ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第二十話 嵐の予感

 クミンやコリアンダーなどのスパイスを正確に測って混ぜ合わせて、ジャガイモと人参と鶏肉を角切りに。大鍋にたっぷり入れた水に野菜の切れっぱしを入れて、きっかりと時間を測りながら出汁を取る。

 

 一色若葉は、慣れた手つきで調理を進めていった。

 

 研究職とシングルマザーの両立は、簡単じゃない。

 予算ギリギリの研究所では、すべての機材が古く壊れやすい。その上メンテナンスも自分でやる羽目になるし、何日も徹夜で脳を働かせ続けないといけないことだってザラにある。

 娘の双葉は他の子と比べて手のかからない子どもだったけれど、学校ではあまり上手くいっていないみたいだった。仕事が忙しいからといって、娘が悩んでいるときに傍にいられないような母親にはなりたくなかった。

 

 そうして日々積み重なっていくタスクの中で、料理は一番の時間の無駄だった。

 都心に住んでいれば外食だけでどうにもなるし、今時の冷凍食品は栄養に気を遣ったものも多い。どうあっても避けられない洗濯や掃除と違って、料理は省くべき手間だ。

 と、以前はそう考えていた若葉だけれど、いつからかカレー作りだけは好きになっていた。

 

 カットされた野菜の表面積、加熱する温度と時間に、スパイスの比率──あらゆるファクターを揃えれば、必ず同じ結果が約束されている。理論的なことは心地がいい。

 

「久しぶりのお母さんのカレー、楽しみだあ!」

 

 それに何より、可愛い娘のまばゆい笑顔が見られる。

 

「今日は絶対おかわりする。あ、でも、二日目のカレーが一番美味しいって言うし……」

 

 まんまるの瞳をさらに大きくさせて、双葉はシステムキッチンの調理台をわくわくと覗き込んでいた。あと少しで中学二年生になろうというのに、こういうところはまだまだ幼い。

 それに加えて、背丈も他の子と比べてずいぶん小さかった。これを言うと双葉は拗ねてしまうので、口には出さないけれど。

 

「ふふっ。今日の分も明日の分も、ちゃんとあるわ。でも、いつも同じ味で飽きないの?」

 

 そう聞くと、双葉は両手で拳を作って「お母さんの味がいいんだ!」と言った。

 双葉はいつだって、無条件にきらきらとした尊敬を向けてくれていた。

 

 物心ついた時から特別な頭脳を持つ天才だと称賛を浴びてきた若葉だったけれど、言葉ひとつでこんなにも胸を満たしてくれるのは娘だけだった。

 このまま反抗期なんて来ないで、ずっと素直なままでいてくれたら、なんて思うのは親のエゴだろうか。

 

 そんなことを考えながら、玉ねぎを細かくみじん切りにしていく。

 飴色になるまで炒めた玉ねぎを、スープに溶け込むまでひたすら煮込む。それが、この特製カレーの極意なのだ。

 

「わっ!」

 

 とつぜん、双葉が叫び声を上げた。

 

「お、お母さん……! 玉ねぎ、目に沁みたぁっ」

「大丈夫? 水で流しましょう……って、あんまり目をゴシゴシしちゃ駄目よ」

 

 流水で目を何度も洗って、ようやく痛みが引いた後、双葉は頬を膨らませた。

 

「どうしてお母さんは平気なんだ?」

「うーん……メガネをしているからかしら?」

「ずるいっ。私もメガネがしたいぞ!」

 

 羨ましそうに見上げてくる双葉の鼻を、若葉はちょこんとつまむ。

 

「もう、贅沢なこと言わないの。お母さんの子どもなんだから、そのうち嫌でもすることになるのよ?」

 

 言って、ついつい想像してしまう。数年後の双葉はどんな子に育っているだろうか。

 

 メガネは、きっとかけているだろうな。双葉の父親は目が悪くないはずだけど、双葉は自分によく似ているから、近眼も遺伝してしまったはずだ。

 ひょっとしたら髪も伸ばしているかもしれない。今はパッツンと切り揃えられた前髪におかっぱ頭でも、お年頃になればお洒落に興味が出るはず。自由な子だし、奇抜な色に染めたいなんて言い出しても不思議じゃない。

 高校生ともなれば、好きな男の子もできるかな? もし双葉に彼氏ができるとしたら、とびきり優しい子だといいなと思う。飛び抜けて優秀なせいで学校では浮いてしまっている双葉を包み込んでくれるような、優しくて包容力のある人が。自分とは違って、一途で誠実な人と恋してほしいところだけれど……。

