周囲の景色がぐらりと揺れて、そして、真理子は本棚に囲まれていた。
鼻腔をくすぐるのは、古い本とタバコの匂いが混じったもの。
けっしていい香りとは言えないそれに、なぜか無性に懐かしさを覚えて、胸が締め付けられた。
ここはどこだろうと不思議に思ったのは一瞬で、すぐに思い至る。
あれ、どうして、忘れていたのだろう?
一年前、真理子は母に連れられて家出して、漫画喫茶に寝泊まりしていたのだ。
蛍光灯の強い光に照らされたフロアには朝も夜もない。お腹が減ったらドリンクバーに行くか、母が買ったコンビニのご飯でお腹を満たして、暇を感じたらひたすら漫画や小説や映画に浸る生活。そして最後には母はいなくなり、一人きりになって、そして……。
今にして思えば、二ヶ月もこんな環境を転々としながら寝泊まりしていたことが信じられない。
でもどうしてか、ずっとここにいたような、そんな気もする。
真理子はぼうっとした瞳で、辺りを眺めていた。
「チッ……やっぱこの姿のままなのかよ」
ふいに聞こえてきたずいぶんと可愛らしい声に、現実に引き戻される。
下を見るとそこには愛らしい男の子がいた。
柔らかそうな薄茶色の髪に、つぶらで大きな赤の瞳、ふにふにの頬っぺた。
服装は赤いマントと王子様然とした白い礼服。似合っているけど、どこか背伸びしている感じがして微笑ましい。
ハサミを持つ真理子の手を、小さな男の子の手がぎゅっと掴んでいた。
無類の可愛いもの好きである真理子は、さきほどまでの絶望感をしばしの間忘れて、きゅんとするのを感じた。
「……えっと、ボクは、迷子なのかな?」
「やめろ、僕だ。なぜかここだと小さくなる」
ありありと苛立ちをこめた、うんざりしきった声。
まるで誰かさんみたいだと、真理子は目を白黒させる。
それにこの男の子、よく見ると顔の造形も表情も吾郎そっくりだ。演劇みたいに華やかな王子様衣装も、あのおもちゃ屋で着ていた服と同じ。
「まさか、吾郎くん?」
「そうだよ」
「どうして、そんな可愛い姿に。……うそ、可愛い」
思ったことをそのまま口にする。
「──いいから黙れ」
と、吾郎はひと際凄みを聞かせた声を出した。
ハサミを真理子の手から奪うと、繋いでいた手を離して、キッとこちらを睨んでくる。
「何も感想を言うな、見るな、触るな。……いいね?」
「は、はい」
「とにかく、出口へ行こう」
質問を許さない断定調でそういうと、小さい吾郎は歩き出す。背中の赤いマントがパタパタとはためいた。その歩幅の小ささと足取りのおぼつかなさを見ていると、転んでしまいそうで不安になる。
いったい何がどうなって、こんな状況になったのだろう? 訳がわからない。
立ちすくむ真理子の方を、吾郎は振り返った。
「何しているの?」
「いや……」
「時間がないから、急いで」
有無を言わせない様子に気圧されて頷くと、真理子は歩き出した。
本棚でできた道は迷宮みたいに入り組んでいて、終わりがない。吾郎も順路を知っている訳ではないようで、何度も立ち止まっては、抜け出す方法を考えているようだった。
延々と変わり映えしない景色の中を歩きながら、ふと気づいてしまう。
ずっとここにいて、何の問題があるのだろう? このままここに居ようと、外に行こうと、何も変わらない。
「ねえ、吾郎くん」
頭が痛いし、酷く疲れていた。澱のように溜まった気持ちを吐き出すまいと戒めていたが、ついに真理子は口を開いてしまう。
「父から逃げて……その後、私たち、どうするんです?」
「そんなこと、いま考える意味があるのかな。少なくとも今あそこに戻ったら、君は啓次さんに殺される」
「だからって、逃げても、意味なんてない」
一度口に出すと、もうダメだった。ダムが決壊したみたいに次々と言葉が出る。
