ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第八話 金色の目の女の子

 計画が崩壊したあの夜から数日間、啓次はなかなか家に帰ってこなかった。

 

 真理子とはその間、顔を合わせたら挨拶を交わす程度で、まったく会話をしていない。

 ただ、彼女が怪我をする前の人格に戻ったことだけは確かだ。ひと目見れば、あの理知的で大人びた少女が戻ってきたのだと誰だって分かる。

 

 家の使用人たちは遠巻きに彼女を見ては驚いた顔をするが、家族のことに踏み込むなと啓次から厳しく言われているせいだろう。誰もそのことについて干渉してこなかった。

 

 審判を待つ間、吾郎の心は荒れ狂っていた。なぜ計画を破綻させたのかと自分を罵倒し、その次の瞬間には、生物学上の父親と同じレベルまで落ちようとしていた己に吐き気を催す。表面上は温和な態度を貫いているつもりだったが、それもどれほど上手くいっているかは分からなかった。

 

 岡倉の家に帰るくらいなら、家の中の目ぼしいものを盗んで逃げた方がいいのでは──とさえ考えたが、そんな短絡的な考えを実行に移すほど浅はかではない。

 結局のところ、まな板の上の鯉のような心地で、追い出される日を待つしかなかった。

 

 そうして迎えた月曜日の早朝──ついに啓次が帰ってきた。

 朝食を三人で取ろうと起こされ、吾郎は覚悟して席に着く。

 

「いやあ、朝早くに起こしちゃってごめんね。でも二人と過ごしたかったからさ」

 

 どうやらまだ真理子からなにも聞かされていないらしい。啓次は穏やかな顔で微笑んだ。

 

 吾郎は静かに真理子が下に来るのを待った。

 言い訳をするつもりはない。もう覚悟は決まっていた。

 ただの失敗ならともかく、兄の役割を求めていた吾郎が彼女に手を出していたというのは、啓次の逆鱗に触れる。彼女がそのことを話せば、追い出されるのは明白だ。

 

 しばらくして、忙しない足音を立てて、真理子が階段をかけ降りてくる。

 

「パパ、おかえりー!」

 

 目を疑った。

 階段から降りてきた彼女は、いつもの子どもらしい純粋な笑顔を浮かべている。

 

「ただいま、真理子。昨日は夜遅くに帰ってきたから、二人に挨拶できなくてごめんね。吾郎も、真理子も、父さんが帰っていない間、何も問題はなかった?」

「吾郎くんが一緒だから、真理子、平気だったよ!」

 

 言って、何がおかしいのか、くすくすと真理子は笑った。

 

 ……おかしい。彼女が「真理子ちゃん」だったとしても、落ち着きがなさすぎる。表面上だけなぞったみたいな不自然な明るさだ。

 しかし啓次は、違和感を抱かなかったらしい。満足そうに頷くと、吾郎の方を向く。

 

「それはよかった。吾郎は変わりはない? 勉強は捗っているかな」

「……うん、ほとんど毎日勉強してたよ。あとは、息抜きに父さんから借りた本を読んだくらいかな」

 

 戸惑いながらも、吾郎は家族ごっこを続けた。

 

「そうか、さすが吾郎だな。あとで感想を聞かせてくれよ」

「パパ、次は真理子にも貸して!」と真理子は口をとがらせる。

「はは、真理子にはちょっと難しいんじゃないかな」

「バカにしないでよ、もうっ」

 

 真理子はぷうっと頬をふくらませた。

 

 何が何だか分からないが、とにかく、彼女はいま自分のことを告発する気はないようだ。今この瞬間外に放り出される気でいた吾郎としては、拍子抜けである。

 

 そのまま、不自然なくらい和やかな朝食を三人でとった。

 

 

「二人とも、ちょっとだけしかいられなくてごめんね。またすぐ帰ってくるから」

 

 啓次は玄関のドアを開けると、名残惜しそうに吾郎たちを見て、手を振った。

 

「いってらっしゃい、父さん」

「パパ、ばいばーい!」

 

 隣で、真理子は明るい笑みとともに手を振り返す。

 しかし、ドアが閉じた途端に笑顔がかき消えた。スイッチが切り替わったように真顔になった真理子はそっとため息をついた。

 彼女は、吾郎とは目を合わせようともせず、そのままリビングのソファまで歩いて行く。そして机の上から分厚い洋書をすっと手に取ると、黙々と読み始めた。

 

