ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第十五話 青い蝶

「真理子ちゃんは、本当に吾郎くんと仲がいいんだね。このまま離れ離れなんて、やっぱり酷い話だ。どうにかできないか、啓次さんに今度話してみるよ」

 

 暗い顔の真理子を見て、慰めるような声を岡倉はかけた。

 

「はい……」と、真理子は曖昧な笑みを返す。

 

 正直、混乱していた。どうしても、この人畜無害そうな父の友達が、あの非道なピエロと同じ人間だとは思えないのだ。

 

 真相を知るには今隣を歩く吾郎に聞くしかないのだけれど、あいにく、しばらくは二人きりになれそうにもなかった。あちらの世界にいた間にしっかり時間は経っていたみたいで、腕時計を見ればもう四時。このまま三人でお茶を飲んだら、その後は家に帰るように勧められるに決まっている。

 

 家に帰る……。

 そのことを考えると、体が重くなって沈んでいくような倦怠感が押し寄せてくる。父──啓次に対して、どう感じればいいのか、自分でも分からなかった。

 

 あのおもちゃ屋で真理子が目の当たりにしたおぞましいことを教えれば、啓次はきっと激怒して岡倉を止めようとすると思う。中学校長として働いている啓次は、いつも生徒のことを大切に思っていた。子どもを売り物にするような行為を許すはずがない。

 でも、取り返しがつかないまでに兄のことを酷く傷つけたあの悪鬼も、父の中にいて。

 父に頼って縋りたい気持ちと、父を恐ろしく思う心が、境目が分からなくなるほど激しくせめぎ合って、頭がクラクラした。

 

 心ここに在らずで岡倉のあとをついて歩いていたその時、真理子はハッと息をのんだ。

 

 廊下の先にある、施設のエレベーター。

 そこに乗っているのは背の高い中年の男性と、真理子と同い年くらいの少女。

 

 デジャヴを感じて、真理子は二人を交互に見た。

 神経質そうなシワがれた顔の男と、うつむくショートカットの女の子──吐き気がするくらい、おもちゃ屋にいた子どものお客さんと人形に似ている。

 

 あそこで見たことは全て嘘偽りのない真実だったのだと、真理子は確信した。

 

 泣き笑いを浮かべるリナちゃん人形、ショーケースの前で喜ぶ客、利用者名簿、料金表……。

 その後の劇的な出来事で埋もれていた数々の記憶が、走馬灯のようにかけ巡る。それに伴って、あの時感じた激しい怒りが蘇る。

 気がつけば、真理子はエレベーターに向かって痛む足を引きずりながら走り出していた。

 

「真理子さん……!」

 

 鋭く制止する吾郎の声にも振り返らない。

 これからあの女の子が何をされるか知っていて、一秒だって放って置くわけにはいかない。

 

 閉まりかけていた扉に足を挟んで、無理やり開けさせた。

 突然開けられた扉に、中にいる男は動揺した顔をする。骨ばった中年男性の顔は、今度はちゃんと大人の身体についていて、そのことが更に嫌悪感を掻き立てた。

 

「そこのあなた、降りなさい!」

 

 あまりの怒りに、真理子の声も体も勝手に震えていた。こんなに激しく感情を露わにするのは、小さい『あの子』ならいざ知らず、真理子にとっては生まれて初めてのことだった。

 

「な、なんですか……?」

 

 ひどく困惑した様子で、男がエレベーターから降りてくる。

 真理子はその顔を睨みながら、まだエレベーターに乗ったまま呆然としている少女の腕を引いて降りさせると、背に庇った。

 

「ちょ、ちょっと真理子ちゃん、どうしたの?」

 

 後ろで焦った声を上げる岡倉に、氷のような冷たい目を真理子は向ける。

 

「──岡倉さん、この男性は誰ですか?」

 

 


 

 こんなところで岡倉と直接対決かよ、と吾郎は歯噛みした。

 

 里奈と見覚えのない男を目にした途端に、真理子は冷静さを失って走り出した。

 止める隙もないほどに、彼女は興奮しているようだった。あのおもちゃ屋で彼女が何を見たのか、おおよその予想がつく。

 だからといって今岡倉とやり合うのは、はっきり言って愚策もいいところだった。

 

