ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第十六話 漫画喫茶「ゆる茶屋」

 車から腕をつかんで出されたときも、玄関を通ったときも、書斎へ放り投げられたときも、ただ呆然と真理子は父に従った。

 

 とにもかくにも、億劫だった。

 身体中に重しがのしかかっているみたいで、指一本動かしたくない。

 

 プカプカと身体から魂が浮かぶみたいに、視界が身体から離れて浮かんでいく。

 急速にすべてがモヤがかって、どうでもよくなっていく。

 

 ちゃんと考えないとと思っている。

 あのおかしな異世界のこと、岡倉のおぞましい本性のこと、吾郎と他の子たちのこと。逃げちゃ駄目。岡倉のことを告発できるのは自分しかいない。ちゃんと考えないと、大変なことになる。

 でも、全て頭から流れ落ちていってしまう。

 

 どこか遠いところにある意識を占めるのは、いつ啓次がこの部屋に戻ってくるかということだった。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ……。怖い思いはしたくない。

 自分の身代わりに、心の中にいるあの子を引きずり出そうと、手を伸ばす。そうすれば今まではちゃんと交代できたのに、あの子は指先からするりと逃げ出してしまう。

 

『無駄だよ。もうあなたの思い通りにさせないって、決めたから』

 

 床に倒れる真理子の目の前に、誰かの生白い足が見えた。

 顔を上げると、そこには”あの子”が立っていた。姿形は、幼稚園生くらいの時の真理子にそっくりだけど、黄金に輝く瞳をしている。その瞳が、真理子を見下ろした。

 

『ねえ、助かる方法が、知りたくない?』

 

 にこりと小さな笑みを浮かべると、彼女は後ろを向いて、書斎のガラス棚に飾られているアンティークのハサミを指差した。

 


 

 キーワード……。

 岡倉にとって慈愛の翼というボランティア団体は、金儲けのためにあるおもちゃ屋。

 

 同じように、真理子にとってこの家は何なのか。

 吾郎は、顎に手を当てて考え込む。

 

 まず思いつくのは監獄。しかしヒットはない。

 次に死刑場、拷問部屋、墓場……父親の暴力性を思えばあり得ると思ったが、どれも違う。

 続けて、彼女と関わりの深いもの──音楽ホールや舞台なども試すが、それもヒットはなかった。

 

 このまま闇雲に試しても、時間を無駄にするだけだ。

 吾郎は昂った気を落ち着かせるように、息をついた。

 

 明智真理子という人間のことをちゃんと考えて、手がかりの糸を手繰り寄せないといけない。

 

 その時、ふいに頭に浮かんだのは、岡倉のおもちゃ屋でロビンフッドを見た時に真理子が口にした言葉。

 

『さっきのスタンドみたいなのは、あなたが操っていたんですよね?』

 

 そうだ。緊急事態だから聞き流していたが、あの例えには違和感があった。

 真理子は、いったいいつから漫画なんてものを読み出した?

 初めて一緒にディナーに行った日は、彼女の出す話題といえば古典文学や演劇のことばかり。漫画なんて俗物、触ったこともなさそうだった。

 

 そして、同じような引っ掛かりを覚えたのは、風邪を引いて看病してもらった時。

 

『私の物置き部屋、今度入ってみます? 壁一面に本とかDVDがあって、寝れるスペースもあるんですよ。漫画喫茶みたいに』

 

 朦朧とした意識でも、あの言葉は印象に残っていた。

 漫画喫茶の存在をニュースで知ることはあるだろう。だがその用途として、「寝る場所」を挙げる中学生は多くない。まして、真理子はお嬢様だ。鍵のかからない漫画喫茶の個室で寝るなんて、親が許すだろうか。

 

 つまり、こう推測できる。吾郎と初めて会った時の真理子にとって、漫画や漫画喫茶なんてものは縁遠い存在だった。それがある日から、彼女にとって自然とものの例えに出すほど身近な対象になったのだ。

 

 吾郎は、直感に導かれるままに口を開いた。

 

「──明智真理子、明智家、漫画喫茶」

 

 ナビの機械音声が、ヒットしたことを伝える。

 

 ぐにゃりと景色は湾曲し、次の瞬間、あたりは繁華街になっていた。

 蛍光灯の看板にコンクリートの雑居ビル、道ゆく人々の忙しない姿、すべてが現実味を帯びている。

 