 やっぱり、今の彼女はあの大人びた人格の方のようだ。彼女自身が今の自分の状態をどう認識しているのか、以前の記憶があるのか、気になることは数多くある。

 しかし、彼女の態度が話しかけるなと如実に語っていた。

 仕方なく、自分の部屋に戻ることにした。

 

 

 そうはいっても、いつまでも会話を避けられるわけではない。

 月曜の昼は、毎週リハビリの予定が入っている。運転手が送迎するものの、必ず吾郎が付き添うことになっていた。

 

「いいですよ、ついてこなくて。受験中だし、他にやることあるでしょう?」

 

 ついてこようとする吾郎を気だるげに見ると、真理子はそう言った。

 

 吾郎は、とりあえず作り慣れた柔和な笑みを浮かべた。

 

「心配だから、いつも通り一緒に行くよ」

 

 はぁ、と真理子は疲れたため息をもらす。

 

「いいですよ、無理しなくて。あなたがリハビリにこだわるのって、パパに頼まれてるからでしょう? 心配しなくても、あなたを悪いように言ったりはしません。おじいちゃんとの新年会も、約束通り一緒に行きます。ですから、放っておいてください」

 

 こっちに何か思惑があることまで気づいていて放っておくなんて、自分の家が心配じゃないのか?

 本来の真理子に戻られると、何を考えているのか、てんで分からなかった。

 

 しかし彼女に譲る気はなさそうだったし、これ以上怒らせても藪蛇だ。

 なにより、今となっては嫌悪感しかないであろう相手に対して、かなりの譲歩をしてくれているのは確かだ。それを尊重しなければ、関係はさらに壊れるだけ。

 

「分かった。気をつけてね」と吾郎は言って、真理子を見送った。

 

 

 それからの生活は、順調すぎるくらいだった。

 真理子のお目付け役をする必要はもうない。一人で気ままに過ごせる時間が桁違いに増えて、やりたいことをできるようになった。

 

 真理子は、啓次の前では相変わらず純粋無垢な子どもらしい態度のまま、いかに吾郎がいい兄かを説いてくれる。おかげで、啓次はなにか異変があったことなど露知らず、満足そうにしている。

 

 しかし、だからといって、彼女と仲直りしたというわけでもなかった。

 

 啓次がいなければ必要最低限の会話しかしないし、習い事やリハビリの後に迎えにくる吾郎に毎度うんざりした顔を見せていた。ただ不思議なことに、時折、何か困り事がないかとお茶を淹れて話しかけにくることもある。完全に邪魔だと思っているわけでもないらしい。

 用事のない時は不可侵で、というのが、真理子が定めた線引きのようだった。

 


 

「ねえねえ、パパがくれた楽譜、真理子練習したんだよ」

 

 十一月の頭、まばゆい笑顔でそう言って、真理子は啓次と吾郎を音楽部屋に連れてきた。

 誰も使っていなかった大きなグランドピアノの前で椅子に腰掛けると、真理子は指をストレッチさせてほぐしていく。

 

「また真理子の演奏が聴けるなんて」と、啓次は感極まった様子だ。

 

 彼女の演奏に、吾郎も興味がないわけではなかった。これだけずっと一緒に暮らしていて、結局彼女の生演奏を聞いたのは初めて会ったソロコンサートの時だけ。それでも、あの時の圧倒的なパフォーマンスは鮮やかに記憶に残っている。

 

「まずはウォームアップ。吾郎くん、何かリクエストはある?」

「リクエストって言われても、そうだな……。何が弾けるの?」

「なんでも。別に適当に弾くつもりだし、知ってる曲言ってみて」

「じゃあ、亡き王女のためのパヴァーヌなんてどうかな」

 

 前にオーケストラのコンサートに行ったときに、彼女が落ち着くからお気に入りだと言っていたアンコール曲の名前を口にした。

 

 いいよ、とあっさり答えると、真理子は細く長い指で鍵盤を弾きはじめた。

 

 彼女の奏でる音色は、どこまでも透明で美しい。

 音楽界での一年のブランクが音楽家にとってどれほどのものか分からないが、真理子とっては短い練習期間で簡単に取り戻せる程度のもののようだ。

 彼女の演奏に思わず聞き惚れていると、そっと啓次が話しかけてきた。

 

