ブツリとビデオの再生は終わり、部屋中のテレビに砂嵐が流れる。
頬から伝い落ちる涙の感触に、真理子は知らないうちに泣いていたのだと気づいた。
息を深く吸って、自分から生まれ出た化け物の方を向く。
「これで分かったでしょう? あなたは私。ママは一人でイタリアに逃げて、お兄ちゃんは死んだ。……その現実に耐えられなくて、私はあなたを身代わりにして、あなたは妄想の世界に引きこもった」
「あ、あ、あ、違う、うそだ。こんなの、全部うそ。ママは真理子を迎えにくるって、約束」
「嘘は、あの約束の方。あなただって本当は分かってるくせに」
黄金の肌の赤ん坊は、わなわなと震えた。
その姿をあらためて見て、皮肉なものだと真理子は思った。
金色の子ども、英語で言えば"Golden Child"──それは、兄弟の中でもっとも親から贔屓され、成功を望まれている子どもを指す際に使われることがある言葉だ。留学していた時、揶揄するように周りから言われたこともある。
何をしても特別扱いの、輝き続けることを求められる期待の星。
まさに自分の姿にふさわしい。
「うるさい、うるさい、うるさい! 真理子は頑張った、いい子にしていた、他のみんなよりずっとずっと我慢した! だからそんな酷いことなんて、真理子には起きない」
黄金の赤子は、悪あがきのように真理子に向かって拳を振り上げる。その巨大な手から生まれた風圧を受けて、真理子は背中から転倒した。
「あなたが死ねば、真理子は助かる……!」
尻餅をついた真理子に目掛けて、赤子の腕が振り下ろされる。
大きな手のひらがあっという間に目の前に迫り、視界は金色一色だ。もう避けることはできない。ペシャンコに潰される未来は目前だ。
あの子に殺されて死ぬのか。
それも仕方がないかもしれない。
何度も身代わりにした彼女が、自分を恨むのも、自分の話に耳を貸さないのも当然だ。
「──ロビンフッド!」
諦めかけた時、光の矢が赤子に突き刺さった。赤子は短い悲鳴をあげると、感電したみたいに腕を引く。
「うぅううあああっ!」
腕を抑え、悲鳴をあげながら、赤子は後ずさっていった。
後ろを見ると、そこには赤色の仮面を手にして立つ吾郎がいた。
もう子どもの姿じゃない、いつの間にか元の身長に戻っている──そう真理子が気がついた時には、吾郎は走り出していた。
吾郎は、真理子の横を突風のように駆け抜けると、ひと呼吸の間に赤子の前へと距離を詰める。そして、しっかりと左手に握られたビームサーベルで赤子の左足を切り裂いた。
うわぁあん、と赤子は泣き声をあげて、前へ倒れて四つん這いになる。
「痛い、やだよぉ……!」
もうとっくに戦意はくじかれていたのだろう。赤子は、ろくな反撃もせずにぐずぐずと泣いている。
次の瞬間に、決着はついた。
「──終わりだ」
そう言って、吾郎はひれ伏す赤子の胸を深々とサーベルで突き刺す。
「どう、して……」
赤子の体は、真っ黒な泥になって崩壊し始めた。
「嫌、嫌、ママ、お兄ちゃん……お願い、真理子をひとりにしないで」
そう言って崩れかけの腕を伸ばすけれど、その先には何もない。
跡形もなく黄金の赤子の体は消え──残ったのは、元の小さな少女の姿だった。
迷子の子どもみたいな途方に暮れた顔で、地面にペタンと座り込んでいる。もうなんの敵意も、彼女からは感じない。
「……あれを攻撃しても、君に害はないみたいだね」
いくらかほっとした顔で、吾郎はこちらを振り返って見た。その姿は、寸分違わず真理子の知る吾郎だ。
「吾郎くん……元に戻ったんですね」
「君の見せた映像が何か変化を起こしたみたいだ。ビデオの再生が終わった時、元の姿に戻っていたから」
どういう原理かは分からない。
でもきっと、あのビデオを見終わったとき、”あの子”は認めてしまったんじゃないかと思う。もう母も兄も迎えに来ないこと、あの記憶が現実であること。だから、吾郎の姿を歪めていた力を失い、干渉できなくなった。そんな気がした。
真理子は、再び彼女に目を向ける。
小さな少女は、コンクリートの床にひれ伏して、ぐすぐすと鳴き声が上げていた。
「お兄ちゃん、助けて、お兄ちゃん……」
傷だらけの彼女は泣き続けていた。母を呼んでも、兄を呼んでも、意味なんてないのに。