 吾郎は、しばしの間唖然とした。

 岡倉のおもちゃ屋とは打って変わって、あまりにリアルな光景だ。しかも、自分の服装もいっさい変化していない。

 本当にまた異世界に来たのか、あるいはどこかの繁華街に突然飛ばされたのか、どちらとも判別がつかなかった。

 

「すみません」

 

 うつむいてケータイを触りながら歩くサラリーマンを、吾郎は呼び止めた。

 

「……はい?」

「あの、道に迷ってしまって。ここから何駅が最寄りか教えてもらえませんか」

 

 早く先を行きたそうにしながらも、男は神奈川県の住所を教えてくれた。

 伝えられた名前は、現実に存在する場所だ。だが、吾郎はここが異世界だと確信した。

 

 歩き去っていく男のケータイに表示されていたのは、2012.11.5という表示──去年の日付だった。ちょうど真理子が失踪していた時期と重なるのは、偶然ではないのだろう。

 やはり、ここは彼女の抱くなんらかの心象風景を元にした異世界なのだ。

 

 吾郎は、目の前のせせこましい縦長のビルを見た。

 入り口に置かれた古びた看板には、「B1 漫画喫茶 ゆる茶屋」と書かれている。これにも、特別おかしな点はない。漫画喫茶ゆる茶屋は、関東でそれなりのシェアを占めるチェーン店だ。

 

 岡倉にとって慈愛の翼が莫大な利益をあげるおもちゃ屋であるように、真理子にとって自分の家は現実にある漫画喫茶?

 あまりピンと来なかったが、彼女のもとに辿り着くにはここに入るしかない。

 

 警戒しながら、吾郎は下へ続く階段を降りていく。

 一段降りるごとに、空気が重くなるような、体から力が抜けていくような、妙な感覚が体を覆った。少しずつ、体が動かしづらくなっていっているのだ。

 

 湿気のこもった地下一階に足を踏み入れて、吾郎は顔をしかめた。

 支払いカウンターに料金表の紙、ドリンクバー、延々と立ち並ぶ本棚。言葉にするとなにもおかしなことはない。

 

 しかし──すべての物が大きすぎる。

 カウンターは頭よりも高い位置にあるし、ずらりと並ぶ本棚にいたっては吾郎の身長の三倍はゆうにある。その全てにぎっしりと漫画やレンタルビデオが入っているせいで、視界が遮られていた。

 

 しばらくの間歩いてみるが、本棚でできた道は入り組んだ迷路のようになっていた。しかも、引き返すと道が組み変わっていて、あてどなく彷徨う結果になってしまう。

 

 岡倉のおもちゃ屋みたいに、現実と対応している場所があるようには思えなかった。この迷宮に、明智家の間取りと似ているところは一つもない。

 これ以上歩いたところで時間の無駄だ。だからといって今ここでナビを終わらせても、どこに出るかわかったものじゃない。

 

 よじ登ってみるかと本棚に近づいた時、

 

「ダメだよ。倒れてきたら危ないから」

 

 いつのまにか、隣に少女が現れていた。

 姿形は小さいものの、一目見て真理子だとはっきりわかった。少女は今の真理子をそのまま縮めたみたいにそっくりだ。ただ、印象的なヘーゼルの瞳は、妖しい光を帯びた黄金のものに変わっていた。

 

「ねえ、お店の人に怒られちゃうよ。早く降りて」

 

 困った顔で再び注意されて、吾郎は本棚から降りる。

 

 そこで初めて、自分の頭の位置が目の前の少女とそう変わらないことに気づいた。

 

 こんな小さな女の子と目線が同じだなんて、バカなことあるわけない。

 そう思って両手に目を落とすと、ふくふくとした子どもの手が見えた。着ていたパーカーも靴も、おあつらえ向きに子どもサイズになっている。

 

 周りのものが大きくなったのではない。階段を降りた時に、子どもの姿になってしまったのだ。観察力には自信があったはずだが、これだけの大きな変化を見逃すなんてと愕然とする。

 

「ねえ、君は……」

 

 自分の喉から出る声も、舌足らずで幼い。違和感に目をぱちぱちさせている間に、真理子に似た少女が口を開いた。

 

「やっぱり、吾郎くんもこっち側の子どもだったんだね」

「こっち?」

「真理子とあっちの世界、悪夢の世界で会ったでしょ」

 

 彼女は、わけ知り顔で微笑んだ。

 岡倉のドッペルゲンガーとは違い、少なくとも話は通じそうだと安堵する。

 

「もっと分かりやすく話してくれないかな。まず僕は、ここがどんな場所かも分からないんだけど」

「え? 見ればわかるでしょ、ここは漫画喫茶だよ」

 

