「じゃあ真理子、今日は吾郎も遅いから一人で留守番になるけど、大丈夫かな?」
「うんっ。パパ、いってらっしゃーい!」
元気にぶんぶんと手を振って父を見送ったあと、真理子は玄関の扉を閉じる。
「ハァ……」
そして、体の底から出るような深い息を吐いた。
いったい私はなにをしているのだろう? とうんざりする。
吾郎に指摘された通りだ。父の顔を見ると、どうしても「あの子」のフリをしてしまう。
小さくて感情的なあの子と直接会話はできないけれど、彼女のことを口真似くらいはできるくらいには知っていた。ぼやけた夢の中で、彼女がどうしているか、断片的にだけれど見ることはできるのだ。
でも、だからといってあの子のフリをするなんて、今まで一度もしたことがなかった。そんなことをする意味がないし、子どもっぽいあの子のことは嫌いだ。彼女のようになりたいと考えたことはない。
でも目を覚ましてから、啓次の顔を見るとどうしてもそうしてしまう。足だって本当はもっと動くのに、わざとたまに転んで見せたり。よく分からないけど、そうしている方がいいのだと、そうしなければいけないのだと、強迫観念に突き動かされていた。
吾郎のことも、とても気がかりだった。
いったいどういう経緯でうちに来ることになったのか分からない。でもたぶん、すべて父が決めたことなのだろう。
もし父が、彼のことを兄の代わりにしようとしているのなら。そして、もし最近は姿を見せないあのバケモノがまた出てきてしまったら。そう考えると、血が凍るような思いになる。
でも、自分にできることはない。吾郎はもうここにいると固く決めているようだった。
理解できない心情だ。明らかにこの家はおかしいのに。父の言うことを全て聞いて、あの子の面倒を全て見て。なにが彼にそこまでさせるのかまるで分からなかった。
あの子と入れ替わって目を覚ました日からずっと、真理子は悩み通しだった。
なにより心をざわつかせるのは、兄や母との別れが思い出せないこと。
離婚して、二人が出ていったという事実は知っている。だけど、その時の情景も感情もなにも浮かばない。真理子の代わりにきっとあの子がお別れを済ませたのだろうと、最初はそう思っていた。でもそうだとしても、二人から一度も連絡がないのは不自然だ。そもそも真理子を置いて兄がどこかに行ってしまうなんて、その事自体が信じられない。
結局のところ、事の全容が分かるには、あの子の記憶を掘り起こすしかないのだ。
でも、どうすればいいか分からなかった。あの子との入れ替わり現象のことを、こんなに深く考えたことは今まで一度もなかった。
他の子と自分は違うらしいと気づいた小学生の時、不安になって真理子は自分の症状について調べたことがある。
魂が空中浮遊して、全てに薄いカーテンがかかったみたいに現実感のなくなる不思議な状態。酷くなると、体の主導権をあの子に奪われる。こういうのを離人感・現実感消失症と呼ぶのだと、図書館の本で知った。しかし、そのことを相談した母は、誰にでもよくあることだから気にしなくていいと言った。
そんなわけないと気づいていたが、あの子が出てくるのは一過性のことだったし、誰に迷惑をかけるわけでもない。それならそれでいいと、ずっとこの問題を放っておいていた。
今になって、そのことを強烈に後悔しはじめていた。
家族のこと、吾郎のこと、自分の足のこと。
すべてが間違っていて、すべてがおかしい。だというのに、肝心の自分の記憶すら当てにならない。
この状況を打破するために記憶を掘り起こそうと、何度もした。でもその度に、おかしな感覚に襲われて叫び出しそうになる。父や吾郎の前でみっともない姿を見せたくはないと、いつも諦めていた。
だから、今日こそはと決めていた。
父は仕事で夕方まで帰ってこないし、吾郎も最近通い始めた予備校で家にいない。もしおかしくなっても、誰に見られることはない。
今日こそ、自分はなにがあったのか思い出さなければいけないのだ。
「お兄ちゃん、ママ……」
リビングのソファに体育座りして、頭を抱え込んで考えこむ
私は、いつ二人と別れた?
その日、なにを着て、なにをして、どこにいた?
