ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第十九話 繁華街の夜

 女子トイレの鏡に写る自分を、真理子はまじまじと眺めた。

 メンズのグレーのパーカーとぶかぶかのバギージーンズ。長い髪は一つにまとめて、キャップの中へ。そうして男の子のような格好をしている自分は、別人みたいだった。一度もしたことない格好だから目が慣れない。

 

「真理子さん、サイズは大丈夫そう?」

「はい」

 

 外から声をかけられて、駅構内のお手洗いから急ぎ足で出る。

 着替えたのは変装のためで、今はまだ移動している最中。こんなところで時間を潰している暇はないのだ。

 

「吾郎くんがこういう格好しているの、なんだか意外」

 

 着替え終わった吾郎は、黒のパーカーに短パンとカジュアルな格好をしていた。

 彼のイメージとはまったく違うけど、でも似合っていないと言えば嘘になる。目深に被った大きな黒いフードが、逆に中性的な容姿を強調して見せている。

 

「別にラフな格好くらいするよ。君の家にいたときは、啓次さんの理想の息子像に合うように服を選んでいたけどね。それより……」

 

 吾郎は手を伸ばして、真理子のキャップを掴んでもっと深く被せてきた。

 

「あの有名な明智真理子とわからなくても、女の子だとバレたら絡まれる。なるべく顔は見えないようにしてて」

「分かりました」

 

 頷いて、吾郎と一緒に歩き出す。

 今いるのは、新宿の繁華街だ。夜にこんなところを子どもだけで歩くなんて、真理子は落ち着かない気持ちになった。

 

 でも、どこかわくわくしているところもある。多分、吾郎が先導してくれているからだろう。

 

 吾郎は慣れた足取りで進んでいった。人の波の中にいれば、誰にも注目されることはない。

 

 そのまま裏通りに入って、人通りは少なくなっていく。

 真理子は、言われた通りにずっと顔を見せないように俯いていた。

 

「ねえ、そこの子〜。こんなとこで夜遊びしてたら、危ないよ」

 

 だけど、運が悪かったらしい。

 酔った大学生らしき男たちが、行く先を塞いできた。茶髪の体格のいい男と、青のハイライトの入った黒髪の小柄な男の二人組だ。

 

「家出中? 行くとこないなら、うちに連れてってあげようか」

 

 まずいなと思って、真理子は吾郎の背中に隠れる。

 

「そーそー、こんなのよりずっと可愛い服も買ってあげるよ」

 

 黒髪の男が、吾郎のフードを持ち上げようとする。

 そこでやっと、吾郎を女の子と勘違いして声をかけてきたのだと真理子は気づいた。

 

 吾郎は伸ばされた手を不快そうに振り払う。

 

「放っておいてもらえませんか。俺たち、急いでいるんで」

 

 まだ変声期を迎えていない声を低めて”俺”という一人称にしたあたり、間違われたのがかなり不服だったらしい。

 

「うわあ、男の子のフリしてる〜。ハハ、かわいっ」

 

 しかし、依然として誤解は解けない。

 埒が開かないと思ったのか、吾郎は真理子の腕を引いて歩き出そうとするが、男たちが囲うように距離を詰めてくる。

 

「つれないこと言わないでさあ。家出中でしょ? 弟くんも一緒でいいからさ、一緒に行こうよ」

 

 ……それにしても、真理子の男装の方はいい線いっているらしい。それはそれで、なんだか複雑だ。

 

「じゃあさ、ご飯だけ! 美味しいもの、奢ってあげるよ」

 

 男たちは酔ってちょっかいを出してきているだけのようだが、どうしたものか。

 

 うんざりした顔の吾郎が何か口を開きかけた時、

 

「──そこ、いい加減にしろよ」

 

 後ろから、低い声がかけられた。

 

「行き場のない子どもを追い詰めるのが、そんなに楽しいか?」

 

 どうやら、誰かが仲裁に入ってきてくれたらしい。

 しかし振り向くと、そこに立っているのは少し年上の少年だった。白Tシャツと灰色のパーカーにジーンズと無難な服を着ていて、不良らしさはなかった。

 

「はあぁ? なんなんだよ、いきなり」

「おい、ちょっと待て」

 

 今にも突っかかりそうな黒髪の男の肩を掴んで、茶髪の男が焦った声を出す。

 

「待て、あいつ太陽のネックレスつけてる……」

 

