「お兄様、本当に、本当におめでとうございます」
佳樹は目に涙を浮かべながら、拍手をしてくれている。
「杏菜!おめでとう!」
教会の出口に並んだ中で一際目立つ姫宮さんも大きく手を振っている。
そんな親友の様子に少しはにかみながらも、俺の隣に立つ八奈見は小さく手を振り返す。
俺たちは純白のドレスと、濃紺のタキシードを身にまとい、沢山のの祝福を受けていた。
見渡せば、かつてツワブキ高校で共に学んだ友人、文芸部で本当に色々な出来事を乗り越えた仲間たち、本当に沢山の、これまで俺と八奈見を見守ってくれた人達の祝福で溢れていた。
教会からゆっくりと歩み出ながら、時に祝福のフラワーシャワーを浴びながら、俺たちはゆっくりと歩み出していく。
そう、俺と八奈見は3年の友人生活と、4年の恋人生活を経て、遂に本当の意味で結ばれたのだ。
幕間ー温水佳樹の独白ー
本当に長かった。
文芸部でお兄様に沢山の出会いがあり、誰を選ぶのかと、嬉しさ半分、嫉妬半分出見守り続けたあの日々。
恋人になる時も、私だけではなく、焼塩さんや小鞠さんの力も借りて、なんとか告白は成功に至った。
恋人になってからも、どうしても鈍感なお兄様と、特別扱いして欲しい八奈見さんの間で時に喧嘩したり、時に別れる寸前まで行くことはあったが、必死に2人の仲を繋ぎとめた。
私には、この2人でないとダメだという確信があったのだ。
そう、この2人でないと...
シーン1 結婚とその先と
「もう1ヶ月も前なんだね」
2人で暮らし始めた、1LDKのアパート。
新調したリビングテーブルで、俺の隣に座る杏奈は式場のから送られてきた式当日のフォトフレームを嬉しそうに眺めている。
結婚式のオプションというのは恐ろしいもので、この如何にも安そうなフォトフレームでさえ数万の追加が発生しているのだ。
中には10数枚の写真が取り込めるとはいえ割高に感じるのは男の性であろうか。
「見てよ、小鞠ちゃんまだ華恋ちゃんに緊張してるよ」
向けられた写真はツワブキ時代の同級生と取った式場での集合写真であった。
「かなり打ち解けたと思ったけど、やっぱり少し離れていると関係性が多少リセットされたんじゃないか?」
もしくは姫宮さんの胸囲、もとい脅威に圧倒されているだけの可能性もあるが。
「あ、これ和彦照れすぎじゃない?」
ニヤリとしながら次に杏菜が見せてきたのは、俺と杏菜のツーショット。ただし俺の頬に付いたケーキをすかさず舐め取ろうとする杏奈、というかなり甘々な構図ではある。
「仕方ないだろ、その、まだ緊張したり照れたりするもんなんだし」
別に結婚してもキスや手を繋ぐことに慣れる訳では無い。
「ふーん、じゃあ今したらどうなるのかーと」
そう言うと杏菜は頬、ではなく口にキスをしてくる。
「…!」
俺が顔を真っ赤にしたことが嬉しいのか、杏奈は何も言わずに微笑む。
「まだまだ、こんなに赤くなるなんて。これより先だって結構してるのにさ」
健全な男女が数年も連れ合えば結婚していなくても、そういう事は勿論幾度となく行っている。
「ほら、する時は部屋も暗いしさ」
杏奈は自分の体型を気にしてか、する時は部屋の電気をほとんど消さないと怒る。
お腹ぷにぷにしててきもちいいのにな。
「今失礼なこと考えたでしょ」
杏奈はこういう所はずっと鋭いままだ。
「それに」
すっと杏菜は俺のズボンに手を伸ばしてくる。
「えっちなことも」
スボンの膨らみを目ざとく見つけた杏奈は急に艶っぽい表情になる。
「それは、そのキスしてくるからさ」
「へー、私のせいなんだ」
「そうそう、杏菜が悪い」
悪びれもせず俺は答える。
「じゃあ責任とらないとだね」
杏奈は俺の手を握ると、寝室の方に引っ張る。
2人でベッドに倒れ込むと、俺は癖で枕元に避妊具を準備する。
すると杏菜はその手をそっと掴んだ。
「私ね、そろそろかなーと思うんだ」