疑問が浮かぶたび、またあの奇妙な現象が起きる。
家中が音を立てて軋み始め、今にもペシャンコになって潰れそうになる。
周囲の空気が圧縮されて、どんどん世界が小さくなっていく。上から見る真理子の身体は、完全に自分のコントロールから離れていた。
口から、痛ましい叫び声が上がった。
怖くなって、いつもならここで考えるのをやめてしまうのだ。
でも、勇気を振り絞って、まだ考え続ける。
お兄ちゃんは、ママは、どこへ行ったの? どうして私は足を壊したの? どうして、あんなに長くあの子に体を渡してしまったの?
視界がひしゃげる。耳鳴りが酷く、痛みさえ感じる。真理子の身体は勝手に頭を床に叩きつけている。
もう止めないとダメだと思ったその時──バンと大きな音が鳴り響いた。
すると、空気の捩れも耳鳴りも頭痛も、すべて掻き消えた。
「なに……?」
何度も、何度も、執拗に手を壁に打ち付けるような音がする。
地下室へ通じる、階段下の扉の方からだ。
気がつけばあの子は傍からいなくなっていた。視界は、両目から見えるものに戻っている。
痛む頭を抑えながら、ふらふらと真理子は立ち上がった。
「だ、誰がいるの?」
バンバンと音を立てて軋む扉を、おそるおそる押し開ける。
その瞬間、しんと辺りは静まり返る。向こう側には誰もいない。地下室へと続く階段があるだけだ。
今のがなんだったのか、確かめなければいけない。
魅入られたように、真理子は階段に足をかけた。
「うっ……!」
息を吸って、顔をしかめずにはいられなかった。
こもった寒い空気からは、花の香りとカビ臭さが混ざったようなおかしな匂いがする。そのうえ古びた階段には蜘蛛の巣がかかっていて、酷い有様だ。誰も清掃していないのかもしれない。そういえば、誰かがここに立ち入っているのを、真理子は一度も見たことがない。
ギシ、ギシ……と音を立てて、木の階段を降りていく。一歩一歩踏み出す度に、足場が抜けて転落するんじゃないかとヒヤヒヤしながら、真理子は慎重に足を下ろした。
そのうち、拳を叩きつけるような音が、今度は階段の下から響いてきた。
「誰かいるなら、返事をしてください!」
返事の代わりに、狂ったように叩きつける音が返ってきた。
誰かが閉じ込められて、出られなくなっているのだろうか?
真理子は急いで下まで降りると、壁を手で触りながらスイッチを苦労して探し当てた。
光がつき、ようやく辺りが見えるようになる。広々とした地下室はがらんどうで、防災グッズや使わなくなった家具さえ置いていない。
じゃあこの音はどこからと音の出る方を視線で辿って──コンクリートの柱の後ろに、木箱を見つけた。
音の出どころはその大きな箱で間違いない。
不思議と、恐怖は感じていなかった。導かれるように、真理子は木箱に近づいていく。蓋を持ち上げようとすると南京錠が引っかかって、ガチャガチャと音を立てた。
鍵は、誰が仕掛けたのだろう?
しばらく考えて、四桁の番号を「1115」に合わせる。当てずっぽうで入れた母の誕生日だったが、当たりだったらしい。南京錠はあっさりと開いた。
これだけ激しく叩いているのだから、中にいるなにかが自分で開けて出てくるんじゃないか。そう思って待ってみたが、南京錠がガシャンと音を立てて床に落ちると同時に、箱を打ち叩く音も止んだ。
……多分、誰か中になんていないのだ。
幻聴だったのかと薄ら寒くなる。これじゃあ、まるで演劇の中の狂人のようだ。自分の聴覚が頼りにならないのが、こんなに恐ろしいことだとは知らなかった。
でも、今指で触れているこの箱──これは本物のはずだ。
真理子は思い切って、箱の蓋を開いた。
ぶわりと、中で溜まっていた空気が流れ出す。
「ゴホッ、ぐっ……!」
あまりに埃っぽくて、目を開けていられない。激しく咳き込んだ後、目尻の涙を拭きながら、中を覗き込んだ。
そして、すっぽりと箱に収まった”モノ”を注視して、それが何か理解して、
「ッ……!」
声のない悲鳴をあげ、後ずさった。
中に入っていたのは──白骨化した子どもの体だった。
