、中央に札の剥がれた蝶の羽が落ちている。そこから渦巻く呪力が、今し方己を奈落の底へと突き落とした元凶だと理解した舞南斗は、ソレの意識が覚醒せぬように、竜の逆鱗に触れぬようにと忍足で出入口に歩く。
だが当然、ひたりと閉ざされた扉が微動だにするはずもなく...。無情にも隔たれた厚みの彼方から南京錠らしき金属音がじゃらりと無機質な音を鳴らすのが耳に届いた。体当たりをしてみるも、ぶつかればぶつかるほど己の体力を消耗していくだけ。
「はあっ、はっ…!」
最後の一回と全身全霊を振り絞り突進しようとした時。
ドン!
簡素な部屋の中央の例の翅から強烈な衝撃波が拡大した。攻撃的な呪力の大波に舞南斗は扉とは正反対の壁に吹き飛ばされた。
「ッつ!」
背中に渡る鈍痛が背骨の一部が折れたことを教えてくれる。だが痛みに喘いでいる場合ではなかった。
天井から、壁から、削られるようにして振り落ちてくる瓦礫の破片を身に浴びながら前を見据えると、そこには藍緑色に光る一頭の蝶が飛んでいた。ひらりひらりと大きな羽を広げて宙に浮かぶ様はいっそ神秘的ともいえる。
反転術式を使用したのか、自身が口にしたはずの千切れた片方の翅は再生され眩いばかりの輝きを放っていた。
「菫コ繧定オキ縺薙縺溘?縺ッ隱!」
「っぁあああ!!」
ソレが怒りのような雄叫びをあげる。鼓膜が潰れ、脳味噌が割れそうだった。
ー無理だ…!
圧倒的な力を前に舞南斗は身が竦ませる。絶望的な状況に体の力が抜けそうになるる。どう足掻いても勝てる相手ではない。
術式の性質上、呪霊であろうと蝶の形を成した生命体は調伏せずとも使役することができた。だが決して呪霊を調伏し召喚するような術式ではない。特級呪霊など以ての外だ。
自分はコレに勝てず、無惨に喰われてここで朽ち果てる。家族や恩師に礼も告げれぬまま、遺骨の一部さえ送れぬまま...。その光景がありありと脳裏に浮かんで力なく膝から崩れ落ちた。
瞳を閉じればかけがえのない人々の面影が影帽子のように映じられた。虎杖に伏黒、釘崎。五条先生に夏油先生。それに二年生の先輩達も。
「……だ。」
皆と過ごした宝物の日々が走馬灯のように流れてゆくうちに、舞南斗の体に言葉では表せぬ力が湧き上がってくる。それを人は勇気と謂うのだろう。或いは、絶対的絶望を前にして生存本能を刺激された人間の最期の気力とも。
「嫌だ!」
肺腑からの叫びだった。
こんなところで死にたくない。そうだ、皆ならきっと最後まで諦めずに戦う。生き延びて、そして皆の元に帰るんだ...!
震える足に力を込め、両脚に鞭打ち床を踏み締める。つと目線を左に落とせば、出入口脇に設られた机に舞南斗が部屋に連れ込まれる直前まで使役していた数千の蝶達が三箱に詰められ置かれていた。舞南斗は蓋を開けて蝶達を解き放つ。此度の任務に赴く前に五条が密かに伝えた、加波比良古操術の領域展開についての説明が蘇る。
ー生きとし生けるものの命の理に干渉することができる
あの最強と謳われる五条ですら頭を捻る、未知の領域展開。試したことすらなく、成功する確率はゼロに等しいがこの状況において逡巡している暇はなかった。虐げられた二週間、衰弱しきった肉体ではどこまで闘えるか判らない。それでも…
「やってやるよっ、領域展開…!」
舞南斗は最後の力を振り絞り、轟轟と全てを消し飛ばさんばかりの旋風を生み出す特級呪霊と相対したーー。
二日後。
小屋に戻ってきた呪詛師達が厳重に鍵をかけられた南京錠をこじ開け中に入れば、そこには悲惨な光景が広がっていた。
壁中に飛び散った夥しい血に、床を埋め尽くすほどの蝶の死骸。その中心に半身を埋もれさせて倒れ伏す舞南斗。男達は蝶の死骸を掻き分けながら進み舞南斗の容体を診る。青息吐息だが、胸元の光る蝶の紋様から彼が呪霊を調伏したことが察せられた。
「ハッ、まさか本当に成功しちまうとはなあ。」
「別に準一級なら不可能でもないだろ。」
