ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第七話 ヒーローの証

 吾郎と真理子は、啓次に誘われて、庭のパティオでお茶をしていた。

 西洋風の庭園には、まったく似つかわしくない鯉のぼりが掲げられている。こどもの日だからと啓次が飾ったものだ。

 

「家族みんなでこうしてゆっくり過ごすのも、久しぶりだね」

 

 啓次はふたりの顔を見て、穏やかな声でそう言った。

 

「実は二人にプレゼントがあってね」

 

 プレゼントと聞いて、真理子が隣で、「わーっ、なんだろうね!」とはしゃいだ声を上げる。

 

「まずは吾郎に、これ」

 

 啓次は足元の紙袋を持ち上げると、中から分厚い参考書の数々を取り出して、机の上に並べていく。

 

「都内の高校の過去問集だよ。こんなのなくても、吾郎ならきっと大丈夫だとは思うけど」

「ええーっ、これのどこがプレゼントなのお?」

「はは、これは真理子にじゃないよ」

 

 眉を下げて露骨にがっかりする真理子を見て苦笑した後、啓次はこちらに向き直る。

 

「吾郎には今までたくさん負担をかけてしまったけど、いつまでもホームスクーリングってわけにはいかないだろう? 来年からは高校生なわけだし、さすがに通学しないとね」

 

 ──やっとか。ここまで、本当に長かった。

 

『明智吾郎』として高校入学するということはつまり、この入れ替え計画が二度と後戻りができなくなることを意味する。もう、いつ追い出されるかと気を揉む必要もない。ようやく今までの努力が実を結ぶ時が来たというわけだ。

 

「ありがとう、父さん。大切に使うね」

 

 当然だ。一度だって自分は間違えなかった。

 父さんという呼び方も、気安い口の利き方も、すべてこの男の希望通り。理想の息子として完璧に振る舞ってきた。

 

「真理子には、これ」

 

 啓次はそう言って、今度は、紙の挟まれたクリアファイルを机の上に置いた。

 もう一つのプレゼントの正体は楽譜だったらしい。わくわくと目を輝かせていた真理子の表情が、一瞬で曇る。

 

「真理子の足も、もう後ちょっとで治るだろう? 快気祝いに、浅野さん……ほら、真理子の子どもの頃のピアノの先生だよ。その浅野さんが作曲してくれたんだ。おじいちゃんの家で、今年も新年会が開かれる。ちょっと気が早いけど、その時に真理子がこれを弾いてくれたら、みんな喜ぶと思ってね」

「こんなのもらっても、まだピアノ弾けないし」

「大丈夫。もうそろそろリハビリの回数も減らしてよくなるって、この前の定期検診で言われたらしいじゃないか」

「でも……」

 

 よほどまたピアノを弾くのが嫌なのか、目に見えて真理子は気落ちしている。

 

「今まで、真理子のために僕も吾郎も頑張ってきただろ? でも、いつまでもこのままってわけにもいかない」

 

 だからいい加減に元に戻れと、啓次は言いたいのだろう。

 大真面目な顔をしているところ悪いが、笑えてくる言い分だ。

 そもそも真理子が抱えているのは、精神的な問題。いい加減飽きたからこれで甘い顔をするのは終わりなんて一方的に通告して治るものじゃない。

 

「吾郎くん……?」

 

 父親が引き下がらないと分かると、真理子は縋るように、吾郎の顔を見てくる。

 

 でも、彼女の味方をすることはない。

 結局のところ、吾郎のクライアントは全ての最終決定権を持つ啓次の方。彼女に優しくしてやるのも、啓次が望むからそうしてきただけのこと。二人の意見が対立した時、どちらの味方をするべきかなんてわかりきっている。

 

 吾郎は、あいまいな笑みを助け舟の代わりに返した。

 

「……真理子、部屋、帰るっ!」

 

 味方がいないと気づいた真理子は上ずった声でそう叫んで、小走りで家の中へと戻っていく。

 

「いやあ。あんなにちゃんと会話できるし、足も一人で歩けるくらいまでよくなって、本当に全部、吾郎のおかげだね」

 