その骨が身につける乾き切った血のこべりついた服に、見覚えがあった。それだけじゃない。何通も散らばっている可愛らしい便箋、その隣の乾燥した花を巻く包装紙……一緒に入っている鞄も、誰のものかよく知っている。
便箋に書かれた文字を読んで、真理子は疑問を確信に変えた。
『お兄ちゃんへ、
帰ってきたら、お兄ちゃんが入院したと聞いて急いで手紙を書いています。あいさつすらできず、ごめんなさい。
すぐに会いにいこうと思ったのですが、病室へ面会することはできないとママに言われてしまいました。でも、私はいつもお兄ちゃんのことを思っているから。
ダイヤモンドリリーの花言葉は、また会う日を楽しみにというそうです。
真理子』
あれは去年の夏、公演から帰ってきた日に書いたものだ。
兄が入院することになって、しかも面会はできないと言われて、真理子はせめて手紙と花だけでも渡したいと母に言った。でも母は泣き腫らしていて、それは無理だと言うばかり。
「大丈夫、僕がちゃんと渡すよ」
そう言って手紙を受け取ったのは、啓次だった。
それから何ヶ月もの間、兄の容体のことを聞いても言葉を濁され、病院に会いに行きたいと言ってもダメだと固辞された。できることは、手紙と花を渡すことだけ。吾郎と初めて会ったのもその頃だ。
おかしいと、本当はずっと思っていた。
手紙を受け取るのはいつも啓次で、その啓次は毎日のように地下室へと降りて行った。
でも最悪の可能性を考えることが嫌で、真理子は目を背けた。そのうちまた兄に会えると、そう思って、何通も何通も手紙を書き続けた。
その手紙も花も全てこの箱の中にある──兄の亡骸とともに。
答えはつながった。いや、真理子は本当はとっくに気づいていたのかもしれない。真実を知っていた深層心理が、幻聴という形で真理子をここへ向かわせた。
もうとっくに、兄は死んでいたのだ。
きっと真理子が音楽室に逃げてピアノを弾いている間に大怪我をして、それがもう手遅れなほどに悪化して、そして……啓次は、兄の亡骸をここに隠した。
足元が抜け落ちるような絶望感に、真理子は崩れ落ちた。
「お兄ちゃん、嫌だよ。真理子を置いて行かないで。お願い」
箱に縋りついて、目を閉じる。
頭に石を詰めたみたいに重くて、なにも考えられない。地下室のコンクリートの床に足がへばりついてしまったように体が動かない。
でもそれでいいと思った。
このまま……ずっとこのまま兄のそばにいたかった。
ガチャ、と扉の開く音が上から聞こえてきた。
誰か帰ってきたのかもしれないし、これも幻聴かもしれない。どちらにせよ、声を出す気力も、立ち上がる気力もなかった。真理子はぐったりと箱にもたれかかっていた。
「真理子、帰ったよ」
父の声だ。このままここにいてはまずいと、どこか遠くにいる自分がぼんやりとそう思ったけれど、何もかもが
すべては曇った灰色で、現実感がない。
目をつむり、時間がただ流れていくのを待つ。
「真理子……?」
ぎしぎしと階段の鳴る音。ゆっくりと近づいてくる足音。すべてが遠い。
「──真理子!」
肩をガッと掴まれた時、急に世界が色彩を取り戻したみたいに、意識が引き戻される。
そこには、地獄の悪鬼のような顔をした父──いや、バケモノが立っていた。
普段の温厚な表情とはまるで逆の、でも真理子にとってはよく見覚えのある顔だった。
「ここに入るなと言っていたのに。どうして……どうしてお前は俺を苦しめる事がばかりするんだっっ!!」
涙を流しながら、啓次は慟哭した。
「パパ──」
何か言おうと口を開いたところを殴りつけられ、真理子の体は横に吹っ飛ばされた。そのはずみに舌が切れて、口の中に鉄の匂いが充満する。
焼けつくように頬が痛かった。長らく忘れていた、でも慣れている感触。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
反射的にそう叫びながら、後ずさって逃げようとする。でもすぐに追いつかれて、啓次が馬乗りになってきて、髪を掴まれる。
「こんなに俺は、お前のために頑張っているのにッ!」
啓次の目は、憎悪か悲嘆かわからないなにかのせいで涙ぐんでいた。すごく可哀想な、悲痛な顔をして、真理子の細い首に万力のような力を込める。