 太陽のネックレスが一体なんなのだろう? そう首をひねる真理子と違って、黒髪のナンパ男は顔色を変えた。

 

「はあっ!? まじかよ」

 

 すっかり酔いが覚めたのか、男たちはコントのようにそそくさと逃げていく。

 

 吾郎は、状況を静観する少年の方を向いた。

 

「助けてもらったようで、どうも」

 

 そう言って歩き出そうとするが、「待って」と制止を受ける。

 吾郎は、面倒そうに深いため息をついた。

 

「……なんです?」

「この辺り、最近物騒なんだよ。行くところがないなら、保護してもらえる場所を知っている。同い年くらいの女の子もいるから、彼女たちに迎えにきてもらうこともできる」

「行く宛はあるので、結構です」

 

 とりつく島もない雰囲気を察してか、少年は「そうか」と引き下がった。

 

 よかったと真理子は内心安堵した。相手が善意で声をかけてきただけの可能性はあるけれど、初対面の人間の言葉を信じる気にはなれない。

 そう思った矢先、少年が続けた言葉に小さく息を呑む。

 

「それなら、一つだけ。この辺りに、炊き出しをしている岡倉陽菜さんという女性がいるんだけど……彼女には絶対に関わっちゃいけない」

 

 思ってもないところで、知っている名前を聞いた。

 

 真理子の隣で吾郎は少し目を見開いてから、探るように少年を見た。

 

「なぜですか?」

「この辺りにいる子どもに、親には連絡せずに衣食住をサポートしてくれるって言葉をかけてくるんだ。でもトラブルになったっていう話をよく聞くし、脅かしたいわけじゃないけど、彼女と揉めた後に顔を見なくなった子も中にはいる。何があっても、岡倉陽菜には近づかない方がいい」

「……ご忠告どうも」

 

 軽く頭を下げてから、吾郎は歩き出す。

 

 岡倉家の犯罪は、これだけ大事になっているのだろうか? だとしたら、どうして警察は介入しないのだろう。

 こんなことどうにかしないとと考えてから、真理子は自分も今は家出中の子どもなのだと思い出した。自分は追われる側で、ここには網がはられている──そう気を引き締めて、キャップを深く被り直す。

 

 

 吾郎が言っていた行き先とは、ラブホテルのことだったらしい。

 ピンクの蛍光色の看板には、休憩と宿泊の料金が書かれている。

 

 エントランスから中に入ると、フロントは無人で、支払いのための機械がポツンと一台置いてあった。会計を済ませながら、吾郎は静かに話し出す。

 

「ここ、無人会計だし見張りもザルなんだ。一人だったら路上で一晩明かしてもいいけど、さすがに君にそんなことさせられないしね」

 

 あいまいに頷きながら、内心で真理子は少し気圧されていた。

 路上や未成年は出入りできないホテルで一晩過ごすなんて、真理子は想像したこともない。手慣れた様子で選択肢を検討する顔に、彼の今までの人生を垣間見た気がしたのだ。

 

 エレベーターに乗りながら、ふと真理子は口を開く。

 

「前もここに誰かと来たこと、あるんですか?」

 

 口にした瞬間に、後悔した。

 無神経だし、真理子にはなんの関係もない話だ。今までの自分だったら、こんな失言はしない。

 

 真理子の表情から焦りを読んだのか、吾郎は呆れた顔を向けてきたけれどなにも言わなかった。

 

 

 

 初めて見たラブホテルの内装は、思ったより普通のビジネスホテルみたいだった。

 

「ベッドは君が使っていいから」

 

 ドアの前で立ち止まって部屋をまじまじと観察していたところに、吾郎から声をかけられる。

 

「ん……ありがとうございます。でも先に、シャワー浴びてきますね」

「そう。僕は買い物に出かけるけど、ルームキーは持っていくから。誰が来ても絶対に開けないでね」

 

 子どもに言い聞かせるような口調に、いささかムッとする。

 

「ちょっと、さすがに子ども扱いしすぎじゃないですか?」

「実際そうだろ」

「そういうあなたも、子どもですよね。……というか、さっき思ったんだけど、吾郎くんって本当に十五歳? てっきり兄と同い年とばかり思っていたけど、声変わりもまだだし、喉仏も出てないし、実は私より年下だったりしませんか」

「いいからお風呂、入りなよ」

 