 

 ──プルルルと鳴り響くケータイの着信音が、娘の将来に思いを馳せる若葉の意識を引き戻した。

 

 誰だろうか? 久しぶりに娘とゆっくりできそうなのに、邪魔されたくない。

 無視するべきか迷った後、発信元が研究所だと気がついて、若葉は急いで手を洗った。

 

「ごめんなさい、双葉。仕事の連絡が来たから、ちょっとご飯遅くなるかもしれない」

 

 

 

「すごい……。すごいわ」

 

 仕事部屋でノートパソコンを開いて、若葉は送られてきたデータを見ていた。

 

 研究所の計測結果は、見たこともない形の3次元グラフとして出力されていた。

 

 感嘆の声をあげる若葉と違って、電話相手の院生の声は酷く沈んでいた。

 

「ついにセンサーが壊れてしまったんでしょうか? 僕たちの扱い方が悪かったのかな、こんな異常な値を弾き出すなんて。買い換える予算なんてないのに、どうしましょう……」

 

 確かにこの計測結果を見れば、そう考えるのも無理もない。

 

「いいえ、ちゃんとグラフを見て。今までと同じパターンも確かにあるでしょう? これは計測失敗じゃない……何かが起きたのよ。認知の爆発、崩壊といってもいい何かが」

 

 若葉の専門は、認知訶学──人の認知領域に関する研究だった。

 

 認知訶学は、精神医学界では異端児扱いで、論文を発表しても真剣に取り合われないことが多い。学生時代に若葉が専門を決めた時、「君の素晴らしい才能をドブに捨てるようなものだ」と教授たちから異口同音の反対を受けたほどだ。

 

 それほどまでに、認知訶学の歴史は浅い。

 政府支援を受けている研究機関は、世界広しといえど、若葉が働いている国立大学の研究所の一箇所のみ。だからこそ、若葉たちは認知訶学という学問の地位向上に貢献することを期待されていた。

 

 だが、研究所の成果は芳しくなかった。

 集合的無意識の観測方法について発表してきた学術論文は一定の評価を受けていたが、ブレイクスルーと言えるほどの決定打には欠けていて、このままでは次の科研費の交付は怪しいというところまで来ている。ここ最近の研究所では、「いつ閉鎖かな」なんて諦めたような軽口すら聞こえてくるほどだ。

 

 でも、そこに来て、認知世界に未曾有の巨大な揺れが計測されたのだ。

 

 昨日の計測結果である三次元グラフは、午後四時十五分前後の吉祥寺周辺で、前代未聞の異常事態があったのだと如実に語りかけてきていた。

 

 このグラフのX軸とY軸は東京全体の座標を、Z軸は認知世界から発せられる微弱なエネルギーの値を示している。

 一秒ごとにグラフが更新されて、その地にいる人間の精神の揺れを観測できるというわけだ。

 このプロットのパターンを関数に当てはめて、人間に理解できる形へ解読するというのが、認知訶学の主流の研究方法だ。

 

 それが、明らかに異常な値を叩き出していた。

 一体認知世界で何が起きたら、こんな乱気流のような形を形成するのだろう。

 

 惜しむらくは、センサーのほとんどが渋谷駅に設置されていたこと。データにはあまりにノイズが入っていて、一体どんな事象があったのか、まともに読み解くことはできない。

 

「急がないと。センサーをすべて取り外して、全て吉祥寺エリアに再設置するのよ。範囲を絞って、精度をあげましょう。……もし次同じことが起きた時は、発生源がどこだったのか、経度も緯度も正確に当てられるように」

「で、でも! そんなことをしたら、せっかく絶えずに計ってきた渋谷のデータは途絶えてしまいます」

「覚悟の上です。渋谷のデータは捨てます。責任はすべて私が取るわ」

 

 電話の向こうで、相手が困惑しているのが伝わってきた。

 今まで研究所は多くの挑戦をしてきた。けれど世間から認められるような結果を出せたのは、渋谷の地下にある集合的無意識の観測だけ。

 

 次の発表に必要なデータを捨ててまで、誤作動の可能性を捨てきれない異常データを確かめる必要があるのかと言いたいのだろう。

 しかし、万人と同じようにしていて、世紀の発見ができるはずもない。

 