「懐かしいな、吾郎」

 

 懐かしい? なんの話か分からず、吾郎はかすかに首を傾げて見せた。

 できれば話しかけないでほしかった。ウォームアップとはいえ邪魔されたくないと思うほどに、真理子の演奏は魅力的だ。

 

 もっとも、こちらの話し声は真理子にとってなんの妨げにもならないらしい。持ち前の神がかった集中力で、すっかり自分の世界に入り込んでいる。この没頭ぶりだと、ピアノ以外の音は聞こえていないのかもしれない。

 

「覚えてないか。ほら、昔、真理子が初めてコンクールに出る前の日、あの子は全然緊張なんてしてないのに、吾郎は不安で夜寝れなくて、当日、お前は体調を崩してしまっただろう」

 

 楽しそうに思い出を語り続ける啓次に、しばしの間唖然とした後、背筋を寒いものがかけ上がった。

 まさか本当に、自分と明智吾郎を混同しているのか? 娘の次は父親まで狂い出すとは、とんでもない家だ。

 

「真理子のコンサートへ行くんだって泣きじゃくるお前を連れて──」

 

 ガシャンと、グランドピアノから乱暴な音が鳴り響く。

 真理子が演奏を中断したのだ。椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がると、震える指で鍵盤蓋を閉じた。

 

「久しぶりだから、もう疲れちゃった。また今度弾くね」

「あ、ああ、そうか。最高の演奏だったよ、真理子。また弾いてほしいな」

「うん、気が向いたらね。二人ともおやすみ」

 

 二人に背を向けると、これ以上話したくないとばかりに、真理子は足早に部屋を後にした。

 


 

 その三日後の昼。吾郎はベッドにぐったりと横たわっていた。

 

「ごほっ……」

 

 情けないことに、風邪を引いたらしい。気のせいだと自分に言い聞かせていたが、喉の痛みと倦怠感が無視できないものになったとき、しぶしぶと認めるしかなかった。

 

 柔な印象を与える外見とは裏腹に、その実、吾郎は頑丈さには自信があった。

 雪の日に外へ放り出されて彷徨った日も、ゴミ屋敷としか形容できない非衛生的な部屋に放り込まれた時も、仕置きと称して水いっぱいのバケツに顔を押さえつけられた時も、生き残ってきた。だがその自慢の耐久力も、ここのぬるま湯みたいな暮らしで鈍ったのかもしれない。

 

 あの日の一件以来、いつ突然追い出されてもいいように心構えをしていた。それが、この家から放り出されないで済みそうだと緊張が抜けたらこの様である。本当に、自分も柔になったものだ。

 

 相変わらず、啓次は留守にしていた。なになら錯乱しているらしいあの男と話さないでいられるのは、正直言って助かった。

 

 真理子はというと、再び弾けるようになったピアノに熱中しているらしく、ここ最近はずっと音楽室にこもっていた。

 

 今も、彼女の演奏が下の階から聞こえてくる。

 熱のせいでベッドの中で大人しくしているしかない中、真理子のピアノの音はいい気晴らしだ。

 練習じゃなく、遊びで弾いているらしい。知っている曲を弾いたと思ったら、聞き覚えのあるフレーズが次々とアレンジを加えられ変化していく。絶え間なく曲調が変わっていくのが面白かった。

 

「吾郎さん、お昼ご飯はお部屋までお持ちしましょうか?」

 

 扉の外から、使用人の女性が声をかけてくる。三十代半ばの彼女は、木曜から日曜の家事担当だ。

 

「こほっ……伝えるのが遅れてすいません。ちょっと体調が悪いので、お昼はいいです」

 

 そう聞くと、彼女は慌てて薬やスポーツドリンクを持ってきた。

 

「かなり熱があるので、解熱剤を飲んでくださいね。必要なものがあればベルを鳴らしてください」

 

 吾郎の体温を測った後そう言うと、彼女はすぐに部屋を後にする。

 

 とりあえず、渡されたピンクの錠剤を口に放り込んだ。体調を崩しても薬なんてもらった試しがないため、どれほどの意味があるのかは分からない。

 そのままうつらうつらしているうちに、いつの間にか真理子の演奏が終わっていたことに気づく。もっと聞きたかったのに、と残念に思っているうちに、眠りに落ちていた。

 