 吾郎はさっさと会話を打ち切って、部屋から出ていってしまう。

 改めて、自分は吾郎のことをなにも知らないのだなと実感してしまう。

 

 暗くなる気持ちから逃げるように、真理子はシャワールームに入った。

 

 


 

 吾郎が外から戻ってくると、真理子はすでに風呂から上がって、備え付けの寝巻きのガウンに着替えていた。

 

「あの……」

 

 なにか話したそうにしている彼女に、ひとまず食事にしようと吾郎は言った。

 興奮からか空腹は感じなかったけれど、昨日の夜から何も食べていなかった。たぶん彼女も同じだろう。

 

「好きなのを選んでいいよ」

 

 と言って、吾郎はテーブルの上に買ってきた食べ物を広げる。

 

 

「これ、けっこう美味しいですね」

 

 コンビニの菓子パンを、真理子はちぎって口に運んでいく。

 いつもより食べるペースがかなり早い。あまり食欲はなさそうだったが、一度食べ出したらお腹が減っていたことに気づいたのかもしれない。

 

 落ち着いてきたことだし、そろそろ切り出すか。

 吾郎は、わざとらしいほどに完璧な笑顔を浮かべた。

 

「気難しいお姫様のお口にあったようでよかったよ」

 

 思ったより嫌味っぽい声音になってしまったなと思いつつ、食べ終わったりんごの芯をゴミ箱に放り込む。

 

「……あなたって、私のことそういう風に思っていたんだ」

 

 プライドの高い真理子は、自分への侮辱に敏感だ。狙い通り、すぐに不服そうにじとっと並んできた。

 

「実際、君、かなり注文の多い彼女だったからね。同じ服は一ヶ月の間に着ないで、他の女の子とは三秒以上目を合わせないで、雰囲気の悪いお店じゃお茶も飲まないから、とか」

「それは”あの子”が勝手に……」

 

 気まずそうに目を逸らしてから、真理子は観念したようにため息をついた。

 

「まあ、私が思いそうなことですけど」

「記念日のプレゼントのおねだりも、具体性のないわりに難易度の高い物ばっかり要求してくるから、竹取物語ごっこかなって思ってた」

「確かに、ブランド物じゃないヴィンテージの時計が欲しいと言ったのは難しかったかも。よく見つけてきましたね」

「あと、ケータイの着信音を僕の声にするのやめてほしかった。いつも隣にいるから、いやでも聞かされるし。お手伝いさんもいる前で僕の声の着信が鳴るのってかなり拷問だったよ」

「その割に、すごく快く録音させてくれた気がしますが……」

「それに、初めて一緒にオペラに出かけた日。こっちは初観劇なのにエスコートされて当たり前みたいな態度もどうかなと思った」

「落ち着いていたから慣れているのかと思ったんです。というより、分からない時には正直に分からないというのも、マナーの一つですよ?」

 

 さて、嫌味の応酬は、こんなものでいいだろう。もう確認は済んだ。

 

「──なるほど。記憶は、しっかり二人分あるみたいだね」

 

 今の真理子には、二つの人格どちらの時の記憶もあるようだった。思い出そうと苦労する様子もなく、ごく自然に過去のことを話している。それこそ、自分でもそのことに気づかないほど自然に。

 

 真理子は目を丸くして、

 

「もしかして、その確認のために悪口を言ってきたんですか」

「二割くらいは」

「残りの八割は、なんなの?」

「君の記憶の確認に使えそうな記憶を掘り返していたら、思い出して腹が立った」

 

 ふ、と真理子は親しみのこもった微笑を浮かべる。

 

「あなたって、いじわる」

「否定はしないよ」

「素敵な王子様だと思ったのに」

「見る目がない」

「そう? でも吾郎くん、私のこと、何度も助けてくれた。やっぱり私、見る目があるのかも」

 

 冗談めかして片目を瞑りながらそういう真理子に、うんざりしたため息をつく。

 善意で彼女を助けた王子様のように思われたのなら、迷惑だ。

 

「岡倉のことは僕が巻き込んだようなものだったし、おもちゃ屋で助けられたからね。借りを作ったままなのが後味悪かっただけだ」

「助けたっていうほどのことは、何もできてなかった気がするけど。……ねえ、ところで、吾郎くんが呼び出しているあのスタンドみたいなの。あれって一体、なんなんですか?」

「さあね、あれの名前がロビンフッドっていうことくらいしか、僕にも分からない」

「ロビンフッド……あの義賊の?」

 