でも、もうその姿に怒りが湧くことはない。ただただ、哀れだと思った。
手の中にある黒塗りのビデオテープをぎゅっと握りしめると、真理子は彼女の前にしゃがみ込んだ。
「ずっと不思議だったの……どうしてあなたがこんなに小さいのか。その理由が、分かった気がします」
「え?」
無垢な金色の瞳で、少女は真理子を見上げた。
「みんなからピアノを褒められるようになって、どんどん忙しくなっていって……あなたはきっとそんな時に生まれたんです」
小学生の時の真理子は、息をつく間もないくらいに目まぐるしい毎日を送っていた。
私立のインターナショナルスクールに通って、放課後は塾にそろばんにピアノ、バレエに語学──習い事が三つや四つ入る日も少なくなかった。そのすべてで一番を取ろうと、母を喜ばせようと頑張った。
だけど、どうしても足が進まなくて、お腹がキリキリと痛くて、習い事に行きたくないと大袈裟に泣いてみせた日があった。
そうやって涙を流したら、昔は母が抱きしめてくれたから。
だけど母は、「そんなふうに感情を出すのはもっと小さな子どもがやること」なのだと言った。
それを聞いた時、悲しくも辛くもなかった。ああもう私が泣いても母は慰めてくれないのだと、なんだかストンと腑に落ちた。そしてすぐに涙を拭いて、習い事に向かった。
その時から、”あの子”は生まれたのだ。
激しく感情が揺らされる時、どうしても発散しなければ耐えられない時、彼女は表に出てきた。真理子よりもずっと小さくて幼くて、いくら泣いて甘えても許される子ども。いや、違う。弱くて幼稚な自分を、自分が許すために生まれた存在。それが彼女だった。
「あなたは私の一部だったのに、私はそれを否定して、あなたのことを軽蔑して嫌って……なのに、どうしても感情が溢れ出しそうになる時はすべてあなたに押し付けて。父から受ける暴力も、あなたに負担させて。ついには、あなたも私を否定するようになった」
静かに真理子の言うことを聞いていた少女は、やがて頷いた。
「そうだね。あなたは、真理子……。真理子たち、二人とも、ママに捨てられちゃったんだね? そしてお兄ちゃんも、もうどこにもいない。真理子が出かけている間に、死んじゃった」
そう震える声で口にする彼女の無垢な瞳に、涙が溜まっていく。
「やっぱりダメだよ、真理子には耐えられない。あなたは強いかもしれないけど、真理子は弱いから。だから、ここができたんだもん。不完全で、ちっぽけで、もう崩れそうだけど……でもここがあれば真理子は辛いことを忘れられる」
「……私も、強くなんてないです」
本当に強かったら、そもそも目の前の少女が生まれることもなかったはずだ。
「だけど、きっとそれは私たちが半分に分かれているから。片割れの目だけじゃなくて、両目でしっかりと現実と向き合うことができたら、もしかしたら変われるのかもしれない。そう思うんです」
目の前の少女は、ハッとしたような表情になる。
「真理子を、受け入れるの……?」
彼女の言葉に、真理子は頷いた。
一つの人間に戻るためにどうしたらいいのかなんて分からないけれど、本気でそう思っていた。
確かに今まで、真理子は二つの人格を作ることによって、心の均衡を守っていたのかもしれない。そのおかげでここまで生きて来られたことは間違いない。
だけど、こんな方法はとっくにうまくいかなくなっていた。半分の心では抱えきれない痛みに直面して、真理子は自分のもう一つの人格に押し付けることを選び、”あの子”はこの歪んだ世界で逃避することを選んだ。
このままじゃ、前に進むことはできない。
「そっかぁ……うん、いいよ。真理子、戻るから」
彼女はどこか晴れやかに笑うと、二人の様子を静観していた吾郎の方を見た。
「ねえ、吾郎くん」
「何?」
彼女の視線は、ひどく真剣だ。
立ち上がると、吾郎の前まで歩いて、銃を持つ彼の手へゆっくりと手を伸ばす。そして、その左手を掴むと、銃口を自分の胸に向けて上げさせた。
「真理子のこと、撃って」
射線を逸らそうとする吾郎を押し留めて、「大丈夫」と彼女は笑った。
「真理子は不完全なシャドウだから。半分に裂かれた心の影。だから、これでいいの」
「シャドウ?」