 その様子を見て、のんきな声で啓次はそう言い、吾郎の顔を見てクスッと笑った。

 

「そんな心配そうな顔をしなくても、真理子ならすぐに機嫌が直るよ」

 

 どうだろうな……。あの真理子の反応は、ただの気まぐれじゃなく、心から拒否反応を起こしているように見えた。このまま放っておいて、いい結果にはならないだろう。

 

 だがこの父親は、彼女の出す分かりやすいサインをことごとく見逃していく。

 

 啓次はいい親ではない──そもそもいい親なんてものが存在するのかは分からないが。問題は、本人は自分のことをとてもいい父親だと自認しているらしいことだ。

 

 啓次は真理子の求めるものは大抵二つ返事で与えて、それで自分に満足する。だが、本当の意味で彼女のことを見ているわけじゃない。

 例えば、真理子は人混みや音のうるさい場所が苦手だ。おそらく、耳が良すぎるせいで。特に他人の咀嚼音が気になるようで、人の多いカフェなんかに連れていくと、あっという間に疲れてしまう。

 普通に彼女を見ていればわかるそういう特徴にも、この男はまるで気づかない。本質的には、自分の子どもに対して無関心なのだろう。

 

「そうですね。でも、ちょっと真理子ちゃんと話してきます」

「真理子のためにありがとう。吾郎は、いいお兄ちゃんだね。僕も兄がいたんだけど、全然君みたいじゃなかった。真理子は本当に幸せ者だ」

 

 相槌を打つと、延々と話が続きそうな雰囲気がある。吾郎は頷き返すと、机の上の参考書と譜面を紙袋にまとめはじめた。

 

「ああ、ごめん、真理子のところに行かないといけないんだったね……最後に一つだけ。ずっと思っていたんだけど、兄妹なんだから真理子ちゃんとか吾郎くんだなんて他人行儀な呼び方をするのは変だよ」

 

 まったく、注文の多い男だ。

 

「そうですね。呼び方を変えられないか、今度聞いてみます」

 

 吾郎はそう微笑みとともに返すと、庭を後にした。

 

 

「真理子ちゃん、入っていい?」

 

 真理子の部屋の扉をノックした。

 

「……いいよ」

 

 心許ない声を聞いて、ドアを押し開く。

 真理子は自室のベッドに寝そべって、枕に顔をうずめていた。

 以前の彼女なら、少しでも嫌なことがあれば泣き喚いて暴れていただろう。毎日一緒にいると分からないものだが、今の彼女は、十三歳という実年齢にかなり近づいてきているように思えた。

 

「泣いているの?」

 

 顔を上げないまま、真理子はふるふると首を振った。

 ベッドの隣に腰掛けて、彼女の肩に手を置く。

 

「何が君に辛い思いをさせているのかな」

「……わかんない」

 

 真理子は起き上がると、ベッドにぺたんと座ったまま、濡れた瞳で見上げてきた。

 

「でも、なんか、いやだ」

「うん」

「変わっちゃうのって、怖いよ。どうして今のままじゃ、ダメなんだろ」

 

 そう震える声でつぶやく。

 こういう時、どういう気休めを口にすれば真理子が満足するか、よく知っていた。

 

「なにがあっても大丈夫。僕はずっと真理子ちゃんの味方だから。ずっとそばにいるよ」

 

 これ以上ないほど安っぽいセリフだが、彼女はこれが好きなのだ。真理子は安心したように頷くと、肩に寄りかかってきた。

 

 

 それから数週間、真理子の落ちこみは回復を見せることはなかった。

 朝から晩までぼうっとしていることが増え、話しかけても言葉少なな返事しかしない。一方で、聞き分けは格段によくなって、リハビリも勉強も言われたら義務的にこなしていた。

 

 変わったのは、真理子だけじゃない。

 

 今までは過保護すぎるほどに娘の心配をしてきた啓次が、そんな彼女の様子に気づいても無関心を貫いているのだ。いや、それどころか、暗い顔の真理子に対していらだちに近い顔を向けることすらあった。