 

 ……ひんやりとした手の感触を、額に感じた。

 絹のように滑らかな、体温の低い手が心地よい。

 

 ゆっくりとまぶたを開くと、黒く大きな瞳と目が合った。

 

 艶やかな黒髪、白い肌に映える薔薇色の頬に、整った目鼻立ち。

 知らない人間だと身構えてから、相手が真理子だと気づく。この顔に大人びた表情が乗っていることに、いまだに慣れなかった。

 

「起こしちゃった? ごめんなさい、熱が上がってないか心配だったんです」

 

 バツが悪そうな顔になって、すぐに真理子は手をどけた。

 

「いや……」

 

 なにを否定しているのか自分でもよく分からないまま、体を持ち上げようとする。どうやら、本当に熱で頭が回っていないらしい。

 

「寝てたほうがいいですよ」

 

 ピシャリと跳ね除けるような響きの言葉に、またベッドに戻された。

 

「お腹減ってないですか? もう夜だから、なにか口に入れといたほうがいい気もするけど」

「別に……。風邪が移るといけないから、君、部屋に戻ってなよ」

 

 風邪のせいか寝起きのせいか、掠れた声が出た。

 

「大丈夫。私、風邪には強いんです。冬のモスクワに行った時も体調崩さなかったくらいだから」

 

 口角をほんの少し上げた後、彼女はサイドテーブルの上の未開封のゼリーに目をやった。

 

「りんごくらいなら食べられますか?」

 

 頷くと、すっと真理子は立ち上がって、部屋を後にした。

 階段から足音が響いてくる。改装して作ったエレベーターは、真理子の足が治りかけている今、もう誰も使っていなかった。

 

 そのまましばらくして、また眠りかけていた頃に、「入っていいですか?」と声がかけられる。

 

 今まで一度もノックすらしたことがなかったくせに、と思いつつ、了承の返事をする。

 がさごそと音を立てながら、真理子は扉を開いた。見れば、りんごと保温ポットを乗せた盆を両手に、大きな紙袋まで左腕にかけて持っている。

 

 ちょっと苦戦しながら紙袋を床に下ろすと、真理子はベッドの隣に座り込む。

 

「これ、どうぞ」

「ありがとう」

 

 手渡された皿の上には、綺麗にうさぎの形に切り分けられたりんごが乗っていた。可愛いもの好きの彼女らしい。

 

「上手でしょう?」

 

 どこか誇らしげな言葉に適当に頷き、りんごを口にする。艶やかな赤のりんごは高級なものなのだろうが、熱のせいか、味はよく分からない。それに、食べ物の味に頓着したことはなかった。

 

 ……それにしても、居心地が悪い。真理子が一秒も目を逸らさずに注視してくるせいだ。前のような熱に浮かされた視線ではなかったが、無感動にじっと観察されるというのも、それはそれで不快なものだった。

 

「なにか、僕の顔についている?」

 

 にっこりと微笑んで、わずかに棘をひそませた声で聞く。

 真理子は難しい顔をして、口をひらいた。

 

「……あなたって、本当に吾郎って名前なんですか?」

「は?」

 

 思わず素が出てしまっても、真理子は気にしていないようだった。言葉を選ぶように考えてから、

 

「ん……つまり、生まれた時から吾郎って名前なのか、気になっているの」

「もちろんそうだけど」

「でも、どうして」

 

 自分の名前に対してどうしてと言われて、澱みなく返事できる人間はシェークスピアくらいだろう。皮肉の一つでも言いたいところだったが、あいにく、真理子の言わんとすることに心当たりがあった。

 

「もしかして、先週の啓次さんのことでなにか考え事?」

 

 図星だったのか、驚いたように真理子はアーモンド型の目を瞬かせた。

 

「そうです。よく分かりましたね」

「そりゃあ、あれだけおかしなことを言われれば、誰だって覚えているよ。それで、なに?」

「えっと……あんまり聞いて気持ちのいい話じゃないかもしれないけど」

 

 それでも聞くかと問いかける視線を投げてくる真理子に、頷き返した。

 