「……思い出したんです。逃げても、意味なんてなかったこと。必ずパパは私のことを見つける。前もそうだった。あの岡倉だって、たぶん、あなたのことを追いかけてくる。警察も大人の味方をする。だって、あの人たちは保護者だもの。私たちは私たちのものじゃないから、誰も味方なんてしてくれない。逃げるところなんて、どこにもない。頑張ったって、苦しい思いをするだけ。ううん、違う。頑張ったら、その分だけ、後からもっと酷い目に合うんです」
とめどなく話す真理子を、吾郎は見上げた。
「じゃあ、君はどうするの?」
あどけない姿に似合わない、冷え冷えとした表情だ。
「じっと耐えて嵐が過ぎ去るのを待っていれば助かる。そんな都合のいいこと、ないのはわかっているよね。君のお兄さんが死んだって啓次さんは変わらなかったようだし。逃げることもできない、このまま何もしなかったら殺される。それで、君はどうするの?」
「わ……私は」
震えるくちびるから、なんの答えも紡げない。
吾郎の小さな手が握る鋭いハサミに、自然と目がいく。
死んだら助かる? さっきまで、あれだけ確信していた摂理はすっかり意味を失っていた。ハサミを喉につきつけていたあの瞬間、心を満たしていた多幸感はどこにもなくなってしまった。
「私は、私は」
静かに答えを待つ吾郎に返事をしたのは、真理子ではなかった。
「──簡単なことだよ、ここで死ねばいいの」
後ろから聞こえてきた幼い少女の声に、弾かれたように振り向く。
そこに立っていたのは、どう見ても、昔の自分自身にしか見えない女の子だ。そして、彼女が着ている灰色のパジャマは、この漫画喫茶の館内着。
「あなた……」
爛々と輝く金色の目を見て、確信する。これは、あの子だ。
「僕たち、外に出たいんだけど。その様子だと、通してくれる気はないみたいだね」
吾郎が、真理子を庇うように前に出た。といっても、今の彼の背丈は真理子の腰ほどまでしかない。
「うん、外に出ちゃダメ。このまま悪夢を見続けるなんて、絶対に真理子はイヤだもん」
無邪気な声で彼女はそういうと、こちらに背中を向けて歩き始める。
「歩き続けても、絶対に出られないよ。真理子についてきて」
その言葉通り、彼女の行く先以外の道は全て、周囲の本棚がひとりでに動いて塞いでいく。ここは、この子が操っている場所なのだろうか?
「待って!」
真理子はとっさに彼女を追いかけた。
「また勝手に……」と、後ろから吾郎の苛立った声が響く。
”あの子”が歩いた先には、個室ブースがずらりと並んでいた。
「ほら、こっちだよ」
そう言って、彼女がそのうちの一つの扉を横にスライドさせて、中に入った。
彼女のあとを追いかける。狭苦しいはずの個室ブースの中は、コンクリートの壁に四方を囲われた広々とした部屋だった。
そのことに、もはや驚かない。今日一日であまりにも多くのおかしなことがありすぎだ。
でも、壁を埋め尽くすほど大量に積み重なったテレビの全てに映るのが、今の自分の怯えた顔だと気がついた時には、流石に恐怖した。
「な、なに、この場所は」
恐慌状態になりかけて、真理子はつぶやいた。その声も、しっかりとテレビはリアルタイムで流す。
「またここか……」
と、後ろから追いついてきた吾郎が辟易とした声で言った。そして、この異常な空間でただ一人ニコニコと笑う少女に目を向ける。
「もう一度言う。君が真理子ちゃんだっていうなら、ここにいる彼女を殺しても君も死ぬだけだ。なんの解決にもならない」
吾郎の言葉に、少女は呆れ顔になった。彼女の背後では、大きなモヤのようなものがゆらゆらと揺れている。
「だーかーらー、そんなわけないんだって。真理子はいい子にしてたもん。だったらどうしてパパは酷いことするの? お兄ちゃんはいなくなっちゃうの? いっつも頑張ってたのに、そんな酷いこと、真理子にあっていいはずない。だから、この人の人生は私のものじゃない」
すねたような声音でそういうと、少女は手を合わせて、眠るみたいに目を閉じた。
「あのね、ママは、約束してくれたの。お兄ちゃんを連れて、真理子を迎えにくるって。だからここで待っている。ずっと待っていれば、またママとお兄ちゃんに会えるの」