 それに、若葉には天啓のような確信があった。

 これこそが、彼女が研究を始めてから祈るような気持ちで待ち続けていたブレイクスルーの瞬間なのだ。認知世界に吹き荒れるであろう大嵐の予感が、胸を満たしていた。

 

「今から向かいます。機器の最終調整は私がしますから、待っていてください」

 

 それだけ言うと、電話を切って立ち上がった。

 もう一刻の猶予もない。いつ同じ事象が起きるのか分からないのだ。

 

 コートを着て玄関まで向かった後、家から飛び出すすんでのところで、若葉は作りかけのカレーのことを思い出した。

 

 キッチンへ急ぎ足で戻る。

 そこには双葉がぽつんと立ちながら、湯気を出す大鍋を見守っていた。

 

「あ、お母さん。電話、終わった……?」

 

 不安そうに聞いてくる双葉の頭を、若葉は優しく撫でる。

 

「うん。ごめんね、仕事に行かなきゃいけなくなったの」

「そっか……」

 

 双葉は悲しそうに目を伏せた。

 

「ごめんなさい、必ず埋め合わせはするから」

 

 また一人にさせてしまう罪悪感を誤魔化すように、若葉は冷凍庫に目を向けた。

 

「カレーの代わりに、好きなのを冷凍庫から選んで。それか、カップ麺でもいいわ。今日は特別に、制限なし」

 

 うつむいていた顔を上げると、双葉はニッといたずらっぽく笑った。

 

「やったー! じゃあ両方食べちゃおうっ」

 

 そう言って、タッと駆け出す。食品棚の前にしゃがみ込むと、ずらりと並ぶご当地カップ麺をひとつひとつ手に取って、物色し始めた。

 

「ど、れ、に、しよっかなー」とヘンテコな歌を口ずさむ双葉の声は、少し不自然なほどに明るい。明らかに、若葉に気を遣わせまいとしているのだ。

 

「……食べすぎちゃダメだからね」

 

 娘の無理な演技に気づかないフリをして、若葉はそっとそう言った。もう何度も、こうやって甘えさせてもらっていた。

 

 コンロの火を止めた後、まな板に乗ったままの野菜と鶏肉に目を向けて、ため息をつく。

 さすがにこのままにしておくわけにはいかない。次はいつ料理する時間が取れるか分からないし、もう捨ててしまおうかとも迷う。

 

 でも、娘の前で食べ物を無駄にしているところを見せたくなかった。

 若葉は大きなタッパーを取り出して、その上でまな板を傾けた。腐ってダメになってしまうと知りながら、カットされた野菜や肉をボトボトと落としていく。

 

 こんなことしている場合じゃないのに……。

 

 さっきまでは家族の幸せの印のように見えていたカレーの具材が、今はひどく煩わしい足枷のように思えて仕方がなかった。

 本当に、人の認知とはこうも簡単に変わるものか──そう考えて、若葉はふと微笑んだ。

 


 

 

 轟轟と吹き荒ぶ風の音に、吾郎は目をうっすらと開く。

 

 真っ暗な闇に、ぼんやりと瓦礫の山が浮かび上がって見える。

 その上を、青色の蝶が飛んでいた。光を内包しているかのように輝く羽がはためく度に、金色の鱗粉が降り落ちている。

 

『いきなり、すまなかったね。ボクがキミと話せるのは、これで最後になるかもしれない。だから無理にでも、キミの夢に干渉したかったんだ』

 

 中性的な声で、蝶は話しかけてくる。

 地下室で話しかけてきた謎の蝶と、紛れもなく同じ声だ。

 

『もうボクには、なんの力も残っていない。明日になって、キミが今から話すことを覚えていられるかは分からないけれど、それでも……』

 

 口を開こうとして、できないことに吾郎は気がついた。それどころか、目線も手足も動かせない。身体が重い泥に纏わりつかれているみたいに、自由にならなかった。

 

 ……なるほど、このもどかしさは確かに夢の中のようだ。

 

『歪んだ聖杯が、キミの運命に干渉しようとしている。都合のいい駒としてキミを育て上げるために』

 

 聖杯? いったい何の話だ。

 吾郎を置いてきぼりにして、蝶は語り続ける。

 

『もう舞台の幕が上がるのは止めようもない。聖杯によって主は追放された。妹は二つに引き裂かれ、キミを導く存在であるボクは不要だと破壊された』

 

 蝶の光が、ふいに消えかかってはまた灯る。今にも消え入りそうな、弱々しい明かりだ。

 