 吾郎は頷いた。

 

 本当のことを言えば、ロビンフッドと、あともう一体何かの存在を自分の中に感じる。

 ただそんなことを今真理子に言ったところで混乱させるだけだし──何より、その残るもう一体の部分はなにか禍々しい、決して人に見せてはいけない存在なのだという強迫観念が胸のうちにあった。

 

 漫画喫茶で追い込まれた時も、もう片方の力を呼び出すべきか迷った。

 だがあれは誰かに見せるべきものではない、決して表に出すべきものじゃないという警笛が、それを強く静止した。

 命の危機にあってすら、喚び出すのを躊躇するもの。それだけの何かがあの力にはあるのだ。

 

 そう考えて、ふとおかしくなった。

 禍々しい力が自分の中にあるだなんて、昨日までの自分に説明してもついに狂ったのかと冷笑を返されるだろう。

 

 しかし、本当にそうとしか言えないのだから仕方がない。

 

 この世界に対する認識が、あの力に覚醒してから大きく変わったのを感じる。

 

 異世界のことも、あの力のことも、そうだ。

 今の吾郎は、体験したこと、感じたこと、知覚したことの全てを、ありのままに受け入れてみようという気になっていた。

 

「神が悪魔か知らないけど、これは、誰かが与えてくれたチャンスなんだ。あの力があれば、今までの全てを引っくり返せる」

 

 知らず知らずのうちに、声に熱が入っていた。

 

「何しても殴り返されないと思って好き勝手していたやつらも、高いところで見物していたやつらも、引き摺り下ろして後悔させてやる。やっと」

 

 ──やっと、あの男に手が届く。

 

 そこまで言いかけて、口をつぐむ。

 これでは真理子と会話しているというよりも、自分の考えをそのまま垂れ流しているだけだ。

 

 でも、高揚を抑えることができなかった。

 今まで負け続けだった自分に、ようやく、何かの光明が見えたのだ。

 

 現に、真理子のことをあそこから助け出した。岡倉も、啓次も、どうにかできる。獅童すら、この力があれば陥れることができるはずだ。

 

 今まで一度たりとも感じたことのない万能感、自分の人生の舵を自分が握っているのだという充足感が、身体を駆け巡っていた。

 

「……後悔させる、か」

 

 真理子はポツリとつぶやく。

 

「あの異世界は、結局なんなんでしょう。あそこにいるドッペルゲンガー……えっと、シャドウとあの子は言ってましたっけ? そのシャドウを傷つけても、元の人間に影響はないみたいみたいですよね。現に私も吾郎くんもこうして息をしているし、残念ながら岡倉の目も無事のようでした」

 

 岡倉の五体満足の姿を見てがっかりしたのは吾郎も同じだ。

 でも彼女があまりに悔しそうに「残念ながら」なんて言うものだから、少し笑ってしまった。虫も殺せない深窓の令嬢のような見た目とは裏腹に、闘志が高い。

 

「そうだね。あっちの世界で人を斬ろうが殺そうが、関係ないみたいだ」

「じゃあ、どうやって」

「でも、あそこで見る心象風景にも、シャドウが語る言葉にも、嘘はない」

 

 本来ならば隠しておかないといけないようなことを、ありありと映し出す異世界と、全て勝手に暴露してしまう分身。そんなものの存在が悪人にとってどれだけ致命傷になるかは言うまでもない。

 

 何をしても現実に影響がないとしたら、むしろ都合がいい。

 あの世界で岡倉のシャドウを拷問して秘密を吐かさせようと、現実のあいつには知りようがないということになるのだから。

 

「そうですね。でも、あのシャドウを傷つけて、まったくの無影響というわけではない気がします」

 

 真理子は目を伏せて、静かな声でそう言った。長いまつ毛が瞳に影を落とす。

 

「私の分身が死んで、私の中に帰ってきたからでしょうか。自分の意識の構造がぐるぐると組み変わっていくような、そんな奇妙な感じがするんです。今までは狭まっていた視界が帰ってきたような、そういう感覚が。あなたにはないですか?」

「……僕は、そこまで大きな変化は感じないかな」

 

 顎に手を当てて、吾郎は考えながら話す。

 

「そもそも、僕たちの状況には、大きな違いがある。一つ、君の分身は、金色の目をしていた。二つ、あの異世界はおそらくは君の意識から生み出されたものだったけど、僕の分身がいたのは岡倉の妄想の世界だった。三つ、君の分身の死とともにあの異空間は消えたけど、僕の分身が死んだ時にそんなことは起きなかった」