こんなことを、もう一人の自分が考えているだなんてと、目の前が暗くなる。
真理子は震える声で、叫ぶみたいに怒鳴った。
「バカなこと言わないでよ。迎えにくる? そんなの嘘。あの人は、もうとっくに日本から出ていっているに決まってるでしょ!」
こんなに感情をむき出しにするなんて、父と母そっくりで嫌になる。でも抑えきれなかった。浅はかな妄想をする自分と同じ顔の”あの子”に苛立って、仕方がない。
「現実を見てよ。あなたは私。お兄ちゃんは死んで、あいつは私のことを捨てた。いつかあいつが迎えにくるなんて、そんなバカな願い」
いつかママが迎えに来てくれる? こうして口に出すだけでも吐き気がする。
「──そんなくだらない願い、私が奪って、捨ててやる!」
そう叫んだ瞬間、少女は顔を引き攣らせて真理子を睨んだ。
無邪気な子どもの顔から一転、その表情はどこまでも冷酷だ。
「奪う? これは真理子のたった一つの希望。絶対に盗らせたりなんかしない」
彼女の後ろのモヤが一箇所に集積し、濃厚になり、固まっていく。
やがてそれはビデオテープの形を取って、ポトリと床に落ちた。
その瞬間、”あの子”は、歪んだ笑みを浮かべた。
「ああ、あなたを殺せば、やっと起きられる。ママとお兄ちゃんに、会えるんだ!」
狂った笑い声をあげる少女。その姿がぐにゃりと曲がり、泥のようにグシャリと床に広がった。
「な、なに?」
嫌な予感がした。逃げようと後ろを振り返るけれど、
「……出口が消えてる」
吾郎の言うとおり、入ってきたドアが消えていた。閉じ込められたのだ。
そうしている間に、泥の中から、なにかがヌッと出てきた。泥から出てきた金色の塊は、目を凝らしてみると、子どもの右腕のように見える。
そのまま、左腕、頭、胴体と、泥から這い上がってくる。
そうして、ついには、目の前に巨大な赤子が現れた。
部屋を埋め尽くすほどの大きさの化け物を、真理子は呆然として見上げた。
「下がってろ、真理子」
吾郎は前に出ると、小さな手で赤色の仮面を取る。
「来い、ロビンフッド!」
あの時と同じ、弓を持ったヒロイックな守護霊が吾郎の後ろに現れる。
「そう……。吾郎くんも真理子の邪魔をするんだね?」
どう見ても怪物にしか見えないものから、”あの子”の声がした。
呆然とする真理子をよそに、戦いの火蓋が切られた。
「コウハ!」
吾郎の声が響く。
すると、たくさんの光の束が凄まじい速度で床の上を走り、巨大な赤子のもとに集約した。
「キィあああああッ!!」
赤子のヘーゼルブラウンの瞳に、大粒の涙が溜まっていく。それがポロリとこぼれるのと同時に、赤子は耳障りな泣き声をあげて、じたばたと巨大な手足を動かして床を叩いた。
巨大地震のように部屋が大きく揺れた。立っていられなくなって、真理子は床に倒れこむ。
とどめとばかりに、赤子は一際大きく腕を振り上げて、下に叩きつけた。
その動きから生まれた、視認できるほどの衝撃波が、こちらに猛突進してくる。
直撃すれば、全身が粉々になるに違いない。でも、迫り来る危機から目を逸らすこともできない。
「真理子、受け身を取れッ!」
間一髪のところで吾郎に突き飛ばされて、真理子は後ろに吹っ飛んだ。
「うっ……」
痛みに耐えながら目を開けると、吾郎が平伏しているのが目に入った。あの小さな体で真理子を庇ったのだから当然だ。むしろ、よくバラバラにならなかったものだ。
「うわああぁぁん! うああああああ!」
黄金の赤子は興奮した様子でわんわんと泣いていて、いつまた床を殴り出してもおかしくない。
このままでは吾郎が殺されてしまう。でも、真理子の足では彼を抱えて逃げることもままならない。じゃあ、どうすれば……?
さっき取り上げられたハサミが転がっているのに、目が自然といった。
この赤子が真理子自身から生み出された怪物なのは、たぶん、間違いない。だったら、自分を刺したら、この子も死ぬのではないか?