「うちの両親が離婚したことはきっと聞いていますよね? 私のお兄ちゃんは母の方について行って、今はいないんです。初めて会った日にお話ししたと思いますが、兄は、あなたと同じ名前なんです」

 

 離婚ではなく夜逃げされたと聞いているが──そう思いながらも、吾郎は相槌を打った。

 

 それから、はっと気づく。初めて会ったあのチャリティコンサートの日のことを、今まで真理子は忘れていたはずだ。

 記憶が完全に戻ったのか。あるいは、あの時話していたのがこちらの真理子だから覚えているのか。……熱に浮かされた頭では、うまく考えがまとまらなかった。

 

「元から二人は全然うまくいってなくて、物心ついた時には、お父さんはお兄ちゃんと、お母さんは私と住むっていう風に分断されていたんです。病気がちだったお兄ちゃんにお父さんはベッタリで、なんていうか依存してるみたいなところがあって……。だからお兄ちゃんがママについて行ってしまったこと、すっごく寂しいんだと思うんです。それに加えて、あの音楽室でのことがあって。あなたをお兄ちゃんだと思い込んでいるなんてさすがにおかしいから、不安になったんです。あなたのことを無理やり兄の代わりにしようとしているんじゃないかって」

 

 啓次と岡倉の建てた成り変わり計画のことは話さないほうがいいなと、吾郎はとっさに判断する。

 啓次は、いなくなった真理子の兄の戸籍をそっくりそのまま自分に使わせる計画を立てていて、そのつもりで自分もいる──なんて正直に言えば、彼女の反発は大きくなるだろう。

 

「確かに、君のお父さんはそのつもりなのかもしれない。……昔から、引き取り先で気に入られた試しがないんだ。どんなにお行儀よくしてもね。だからこんな熱烈な歓迎を受けるってことは、何か裏がないとおかしい。そう思っていたから、君のお兄さんの代わりっていうのも、なんだか腑に落ちるな」

 

 同情を誘う作戦はうまくいったらしい。真理子は触れてはいけないことに触れたというふうに目を伏せた。

 

「それで、僕は君のお兄さんに似ているの?」

「目や髪の色と、さっきも言ったけど、名前は一緒です。でも、見た目の印象や性格は全然違う……と思います。兄は塞ぎがちで、すごく気弱な人だったから。だからあなたとお兄ちゃんを混同してることはないって思ってたんだけど」

 

 真理子は深いため息をついた。

 

「もしお父さんがあなたになにかしたら、私に言ってくださいね」

 

 彼女に泣きつくようなことはないと心の中では断言しつつ、完璧な笑顔を吾郎は作った。

 

「うん、ありがとう。頼りにさせてもらうよ」

 

 真理子は不満そうに眉根を寄せる。

 

「なんだか、嘘くさい」

 

 嘘だからね、とはさすがに返さない。

 

「まあいいです。疲れてるとこに変な話をしてしまった私が悪いです」

 

 真理子は紙袋に目をやる。

 

「寝れないんじゃないかと思って、映画とか漫画とか持ってきたんだけど、どう? 昔から具合が悪い時は、一日中だらけるって決めてるんです」

「君の言う通り寝つけなさそうだし、いいかもね。でも、この家にDVDとか漫画があるなんて知らなかったな」

 

 映画はだいたい配信サイトで見ていたし、家の中にある再生機器といえば、アンティークな雰囲気の家に合うレコードプレイヤーくらいだ。俗物らしいものは置かない主義なのかと思っていた。

 

「しまってあるだけで、実はもっとたくさんあるんです。私の物置き部屋、今度入ってみます? 壁一面に本とかDVDがあって、寝れるスペースもあるんですよ。漫画喫茶みたいに」

「漫画喫茶、か」

 

 真理子がそんな場所に行ったことがあるとは思えないが、存在は知っているのか。

 

「DVDプレイヤー、繋いでおくから。好きな映画選んでてください」

 

 サイドテーブルに三段に分けて積まれたDVDの山には、ざっと見た感じ、昔の洋画が多かった。中には白黒映画さえあった。しかし……これだけ選択肢があると、どれがいいか考えるのが億劫になる。

 

「君の見たいやつでいいよ。僕はどれも見たことがないから」

「え、私もここで一緒に見ていいんですか?」

 

 意外そうに真理子は目を開いた。

 