『ボクの名前は、アーネスト──キミの案内人になるはずだった。キミに会うのを楽しみにしていたけれど、こんな形になってしまったね。情けない案内人で、ごめん』

 

 その悲しげな声とともに、蝶は瓦礫の上にふらふらと落ちていった。

 

『でも、お願いだ。どうか、滅びへ向かう運命を受け入れないで』

 

 蝶の青色の羽から、光が完全に消え去った。唯一の光源を失って、世界は完全に暗転する。

 それと同時に、急激に意識が遠くなっていく……。

 

 

 

 セットしていたアラームよりも前に、カーテンから差し込む光に吾郎は起こされた。

 

 まだ朝の五時半だったけれど、目覚めはいい。

 あれだけおかしなことがあったけれど、()()()()()()()()ようだ。

 まさかこんな状況で熟睡できたとは、と吾郎は少し驚く。

 

 頬に貼っていたはずのガーゼが、床にポトリと落ちていた。寝返りを打っている間に剥がれたのだろう。

 

 おかしな体勢でソファに寝たせいで、身体が凝っている。

 軽くほぐすように腕を回す。すると、骨がズキズキと軋んで、打撲痕が痛みを訴えてきた。でも、無視できない程度じゃない。

 

 小さくカーテンを開けると、外に警察の姿がないことを確認する。

 せせこましい路地は無人で、ゴミ袋をつつくカラスが一匹いるだけだった。

 

「真理子さん、起きてる?」

 

 ベッドの上の真理子に声をかけるけれど、返事はない。ぐっすり寝ているみたいだった。

 

 猫のように丸まってすやすや寝ているのを見ると、起こすのが少し可哀想になってくる。

 

 うなされている様子もないし、あと三十分くらいは寝かせてあげてもいいだろう。

 吾郎はソファに腰掛けると、スマホを手にして、目玉のロゴの不気味なアプリを開いた。

 

『異世界ナビ βテスト版』

 

 これを使って、どうしても試さなければいけないことがあった。

 

 おごそかな儀式を始めるかのように、吾郎は静かにその名前を言った。

 

「──獅童正義」

 

『ヒットしました』と、アプリは返してくる。

 

 胸にせまる万感の思いを、息を吸って鎮める。

 

 あの男の弱点に迫る方法が、ついに見つかったのだ。

 でも、今はまだその存在を確認できただけでいい。残りのキーワードや、この異世界をどう利用するかは、また後で考えればいい話だ。

 

「……明智真理子」

 

 次に試したのは、真理子の名前だった。

 先ほどと違って、返ってくるのは『候補が見つかりませんでした』という機械音声。

 

 それならと、アプリの履歴のタブを開いて見る。一度行った異世界は履歴に登録されて、次からはボタン操作一つで再度入れたはずだ。

 

 しかし、真理子の漫画喫茶があった一番上の欄は削除済みというステータスに更新されていた。

 その一方で、履歴の二件目の欄──岡倉のおもちゃ屋はまだ案内可能のようだった。もっとも、対象となる慈愛の翼への距離が遠すぎてナビゲーションは開始できないようだが。

 

 真理子の異世界が削除済みになったのは、間違いなく物理的に崩れたからだろう。

 でも、そもそも何が原因であの世界が崩壊したのかが定かではない。一番可能性が高そうなのは、やはり真理子のシャドウを撃ち殺したことだが……まあ、今考えていても仕方ない。検証あるのみだ。

 

 続けて試すのは、真理子の父親の名前だ。

 

「明智啓次」

『ヒットしました』

「明智家」

『ヒットしました』

 

 またもヒット。

 ナビの開始に必要なのは、『人物の名前、現実にある場所の名前、異世界でそこに対応する場所の名前』の三つのキーワードだ。

 つまり三つ目を当てれば、ナビゲーションは可能ということになる。

 とはいえそんな悠長なことをしている暇はないし、啓次のようなつまらない人間の深層心理にはいささかの好奇心もかき立てられない。

 

 重要なのは、真理子の祖父──清水誠一も同じような異世界があるかだ。

 もしこれでとんでもない本性を裏があるとしたら、真理子を連れていくわけにはいかない。

 

「……清水誠一」

 

 返ってきた「候補が見つかりませんでした」という機械音声に、少しだけほっとした。

 

 だが、安心することはできないとすぐに思い直す。

 岡倉のおもちゃ屋にしろ、真理子の漫画喫茶にしろ、特定の場所に対して強い思い入れがあると異世界として登録されるようだった。その仮説が正しいとするなら、異世界がないからといって人間性の保証になるわけではない。