 いったいどういう心境の変化か、まるで分からなかった。今までは、真理子の辛そうな顔を見たら、なんとかしてほしいとすぐに泣きついてきたくせに。

 

 今の啓次は、とにかく、吾郎を都内一の名門校に入学させることに必死らしい。

 家庭教師の個人授業が朝から晩まで詰め込まれて、真理子と顔を合わせるのも食事時くらい。

 参考書を一度読むだけで、吾郎は大抵の問題は正答できる。はっきり言って個人授業なんて必要なかったが、どこか不安定なところを見せる啓次に口答えするのも憚られた。

 

「吾郎くん、勉強、おつかれさまっ」

 

 そんな生活が続いていた日の、夕食どき。お手伝いさんが用意した料理を二人で食べていると、真理子が明るく笑いかけてきた。

 

「うん、ずっと一人にしちゃってごめんね」

「大丈夫だよ!」

 

 よほど嬉しいことでもあるのか、真理子はどこかそわそわと落ち着きがない。こんな眩しい笑顔を見せるのも久しぶりだ。

 悲壮な顔よりは笑顔の方がずっといいなと、何気なく思った。

 

「ねえねえ、今日は何の日か、知ってる?」

 

 六月二日。母の命日だ。

 もちろん覚えていたし、短いながら祈りも捧げた。

 だが、そんなこと、真理子が知っているはずが──そこまで考えて、今日が誕生日だと教えたことを思い出した。まさかわざわざ覚えているとは考えもしなかった。

 

「じゃじゃーん!」

 

 真理子は冷蔵庫から誕生日ケーキを取り出してきて、机の上に置く。

 可愛らしくデコレーションされた小ぶりなショートケーキには、『吾郎くん、誕生日おめでとう』と書かれたチョコレートプレートが乗っていた。そのメッセージは、真理子の筆跡によく似ていた。

 

「もしかして、これ、真理子ちゃんが作ったの?」

「うん!」

 

 今日が本当の誕生日じゃないとも知らずに、にこにこ笑っている真理子を見ると、さすがに罪悪感を覚えた。

 

「上手にできてるね、ありがとう」

「えへへ。まだありがとうは早いよ、プレゼントもあるんだから」

 

 タタッとかけだすと、真理子は箪笥の中からラッピングされた箱を両手に抱えて持ってきた。

 

「開けてみて!」

 

 差し出された小ぶりな箱の包み紙を剥がす。

 中にあったのは、不死鳥戦隊フェザーマンがプリントされた古びた箱。昔発売されたおもちゃの中古品なのかもしれない。表紙にいるのは、ずっと昔──まだ吾郎が母のもとにいた頃に夢中になって見ていた戦隊だ。

 

「このブレスレット……」

 

 吾郎は息を呑んだ。

 中に入っていたのは、物語のキーとなるヒーローの証のブレスレット。手に持つと重みがあって、質感もしっかりとしている。光沢があり、年季を感じさせる素材は、まるで本物の真鍮のようだ。それが主人公のものであることを示すエースのAの刻印まで完璧に再現されていて、まじまじと見てしまう。

 箱の底にあった証明書の紙を見て、やっと合点がいった。これはおもちゃじゃない。撮影で使われた小道具だ。

 

「前に出かけた時にさ、そのフェザーマンのブレスレットのおもちゃ、じっと見ていたから。好きかと思って、探したの……でも、もうおもちゃの方は箱だけしか見つからなくて、あとは映画の小道具しかなくて」

 

 思った反応が得られなかったからか、真理子は不安そうにこちらを見てきた。

 このブレスレットに思い入れがあるのは本当だ。この戦隊ヒーローのブレスレットのおもちゃは、最後に母がくれた誕生日プレゼントだ。親戚の間をたらい回しにされるうち、罰として捨てられてしまって、今はもう持ってない。

 

「嬉しいよ、ありがとう」

 

 笑顔を急いで作った。

 実際どう感じているのか、自分でもわからなかった。こんな幼児向けのものを貰っても、困るだけ。母からもらった思い出の物ではないし、今の吾郎にとっては売り飛ばす以外の価値はない。でも、だからといってただのガラクタだと切り捨てることもできなかった。