死ぬのは怖い。
でも、吾郎を助けるために自分を刺すというのなら、それは意味のある死だ。どっちにしろ、このまま生きる意味なんて……。
『──駄目だ、それじゃあ解決にならない』
覚悟を決めかけたその時、蝶々が頭上をひらりと舞う。聞こえてくるのは、少年の声。
『お願い、ボクを信じて』
青色の蝶は光の粒子をまといながら空を飛び、赤子の隣に落ちているビデオテープの上に舞い降りる。
そして、解けるようにするりと姿を消した。
油性ペンでめちゃくちゃに表紙が塗りつぶされているビデオテープ。
あれは、確か元々はモヤだったもの。それが、今はまるで捨てるみたいにして部屋の隅に放り出されている。
まるで元々知っていた記憶を思い出すような自然さで、どうすればいいか真理子は理解した。
走り出すと、急いで、ビデオテープを拾い上げる。そして、手の中のそれを掲げた。
「これを再生して!」
真理子のことを写していた大量のテレビはぷつりと消え、代わりに映像の再生が始まった。
誰かの視界をそのまま切り抜いて来たかのような映像に写るのは、泣き腫らした目の女性だった。
黒色の長い髪に、クマのある目元、はっきりと骨を感じさせる輪郭。もう一年も顔を合わせていない母の姿だった。
これは、自分の記憶だ。この日のことは鮮明に覚えている。
去年の夏、公演を終えて帰ってくると、家に兄の姿がなかった。代わりにソファで泣き腫らす母を見つけて、かけよったのだ。
「真理子……吾郎は入院することになったの」
「お兄ちゃん、どこの病院にいるの? お見舞いに行かないと」
不安そうに問いかける声は、真理子のものだ。
「吾郎は、誰にも会えない状態なの。病室に行っても、入れないから」
「じゃあ、電話とか手紙は? せめて病室の前に行くことはできないの?」
矢継ぎ早に聞くと、母の目は険しくなった。
「無理なものは無理って言ってるでしょッ! これ以上、お母さんを困らせないで」
涙をにじませた声で叫ばれて、真理子は喉を引き攣らせた。
母は逃げるように二階へ上がって、自分の部屋にこもってしまった。
「大丈夫、真理子。手紙なら僕が渡すから」
入れ違いに階段から降りてきた憔悴した顔の父が、そう真理子に言った。
そこから、次々と短い映像が切り替わっていく。
口論をする母と父。仲裁しようと話しかけても、音楽部屋に行けと追い払われる毎日。
仕事から帰るたびに、母の体にはいつの間にか生々しい傷が増えていく。そのことを母に聞けば、二度とそのことを口にするなと怒られた。だんだんと母は外に出なくなって、真理子の付き添いには父が来ることが多くなった。
「うん。君の演奏のおかげで、夢みたいな時間を過ごせた。少しでもお礼になったら良いんだけど」
そんな時、兄と同じ名前の、よく似た髪と目の色の少年に出会った。チューリップの花を受け取りながら、懐かしい色を目にして、自然と胸が暖かくなった。暗澹とした日常に、初めて希望が灯った気がした。
「やっと帰ってきた。真理子、着替えなさい。すぐに出るから」
次に写るのは、思いつめた顔の母。
父が出張に出かている間に、最低限の物をかき集めて、家から逃げる準備を母はしていたのだ。
「もう限界。逃げよう、真理子。あなたは、お母さんと来るよね?」
「でも」
「──あの人と私、どっちについてくるの?」
「でも、お兄ちゃんは、どうするの? 今は病院にいるのに」
「……もちろん、吾郎も連れて行くわ。三人で逃げるの。だから早く!」
真理子が頷いたからか、画面が縦に揺れた。
そして、また映像は移り変わる。
今度は母に手を引かれて、郊外の街の繁華街を歩いている。あちこちを引き摺り回されて擦れ切ったトランクケースのタイヤが、ガラガラと悲しげな音を立てていた。
「今日は、ここに泊まろうか」
うつろな目をした母が、地下へ続く階段の前で立ち止まる。
安いホテルや漫画喫茶を転々として、最後にたどり着いたのがこの場所だった。
その時は何を母が考えていたのか分からなかったけれど、今なら分かる。母は真理子を連れてイタリアへ逃げるつもりだったのに、肝心の真理子のパスポートを置いてきてしまっていたのだ。国の外へ逃げることも家に戻ることもできず、どうしようもなくなって、ついには手持ちの現金も尽きようとしていたのだろう。
毎日、毎日、息苦しいほど小さな仕切りの中で、真理子は映画を観たり、漫画を読んだりした。
時折様子を覗きにいくと、母はぐったりとしていることが多かった。目を閉じている時なんて、ほとんど死体みたいに見えた。
日が経つにつれ母の様子はさらにおかしくなり、外でご飯を買ってきてくれることもなくなった。
お腹が減ったら、真理子はドリンクバーのジュースでお腹を満たして、母のブースにも飲み物を持って行った。そのうち、真理子も体を動かすのが辛くなり、なにもしないで寝そべっているだけのことが多くなった。
手首が恐ろしいほど細くなって、限界を感じた時、唐突に逃避行は終わりを告げた。
母が真理子を置いて、出て行ったのだ。
「真理子なら、解ってくれるよね」
浅い眠りのなか、そう頭を撫でられるのを感じた。
久しぶりに母からかけられる声、頭を撫でられる感触。涙が出るほど嬉しかった。でもどうしても目を開くことができなくて、うとうとと寝てしまった。
起きた時には母の姿はどこにもなく、代わりにブースの机の上に一枚の紙が置いてあった。伝票の裏に、母がメッセージを書いていったのだ。
『真理子へ。お兄ちゃんを連れて迎えにくるので、いい子で待っていてね』
二人では逃げられない。そう受け入れた母は、自分と娘の安全を天秤にかけて悩み──そして最後には、一人で逃げることを選んだ。例えそれが、娘の運命を怒り狂った夫の手に委ねることになろうとも。
でも、置いて行かれた、嘘をつかれたと、その時の真理子は考えなかった。
よかった、またお兄ちゃんに会えるんだ!