「他にやることがあるなら、もちろんその必要はないけど」

「いえ、今は毎日とても暇ですよ、ご存知の通り」

 

 あっけらかんとそう言った後、少し楽しそうに真理子は微笑んだ。

 

「それに私、初めて観る人と一緒に映画を観るの、好きなんです。新鮮な感じがするから。どんなジャンルがいいの?」

「そうだね……ミステリーはある?」

「ミステリーのおすすめ──あ、クリスティの検察側の証人って知ってます? それの映画版があるんですが」

「じゃあ、それで」

 

 ベッドから身を起こした状態で、真理子が淹れてきた生姜紅茶を飲みながら映画鑑賞するのは、悪くない時間だった。一度見たことがあるという言葉通り、真理子は映画の内容よりも吾郎の反応の方を気にしているようで、腰かけた椅子から時々こちらを振り返ってきた。

 

「ねえ、吾郎くんは、どうして政界に興味があるんですか?」

 

 唐突な言葉に、テレビの中の法廷劇を目で追いながら、返事をする。

 

「ああ、やっぱり気になる? 昔からの夢だったんだ。自分みたいに苦労する子どもがこれ以上できないように、社会を変えるのが」

 

 本音を言う気はさらさらなかった。この答えで満足しないのなら、同情を誘う苦労話を並べ立て、煙に巻くつもりだ。

 

「……そうですか。もっと個人的な理由があるように思えたんだけど、私の勘違いだったのかも」

 

 言葉とは裏腹に、探るような視線はそのままだ。

 本当に、初めて会った時の彼女に戻っているのだなと実感する。

 

「僕からも、質問一ついい?」

 

 毒にも薬にもならない会話をするつもりだったが、やはり、真理子の変わりようが気になってしまう。好奇心に抵抗できないのは、熱のせいで気が変に大きくなっているせいだと自分に言い訳する。

 

「なんです、改まって」

「君って別人みたいになる時があるよね。ついこの間まで一緒にいた君は、口調も考え方も雰囲気も全然違う、子どもみたいだった」

 

 何らかのリアクションがくるものと予想していたが、真理子は顔色ひとつ変えない。ただ、少し困ったなというふうに口元に微苦笑を浮かべた。

 

「……まあ、さすがに気になりますよね。あの子のこと」

 

 あの子──とは、普通に考えれば、あの子どもっぽい性格のことか。

 

「自分でも不思議なんですが、物心ついた時から、あの子が浮かんで私のことを見ている時があるんです」

「それは、今も?」

 

 真理子は天井を見上げて確認すると、頷いた。

 

「そうですね。今はあの部屋の隅から、私たちの頭を見ている感じです」

「へえ……彼女は、君と同じ見た目なの?」

「いえ、私よりだいぶ幼い女の子ですね。まだ六、七歳くらいに見えます。顔は私の子どもの頃にそっくりだったんですけど、そういえば……」

 

 両手の人差し指を立てると、真理子は自分のヘーゼルの双眸を指差した。

 

「ここ最近のあの子は、どうしてか、金色の瞳をしてます」

「金色?」

「ええ。人ならざる色彩の、黄金の瞳……こうして言葉にすると、ちょっと不気味だけど。そして、彼女は時々私の中に入って、勝手に動くんです。すでにご存知かと思いますが」

 

 言っていることが多重人格そのものだ。しかも、物心ついた時から病識があるという。

 

「それって、君は困るんじゃない?」

「うーん、大抵の場合は、一人きりの時に彼女は来るので、困ったことはない……というより、なかったというほうが正しいでしょうか。今回のように、気がついたら一年も経っていて、足に怪我まで負っていたのはさすがに困りものですね」

 

 そう言っているわりに真理子の口ぶりは淡々としていて、とても苦悩しているようには聞こえない。

 

 あごに手を当て、考える。

 おかしな点が一つある。今の話から考えるに、失踪して足を壊した期間の記憶はこちらの真理子にもないということになる。まだ他にも人格があるのか、ただ単にトラウマが強すぎて忘れたのか……。可能性はいろいろ考えられた。

 

「君の意識は、金色の目の彼女が動いている間、どこにいるの?」

「私は寝て、夢を見ている感じ……ですね。だからそれこそ夢の内容を忘れてしまうみたいに、何があったとか、ぼんやりとしか思い出せないんです。あなたがうちに引き取られてきたこと、私がリハビリしていたこと、そういう出来事があったことをぼんやり覚えていても、具体的な記憶は、あんまりないんです」