 

「子どもの頃、フェザーマンが大好きだったんだ。でもよくわかったね?」

「ふふ、真理子はね、いつも吾郎くんのこと見てるから。それにね、これを選んだのにはもう一つ理由があって……。フェザーマンって、ヒーローなんでしょ? だから吾郎くんに、ピッタリだなって思ったの」

「僕に?」

「うん。吾郎くんは真理子のヒーローで、王子様だから。吾郎くんが側にいてくれるとね、真理子、すっごく安心するんだ。これから何が変わっても、それだけはずっと同じだよ」

 

 真理子は、全幅の信頼を寄せた目を向けてくる。

 

 バカな子どもだ。

 彼女が喜ぶこと、言って欲しいこと、すべて上辺だけで取り繕っている自分を少しも疑いもしないで。利用するために近づいてきた人間に、心をそっくり預けてしまうような信頼を向けてくる。まるで、騙してほしいと口にしているように。

 ……こんな風に考える自分を、昔同じブレスレットをプレゼントしてくれた母が見ていたら、どう思うだろうか。

 鋭い痛みが胸に走って、目を伏せた。

 

「……ありがとう、真理子ちゃん」

「うん! ね、つけてみようよ」

 

 真理子はわくわくした顔で腕輪を手にとった。吾郎が差し出した左腕にそれを通すと、満足そうに頷いた。

 

「似合う似合うっ」

 

 子どもの頃、腕につけてはしゃいでいた腕輪。

 あの頃よりもずっと強くなったはずの腕にそれをつけると、ずしんとのしかかるような耐え難い重みを感じた。

 


 

「吾郎くーん、聞いて聞いて!」

 

 ノックなしに部屋の扉を開けると、真理子は勝手にベッドの上に座る。

 ここ最近、真理子は吾郎の部屋に入り浸るようになっていた。寝る時以外、一人で過ごす時間はまったくないほどだ。

 やんわりと宥めたところで言うことを聞かない。

 

 おそらく、不安なのだろう。

 来年の四月に入れば吾郎は高校で平日はいなくなるし、父親の啓次ともギクシャクしたまま。

 

 勉強を中断して、真理子の隣に腰かける。

 今は十月で、高校入試まであとわずか。その辺の受験生は焦る頃合いなのだろうが、吾郎とは無縁の話だ。高校入試の過去問を解いても、満点以外を取った試しがない。部屋で勉強して見せているのも、啓次へのアピールのためだった。

 

「どうしたの? 真理子ちゃん」

「おじいちゃんからOKもらったよ。新年会、二人で遊びに来ていいって」

 

 長いまつ毛に縁取られたまぶたでウィンクして、真理子は期待するようにこちらを見た。

 

 先日、真理子に頼んでいたのだ。清水誠一の新年会へ自分も出席したいと。

 清水誠一は薬物治療で腎臓病の進行を抑え、いまだに精力的に仕事をしていた。だから今年も、派閥の人間を集めた恒例の新年会を開く。そこに出席すれば、獅童正義へと近づく足がかりが見つかるかもしれない。

 

「お願いするの、大変だったんだよ? パパは吾郎くんはまだ受験に集中しないといけないからって、うるさいし……」

 

 だから褒めろと言うことなのだろう。気分屋の彼女の機嫌を取っておくに越したことはない。

 吾郎は、とびきり甘やかな笑みを形作った。

 

「ありがとう。僕が行くことになって、おじいちゃんは迷惑そうにしていなかった?」

「全然! おせちとかお料理、いつも食べきれないし、人が多い方がいいからね。それに、おじいちゃん、真理子がお願いしたことダメなんて言わないもん」

「真理子ちゃんは大切にされているからね」

「うん! でも、一番真理子に優しいのは吾郎くんだよ?」

 

 空いていた距離を詰めると、真理子は大きなヘーゼルの瞳でこちらを見上げた。

 

「ねえ、真理子のこと好き?」

「いきなりどうしたの? もちろん好きだよ」

「えへへ……。私も吾郎くんのこと大好き! あのね、初めて会った時、私、なんだか少女漫画みたいだなって思ったの。一人っ子の女の子のところに、ある日いきなり素敵なお兄ちゃんができるって、よくある設定じゃない?」