その一言で頭の中に良くない思考が回り始める。
新婚、ベッドの上、そろそろ、そんな曖昧な言葉だけでもこの先のセリフは何となく想像がつく。
「だからね、その、生でいいよ」
照れながら言う杏菜に俺は脳を殴られたような感覚になった。
そこからは避妊具の出番は一切無かった。
そして、当然の出来事として、杏菜は妊娠をした。
結婚式から考えると実に3ヶ月目の出来事であった。
幕間ー温水佳樹の独白ー
お兄様から妊娠の報告を受けた時、私は飛び上がるほど嬉しかった。
遂に、この世界にお兄様の遺伝を継ぐ子供が産まれるのだ。
お兄様に似てくれるといいな、そんな事を考えながら私は兄に大事なことを伝える。
「悪阻等でもし手伝いが必要なら、佳樹にお伝えくださいね。すぐにでも伺いますから」
兄は少し戸惑ったようだが、私が悪阻の大変さや女性の体の変化に伴う辛さを説明すると、理解してくれたようであった。
「何かあれば佳樹にお願いするよ」
お兄様はそう言って電話を切った。
ああ、やっとだ。
やっと私の願いが叶うのだ。
精一杯働かないと。
シーン2 本当に辛いこと
杏菜の妊娠が分かり2ヶ月。
赤ん坊は元気に成長していることがエコー写真からも分かる。
対して杏菜は悪阻のピークを迎えていた。
「大丈夫か?」
背中を擦りながら、俺は声をかけるしかできない。
あれだけ食べるのが大好きな杏菜が、ほとんど食事を取れないでいた。
辛うじて食べられるイチゴ味のゼリーを一日に数個食べるだけの日々が続いている。
「少し落ち着いた」
トイレで嘔吐した杏菜は青ざめた顔で立ち上がる。
ふらつきが酷いので、俺は何も言わずに肩を貸すと、ベッドまでゆっくりと付き添い、ベッドに腰かけさせる。
「寝てるのもしんどいから、このままでいいよ」
杏菜はベッド二こしかけたまま、じっと床を見つめる。
赤ちゃんを産むという行為は女性に多大な変化と負担を生じさせる。
知識としては知っていたし、佳樹も妊娠を報告した時、俺にかなりの時間を掛けて説明してくれた。
それでも目の当たりにするとその変容には驚くしかない。
「水がお茶のむか?」
俺の問いかけに杏菜は弱々しく首を振る。
「それより、そろそろ仕事だよ。遅れちゃうよ」
杏菜は時計を見て呟く。
「今日は休んだ方がいいって」
「出来ないよ、ただでさえこれから産休も育休も取るんだし。有給だって無限じゃないんだよ」
少しイラついた声が杏菜から漏れる。
「もう今月5日も休んでるし、今日行かないと」
杏菜はそう言うと立ち上がって。弱々しい足取りで、ハンガーラックにかけられたスーツを取る。
「分かった。駅までは一緒に行くから」
そういうのが精一杯だった。
仕事から帰宅すると、鍵は空いているのに真っ暗な部屋のままであった。
寝室をそっと覗くとスーツのままで弱々しく寝息を立てる杏菜が居た。
「とりあえず飯の準暇だな」
もしかしたら食べれるようになっているかもしれない。
そんな可能性だってある。
俺は冷蔵庫を覗きさっと作れそうなものが無いか考える。
「無い、な」
多少の材料があれば作れるものだが今の冷蔵庫は限り無く空に近い。
俺の仕事の忙しさに甘えて、食卓に目が向いていなかった。
「どうしたものかなぁ」
頭を悩ませていると、不意にスマホに着信が来る。
「なんだ、佳樹?」
連絡をしてきたのは妹。
結婚してからは人生で1番会っていない、というレベルで顔を見ていなかった。
「そろそろお困りなのでは?と思いまして」
この冷蔵庫の惨状を見抜いたように、佳樹は問いかけてくる。
「正直、今日の晩御飯さえ危うい状況だ」
「では、伺いますね」
理由も何も聞かず、佳樹は全てを見通したようにそう言って電話を切った。
昔から敏い所があったが、磨きがかかっているのかもしれない。
1時間もしないうちに佳樹は家にやってきた。