そう思って、嬉しくて胸がいっぱいで、真理子は伝票の紙を三つ折りにして大事にポケットに入れた。思い返すと、自分ももうおかしくなり始めていたのかもしれない。
真理子は少しも疑うことなく、いつか母が兄と一緒に迎えにきてくれることだけを切望していた。
だから、真理子は待った。
子ども一人でいることを見咎められないように息を殺して、漫画喫茶の窮屈な個室の中で、何日も何日も過ごした。
だけど結局、母は来なかった。
「困るなあ……お母さん、居なくなっちゃったの?」
店員の女性にため息をつかれて、真理子はうつむく。
「もうすぐ、帰ってくるんです」
「そうは言ってもねえ、あなたもお会計はできないよね」
「でも、ママは絶対、帰ってくるから」
真理子はこれが証拠だと言わんばかりに、母が残していった伝票の裏のメモ書きを見せる。店員はそれを見てうんざりしたため息をつくと、カウンターへと歩いて行った。
しばらくしてやってきたのは、二人組の警察官だった。
彼らは身元不明の少女がピアニストの明智真理子だとすぐ気がついて、どこかに電話をかけた。
「あとちょっとで迎えがくるからね」
そう言われた時も、真理子は母が迎えにくると信じて疑わなかった。
「真理子、どうして家から出て行こうとしたんだ?」
だけど当然、迎えにきたのは父だった。
見たことがないほど怒っている啓次の顔を見て、真理子はこのあとどうなるかを察した。そして、一心不乱に、心の中で唱える。
──お願い、代わって、代わって。
やがて、画面に変化が起きた。一人称視点だった画角が、ふらふらと浮いていく。真理子の体から抜け出てきた魂のように浮いて、浮いて、ついには真上まで上がって行った。
”あの子”と入れ替わったのだ。
また場面が切り替わる。
次に写ったのは、家の書斎部屋だ。鍵のかけられた部屋で、怯えた様子で震える”あの子”と啓次の姿が、頭上から映されている。
「母さんなら、一人でどこかに逃げたよ」
その声に、幼い声が心の中で答える。
『違う。これは嘘、悪い夢』
無数のテレビに映る光景は、もうめちゃくちゃだった。
ひどくぼやけた父の泣き顔が映っては、何度も暗転を繰り返している。ただ音声だけは鮮明に、過呼吸を起こしたような”あの子”の細い呼吸、父の慟哭、鈍い打撲音──長く終わりのない暴力の音を伝えてくる。
そして、時折入るのは”あの子”の心の声。
『違う、違う、違う。痛みなんて感じない。大丈夫、だってこれは夢だから』
「逃げようとした罰だ。こんなことをさせる、お前が悪いんだからな!」
啓次が、真理子の膝の上に、全体重をかけて何度も足を踏み下ろす。
『──そうだ! 真理子はまだあの漫画喫茶にいて、そして、ママとお兄ちゃんが迎えにくるのを待っているんだ。きっとそう。だから大丈夫、何も怖くない』
足の折れる音。ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し叫ぶあの子の声。
その後ろに、酷く明るい彼女の心の声が響いた。
『悪夢から起きたら、痛かったところも、壊れちゃった体も、全部元通り。怖い夢はもう終わりだよって言って、ママが抱き上げてくれる。ママはあったかくて、優しくて、ぎゅってされると胸がポカポカして……そしたら今度こそ、真理子は安心して寝ることができるんだ』