 本棚にずらりと並ぶレンタルDVDを指差した。

 

「真理子は、ここでお迎えを待ってるの。ここにあるつまらない映画を見るのは、時間潰し。あなたもそうでしょ?」

 

 改めて見ると、ずらりと並ぶDVDの背表紙には、すべて同じタイトルが書かれている──少女Aの陰鬱な毎日、と。

 手にとってパッケージを見ると、そこには「酷く陰鬱な日々を過ごす少女Aの日常」という宣伝文句と共に、見慣れた場所の写真が貼ってある。

 

 真理子の部屋、井の頭公園、リハビリセンター、音楽部屋、どれもよく見知った場所だ。それを、上空から写している。

 その意味を考え込む吾郎に、少女は無邪気な声で話しかけてくる。

 

「ねえ、真理子の部屋で話そう? 立ってるの疲れちゃった」

 

 この少女からは、今のところ敵意を感じない。このまま本棚でできた迷宮をさまようよりも、彼女の案内に任せた方がいいだろう。

「いいよ」と、しばしの間逡巡してから吾郎は答えた。

 

「ふふっ、また吾郎くんと一緒にいられて嬉しいな」

 

 前を歩く少女の足取りは軽い。現実の真理子と違って、足の動きに不自由はないようだ。

 

 二人は入り組んだ道を抜け、薄い仕切りで隔てられた個人ブースが並ぶエリアに出た。

 慣れた手つきで、真理子はそのうちの一つの個室の扉を開いて、入っていく。

 

 吾郎も警戒しながら後に続き──足を踏み入れた先の異様な光景に、凍りついた。

 

 外から見た時は至って普通の漫画喫茶の個室だったのに、中は十畳ほどの広さがある。しかもどういう理屈か、きちんと天井が上を覆っていた。

 

 部屋の四方には、壁を覆い隠すようにずらりと数十台のテレビが並んでいる。

 流れている映像は、教室で頬杖をついて授業を聞く真理子、ピアノレッスン中の真理子、母親らしき女性と映画館にいる真理子、どれも俯瞰で撮ったようなアングルだ。

 

 コンクリートの床の上には、無造作に放り出された薄っぺらなリクライニングシートがあるのみ。その後ろでは、ゆらゆらと揺れるモヤのような物体が浮かんでいる。

 

「ほんと、この映画、つまらない」

 

 無数のテレビを見渡した後、隣で少女が小さなため息をついた。

 

「主役の子のこと、真理子、全然好きじゃないんだよね。あーあ、この子以外の話も見れたらなあ」

「でも、君は真理子ちゃんなんだろ。だったら、これは、君自身の映像じゃないの?」

 

 注意深く彼女の表情を観察しながら、聞いてみた。

 なんらかの動揺を見せるかと思ったが、少女──いや、真理子はけろりとした顔でこちらを見つめ返してきた。

 

「えっ。真理子、こんなにお姉さんじゃないよ?」

 

 不思議そうに口にしてから、ふと物憂いげな顔をする。

 

「でもまあ、たまに悪夢を見るんだけどね。真理子が彼女の中に入っちゃう夢」

「夢? それは、さっき言っていた、悪夢の世界のこと」

「うん」

 

 床にしゃがみ込む真理子の横に、吾郎も腰を下ろす。そうすると、あどけない少女と目線が同じ高さになった。明らかに異常なのに、段々とそれが当たり前のことのように思えてくる。

 

「吾郎くんとは、あっちの世界で会ったよね。真理子、嬉しかったんだ。初めて自分と同じ子どもに会えて」

 

 首を傾げて、真理子は覗きこむように吾郎を見た。

 そうすると、長い黒髪が、ふくふくとした幼なげな頬にかかった。

 

「すぐにわかったよ。吾郎くんも、怖い夢に何度も引きずり込まれちゃっているんだよね? あそこの登場人物はみんな嘘だけど、吾郎くんだけは本物なんだよね? だから真理子、客席の中からあなたを見つけられたんだよ」

 

 自分のことを上から見ている誰かがいると、真理子は語っていた。そこまでして精神を現実から引き離そうとするのは、逃避行動の一種なのだろうと思う。啓次の暴力性を考えれば、おのずと理由は見えてくる。

 彼女の心の核となるようなものが、ようやく分かった気がした。

 

 テレビに映る無数の真理子の姿の中に、啓次に髪を引っ張られて殴りつけられているものを見つけた。

 

「あの映像の中の出来事は、全て夢だって思っているの?」

 