痛い、苦しい、離して。どれも口にする事ができないまま、視界が白くなっていく。条件反射のようにもがいているが、抵抗は無意味だと知っていた。
ここで死ぬんだ、とどこか冷静に考えた。それも当然の結末な気がした。
お兄ちゃんを見捨てた真理子、それを忘れて楽になろうとした真理子、どこまでも逃げ腰で弱い真理子。死んじゃえばいい。それが一番楽なんだ。
そう、あの子が頭の中で語りかけてくる。
意識を手放そうとしたその時、首にかかっていた力から解放された。
「──自分の娘を殺すつもりですか、啓次さん」
いつの間にか降りてきていた吾郎が、後ろから啓次の腕を捻り上げていた。聞いたこともない辛辣さを含んだ声だった。
父は、吾郎を迎えに行って一緒に帰ってきたのかもしれない。ゲホゲホと咳き込みながら、どこか遠いところでそう思った。
「吾郎くん……!」
安堵が身体中を駆け巡った。もしいま腰を抜かしていなければ、走り寄って吾郎に抱きついていたかもしれない。
吾郎はちらりと真理子に目を向けた後、状況を把握しようとしてか、地下室の中を見渡した。そして、古びた箱とその中身を見つけると、目を見開いた。
「あれは──」
その瞬間、吾郎は父に殴り倒されていた。
「ぐっ……!」
起きあがろうとしたところを、強かに腹に蹴りを入れられて、吾郎は激しく咳き込んだ。
真理子は呆然とそれを見ていた。
心のどこかで、彼が今すぐ立ち上がって、バケモノのように暴れる父を抑えられるのではないかと思っていた。
しかし、二発、三発と吾郎が踏みつけられ、髪を掴んで引きずられたところで、それがどれだけ浅はかな妄想か気がついた。吾郎は子どもで、背だって真理子より小さい。
子どもが、大人に勝てるわけがないのだ。
──このままじゃ吾郎は殺される、と思った。
目を背けていた兄の死を目の当たりにして、啓次のタカは完全に外れたのだろう。吾郎の体をひたすらに殴りつける顔には、生々しい残虐性だけがあって止まる気配はない。
これはパパじゃない。お兄ちゃんを殺したのと同じ、あのバケモノになってしまったのだ。
真理子は震える手で、啓次の腕を掴んだ。
「パ、パパ……ごめんなさい。謝るから、もうやめて」
でも、すぐに振り払われる。
「真理子、お前は音楽室に行ってろ」
音楽室──こうなったら、真理子が行くべきところ。この家で唯一鍵がかかる、安全な場所。
バケモノが出たらもう誰もなにもできないから、せめて真理子だけは逃げなければいけない。真理子は一番大切な子だから。この世界でいっとう特別な子だから。
お兄ちゃんは大丈夫。男の子だから、強いから、真理子とママを守ってくれる。
そうして、お兄ちゃんは死んだ。このままじゃ、吾郎くんも……。
どうすればいいか分からず、真理子はその場で立ち尽くした。
啓次はこちらに目もくれない。顔を真っ赤に染め上げ、口の端から唾を飛ばして訳のわからないことを叫びながら、腕にありったけの力を込めて吾郎を殴っている。
骨まで響くような暴力の音が部屋中に響いていた。
けれど吾郎は、泣き声ひとつ上げなかった。時折、呻き声を上げながらも、静かに何かを待つような瞳で啓次を見ていた。
そこにあるのは悲しみでも諦めでもなく、冷静な計算だった。
兄と同じ──理不尽な暴力に慣れている顔だ。
それは、どんな恐ろしいことにも、いつか終わりがくることを知っている子どもの顔だった。相手がたとえ化け物のような人間だろうと、その怒りにも体力にもいつか限界がくるのだと知っている子どもの顔だった。泣いて謝っても、どうにもならない残虐な人間がいることを知っている子どもの顔だった。
すべて経験から知っているから、だから冷ややかに相手を見て、ただひたすら終わりが来るのを待っている。
殴られすぎて、吾郎は口の端から血を流しはじめていた。汚い床に押しつけられて、頬には汚れがついている。
心のどこかで吾郎に抱き続けていた、甘い理想が解けていく。
多分彼は、私なんかよりもずっとずっと酷い人生を歩んできたのだろう。
そう考えた瞬間、吾郎と目が合った。血みたいに深く赤い目には、助けを期待するような懇願も、真理子を責めるような色もない。