「言われてみれば、ほとんど共通点はありませんね」

 

 ふう、と真理子はため息をついた。

 

「本当、分からないことばっかり。なんというか、今までの人生で培ってきた常識が、たった一日で粉々にされた気分です。当たり前のようにあんな異世界があるなんて」

「どっちにしろ、もう今日は何も考えないで休んだほうがいい。明日は朝早くから動き出す予定だから」

「そうですね」

 

 こくりと小さく頷いてから、真理子は不安そうにこちらを見た。

 

「朝起きても、ここに吾郎くんはいるんですよね?」

「当たり前だよ」

 

 半分は嘘になるかもしれない言葉と知ってて、そう答えた。

 

 吾郎は、明日の朝一番に真理子を彼女の祖父である清水誠一に保護させるつもりだった。

 

 手持ちの現金には限りがあるし、このまま逃げ続けるなんて土台無理な話だ。何より吾郎自身、彼女を連れて逃避行なんてするつもりはない。

 

 真理子から聞いた話によると、清水誠一は父親よりもまともな人間だという。

 そして何より、今なら虐待の確たる証拠が彼女の身体にある。すべての記憶を取り戻した今の彼女なら、なにが起きたのか理路整然と祖父に話すことができるはずだ。

 

 そして真理子と別れたら、もうその後は永遠に会わないつもりだった。

 

 だが朝起きても傍にいると聞いて心から安堵する真理子に、そのことを伝えるのが得策だと思えなかった。

 母親に置いて行かれた記憶は、彼女にとって相当のトラウマになっているようだ。余計なことを言って感情を乱すより、今夜はゆっくり寝たほうがいい。話すのはもう少し落ち着いてからでも遅くない。

 

「じゃあ、吾郎くんの紳士さに感謝しながら、私はベッドで休むことにしようかな」

 

 少し無理をしたみたいな明るい声を出して、真理子はクイーンサイズのベッドの上に飛び乗った。

 吾郎は電気をスイッチで消すと、ソファの上に寝そべる。瞳を閉じると、

 

「ねえ」

 

 もぞもぞとベッドの上で寝返りをうちながら、真理子が声をかけてきた。

 

「何?」

「さっき、吾郎くん、女の子と間違われてたね」

「……それが、どうしたの」

「いえ、面白いなって思って。あんなに都会の繁華街に慣れた様子だった吾郎くんが、女の子は絡まれやすいから男装しないとと言っていた吾郎くんが、身をもってその危険性を実証してくれるなんて」

 

 思い出し笑いをしているのか、真理子の無邪気な笑い声が聞こえてくる。

 こういうところは、あの幼い真理子ちゃんそっくりだ。

 

 同じ年の女の子と比べてひどく大人びた表情から、突然年相応の幼ない顔を覗かせる。そのアンバランスさが、本来の彼女の性格なのかもしれない。

 

「楽しそうで結構だけど、寝るつもりはないの?」

「ごめんなさい。思い出したら、どうしても言いたくなっちゃって」

「まったく……」

「そんなに怒らないで、もう静かにしますから」

「はいはい、おやすみ」

「おやすみなさい、お姉ちゃん」

 

 からかいを存分に含んだ声でそう言ったあとにすぐ、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてくる。

 

「いい性格しているよ、本当」

 

 悪態をつくが、隣で熟睡している真理子には聞こえていない。

 そういえば、静かな場所だったら五秒で寝られるのが特技だと、前に彼女は言っていた。コンサートピアニストとして世界公演している時はいろんなホテルで寝泊まりしたから、それで鍛えられたのだという。

 

 大抵のことは一度でできてしまうと自負している吾郎だったが、その特技ばかりは羨ましく思ったから、印象に残っている。

 

 なにせ吾郎は、他人がいたり鍵がかからない場所だとうまく寝付けない上に、眠りも浅い。

 一日や二日程度ならば、目を閉じて横になる程度でどうにかなる。だから今日もそうやってやり過ごすことになるのだろうと思っていた。

 

 だけど、真理子の平和な呼吸を聞いているうちに、瞼が重くなってくる。

 早朝に啓次に車に乗せられた時から、さすがに色んなことがありすぎた。気がつけば、吾郎も深い眠りについていた。

 

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