「うん、そう、シャドウ。……ねえ、お願い。もし真理子が元の場所に還るなら、その引き金を引くのは、吾郎くんがいい」
吾郎が確認するようにこちらに視線をやった。それに、真理子はゆっくりと頷いた。
彼女が言葉にするシャドウというものが、どういう存在かは分からない。でもこうするのが正しいのだという、言葉では説明できない確信があった。
少女は、凪いだ瞳で真理子を見た。
「ねえ……それ、外に出るまで持っておいて欲しいの」
彼女の視線の先にあるのは、真理子が手に持つ黒塗りされたビデオテープだ。
「あなたにとっては嫌なものかもしれないけど。でもやっぱり、真理子にとってそれは宝物だから」
「これが……?」
「うん」
これは自分たち二人にとって、塗りつぶしたいほど嫌な記憶が封じられたビデオテープなのに。そう思うけれど、たぶんこれで彼女と話すのは最後になるのだろうという、そんな気がした。
「分かりました。必ず、持ち帰ります」
「うん! それから……」
幼い少女は、吾郎の顔を照れたような顔で見上げた。
「最後にもう一度、真理子のことを呼んでくれない?」
そう頼まれて、吾郎は怪訝そうに口を開く。
「……真理子ちゃん?」
「うん! ふふ、吾郎くんにそう呼ばれるの、なんだかくすぐったくて嬉しかった。……あっ、あとやっぱり、頭も撫でて!」
今度は少し呆れた顔になってから、吾郎は息を吐いた。
「君は最後までわがままだね。……でも、いいよ」
そう言って、手を伸ばして彼女の小さな頭に触れる。
花が綻ぶように、少女は笑った。
「ありがとう。大好きだよ、吾郎くん。大好きなのに、たくさん迷惑かけてごめんね。でも大丈夫、真理子、ちゃんと還るから」
そう言って彼女は、撃てと言うようにじっと吾郎を見た。
どこか緊張した面持ちで、吾郎は銃口をぴたりと彼女の胸元に向ける。
彼女は少しの恐怖も抱いていない顔で、ゆっくり頷いた。
吾郎が引き金を引き、銃口から放たれた光線が彼女の胸を貫いた。
あっけなく彼女の小さな体は倒れて、そして、ふっと消える。
彼女の姿が掻き消えると同時に、がらがらと遠くで音が響いた。
「……ねえ、音が」
「音?」
「なにかが揺れる音がしませんか?」
違和感を口にするやいなや、床が突き上げるような激しい揺れに襲われる。
「な、なにこれ、地震!?」
「建物が崩れ始めている……逃げるぞ!」
頷いて走り出すが、その時にはもう遅かったらしい。
コンクリートの床に大きな亀裂が走り、真理子たちはその下の奈落に落ちていった。
崩れた瓦礫とともに、どこまでも落ちていく。
そんな中、青色の蝶がひらひらと上へ舞って行くのが見えた。
”あの子”から頼まれたビデオテープだけはしっかり持っておかないとと、真理子はぎゅうっと力を手に込める。
すると、クシャリと手の中のものが音を立てた。指に返ってきたのは、柔らかい紙のような感触だった。
あれ、どうして? そう疑問に思う意識も、遠のいていく……。
「真理子、真理子!」
誰かに体を強請られて、真理子は眉根を寄せた。
長い長い夢を見ていた気がする。でも、まだ寝足りない。
「もう少し、寝させて……」
「──真理子、起きなさい」
少し独特な癖のある低い話し声、これは父の声だ。
恐怖に胸が詰まり、急激に意識が浮上する。
「真理子、どうして家の外にいるんだ?」
「ぁ……」
体を起こして、周囲を見渡す。あたりに広がる豊かな緑と、刈り込まれた草木。横には、赤煉瓦の道。
どうやら、真理子は玄関の外の庭で寝ていたらしい。
どこまでが夢だったのだろう? あの悪夢のようなおもちゃ屋、真理子の生み出した歪な漫画喫茶、あれはすべて本当にあったことだったのだろうか。
でも、殴られた記憶のある顔や肩や脇腹が痛む。岡倉の家から連れ帰られたのは、ただの悪い夢じゃないはずだ。つまり……。
「説明しなさい、真理子」
真正面にいる啓次も、本物だ。
周囲の景色が、急速に色褪せていく。父の失望した顔以外、なにも目に入らない。
「あ、えっと、真理子、は……? 私は……」
混乱の中、口を開くけど、なにを説明すればいいか分からない。説明したところで、これから父がすることを変えられるわけもない。
ただ一つ分かるのは、今も真理子はどうしようもなく弱いままだということだった。
「もういい、また家から出ようしたんだろう」