 

 本当に、ずいぶん難儀な状況のようだ。

 

「ああ、でも起きる時は別です。あなたにフラれたショックで彼女が逃げた時、あの時のことは、ちゃんと覚えています」

 

 はっきりと言われると流石に気まずい。

 吾郎の口角が引き攣ったのを見て、真理子は長いまつ毛を伏せた。

 

「あの時は冷たい態度を取ってしまって、ごめんなさい。目が覚める時は、寝ぼけているからか、あの子の気分に引きずられることが多くて。あの後謝ろうと思ったのですが、私が寝ている間、あの子がとても迷惑をかけたみたいで。こんなこと今までなかったから、恥ずかしくて、なんて話せばいいかわからなかったんです」

 

 真理子は、本気で謝っているらしい。

 まったく、どうかしてる。精神的に不安定な時に利用してやろうと近づいてきた相手に謝るなんて。知らず、苛立ったため息を吾郎は吐き出していた。

 

「バカじゃないのか。どう考えても悪いのは君じゃないだろ」

「え……? あの子のことはよく知らないけど。リハビリなんて辛いこと、彼女が進んでやるわけないし。あなたが連れて行ってくれたのでしょう? それに、あの子の面倒を見るために学校も行けなかったみたいですし」

「君のお父さんに頼まれていたからね」

 

 別に善意でやったことじゃない。

 

「それも含めて、うちの家の問題を押し付けてしまったようなものですから」

 

物憂げに息をついた後、真理子はしっかりと目を合わせてきた。波うつ黒髪がさらりと頬にかかる。

 

「吾郎くんは、ずっとここにいるつもりなんですか。もうお気づきかと思いますが、うちはかなり特殊な状況にあります。まだ取り返しのつくうちに、岡倉さんのところに戻ったほうがいいんじゃないですか。父が邪魔をするなら、私もできる限り協力します」

 

 岡倉のところに戻る? 冗談じゃない。

 

「お気遣い無用だよ。僕はここにいたくているんだから」

 

 どちらにせよ、真理子が何かしたところで変わるとは思えない。

 この家の力関係はもう把握していた。啓次が自分を息子の代わりにすると決めた以上、真理子がよほどのこと──たとえば自分たちが付き合っていたことでも告げ口しない限り、それがひっくり返ることはない。可哀想だから元のところに帰してあげてなんて言ったくらいでは、啓次は聞かないだろう。

 

 まだ何か言い募ろうとする真理子が何か言う前に、吾郎は口火をきる。

 

「……ねえ、君は、どうして啓次さんの前だと子どもの方の人格のふりをするの?」

 

 真理子はすっと表情を消した。

 

「どういう意味?」

 

 子どもの人格の真理子と、彼女のフリをする目の前の真理子の見分けくらい、吾郎にはつく。そして自分の見立てだと、あの日の交代を皮切りに、子どもの人格の真理子は一度も表に出てきていないはずだ。

 

 だが、それよりも決定的なことを真理子は口にしていた。

 

「君は交代しているとき、記憶の共有はうまくできないって言っていた。だけど音楽室で啓次さんがしていたおかしな発言は、しっかり記憶している。だとしたら、あの時僕たちを音楽室に誘ってピアノを弾いていたのは、君の方だよね?」

「……語るに堕ちるとはこのことですね」

 

 真理子は苦笑した後に、視線を落とした。

 

「わからないんです。自分でもなぜかわからないけど、父の顔を見ると、あの子のふりをしてしまう」

 

 言って窓の外に目を向けると、彼女は遠くを見た。

 

「目を覚ましてから、なにも分からないんです。どうしてママとお兄ちゃんは私を置いていなくなってしまったのか、どうして私は怪我を負ったのか、なにも……」

 

 ひどく寂しい声でそう言い募る真理子が、返事を求めているようには思えなかった。

 

 やがて、真理子は視線をテレビに戻した。

 会話が白熱している間に、映画はすでにエンドロールになっていた。

 

「あ……映画、終わっちゃいましたね、最後のどんでん返しが面白かったのに」と真理子は肩を落とした。

 

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