「杏菜さんは?」
「今は寝てる。ここ数日まともに食べれてないんだ」
「何かお食べになれている物はありますか?」
「ゼリーだけだな。味はイチゴ味以外は受け付けないらしい」
俺がそう言うと佳樹は少し考えると、キッチンに向かう。
「いちごのお粥、なんかが作れれば良いのですが流石に味が酷そうなので、酸味と甘みのバランスだけを寄せて見ることにしますね」
佳樹はそう言うとかつて毎日見ていた手際の良さで、何かを作り出す。
「手伝おうか?」
「お兄様はまずはお風呂です。仕事帰りの男性はまずはお風呂、というのが最近のトレンドですよ?」
そう言って俺はキッチンから締め出された。
杏菜が心配なこともあり、カラスの行水で風呂を出るとリビングテーブルにはズラリとご飯が並んでいた。
一部は保存するようにとタッパーに入れられているものもある。
「相変わらずの手際の良さだな」
「そんなに褒めても何も出ませんよ?」
佳樹はそう言いながらも料理を作る手を止める様子は無い。
「いい匂い〜」
匂いにつられて杏菜がリビングに入ってくる。
帰宅して直ぐに寝ていたからか髪はボサボサになっているが、食欲が湧いているようで何よりだ。
「ごめんな、勝手に佳樹を家に呼んじゃって」
「いいんだよ、ご飯まで作ってもらってこっちが申し訳ない位だよ」
杏菜はそう言うと手伝おうとキッチンに入る。
「杏菜さんはしっかりと休んでください。今が1番大事なときですよ?」
佳樹はそう言って杏菜を止める。
しかし、少し申し訳なさそうに付け加えた。
「もし宜しければ少しお腹を触らせて頂いてもよろしいですか?」
「もっちろん。いいよ~」
佳樹なりの憧れがあるのかもしれない。
佳樹はそっと杏奈のお腹に手を当て、優しく撫でた。
「ここに居るんですね、赤ちゃん」
佳樹は慈しむようにそう言うと、不意に涙を零した。
「あれ、どうしたんでしょうか。私なんだか...」
そう言いながらも佳樹の涙が止まる様子は無い。
そんな佳樹の頭を杏奈はそっと撫でる。
「大丈夫だよ」
杏菜は何が、とは言わない。
ただ、そこには色々な思いが、それこそ男には分からない物があるのかもしれない。
「えへへ、すみません。もう大丈夫です。残りやってしまいますね」
佳樹はそう言うといつもの笑顔になった。
「いただきまーす」
杏菜はそう言うと久しぶりにまともなご飯を一口食べた。
まともな、といってもかなり緩めのお粥にではあるのだが。
「かなり薄目の味に、少し酸味を感じられるように柚子を足しています。もう少しお味が欲しければお醤油をかけてくださいね」
佳樹は俺たちの対面に座りながらそう言う。
「これだけでもしっかり美味しいよ!久しぶりのご飯嬉しいなぁ」
杏菜はそう言うと、かつてご飯を食べていた時の笑顔を少し覗かせる。
「良かったです。お兄様も冷めないうちにどうぞ?」
久しぶりの佳樹のご飯に思わず迷い箸をしてしまう。
「お行儀が悪いですよ、お兄様?」
そんな些細な言葉に杏菜も笑みを浮かべる。
「そういうところだよ、和彦」
この食事は、悪阻の重苦しい日々を振り払うような、楽しい夕食となった。
その日の夜、杏菜は食べたものを全て吐いた。
幕間ー温水佳樹の独白ー
悪阻の間は食事は本当に難しい。
どんなに食べることが好きな人でも食べられない瞬間が来ることが多いと聞きます。
食べることが好きな人が食べることを取り上げられるのはどれだけ苦しいのでしょうか。
いや、本当に苦しいのは「落差」なのかもしれません。
少し気分が良くなり治ったと思っても、その後一気に不調に陥る時、回復への希望と先の見えない絶望、この落差はどれ程の痛みなのでしょうか。
そして妊娠中という精神的な安定性を欠くタイミング。
これらが重なる時、どうなってしまうのでしょうか。
希望を見せることは悪いことでは無いですよね、お兄様?