その悲しいほどに何の感情もない瞳を見て、心の奥のところまで見透かされたような気になって……。
──気がついた時には、真理子は階段へ向かって走り出していた。
なにをしている? このままじゃ、吾郎は死んだっておかしくないのに。
そう叫ぶ心をいっさい無視して、行動を完全にプログラムされた機械のように、身体は動き続ける。
階段を登って、登って、音楽室に入る。
内鍵をしっかりと閉めて、扉を背に座り込むと、顔を膝に埋める。
バケモノがいなくなるまで。また優しい父が戻ってくるまで。
兄を犠牲にして、真理子はいつも逃げていた。そうするのが正しいのだと、両親は言った。その兄がいなくなっても、真理子はまた同じことをしている。
動かないと、何かしないと。
真理子を助けてくれたのに、守ろうとしてくれたのに──初めて、好きになった男の子なのに。
そう思っても、いつもと同じ。真理子は音楽室に隠れて、なにもできず、うずくまって震えているだけだった。
……そうして、どれだけ経っただろうか。いつの間にか、世が明けていたらしい。
窓から朝日が差し込んできている。物音はずっと前に止んでいた。
車のエンジンがかかる音を聞いて、真理子は瞬きした。
吾郎は既に殺されたのかもしれないと、恐ろしいほど無感動にそう考えた。
濃霧がかかったように頭が働かなかった。ふらふらと立ち上がり、窓に近づく。
見慣れた黒色のセダンが、赤レンガの道に止まっていた。
はちみつ色の髪の少年が車の助手席に乗り込むのを見て、心臓が跳ねた。
「生きてる……!」
身体中に、血のめぐりが戻ってきたみたいだった。
ピアノの上に置きっぱなしだったケータイが光る。
啓次から、メッセージが何件も入っていた。
『謝って済む問題じゃないけれど、昨日は本当にすまなかった。どうかしていた』
謝罪と許しを乞う混乱した文章が長々と続き、そして最後に、
『僕に保護者の資格はない。吾郎くんは岡倉さんのところに返すことにした』
嫌だ、吾郎くんを連れて行かないで、そう電話をかけようとした手を止める。
こんな家にいたら、いずれ殺されるに決まっている。吾郎は真理子のことを助けてくれたけれど、真理子は彼を置いて平気で逃げた。兄を見捨てたのと同じように。
吾郎は元の居場所に戻るべきだ。ずっとそう思ってきたはずだ。
じゃあ、私は? 私はどうしよう。警察にお兄ちゃんのことを言う? 誰かに助けを求める?
ちゃんと取り合ってもらえるだろうか。ただ啓次を怒らせるだけかもしれない。それに、兄を見殺しにした自分だけ逃げようだなんて、あまりに都合のいい話に思えた。
呆然としているうちにエンジンがかかり、外の車が走り去っていく。
──もうこれで吾郎とはお別れなのだろうか?
謝りたかった。もう二度と会えないとしても、卑怯者と怒られたとしても、最後に吾郎の顔が見たかった。
ふと、吾郎の荷物はどうしたのだろうと考えた。誰かが階段を上がってきた音はしなかった。ケータイや財布や着替えがなかったら、困るに決まっている。
吾郎の部屋を覗くと、思った通り、すべて置きっぱなしだ。
最後に彼と会う口実を見つけて、真理子はほっと息をついた。
ボストンバッグにできるだけ吾郎の持ち物を詰めて、真理子は家を出た。
岡倉の家に着くまで、電車で二時間。今まで一人で移動した距離としては最長だ。移動しながら、吾郎の荷物を届けに行くと啓次に留守電を入れた。
岡倉の運営する「慈愛の翼」は、家出中の子どもをサポートするボランティア団体だ。
その活動は多岐に渡り、子どもたちの相談窓口の他に、岡倉家は引き取り手のいない子どもたちの里親もしている。たとえば養護施設で事件を起こした問題児、あるいは心的外傷の大きい虐待歴のある子ども、そういう子を積極的に迎えているという。すべての子どもたちにとっての最終防衛ライン──誰でも包み込む慈愛の翼を作りたいのだと岡倉は話していた。
その岡倉が引き取ったのだから、吾郎にもそれなりの事情があるのだろう。