「あはは、そうかもね。でも一緒に暮らしてみたら、やっぱり違ったってなるものじゃないかな」

「そんなことないよ。吾郎くん、カッコいいもん……。きっと高校行ったら、クラスの子とか、みんな吾郎くんのこと好きになっちゃうんだろうな」

 

 そこまで言って、照れたように視線を膝に落とすと、真理子はもごもごと言葉を続けた。

 

「吾郎くんも、真理子のこと、忘れちゃうかも……」

「まさか。どうしてそんな風に思うの?」

「だって吾郎くん、真理子のこと聞かれても、妹って言うしかないでしょ?」

 

 誰に聞かれても吾郎のことを本当の兄だと言うように、真理子も啓次から言い含められている。そのことに彼女が不満たらたらなのは知っていた。

 

「もしかしたら本当は吾郎くんだって、真理子のこと、妹って思ってるんじゃない?」

 

 じっとこちらを見てくる熱っぽい視線に、何を求められているかはっきり分かった。

 何度かそれらしき誘いを受けてかわしてきたが、これ以上断っていたら真理子もいぶかしむ。なにより、今の彼女に余計なストレスをかけて、また泣き叫ぶ子どもに戻られても面倒だ。取るべき行動ははっきりしていた。

 

 吾郎はさっと甘い笑みを浮かべた。

 

「そんなわけないって、分かっているでしょ」

 

 真理子の肩を優しく引き寄せて、くちびるを重ねる。

 

 伝わってくる体温に、感触に、虫唾が走る。

 

 ──大丈夫。こんなこと、何回もしてきた。身体中を駆け巡る嫌悪感を押し留めるなんて、慣れれば簡単なこと。

 

「吾郎くん……」

「本当にいい? 真理子ちゃん」

 

 真理子は嬉しそうに頷いた。

 

 目標達成まであと一歩、出口はもう目の前だ。下手に刺激して破綻するより、宥めすかしてこのまま進むべきだ。今更減るようなものもなんてない。

 

 ──そう思っているのに、なぜか、激しい拒否反応を抑えることができない。身体中に虫唾を走る。耐え難いほどのおぞましさが広がって決壊しそうだった。

 

 なにがこんなに気持ちが悪いのか、自分でも分からなかった。今まで同じようなことをしてきた相手と比べれば、真理子なんて全然マシなはずだ。困った子どもだとは思っていても、ここまでの嫌悪感を抱くほどの相手じゃないはず。

 

 それでも感情の奔流はおさまらず、ついに腕が震え出した。このままじゃ、いくらなんでも訝しまれる。

 誤魔化すように、彼女をベッドの上に押し倒した。

 

 明らかに異常な吾郎の様子に、真理子が気づく様子はない。

 まるで親鳥を見つめる雛のように、純粋な信頼に満ちた真理子の瞳を見て、思う。

 

 ……彼女に取り入ることが、こんなに簡単だとは思わなかった。最初に会った時はもう少し警戒心を持った人間だと思ったが、所詮、恋にすがる心の弱った少女なんてこんなものということだろう。

 だけど、文句はない。僕にとっては都合のいい話だ。たとえこの後真理子が正気に戻ったとしても、彼女のように世間体が大事な人間にとってこの関係は重い鎖となってゆくゆくのしかかる。たとえ恋人という立場が破綻しても、交渉材料として十分に使える。

 本当に、女の子を利用することなんて、笑えるほど容易い。

 

 ──あの男にとっても、これだけ簡単だったのだろうか?