 そう聞く吾郎の視線を辿ると、真理子は悲しげな顔をした。

 

「そっか。吾郎くんはあっちの世界の方が、本当だと思っているんだね」

 

 彼女の小さな手が、同じくらい小さい吾郎の手の上に重ねられる。

 

「大丈夫だよ。どんなに痛くても、怖くても、あんなの全部ただの夢。あっちの世界にいる時、本当の吾郎くんはね、うなされているの。抜け出したくても、抜け出せないんでしょ? あんまり辛くて、悲しくて、心が壊れちゃいそうになるくらい周りが真っ暗だから、だからあっちが本当だって思い込むようになっちゃったんでしょ? ……でも違うよ」

 

 真理子は安心させるようにぎゅっと力を込めて、吾郎の手を握った。

 

「起きたら、吾郎くんのお母さんが迎えにくるの」

「母さんが?」

 

 戯言だとそう思って答えたつもりが、随分と弱々しい声になった。

 どっと疲れが押し寄せて、気を抜いたらまぶたが閉じそうになる。

 

「うん。悪夢から起きたら、痛かったところも、壊れちゃった体も、全部元通り。怖い夢はもう終わりだよって言って、お母さんが抱き上げてくれるの。お母さんはあったかくて、優しくてね。ぎゅってされると、胸がポカポカするの。そしたら今度こそ、安心して寝ることができるよ」

 

 夢見心地な顔をして、真理子はささやいた。

 その声に耳を傾けていると、どうしてか、うつらうつらしてくる。子どもの体になったからだろうか。眠気に抗うことがひどく困難に感じた。

 

「真理子ね、悪夢から目を覚ます方法を見つけたんだ。もう長いこと分かっていたんだけど、夢の中に入ると忘れちゃって、ずっともどかしかった」

 

 壁一面のテレビが、一台づつ切り替わっていく。

 一つ目のテレビでは、クマがコミカルな仕草で手を振ると、高いビルから飛び降りてアスファルトに叩きつけられるアニメが繰り返し流されている。

 その隣のテレビでは、カエルが長い舌で薬瓶から錠剤を次々となめとっていき、遂には動かなくなった。

 首を吊るネコ、火にくべられたうさぎ、溺れ死ぬ猿、次々とあらゆる自殺の方法を愛らしいマスコットたちが実践していく。

 

 おぞましいはずの光景に、なぜか安堵を覚えた。違和感を覚えるべきなのに、それだけの注意力を、振り絞ることができない。

 

「でも、それも終わり。やっとあの子が聞いてくれそうなの、この恐ろしい悪夢から目を覚ます方法を」

 

 晴れやかな真理子の声とともに、またテレビが一斉に切り替わる。

 すべて同じ映像が流れている。家の書斎にいる真理子だ。細い指で、大きなハサミを持っている。

 

 真理子は、鋭利な切先を自分の喉元に当てた。

 白く華奢な首から血が滴るのに、心地良さそうに目を閉じて、微笑みを浮かべる。

 

 そして、鋭い刃で首を思い切り突き刺した。

 

 あっけなく真理子の体は崩れ落ち、鮮やかな血溜まりが広がっていく。

 

「こうすればいいんだって、彼女もやっと分かってくれた」

 

 一年間同じ屋根の下にいた少女が無惨に死ぬ光景を見て、冷や水をかけられたように、頭が覚醒した。

 

 その代償のように、脳裏にある光景が広がった。

 倒れた椅子、だらんと垂れ下がった病的に細い二本の足、生気の抜けた体、唇から力なくまろび出てよだれを垂らす舌、蝋人形のように血色を失った母の顔、ほっそりとした白い首に絡みつく蜜色の髪と太い縄……。

 

 同じ光景が、繰り返し繰り返し、鮮明に頭の中に現れる。

 

 鼓動が狂ったように早くなり、呼吸がおぼつかなくなる。

 もう乗り越えたと思っていたのに、またフラッシュバックを起こしているのだ。

 

 痛む頭を押さえながら、吾郎はふらつく体で立ち上がった。

 

「ダメ、だ……」

 

 どうにか絞り出した声に、真理子は無邪気に答える。

 

「どうして? またすぐに会えるよ、真理子たち。今度は本当の世界で、吾郎くんに会いたいな」

 

「無理だ。逃げ場所なんてない。君の母親も、僕の母親も、迎えにきたりなんてしない」

 

 押し殺した声でそう言うと、だんだん、真理子の大きな黄金の瞳に涙が溜まっていく。構わず、吾郎は話し続ける。

 