シーン3 居ない日々
杏菜が入院して2週間経つ。
悪阻が酷い場合は入院となる、という話は聞いていたがそれが自分たちの身に降りかかるとは思いもしなかった。
病院での杏菜は未だに食事はほぼ取れず、点滴と僅かなタイミングだけ取れる食事で日々を暮らしている。
我が子のことも大事だが、更に大事なのは杏菜の事だ。
病室には毎日顔を出しているが、日に日に杏菜の頬は痩けていく。
そして一番の問題は...。
「私お母さん向いてないのかもしれない」
病室でベッドに横たわる杏奈は、俺に背を向けながらそんな事を呟いた。
「そんなことないって」
具体的な根拠はお互いに何も無い。
ただ、杏菜は漠然とした不安に押しつぶされそうになっているだけだし、俺は腫れ物を潰さないように安全な言葉を選んでいるだけだ。
「明日も仕事でしょ?もう帰っていいよ...」
杏菜は背中を向けたままそう呟く。
「分かった、また明日来るよ」
そうとしか言えず、俺は病室を後にする。
扉を閉めた途端、中からすすり泣く音が聞こえる。
何も出来ない心を抱えたまま、俺は逃げるように病院を出るしかなかった。
自宅に帰ると、中から明かりが漏れている。
恐る恐るドアノブを捻ると鍵がかかっていない。
ゆっくりと扉を開けると、そこにはかつて見慣れたサイズの靴がキチンと並べられていた。
「佳樹か?」
リビングに入りながら言うと、そこにはキッチンで料理をする佳樹が居た。
「佳樹、鍵はどうした?」
「杏菜さんからお借りしています。必要なら使ってもいいと」
2人が俺の知らないところで連絡を取っていても不思議は無い。
「杏菜さん、いかがでしたか?」
最大限雰囲気がら重くならない口調で佳樹は聞いてくる。
「かなりキツそうだった。お母さんに向いてないかも、って弱音まで吐いてさ」
言っていて、それにちゃんと答えを返せなかった自分が嫌になる。
「もしお兄様もお辛いのであれば、しばらく佳樹が病院に行きましょうか?もしかしたら女同士の方が吐き出せるものもあるかもしれませんし」
自分ばかりが辛い、というのは杏奈に対して申し訳ない気持ちもある。
しかし、今の自分に掛ける言葉が無いのも事実でもある。
甘えてしまいたい気持ち、目を背けたい気持ち、心の中に逃げる理由は沢山ある。
「もしお兄様が自分ばかり楽をしていて申し訳ない、と感じているのであればそれは間違いです」
佳樹は料理をする手を止め、真っ直ぐに見つめてくる。
「お互いがお互いを傷付けかねない状況で、それを回避するのは逃げではありません。お互いが大事だからこそ、守っている。そうではありませんか?」
大事、という言葉。
確かに俺は杏菜が大事で、傷付けたくないからこそ、会わない選択肢を選んでいるのかもしれない。
「もし、少しだけ甘えてもいいなら。明日だけでもお願いしていいか?」
俺の言葉に佳樹は小さく頷く。
「佳樹にお任せ下さい」
幕間ー温水佳樹の独白ー
病室に入るとそこにはかつての美少女からはかけ離れた、疲れ果てた女性がいた。
「お疲れ様です」
ほんの少しだけ罪悪感が心に浮かぶ。
私の願いのために、この人は今こうなっていることに対して。
しかし、この考えを思いついた時から私は決めていた。
罪悪感を持つぐらいなら、やってはいけない事だと。
「あ、佳樹ちゃん...」
小さな声で呟くその人は私を見ると嬉しそうに微笑む。
「そのままで大丈夫です。お兄様から少し頼まれてお着替え等を持ってきただけですから」
