ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第二十五話 エポニーヌ

 真理子の身を包むのは、深い夜の闇をまとったような衣装。

 ヴィクトリア朝の喪服を思わせながらも、華美で大胆なデザインの黒いドレスだ。

 上質な布が幾重にも重ねられたプリンセスラインのスカートにはスリットが深く入り、すらりと脚が覗く。ふんわりと膨らんだパフスリーブに包まれた左肩に対して、右肩は大きく露わになっていて、まるで子どもの無垢さと大人の艶やかさが合わさったかのようだった。

 

 頭の上には、黒薔薇の装飾の施されたボンネットがかすかに傾けられて乗っていた。真理子は、そこから漆黒のヴェールを取り払う。

 

「──来なさい、エポニーヌ!」

 

 繊細な刺繍の施されたヴェールはひらりひらりと舞い落ちながら、やがて空に溶けていく。

 

 それと同時に、真理子の手の中に閉じられた傘が具現化した。

 鉄製の骨組の、全長一メートルはあろうかというほど大きな傘。途方もなく重いはずのそれを、難なく真理子の細腕は持ち上げる。

 

 ──これがエポニーヌ、私だけの力だ。

 

 そんな信頼が胸に満ちて、真理子は微笑んだ。

 

「ま、まぁりいいこおおおッ!」

 

 悲痛な顔をするバケモノの右半分──啓次の顔が慟哭した。

 

 たちまちに、紅蓮の炎が真理子に向かって襲いかかる。

 

 この身を燃やさんと襲いかかってくる炎をつまらなさそうに一瞥すると、真理子は悠然と傘を構えた。そして、広げる。

 

 それは、羽を広げたコウモリのような特徴的な形状の傘だった。

 ボロボロのフリル生地に闇の攻撃が直撃したその刹那、キィンと甲高い音を立てて力が反射される。

 

「グゥオオオオオオッ!!」

 

 跳ね返った攻撃が、バケモノの醜い顔に直撃した。

 真理子から痛みを返されることは少しも予期していなかったのだろう。ひどく恐れたかのように後ずさる。

 

 啓次のシャドウが怯んだ隙に、真理子はエポニーヌを放り投げた。

 

 広がったコウモリ傘は倒れた吾郎の前に着地すると、くるくると回りながら癒しの力を放つ。この技は『ディア』というのだと、言葉にせずともわかった。

 光の粒が吾郎の傷跡に収束して、滑らかな肌を一瞬で再生する。

 

 それと同時に、視界がまたレースのヴェールで覆われる。役目を終えたエポニーヌが返ってきたのだ。

 

「はっ……まさか君もその力を手に入れるとはね」

 

 言いながら、吾郎は体制を立て直すと、獲物を構えた。

 真理子もその隣に並んで、不敵に微笑む。

 

「敵のスキルはすべて私が受け止めます。攻撃は任せましたよ」

 

 攻撃を吾郎に一任するのには理由があった。

 

 この力に覚醒すると同時に、真理子の腰には西洋風の剣が差されていた。でも右足はいまだに動きづらく、機動性を要求される立ち合いではどうしても後手に回る。加えて、エポニーヌは攻撃スキルを一切持っていないようだった。

 

 それでも、やりようはあった。

『カウンタ』と『仁王立ち』──その二つの力がエポニーヌには備わっている。さらに、自然と敵を惹きつける特性があるようだった。

 敵の攻撃をすべて自分に集中させ、一歩も動かないことと引き換えに手に入れた堅牢な守りですべて受け止める。まさに、逃げないで立ち向かうと誓った真理子の心に応えたような力だ。

 

「お兄ちゃんと私と……それからママの分まで、吾郎くんがあいつらを殴ってください。お願いします」

「ああ、期待以上を約束するよ」

 

 不敵に笑った吾郎が、灰色の狼に向かって走っていく。

 回復によって万全の状態になった吾郎の動きは力強い。細長い狼の胴を斬りつけた後、二度、三度と返す刀で斬撃を繰り出す。

 

「グゥッ……」

 

 あまりの猛攻に、ついに狼は地に伏した。呼吸は弱々しく、切り裂かれた胴体から内臓がはみ出て、ピンク色のベロがだらりと垂れ下がっている。

 

 哀れな姿になった狼の頭部を、吾郎は容赦無くビームサーベルで真上から突き刺す。おもちゃのような見た目とは裏腹に、サーベルは狼の頭蓋骨を容易く串刺しにした。

 絶命した狼の体は、次の瞬間、黒い霧となって四散する。

 

 その様子を見て、ブルブルとバケモノは震え出した。

 

「ぼ、ぼくをこれ以上いじめるなッ」

 

 怯え切った表情でそう呟いたあと、その弱々しい声からは想像もつかないほど乱暴に床を踏み荒らす。そして、真っ直ぐに真理子に向かって走ってきた。

 

 巨大な顔から生えた青白い四本の手足が、木の床を踏み折りながら走ってくる。

 

 動き出そうとした吾郎に向かって、任せてというふうに真理子は頷いた。

 

 そして、そのまま真正面からシャドウに激突される。

 今度は、カウンタが発動しなかったのだ。

 激しい衝撃が、身体中の骨を軋ませる。普通だったら骨という骨が砕けていたであろう力だ。

 