「愛していないから、置いて行ったんだ。愛していたなら、連れて行ってくれた」

 

「どうして、そんな酷いこと言うの?」

 

 ついに、真理子の瞳から涙がこぼれた。

 

「だって、それが真実だから」

 

 自分でも驚くほど、冷たい声が出た。

 頭が割れるような痛みは引いた。もう目はすっかり醒めている。

 

「君がどんなに都合のいい妄想に逃げたいと思っても、死んだら全部終わりだ。悪夢の世界なんかじゃない。あれは現実なんだから」

 

 そう口にした瞬間、吾郎の服が変わった。

 体は依然として小さいままだが、顔に赤い仮面が現れ、身を包むのはあの白い礼服だ。自分の中にある力を、いつでも呼び出せるほど近くに感じる。

 

 目の前の彼女から、歓迎できない存在、排除すべき存在として見られているのだと、そう本能で感じた。

 

「違うよ、違うんだよ、吾郎くん。でも、そっか……あなたはもう諦めちゃったんだね。うん、大丈夫。見てて、あとちょっとで、真理子は起きるから。そしたら、ちゃんと寝ている吾郎くんも見つけて、起こしてあげる。あなたのことは、私が助けるから」

 


 

「大丈夫。これは全部、とびきり怖い夢だから。死んじゃえば、起きられるよ」

 

 母がいなくなってから度々話しかけてくるその声。今まで何度も、バカなことをいうなと無視してきた声。初めて、本当にそうなのかもしれないと思った。

 

 きっとこれは悪い夢。

 あんなおかしな世界があるわけないし、あれだけ酷いことを子どもたちにする大人が許されるわけがない。

 それに何より、パパがお兄ちゃんや真理子を傷つけるはずがない。

 

 ──だから、早く目を覚まさないと。

 

 導かれるように、啓次の書棚から刃渡りの大きいハサミを取り出した。実用性はないコレクション用のものだけれど、切れ味は抜群のはずだ。鋼が錆びるのを嫌って、つねに鋭利に研がれていたから。

 

 この書斎で唯一の凶器になり得るもの。なにげなく、いつも焦がれるようにそれを見ていた。

 

 その理由がいま、分かった。

 どうして今まであの子の忠告を無視していたのだろう? これは、悪夢から逃がれるための装置なのだ。

 

 ハサミを開いて、尖った切っ先を喉笛にあてる。ひんやりと冷たい感触がした。血がつう、と喉元を伝う。

 

 痛みなんてない! よかった、やっぱりこれは悪夢の中なんだ。

 

 ぶわりと歓喜が全身を包んだ。

 

 真理子は、うっとりと目を閉じる。

 

 なんの躊躇もなくハサミを突き立てようとした瞬間、腕を背後から抑えられた。

 

「あっ……」

 

 振り返るな。後ろにいるのはバケモノだ。首をを刺せば、逃げられる。

 

 もがいて腕を振り払おうとするも、少しも動かすまいとする容赦のない力に、腕は微塵も動かなかった。

 

 きっと啓次が戻ってきたのだ。それで真理子が悪夢から逃げようとするのを止めようとしている。激怒しているに違いない。このままじゃ、また酷い目に合う。

 

 半狂乱になって叫び出した真理子の口を、ひんやりした冷たい手がふさいだ。

 

「──落ち着け。僕だ」

 

 聞き慣れた声に、真理子は目を瞬かせる。

 ゆっくりと振り向くと、そこには吾郎が立っていた。感情をすべてそげ落としたかのような無表情で、真理子を見ている。

 

「吾郎くん……どうして、ここに?」

「悪いけど、説明する時間はないよ。この家から出ないと」

 

 出る? ここから出たからって何も変わらない。

 そんなこととっくの昔に試して、意味がないと知ったのに。

 

 反論しようとした真理子は、書斎のドアがノックされる音に凍りついた。

 

「真理子、今の物音はなんだ?」

 

 父の声だ。今話しているのは、どっちの父なのだろう? 分からない。

 

 ここに吾郎がいると知ったら、二人ともどんな目に遭うか。

 

 体がすくんで動けない。

 ドアノブが回されるのを、目をいっぱいに見開いて見ることしかできない。

 

「戻ってくるのが早いんだよ」

 

 隣で舌打ちした吾郎が、スマートフォンを取り出して、何か操作する。

 

「ナビゲーションを開始します」と機械音声が響いた。

 

 そして、景色が歪んだ。

 

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