「えっ、もしかして真理子ちゃんの知り合いなの?」

 

 とぼけてみせる岡倉に、真理子はもう一度静かな声で聞く。

 

「この人は誰かと聞いているんです」

 

 その真剣な声音に、もう事情が知られていると悟ったのだろう。岡倉は振り返って、吾郎に刺すような目を向けてきた。

 

「余計なことを言ったのか」と聞きたいのだろうが、知ったことか。何も言わず、岡倉を見る。

 

 もはや賽は投げられた。

 どうする? コイツだって、まさか真理子に手出しできるはずはないが……。

 

「ええっと、弱ったな。真理子ちゃん」

 

 まだ言い逃れするつもりでいるのだろう。岡倉は、落ち着いてと言いたげに両手を上げながら、宥め声で話し始めた。

 

「その人はボランティアで子どもたちのヘアカットをしてくれている美容師さんなんだ。あまり失礼な態度は取らないでほしいんだけど」

 

 茫然自失とした様子だった中年男性は、その言葉にこくこくと頷いた。

 そうすると、薄らいだ頭の髪が心許なく揺れて、特徴的なエラばった頬骨に落ちてくる。

 

 しかし、「ボランティアの美容師さん」とは、ずいぶんとお粗末な嘘だ。存外、岡倉も動揺しているらしい。

 

 同じことを思ったのか、真理子は「そうですか」と冷笑を浮かべて、ついと男に目を向けた。

 

「ねえ美容師さん、随分といいスーツを着てヘアカットをされるおつもりなのね。汚れてしまって、構わないんですか?」

「あ……」

 

 しまったとばかりに、男はバッと自分の格好を確認するために下を向いた。

 

「つまらない嘘はやめたら? ここの怪しい噂を聞きつけた警察がじきに介入するそうですよ。あなたも、困ったことになりますね」

 

 とんだハッタリだが、効果は覿面だった。男はサッと青ざめて後ずさる。

 

「う、うそだ……!」

「本当のことです。ここでできた、あなたのお友達にも教えてあげてください。もうすぐみんな逮捕されることになりそうだと」

 

 そこまで聞いてガタガタ震え始めた男は、踵を返して、半狂乱に叫びながら廊下を走って逃げていく。岡倉は、横を走り去る男を引き留めようとはしない。あららと言いたげな顔で静観するばかりだ。

 

 事態は、収集がつかなくなり始めていた。

 

「ちょっと、何の騒ぎ……」

「シッ、岡倉さんもいる」

 

 ひそひそ声が両隣の扉から聞こえてくる。騒ぎを聞きつけた子どもたちが、ちらほらとドアから顔を出して廊下の様子を伺っているのだ。

 

 真理子の後ろにいる里奈も、混乱した顔で助け舟を求めるように吾郎を見てくる。緊張して、耳が聞こえなくなっているのかもしれない。

 

「岡倉さん。あなたも自首すれば、少しは減刑してもらえるかもしれませんよ?」

 

 真理子の挑戦的な言葉に、岡倉はふうと呆れたような息をついた。

 

「困ったな、何を誤解しているのか分からないけれど。僕たちみたいな小さなボランティア団体はね、悪い嘘を広められてしまうとすっごく困るんだ」

 

 岡倉は余裕そうに肩をすくめて、真理子の方へ歩み寄っていく。

 

 有力な政治家一家の娘である真理子相手に、岡倉がどうこうできるはずがない。そう分かっていても、反射的に、吾郎は走って二人の間に割って入っていた。

 

「……岡倉さん、まさか力に訴えるつもりですか?」

 

 真理子と里奈を背後に庇った吾郎を見て、岡倉は意外そうに眉を跳ね上げた。反抗する意思なんて、もう吾郎には微塵も残されていないと思い上がっていたのかもしれない。

 が、すぐに瑣末なことだと言いたげに岡倉はふっと笑った。

 

「真理子ちゃん、もしかして、吾郎くんから何か聞いたのかな? いけないな、君みたいな影響力のある子が簡単に人の言うことを信じちゃ。言葉一つで、簡単に君は自分の立場も人の立場もめちゃくちゃに出来てしまうんだよ」