「ごめんね、大学もあるのに色々と手伝って貰って」
「構いませんよ。元気な赤ちゃんを産んで頂かないといけませんし。お兄様もそれを一生懸命に願っていらっしゃいます」
「あ、うん。そうだね...」
その人は少し言い淀む。
「赤ちゃん、早く見てみたいですね」
優しい声掛けの様で、しかし少しずつ言葉の刃で心をすり減らしていく。
誰にも分からないし、この人も気付いていない毒が心に回り始めるのも時間の問題であろう。
世界は私が想定していた以上に思い通りに進んでいる。
全ては私の願いのため。
もう少し、もう少しで...。
シーン4 壊れた歯車
長い悪阻の入院を乗り越え、すっかり食欲の戻った杏菜は大きなお腹を抱えながら仕事をこなし、予定通りのタイミングで産休に入った。
そして予定日から3日遅れで、元気な男の子を産んだ。
誕生の連絡を受けた時、両親も佳樹も大泣きしていた。
杏菜と子供と3人で新しい生活が始まるのだと、俺も決意を新たに仕事に家庭にと気持ちを向けた。
しかし、そうあの入院から帰ってきた辺りから杏菜の様子はどことなくおかしかった。
過剰にスキンシップを取ってきたり、そうかと思えば私なんてと急に自分を卑下したり。
そして、子供が生まれ、その違和感は如実に現れた。
「杏菜、前のミルクの時間何時だ?」
泣く我が子を腕に抱きあやしながら問いかける。
「えーっと何時だったかなぁ」
その顔はこちらを向くことなく、スマホに視線は落とされている。
新生児はミルクの量も、時間もしっかりと確認しなければ上げすぎや、逆に上げないことでの脱水等も考えられる。
「杏菜!」
思わず声を荒らげてしまう。
「和くん怒らないでよ...。前は3時間前で100mlだったかな」
杏奈はやっと答える。
何時からだろうか、杏菜が俺の事を和くんと聞いたこともない呼び方で甘える様に呼ぶ様になったのは。
怒られると少し嬉しそうになる。
そう、それはまるで子供がが構ってもらうためにイタズラをするような。
そんな行動がこれまでも幾度も幾度も続いていた。
時には子供をわざと放置し、俺が来るのを待つようなことさえ。
「ミルクできましたよ、っと」
俺は腕に抱いた我が子に哺乳瓶からミルクを与える。
やっと泣き止んだ子を観て、一息つくとふと視線に気づいた。
「佳樹か」
佳樹は赤ちゃんが家に戻ってくると知ってから、毎日の様に訪ねてくる。
「杏菜さんは如何ですか?」
佳樹の問いかけに首を横に振るしか出来ない。
「やはり一度距離を置いた方が...」
佳樹はそこで言い淀む。
恐らく今の環境は良くない事は分かっていた。
杏菜は子供よりも自分を優先して欲しいと思っている。
しかしそれは現実的には不可能な事で、俺もその願いだけを応えることは出来ない。
「お兄様から言いづらいのであれば私から」
確かに佳樹なら杏菜の入院の時も助けてくれたし、もしかしたら上手く収めてくれるかもしれない。
しかし、夫としてそれでいいのだろうか?とも感じてしまう。
「お二人が万が一にも仲違いしてしまうのは、佳樹は見たくありません」
確かに言葉を間違えれば離婚、なんて話も出かねない。
俺も杏菜もそれを望んでいる訳では無い。
佳樹はそれを見越して自分が泥を被ることを良しとしてくれているのだ。
「全部は言わなくてもいい、少しだけ佳樹が話してみてくれるか?」
そう、これは仲裁をしてもらうのと同じだ。
協力してもらうことになんの違和感もない。
「ママの顔、見たいもんね?」