 

 いずれにせよ、どういう原理なのか知るためには、もっとサンプル数が必要だ。

 

 そう考えて、吾郎は思いつく限りの有名人の名前を読み上げていった。

 政治家や芸能人に、大企業の社長……。大抵の人間はヒットなしだが、ごく稀にナビが反応を返す人間がいた。だけど、そこから残りのキーワードを当てようとはしない。当てずっぽうにやるには、時間がかかりすぎるからだ。

 

 知り合いの名前をあげても、結果はバラバラだった。

 心根から腐っている過去の保護者がヒットしないこともあれば、逆に同じ施設にいた子どもの名前がヒットすることもある。

 

 一通り試した後でも、候補に上がってくる人間とそうでない人間に、特に法則性は見当たらない。確実なのは、故人はヒットしないということくらいか。かなりの数の著名な故人を列挙したが、そのすべてにナビは無反応だった。

 

 そうやっていろいろ実験をしているうちに、チェックアウトの時が迫っていた。

 いつまでも悠長に時間を無駄にしているわけにもいかない。

 

「……真理子さん?」

 

 真理子に声をかけても、返事はない。

 肩を揺すってみるが、それでもぴくりとも動かない。

 まさかと思って彼女の口元に手をかざし、規則正しく呼吸していることを確認して胸を撫で下した。

 

 このままタクシーを呼んで真理子を送ってしまおうか、逡巡する。

 清水誠一の住所も、事務所の場所も知っている。何より、今の吾郎は「明智吾郎」の身分証をケータイと一緒に持っているのだ。孫息子だと嘘を言えば、話くらいはできるだろう。

 

 真理子には別れも告げずに去ることになるかもしれないが、そもそもただ巡り合わせで同居していただけの関係だ。今の地獄から抜け出せば、彼女だって吾郎のことなどすぐに忘れるだろう。

 

 しかし、脳裏に浮かぶのは不安そうに見上げてくる真理子の顔だ。

 

「──朝起きても、ここに吾郎くんはいるんですよね?」

 

 そう昨日約束したことが頭をよぎって、結局吾郎はタッチパネルから延長の操作をすると、ソファに腰掛けた。

 

 

 真理子が起きてくるのを待つ間、退屈はしなかった。

 とめどなく考えが頭の中を流れていて、むしろ忙しなくさえ感じる。

 

 しかし、さすがに数時間も死人のように眠る真理子を見ていると、不安になってくる。

 何度か起こそうとしてみたけれど、大きな音を出そうと、肩を揺すろうと、彼女は熟睡したままだった。

 

 寝起きが悪い方なのは知っていたが、いくらなんでも異常だ。

 日が沈む頃に差し掛かって、医者に見せないとまずいのではと心配になってきたころ、もぞもぞとシーツが動いた。

 

「……んんっ、寝過ぎました」

 

 目をこすってから、真理子はくぅっと猫のように腕を伸ばしてストレッチをする。

 こちらがどれだけ気を揉んだかも知らず、呑気なものだ。

 

「具合はどう?」

 

 ペットボトルのキャップを開けて、彼女に手渡す。

 

「昨日よりずっと、すっきりしてます。頭の中の整理がついた感じです」

「そう。歩けそう?」

 

「はい」と掠れた声で答えてから、真理子はミネラルウォーターをこくこくと飲む。

 

 彼女が水を飲み終えるのを待ってから、吾郎は話を切り出した。

 

「君のことを、君のおじいさん──清水誠一さんのところに送ろうと思っている」

 

 その言葉に体を固くした後、真理子は静かに目を合わせてきた。

 

「……それは、あなたも一緒にくるというわけではないんですね」

 

 吾郎が頷くと、真理子は食い下がってきた。

 

「あなたはどうするんですか。私と一緒に来てはいけないの?」

「僕は他にやることがある」

「私が協力できることだったら」

「──君には関係のない話だ」

 

 所詮、自分たちは血のつながらない赤の他人だ。今は離れ難いと思っていても、真理子だって安心できる環境さえあればそんな感情は忘れるだろう。こちらとしても、彼女を連れて逃避行だなんてごめんだ。

 

 もともと、真理子は察しがいい。取りつく島もないことを理解してか、ふうと息を吐き出す。

 

「……わかりました。なら着替えて、すぐに出発しましょう」

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