啓次はこちらに腕を伸ばしてくる。
怖い。
それでも、指一本、表情ひとつ、真理子は動かすことができない。
「どうしてお前はいつも──」
そう言いかけた啓次の後ろで、ガツンと鈍い音が響いた。ぐらりと、啓次の身体が傾く。
「出ようとしたんじゃなくて、出ていくとこなんだよ、マヌケが」
どさっと倒れた啓次の背後には、煉瓦を手に持った吾郎が立っていた。
不機嫌な顔でレンガを投げ捨てると、真理子の腕を引いた。
「行くよ」
起き上がった父が怒号をあげるが、その声を無視して二人は走った。
道路に停めてあった自転車にまたがると、吾郎は「早く」と急かしてきた。
急いで、真理子はリアキャリアに横から腰掛ける。
「ちゃんと掴まってろよ」
「はいっ……!」
真理子がしっかり腰に捕まると、吾郎はペダルをぐんぐんと漕いで、スピードをつけはじめた。
「待て、警察を呼ぶぞ!」
啓次の怒声も、あれだけ出られないと思っていた家も、どんどん遠ざかっていく。全てを後ろに置いて、自転車は全速力で前進していく。
自由だ、と思った。
頬に当たる風と、腕から伝わってくる吾郎の体温が心地よくて、真理子は笑い出していた。
言葉を交わさないまま、二人は自転車に乗っていた。
明大前駅の駐輪場で自転車を停めると、「ここからは電車で行こう」と吾郎は言った。
どこへ向かうつもりなのか、まだ聞いていなかった。でも今はとにかく、遠くへ逃げなければいけない。父からも、岡倉からも。それだけははっきりしていた。
雲ひとつない空を、沈みゆく夕日がオレンジ色に染め上げていた。
吾郎と永遠にお別れだと思って出かけた朝から、まだ八時間程度しか経っていないなんて。その間にあのおもちゃ屋に迷い込んで逃げ出して、次は漫画喫茶で自分の分身と対峙しただなんて、信じられない。
「この自転車とも、ここでお別れですね」
元々は兄のものだった自転車を、真理子は感慨深く撫でた。
またこの自転車に乗ることがあるのか、分からないのだ。
背が伸びたら真理子を後ろに乗せて走るのだと兄は意気込んでいたけれど、結局、一度も一緒に乗ることはなかった。
「……やっぱり私、あなたの自転車に乗るの、なんだか好き」
「ああ、『真理子ちゃん』が一度、そう言っていたね」
そうだっただろうか? 確かにそんなことを言った気がする。
吾郎の言葉に頷くと、真理子はずっと握りしめていた手を開いた。
手のひらに乗っているのは、握りつぶされた紙。自転車に乗っている時もずっと命綱のように握りしめていたせいで、くしゃくしゃだ。
「これ、あの場所で手に持っていたビデオテープ……落ちている間になぜか紙になってたんです」
つるりとした素材の紙を開いた。
思ったとおり、表はあの漫画喫茶の伝票だ。ひっくり返して、裏に書かれた文章を読む。何が書かれているかは、もう知っているけれど。
「真理子へ。お兄ちゃんを連れて迎えにくるので、いい子で待っていてね」
「それは、君のお母さんが書いたもの?」
「うん……」
母の筆跡は、とにかく焦って書いたからか乱暴で汚い。
こんなゴミ同然のものが、宝物だなんて。母に捨てられて一人きりになった後、こんなものを心の支えに何度も読み返していたなんて。
込み上げてきた笑いを殺しきれなかった。真理子はぶっと吹き出して笑って、それから、震える声で話し出す。
「知っていたんです。こんなの、嘘だって、最初から……」
子どもの真理子は、妄想の世界の中で、母が迎えにきてくれる日を待っていた。
大人の真理子は、母に置いて行かれたと完全に諦観していて、思い出すこともなかった。
じゃあ、本当の私の感情は?
どうしようもない苛立ちと、震える手と、紙の上にこぼれ落ちる雫が、その答えなのだろう。
「──悔しい! こんなもののどこが、宝物なの?」
「……真理子さん」
「もうあんな人に何も期待していない。求めてなんかいない。なのに、どうして……!」
これはあの子の宝物? それとも私の宝物?
もう、なにもかもが、ぐちゃぐちゃだ。
真理子は手の中の紙をびりびりに破くと、流れてきた風に向かって手のひらを開いた。
「嘘つき。大嫌いよ、死んじゃえばいいのに」
散り散りになった紙片が風に飛ばされていくのを見ながら、母と決別するようにそう言った。