 

 まるで初めから吾郎の言うことなんて聞こえていないかのような態度は、おもちゃ屋の前で吾郎を捕まえたレゴ警官を彷彿とさせる。

 どこまでも、人を馬鹿にしやがって。

 そう吾郎が目を細めた時──ピンポーンと、のんきなチャイムの音が緊張しきった廊下に響いた。

 

 続けて、「ごめんください」という男性の声。啓次の声だった。

 

「いきなり訪問してすみません。娘のケータイに電話しても繋がらなくて。ここにいると連絡があったのですが、真理子は来ませんでしたか?」

 

 吾郎は、後ろを振り返った。怯えているんじゃないかと思った予想とは反対に、心配そうな父親の声を聞いて、真理子は顔を輝かせていた。

 

「パパ! 大変なことになっているの、早く中に入ってきて」

 

 そう言い募る真理子は、どこか幼なく見えた。昨日啓次に散々に殴られたことなんてまるで忘れてしまったかのように、ヘーゼルの瞳は純粋な信頼に満ちている。

 

 まだあんなやつを頼りにしているのかよと呆れるが、よく考えれば無理もない。

 真理子だって四面楚歌の今の状況を分かっていないわけじゃないのだ。先ほどまで気丈に振る舞えたのは、当然、最後は父親が助けてくれると信じているからだろう。

 

 だが彼女と違って、吾郎は啓次をちっとも信頼していなかった。あの男が今来たことが吉と出るか凶と出るかは、ほとんど賭けに思える。

 

「──真理子!? 何があったんだ?」

 

 焦った様子の啓次が、玄関のドアを開けて飛び込んできた。

 

「パパ……!」

 

 止める隙もなく、真理子は吾郎の後ろから飛び出した。怪我した足を引きずりながら、岡倉の横をかけ抜け、啓次の元へ走っていく。

 

「パパ、助けて。あの男は、ここにいる子どもたちを人身売買の道具にしているの」

「は……?」

 

 とつぜんの告発に、啓次は驚愕で目を見開いた。

 岡倉と、吾郎、そしてその後ろにいる里奈に目を走らせてから、もう一度真理子の顔を見る。

 

「真理子、そんなバカな話、どこで……」

「全部、本当のことです。私、この目で見たもの。岡倉が、金儲けのためにあの女の子を汚い大人に渡そうとしてたところ。そんなこと、パパは許さないよね。私の言うことを信じてくれるでしょ?」

 

 啓次は、何度か瞬きしながら真理子の顔を見た。

 彼女の言葉を信じるべきか、迷っているらしい。そのわずか数秒ほどの時間が、やけに長く感じた。

 

「もちろん、真理子の言うことを信じるよ」

 

 やがて啓次はそう言って、彼女の肩に手を置いた。昨夜とは打って変わって、今の啓次は、優しく柔和な雰囲気の父親だった。

 

 啓次は顔を上げると、岡倉を見据えた。

 

「岡倉さん。娘はこう言ってますが、どういうことですか? 同じ教育者として、そんなこと信じたくはないのですが、うちの娘は根拠もなくくだらない嘘をつくような子じゃないので」

 

 その堂々とした物言いを聞いて、吾郎は心の中で鼻を鳴らした。

 真理子の説得が成功したのは行幸だ。それは認める。だが、自分の息子を殴り殺したことを棚に上げて都合よく義憤にかられる啓次の姿は、滑稽以外の何者でもない。まさに吾郎のよく知る大人の姿だった。

 

「いやぁ、弱りましたねえ」

 

 そう呟いて、岡倉は頭をかいた。

 

 さっきから一言も弁明しようとはしないのに、引っかかりを覚える。

 もっとこいつは、言葉巧みに人を動かすような人間だと思っていた。それが、真理子の告発を遮る努力すらしない。

 

 身寄りのない子ども相手には好き勝手できても、啓次や真理子が相手となるとさすがに分が悪いと顔面蒼白なのか?