 

 自分ができた日も、母は自分の人生が狂わされることも、ただ都合よく利用されていることも知らずに、今の真理子のようにただ相手に対する信頼だけを胸に抱いて、そして……。

 

「吾郎くん?」

 

 体が、動かなくなった。

 

 冷や汗をかき、顔がすっかり青ざめ、呼吸すら止めた吾郎を見て、真理子は飛び起きた。

 

「大丈夫!? 吾郎くん」

 

 震えが収まらないのは当然だ。今までとは全然違う。

 

 途方もなくおぞましいのは、汚いのは、醜いのは──すべて自分自身なのだから。

 

 吐き気がするのは、真理子に触ったせいじゃない。あの男と同じことをする自分自身への嫌悪感が身体にそうさせているのだ。

 

「……できない」

 

 気がつけば、勝手にそう口にしていた。

 一言それだけ返したが、意味は十分に伝わったようだった。真理子は目を見開いて、瞳を揺らした。

 

「それは、吾郎くんが、真理子のこと、好きじゃないから……?」

 

 もっと子どものように駄々をこねると思っていた真理子は、しかし、か細い声でそう聞いてくるだけだった。

 

 彼女は泣き出すでも怒り出すでもなく、ただ静かにこちらを見ていた。返事がないことを肯定と取ってか、重ねて聞いてくる。

 

「なのに私のこと好きなふりをしていたのは、もしかして、おじいちゃんに会いたがっていたことと関係がある?」

 

 やめろ、誤魔化せ、嘘をつけ! 全て台無しにする気か? そう頭の合理的な部分が警笛を鳴らす。

 しかし気がつけば、吾郎はゆっくりと頷いていた。

 

「そっか……やっぱり、そうだよね」

 

 あっさりと、真理子はそうつぶやいた。そして、目を瞬かせる。

 まばたきを一度、二度と重ねるうちに、彼女の顔から表情が抜け落ちていった。やがて夢から覚めたような冷静な目で吾郎を見ると、真理子はベッドから立ちあがった。

 

「もう遅いし、私、自分の部屋に戻るね」

 

 すっと立ち上がると、落ち着いた足取りで真理子は扉へと歩いて行った。

 

 廊下へ出ていくために扉を開くと、真理子は振り返る。そこにいるのは、あの幼い少女じゃない。まるで別人のような大人びた顔──あの天才ピアニストの明智真理子にそっくりだ。

 

「もし必要なものがあるなら、次からは直接言ってくださいね。こんな小芝居はお互い、時間の無駄でしょう?」

 

 それじゃあ、おやすみなさい、と毅然と言って真理子は部屋を後にした。

 

 元々の彼女に、戻ったのか?

 今の真理子の様子はそうとしか思えなかった。だが、こんな急激な変化を見せるなんて、いくらなんでもおかしい。記憶が戻ったというよりも、人格が交代した、そう考える方が自然だ。

 

 ……そこまで考えて、自分の馬鹿らしさに、思わず笑い出しそうになった。

 今の真理子が誰かどうかなんて、もはや自分にはなんの関係もない話だ。

 

 すべて、失敗に終わったのだ。もはやこの家に、吾郎の居場所はない。

 

 もう真理子にとって自分は必要無くなった。これから彼女は何があったのか啓次に包み隠さず話す。そして、啓次は自分を追い出すだろう。利用され騙されていた真理子からすれば当然の権利、無理もない話だ。

 

 結局のところ、いつもこうだ。

 なにか一つ手に入ると思ったら、すべてが目前で崩れ落ちる。吾郎の人生は、そういうふうにできている。

 

 そもそも、あのまま真理子に手を出せばよかっただけの話だ。なぜ躊躇った?

 なにが復讐だ。こんな簡単なこともできず、口で言っているだけで。本当はできるなんて思っていないんじゃないか。生きる理由もない、誰からも必要とされない空っぽの人生に意味をつけようとしているだけ。

 自分を責め立てる言葉がとめどなく浮かんできた。

 

 ……気がつけば、机の上に飾っていたフェザーマンのブレスレットを見ていた。

 

 そうすると、不思議と、心は落ち着きを取り戻してくる。

 

 明日にでも、ここから追い出されて、岡倉の家へ逆戻り。

 その先に待っているのは、想像すらしたくもない地獄だ。それでも、何度さっきのやりとりを思い返しても、間違いとは思えなかった。むしろ安堵すらしていた。

 

 踏みとどまれてよかった。あの男と同じことをしたら、母さんの墓の前で手を合わせる資格すら失っていただろう。

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