今までの真理子は、あまりそのことを深く考えたことはなかった。彼はキラキラ輝く完璧な王子様なのだから、と。しかし昨日垣間見た吾郎の一面を思うと、ここに入れられるまで彼の人生は壮絶だったに違いないと、もう今は理解していた。
「ここが、吾郎くんが住んでいたところ……」
住宅街に立つ四階建ての大きな洋館。来るのは初めてだが、ここが慈愛の翼の事務所の所在地であり、岡倉家の生活する家でもあると啓次から聞いていた。元々それなりの見た目の建物だったのかもしれないが、白い塗装がところどころ禿げていて、老朽を感じさせる。柵も錆びていて、手入れを怠っていることは明らかだった。
意を決してインターフォンを鳴らす。数拍置いて、すぐに男性の声が返ってきた。
「はい、どちら様でしょうか?」
「こんにちは、私、明智啓次の娘の明智真理子です。ここに今日帰ってきた……」
岡倉吾郎くんと言いかけてから、それは元々の名字じゃないことに気づいた。真理子は吾郎のことを本当に全然知らないのだ。
「吾郎くんの荷物を届けにきました」
「ああ、真理子ちゃんか。わざわざありがとう。今、迎えにいくからね」
しばらくして、柔和な笑みを浮かべた岡倉が迎えにきてくれた。
中に案内されながら、今日の朝、父が吾郎を送りに来て驚いたという旨の話をされた。『うまく家族になじめなかったから』という理由を、父は話していたらしい。
「啓次さんも仕事が忙しいみたいだし、色々あるみたいだね。それにしても真理子ちゃんはリハビリがうまくいっているみたいで安心したよ、本当によかった」
「ありがとうございます。吾郎くんがずいぶん助けてくれたんです」
「ああ、そうなんじゃないかと思ったよ」
あれだけのことがありながら、穏やかに岡倉と談笑できる自分がおかしかった。
でも思えば、いつもそうだった。真理子だけじゃなく、兄も母も。啓次の暴力に晒されながら、人前では常に取り繕うことができてしまう。それこそ、喉元を過ぎれば熱さを忘れるように……。もし真理子がもっと異常を周囲に知らせることができていたら、兄は死なないで済んだだろうか?
「人手不足でね。あんまりおかまいできないけど、ここで待っていてね。ここに吾郎くんを呼んでくるから。三階までは慈愛の翼の施設でね、僕たち家族が暮らしているのは一番上の階なんだ」
そう言って、一階の待合室らしき部屋に通された。広々とした部屋の中は几帳面に手入れされていて、外観よりずっと綺麗だった。クリーム色の漆喰の壁には、今月のイベントなどを知らせる案内や子どもたちの権利を守ろう啓発するポスターが貼られていた。
この辺りは、東京といえど郊外だからだろう。大きな窓から見える風景には緑や田んぼが混じり、のどかで牧歌的だ。
ビニールのソファに一人で腰かけて待っていると、五、六歳の小さな男の子が入ってきた。バランス感覚がまだないのか、両手いっぱいに抱えたおもちゃ箱のせいか、とてとて転びそうになりながら歩いてきている。
真理子にまだ気づいていないようだ。先に声をかけておかないとびっくりさせてしまうかもしれない。
「こんにちは」と微笑んで声をかける。
箱の中のものをひとつひとつ床に広げていた男の子は、びくりと肩を揺らしておそるおそる顔をあげる。けれど真理子の顔を見たらすぐに笑って、かけよってきた。
「お姉ちゃん、お人形さんみたい!」
「そう? ありがとう。私、真理子っていうの。あなたは?」
お姉さんぶって聞くと、男の子は「おもちゃ屋さん!」と元気よく答えた。
「そうなの。おもちゃ屋さんは、なにを売ってるのかな?」
箱のなかから折り紙のチューリップを取ると、真理子の手のひらに乗せてくれる。
「まあ素敵。おいくらでしょうか?」
「あげるっ」
ニコニコ笑う姿が可愛くて、手を伸ばして頭を撫でてしまう。
「おもちゃ屋さん、ありがとうね」
男の子が気持ちよさそうに目を細めたところで、岡倉が戻ってきた。その後ろには、部屋着らしい灰色のスウェットを着た吾郎の姿もある。
吾郎の左頬には、大きなガーゼが被さっていた。右腕にも包帯が巻かれている。きっと、ここで処置されたのだろう。
これだけの怪我を負った吾郎が帰ってきて、岡倉は不審に思わなかったのだろうか?