 そう揶揄するように考えたとき、岡倉がこちらを振り返った。

 

 そこに浮かぶのは、勝利を確信した余裕綽々の笑み。

 これといった特徴のない地味な顔に、一瞬、あの毒々しいピエロのメイクが重なったように錯覚する。

 

 見ていろよ、このくらいなんてことはない──そう言いたげに吾郎を一瞥した後、岡倉は啓次の方に向き直る。

 

 いったい、何を企んでいる? いくらなんでも、この状況で打てる手はないはずだ。

 何か口を挟むべきか逡巡するが、吾郎の言葉に啓次が聞く耳を持つとは思えない。それどころか、状況を悪くさせる可能性すらある。結局、開きかけた口を閉じた。

 

 ただただ困惑しているといった調子で、岡倉は言う。

 

「えっと……いったい何の話か分からないのですが。僕は真理子ちゃんから相談を受けていただけなので」

 

「相談?」と、啓次は訝しげに聞き返す。

「はい、なんでもおうちに帰りたくないって。他の家の子になりたいから、吾郎くんと一緒に、うちでしばらく保護してほしいと言われてたんです」

 

 その言葉が、何かスイッチを押したのだろう。

 啓次の顔からすっと表情が抜け落ち、岡倉の言ったことを徐々に理解するうちに、顔が顰められていく。

 父親の背後にいる真理子は、そのことに気づかない。

 

「パパ、あんなの出鱈目です。あいつが苦し紛れに──」

 

 彼女の言葉は、パァンと高い音に遮られた。啓次が、真理子の頬を平手打ちした音だ。

 

 赤くなった頬を手で押さえ、何が起きたかわからないみたいな顔で真理子はただただ瞳を大きくさせた。そして父親の表情を見上げると、目を背けるみたいにゆっくりと俯いた。彼女の華奢な肩が、小刻みに震えている。

 

 一言も反論できずに怯える今の真理子には、先ほどまで毅然としていた少女の見る影もない。異世界で岡倉の目を勇ましく突いた彼女とも、まるで別人だった。

 

 真理子には父親以外の何かを恐れた経験がないのかもしれないと、吾郎はふと気づいた。

 大人からも一目置かれるピアノの神童で、家柄も抜きん出た彼女に楯突く人間はいない。だからこそ、絶対的に逆らえない親という存在からの暴力は色濃い恐怖を抱かせ、彼女の精神の深いところまで完全に蝕んでいる。それこそ、少しの反抗心すら起こらないほどに。

 

「僕は、これは誤解に違いないと思ってね。ちゃんと啓次さんのところに戻るように真理子ちゃんに言ったんだけど、口喧嘩になってしまって。ひょっとしたら、それで腹いせにあんな無茶な嘘をついたのかな?」

 

 岡倉の楽しそうな声が廊下に響いた。

 

 最初から負けていたのだと、吾郎は悟った。

 岡倉は、何を言えば啓次の地雷になるのかも、怒った父親に真理子が少しも逆らえないことも、すべて把握していたのだ。初めからこう対処すればいいと高を括っていたからこそ、余裕に構えていた。

 

「すみません、岡倉さん。娘を連れて帰ります」

 

 啓次は感情のない声音でそう言って、大人しくなった真理子の腕を掴むと引きずっていく。

 

 このままじゃ、今度こそ彼女は殺されたっておかしくない。

 止めようと、衝動的に走り出す。

 

「ダメダメ、行かせないよ」

 

 嘲笑まじりにそう言って、岡倉が行く先を立ち塞がる。

 そして、廊下の様子をドア越しに伺う人影に向かって、「みんな、吾郎くんを止めて」と命じた。

 

 呼びかけに応えて、わっとドアから岡倉の手駒である子どもが飛び出してくる。

 五、六人ほどの相手を前に、あっという間に吾郎は取り押さえられ、腕を捻りあげられた。頭を抑えられ、抵抗も虚しく、両膝が床につく。

 

「ぐっ……!」

 

 中には高校生すらいる。力の差は明らかだった。

 がんじがらめの拘束から抜け出そうと足掻いているうちに、玄関のドアが閉じた音がする。啓次は昨夜と同じくらい、いやそれ以上に怒っていた。このままでは、真理子は……。

 

 異世界ナビの存在が、頭をよぎった。

 一か八かあれを使って、また異世界に入る。それしか勝機はない。

 