佳樹はそう言って俺の腕でミルクをのむ子を見ると嬉しそうに笑った。
「佳樹にお任せ下さい」
そして、杏菜は一度実家に帰ることになった。
落ち着いてお互いを見直すため。
そして子供は佳樹が面倒を見る事になった。
杏菜が望んだことらしい...。
シーン5 温水佳樹
全ての始まりはお兄様が白玉リコという女の子を助けた時に伝えた言葉だった。
「諦めなくていい」
その言葉は私の心の中で途端に花を咲かせた。
そう諦めなくて良いのだ。
そこから私は全てを逆算して考え始めた。
1、まず法律的に私とお兄様は結ばれることは無い。
2、しかし私はお兄様の子供が欲しい。お兄様と暮らしたい
3、お兄様は理性的なので私がどんなに誘惑しても襲いかかってくる事は無いので、直接の子供は不可能
4、犯罪の様な行為はお兄様を悲しませる可能性があるためやらない
これらを合わせて考えついたのが、お兄様と誰かの子供を私とお兄様で育てる、という考えであった。
そのために必要な女性は当時から既に候補がいた。
次に誰が良いかであるが、彼女達は全員が条件を満たしていた。
必要なのは妊娠中に精神的な動揺を与えること。
そしてその精神的な同様の中で少しずつ私の存在を大きくしていくこと。
精神的な動揺には好きなことを妊娠というきっかけで制限されるストレスを利用することにした。
八奈見さんであれば食事が制限されること、焼塩さんであれば運動が制限されること、小鞠さんであれば創作や読書に集中出来ないこと。
白玉リコだけはこの条件を達成できないので候補から排除した。
友人には私と被っている、と言い訳していたが。
後はお兄様の好感度が高い方と結ばれるように働きかけ、子供を作ってもらえれば良かった。
そして全てはトントン拍子に行った。
八奈見さんは結婚後直ぐに妊娠し、激しい悪阻に悩まされた。
私は食事を作り、それを食べさせた。
悪阻の中で多少の申し訳なさもあり無理して八奈見さんは食べたのであろう。
酷い嘔吐を起こしたらしい。
その嘔吐は私への罪悪感も抱えさせたに違いない。
その後病室で私は優しく「赤ちゃん」と言う言葉を多用した。
望まれているのは赤ちゃんであり、八奈見さんではないと錯覚する様に。
同時にお兄様にも少しずつ私がいる生活を取り戻させた。
そして八奈見さんは自分を見てもらう様な行動を多発した。
赤ちゃんが産まれるまでは問題ないだろうが、産まれてしまっては、お兄様の目に映るのは「子供を蔑ろにする母」の姿だ。
私はその間に入り2人を仲裁する。
そしてこう囁くだけで良かった。
「一度距離を置いてみては?」
2人は私が居ることが当たり前になっていたので、その発言を聞き入れてくれた。
八奈見さんは子供を私に預けることも了承した。
環境が変わると子供に良くないかもしれません、そう言っただけで八奈見さんは納得してくれた。
後は2人で子育てし、八奈見さんを離婚に導くだけだ。
子育ての実績があるので親権はお兄様が得られる。
勿論お兄様は1人で子供を育てることは出来ないので、私がそばに居る。
少し遠い街に引っ越せば、そこに居るのは『温水』という夫婦にしか見えない家族である。
お兄様も余計な噂を流させないために否定もしないだろう。
私はお兄様とお兄様の子供を手に入れる。
諦めない、お兄様がそう言ってくれたから、私はこの世界を手に入れることが出来る。
小さな小さな赤子を腕に抱き、私は優しく声をかける。
「佳樹ママですよ」