そう思って岡倉の顔を伺っても、いつも通りの温和な笑みを浮かべているばかりだ。
「真理子ちゃん、お待たせ」
岡倉はそう言ってから、床に広げられたおもちゃを見て少し苦笑した。
「健司、ここで遊んじゃいけないよ」
一言注意されただけで、びくりと肩を揺らして、男の子はあっという間に走り去ってしまう。
岡倉は困ったものだとばかりに眉を下げて、
「真理子ちゃん、健司と一緒に遊んでくれたんだね。ありがとう。あの子は来たばかりだからけっこう人見知りなんだけど、真理子ちゃんにはすぐ懐いたみたいだね」
「自分が子どもっぽいからかもですけど、昔から子どもとはすぐ仲良くなれるんです」
「はは、十三歳なんだから、真理子ちゃんだってまだまだ子どもだよ。さ、二人で話したいこともあるだろうし、僕は席を外すね」
岡倉が立ち去ると、二人きりになってしまった。
対面のソファに、吾郎が腰かける。
目に見えて酷い傷はなくてほっとしたが、すぐに、ほとんど身体の隠れる部分を殴られていたことを思い出す。
吾郎は冷めた顔でこちらを見た。
その途端に、なんと言えばいいのかわからなくなってしまう。
あなたを置いて逃げてしまってごめんなさい? 助けてくれてありがとう?
どれも空虚な言葉だ。今更ながらこんなところまで来た自分が酷く厚顔無恥な人間に思えて、真理子は視線を落とした。
結局、口火を切ったのは吾郎だった。
「荷物、届けにきてくれたんだって?」
そっけなく聞かれて、真理子は頷いた。
「そう、あの……岡倉さんのところに吾郎くんが戻ることになったって聞いて」
吾郎の顔色を伺うが、無表情のなかになんの感情も見つけることができなかった。
「慈愛の翼の施設、初めてきたけれど、素敵な場所ですよね。明るくて、窓が大きくて、子どもたちのために岡倉さんが頑張って管理しているのが伝わってくる」
だからきっとここにいる方があなたにとってもいいのだろう──そう続けようとした言葉は、しかし、口から出ることはなかった。
ぐにゃりと、視界が歪んだ。
そう感じた刹那、景色が一変した。周りのどこを見ても、毒々しい蛍光色だらけ。趣味の悪いテーマパークの中のような部屋に、真理子と吾郎はいた。
「……っ!!」
驚愕に、息を呑む。
鼻を通る空気は暖かく、匂いも甘いものに変わっている。本当に、何から何まで一瞬で様変わりしているのだ。
「な、なにこれ……」
四方を囲う、ピンクと青のストライプ状の壁。そこにくり抜かれたハートや星の形の窓。安っぽいプラスチックのおもちゃを、そのまま大きくしたみたいな質感の家具。すべてが悪い冗談みたいだった。
「ご、吾郎くん、ここ、どこか分かる?」
「分かるわけないだろ……」
お互いの顔を見合わせて、今起きていることが嘘じゃないと確認する。
目の前の吾郎も同じくらい動揺しているのを見て、かすかに安堵した。自分の正気が頼りにならないことを、昨日痛感させられたばかりだ。
今見えているものは、真理子の幻覚じゃないみたいだ。
だけど、いったいどうしてこんな場所に?
なにからなにまで理解不能だった。
「ピエロ……?」
吾郎が眉を顰めて、不快そうな声を出した。
吾郎は、二人の間にある机を見ていた。先ほどまでそこにあった木造りのものじゃなく、ショッキングピンクのキノコのおもちゃみたいなデスクだ。
その表面にプリントされているのは、どこかの店のロゴのように見えるデザインのピエロのイラスト。
ニンマリと口を引き攣らせて笑うピエロの顔の下に、手のようなものが描かれている。いわゆるトリックアートみたいに、それは天使の両翼のようにも、白い手袋をつけた両手のようにも見えた。そして、その白い手のひらが作る円の中にあるのは、壊れかけのおもちゃのロボット。
一体この悪趣味な絵はなんなのだろうと浮かぶ疑問に答えるように、赤い口紅に塗られたピエロの口から”My Little Toy Shop”というセリフの吹き出しが出ていた。
なんてことはない、ただのピエロのイラスト──そのはずだ。
でも底知れない悪意のようなものをその絵から感じて、真理子は身震いした。