 ケータイはポケットの中にある。左手は完全に抑えられているが、右腕は肘から先は自由に動く。悟られないように、ケータイにゆっくりと手を伸ばす。

 

 指がケータイにかかった瞬間、吾郎の手を誰かが掴んだ。

 

「警察なんか呼んでも無駄だよ。オレもお前も、よく知ってるだろ?」

「良太……」

 

 吾郎を取り押さえた子どもの中には、見知った顔もいたらしい。

 良太は平坦な声で「悪いな」と言うと、取り上げたケータイを岡倉に渡す。

 

「みんな、さすがだね。手伝ってくれてありがとう」

 

 微笑んだ岡倉は、吾郎の前に来ると、腰をかがめて目を合わせてきた。

 

「ガッカリだよ、吾郎くん。君は、僕が思ったよりもずっと頭の回らない子だった。このまま僕と一緒に頑張れば、真理子ちゃんのお兄ちゃんとして将来が約束されたっていうのに」

 

 ポンと、岡倉は吾郎の頭の上に手のひらを乗せた。

 

「──ああ、君が余計なことを言ったせいで、真理子ちゃんが死んじゃうかもしれないね?」

 

 そう吐き捨てたあと、岡倉は吾郎を地下室に連行するように命じた。

 

 

 

 打ちっぱなしのコンクリートの壁の広々とした地下室。ここに連れてこられるのは、初めてのことだった。

 まだ友好的だった頃の良太から聞いた話によると、物置と呼ばれているものの、ここは実際のところ折檻部屋らしい。反省のために何時間も放置された後、頃合いを見て陽菜がやってきて、仕置きを受けることになるという。

 

 あの異世界の改造部屋の元になった場所があるとすれば、おそらくここだ。まさか現実世界でも同じ場所に連れてこられるとは、皮肉なものである。しかも、今の吾郎には何の力もないときた。

 

 早く出る方法を見つけなければ、取り返しのつかないことになる。

 

 自分のことは問題じゃない。

 陽菜は最悪のサディストで、この家に嫁入りして犯罪に加担しているのも、痛めつけても問題にならない”おもちゃ”が欲しくてのことだろう。だが、殺さない手加減は心得ている。そうでなければ、良太はとっくにこの世にいないはずだ。そして岡倉だって、まだ利用価値のある子どもをみすみすなぶり殺したりはしない。

 

 でも、啓次は違う。このままでは、真理子の運命は本物の明智吾郎の跡を追うことになる。

 真理子に特別な情を感じたことは一度もない。だけど、あちらの世界で助けられた借りがあったし、一年も同じ屋根の下にいた少女が父親に殺されるというのは、あまりに目覚めの悪い話だった。

 

 ケータイを取り上げられた今、脱出するには物理的な手段しか残されていない。

 どうすればいいか考え込む吾郎の視界に、突如として、青の蝶が現れた。

 

『──もう時間がない。舞台の準備が整ってしまう』

 

 少年のような、少女のような声。

 それは、光の鱗粉をまき散らしながらフラフラと空を飛ぶ蝶から確かに聞こえてきた。

 

『ボクの姿も、帰る場所も奪われた。それでも、彼奴の思い通りにさせるわけにはいかない』

 

 自分の気が狂ったのかと目を疑う吾郎をよそに、蝶は消え入りそうな光を放ちながら、上へ上へと登っていく。

 

『彼女の心の中に入って。それが、運命を変える唯一の方法』

 

 蝶は、ガラスの窓の前まで上がると、忽然と姿を消した。

 

 なんだったんだ、今のは……。

 吾郎は、地下室の窓を見上げた。もうあの蝶の姿はどこにもない。今のは幻覚、それともあの異世界に関連している何かなのか?