「いいや、そうでもない。…コイツは呪術全盛、平安時代から生き永らえる呪霊らしい。呪術史の中でも適応できたのはたったの二人。上は九割の確率で不可能だと直前まで懸念しているようだった。」
「まじかよ!」
男が首を縦に振ると、反転術式を使える呪詛師の一人が致命傷を治療する手を止めて驚愕を溢した。
「丁度良い、このまま術式を施す。」
当分は起きる気配のない舞南斗を今のうちに呪詛師に堕としてしまおうと男が術式を展開した。
舞南斗の額に赤く発光する、濃厚な呪力を翳すこと須臾の間、己の呪いが正常に発揮されたのを確認して彼等は立ち上った。
「このまま連れてくぞ。」
「ったく、死骸だらけにしやがって。掃除すんのは俺たちなんだぞ。」
舞南斗を担ごうと一人が腕を伸ばした、その時。
ズシャッ
「ぇ..」
どさりと絹を擦るような音をたてて何かが落ちた。一人が呆然とする。次に訪れたのは左上半身が焼けるような恐ろしい激痛。
何が起きたのか理解できずに己を見下ろす。肩から先が無くなっていた。
「ギャアアア!?」
「お、おい!大丈...」
背後で驚愕に目を見開いた男は突然片腕の無くなった同胞に駆け寄ろうとして、声を失った。止まらざるを得なかった。
男の首と胴体が離れ、壊れた糸人形のようにかくりと崩れ落ちた。別の者は仲間の危機を助ける余裕もなく鮮血が噴水の如く吹き出る肩を押さえて蹲る。
「ぐっああぁ…!」
「煩い。」
「..............!」
何処からともなく響いた声音に男は青褪めて背後を見返る。全ての原因は今の今まで大怪我を負い倒れ伏していた筈の高専の呪術師だった。
「騒ぐなよ、塵。」
汚物でも見るかのような蔑んだ眼差しで舞南斗は男を見下す。...否、それはもはや人間ではない。舞南斗に憑依した特級呪霊であった。されど痛みに喘ぐ男が舞南斗の中身が変わったことを知る由もない。男は激痛を憤怒の呪いへと転換させて血塗れの右手を舞南斗に差し向けた。
「このっ、クソ野...」
だがしかし男の罵倒が最後まで続くことはなかった。首を落とされた他の呪詛師と同様に、男は半分に斬り離され間も無く息絶えた。男が崩れ落ちる様をを見届けることなく、舞南斗は死骸やら死体やらが散乱した室内を見渡し、如何にも鬱陶しそうに溜息を吐き出した。
「全く、契約した瞬間にこれか。」
踵丈まで隙間なく積み重なった蝶の死骸を丁寧に掻き分けて入り口まで進んだ舞南斗は、振り返って両手をひと叩きする。瞬間、室内を満たす正の力。それは光のベールとなり陽光のようにふわりと蝶達を包み、バラバラに裂断された蝶の破片はあっという間に元の形に戻っていった。それを退屈そうに欠伸をしながら舞南斗は眺めていた。
暫くして、温かなその力が収まる、元通りになった蝶達は息を吹き返して舞い上がった。
「おい、片付けてやったぞ。...ん?」
小屋を飛び去る蝶達を見送りながら己の中で眠る青年に声掛ける...が、あることに気付き呪霊らしい不気味な笑みを浮かべると彼は一歩を踏み出した。
「やあ、君が樹舞南斗君かな。」
「………。」
小屋を出た舞南斗を待ち受けていたのは、黒のスーツを身に纏った額に傷のある男だった。大きく開いた扉の向こうに転がる死体を一瞥し、派手にやったねと口元を歪める男。舞南斗の代わりに表に出ている特級呪霊は、その男が今までの呪詛師とは異質であることを瞬時に見抜いた。
賢い呪霊は本能的に呪霊として対応するのは拙いと判断するや否や樹舞南斗として口を開いた。
「……誰。」
「これは失礼した。私は安達景時という。君の術式をよく知っている者だよ。」
ー君の術式と家系について知りたいとは思わないかい?
胡散臭い笑みを浮かべ手を差し伸べる安達を舞南斗じっと見つめる。数十秒ほど考え込む舞南斗を安達は黙って待ち続けた。
少しの間を置いて、脳漿を絞りやがて一つの結論を導き出した舞南斗は、差し出された手を握り返して温和な笑みをつくった。