 そう疑問を抱いてから、余計なことを考えるな、と自分を戒める。

 

 蝶のことなんてどうでもいい。今考えるべきは、外に出る方法だ。

 

 あの異世界の改造部屋と同じく、上の階へ行くにはエレベーターが必要だ。だけどカードキーなしには動かないから、吾郎には使いようがない。

 一方で、地下深くの階にあった改造部屋と違って、ここは半地下だし窓もある。頭上の窓をどうにか開くことができたら、脱出は可能のはずだが……。

 

 と、頭の上からガチャっと開いた音がした。

 

 ここは開閉厳禁なのに、一体誰が──そう思った瞬間、なにか降ってきた。

 落ちないよう、両手でキャッチする。

 

 カチッと、上でまた窓が閉まった音がする。

 誰の仕業だと急いで確認しても、窓の外にはもう緑色の芝生が見えるだけで、人影一つない。

 

 落とされたのは、吾郎のケータイだった。画面にはポストイットが貼られている。

 

『夕陽が沈んだ時に、大人たちはみんな用事がある。その時にまた窓の鍵を開けにくるから、逃げて』

 

 丸みのある文字だ。書いた人間まではさすがに分からない。

 普通に考えれば、ここにいる子どもの誰かが味方しているのだろう。だが今までの周囲との軋轢を鑑みると、到底そんなことがあるとは思えなかった。もしかしたら、抜け出そうとしたところを告げ口して、ポイント稼ぎでもするつもりかもしれない。

 

 ……だが、どちらでも構わない。ケータイは返ってきた。これはまさしく、状況を打開する鍵だ。

 

 日没まで待つ必要はない。誰の目にも留まらず、外まで出られればいい話だ。

 吾郎は、ケータイを手に持つと、異世界ナビを開いた。

 

 

 誰にも悟られずに施設から逃げるのは、異世界ナビさえあれば簡単なことだった。

 まずナビを使って、もう一度異世界の中に入る。吾郎が出たのはあの地下の改造部屋だったから、帰りのルートはもう把握済みだった。

 敵を避けながら出口を抜けたら、そこにあるのは見慣れた住宅街。最寄りの駅まで移動したところで、ナビを終了させる。

 あとは現実世界で電車を使って、明智家まで向かうだけでいい。

 

 ぶっつけ本番だったが、どうにかなったようだ。

 だが、本当の問題はここからだと、吾郎は明智家の立派な煉瓦の門構えを見た。

 

 どうやって真理子を救出すればいい?

 ここの住所を教えて虐待を通報したところで、警察が出動してくるとは限らない。玄関まで来ても、啓次のような地位の高い人間に帰れと言われたら、そのまま本当に帰ってしまいそうだ。

 確実に騒ぎを起こして人を呼ぶためには、119番の方に電話をかけるという手もあるが、イタズラと断定されたら中に入らずに帰ってしまうかもしれない。本当に放火すればさすがに有無を言わせず中の住人を避難させるだろうが、リスクが大きすぎる。

 

 いや、そもそも、何かに頼ること自体が不確定要素だ。確実な方法があるとしたら、やはり一つしかない。

 吾郎は、ケータイの画面をじっと見た。

 

『彼女の心の中に入って。それが、運命を変える唯一の方法』

 

 あの蝶の言葉が、脳裏に残っていた。

 心の中に入る──そんな表現に該当しそうな行為は、一つしか思いつかない。

 

 吾郎は、異世界ナビの履歴の欄を見た。

 そこにあるのは一行だけ、『キーワード:岡倉健吾、慈愛の翼、おもちゃ屋』というテキストだ。

 

 これの意味するところは……。

 単純に考えれば、岡倉にとって慈愛の翼というボランティア団体は、金儲けのためにあるおもちゃ屋。岡倉がAをBと認識している、それがキーワードということになる。

 Aは現実世界、Bは異世界におけるその場所の名称が入る。そして、このナビを使えば、AからBに移動できる。

 

 異世界にいる間は誰に見咎められることもなく、自由自在に中を動ける。

 啓次に見つからずに真理子を逃がすには、うってつけだ。

 

 問題は、岡倉のおもちゃ屋はここまで広がっていないらしく、入ろうとすると『エリア外です』とエラーメッセージが出てしまうこと。

 

 でも、明智家にも異世界があったら? そうしたら、同じ手が使えるはずだ。

 

「明智真理子」と吾郎は期待せずにナビに向かって言った。

 

『──ヒットしました』

 

 すると、機械音声が返ってきた。

 

「明智家」

 

 続けて言ったこれもヒット。

 残る問題は、真理子が家をなんだと思っているかだが……こればかりは、簡単に当てられそうにはない。

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