 でもそれをしっかりと受け止めて、真理子は両足で立っていた。

 

 驚愕に、啓次のシャドウは両目を見開いて真理子を見た。

 

 その恐ろしい形相から、目を逸らしたりはしない。

 息がかかりそうなほど近くでその顔のバケモノをしっかりと見て、真理子は違和感を抱いた。ブヨブヨと、左側の──若い少年の見た目をした皮が捲れ上がっている。まるで腐りかけの人皮を被っているみたいに。

 

 真理子は左腰に差された剣を抜くと、啓次のシャドウに突き立てた。浮き上がった皮を剥がすように刃を動かす。剥がれたかけたところで、シャドウは震え上がって身を引いた。

 

「な、なにをする……やめろ!」

 

 動揺したその隙を吾郎は見逃さない。

 

「ロビンフッド!」

 

 すかさず、眩い白色の光球が変則的に飛び、啓次のシャドウに当たって弾けた。

 

「ゴホッ……ガァ……」

 

 ダウンしたところに、二人とも走り寄る。

 吾郎も真理子も、手の中の獲物をシャドウに突き立てた。

 

「あれ、攻撃は僕に任せるって言わなかった?」

「やっぱり予定が変わりました。私にも積年の鬱憤というものがあるんです」

 

 どこか揶揄い混じりに言ってくる吾郎に、真理子も冗談めかして返す。

 

「まあ、足を引っ張らないならなんだっていいよ」

「ええ、任せてください」

 

 そのまま、持てるすべての技を使って、二人は啓次のシャドウにダメージを加えた。

 巨大な顔から生えた小さな手足を一本ずつ切り落とし、目玉を潰し、肌が裂傷から流れ出す血で真っ赤に染まったとき──ついには化け物は動かなくなった。

 

「う、うぅうあああ、どうして、みんな僕をいじめるんだ……」

 

 哀れな声をあげて、化け物の姿は解けていく。

 代わりに現れたのは、両腕をついて泣き崩れる父の姿だった。

 

 どうするかは君に任せたよ、といいたげに吾郎がこちらを見た。

 

 もとより心は決まっている。

 真理子は泣き崩れる父の前に膝をついた。

 

「パパ、お兄ちゃんのこと、覚えている?」

「吾郎なら、そこに……」

 

 言って、父は震える指で真理子の後ろにいる吾郎を指差した。

 この期に及んで、罪の意識から逃れるためにそう思い込もうとしているらしい。

 

 でも、もう逃げさせたりなんかしない。このままじゃ、あまりに兄が浮かばれない。

 

 声を荒げないように、真理子は息を深く吸って落ち着けた。

 

「……違うよ。彼はお兄ちゃんじゃない。本当のお兄ちゃんは、パパがたくさん傷つけて殺した」

 

 顔面蒼白になって、啓次は勢いよく首を振った。

 

「違う、違う、吾郎を殺したのは僕じゃない。アイツが……一生がやったんだ、にたにた笑いながら、アイツは僕の大切なものをすべて壊していく」

 

 何があっても認めるつもりはないらしい。

 真理子は、ずっと携えていた剣をすっと啓次の目の前に差し出した。

 

 磨き抜かれた西洋の剣。

 剣をよく知らない真理子から見ても、特徴的な剣だ。敵を突くための切先がなく、先端は四角く切り落とされたような形状をしている。一般的な刀や剣と違って、両側の刃が丹念に研がれていた。まるで血を吸うことに飢えているかのように。

 刀身に彫られるのは、“VANITAS VANITATUM”の文字だ。

 

「パパ、この剣を見て」

 

 研ぎ澄まされた剣は、銀のように輝いていた。わずかに角度を変えるだけで、水面のように目の前のものをくっきりと映し込む。

 これを使って、啓次に自分の顔を見せたかった。

 

「真理子、父さんを責めるのか? 僕は子どもの頃、本当に酷い目にあったんだ。僕は被害者で、可哀想で……! なのに誰も助けてくれなかった」

 

 だけど啓次の金色の瞳は、目の前の鏡を見ようとしない。拒否するように目をうろうろ動かして、最後に、真理子の顔を力なく見上げた。

 

「うん、分かってるよ。昔、辛くて苦しくて、でも誰も助けてくれなくて……その怒りを誰かにぶつけたくて仕方なかったんだよね」

 

 真理子は、根気強く話しかけ続ける。

 啓次は理解を示されて嬉しそうに顔を綻ばせた。

 

「ああ、そうだ。兄がずっと僕をいじめて、母さんはそれを見て笑って、父さんは家にいないから気づいてくれなくて……」

 

「そうだね──そして、その時のことを思い出すたびに、どうにもならない衝動を誰かにぶつけて発散した。抵抗できない誰かを傷つけると、少しだけ胸がスッとして気持ちよかったんでしょ? パパも誰かを支配したかったんでしょ?」

 

「あ……? ぁ、あぁ、違う、違う」

 

「なにも違わないよ。どんなに言い訳しても、お兄ちゃんも私もママも知っていたよ、パパが暴力を楽しんでいること。叔父さんの亡霊なんてどこにもいない。もう死んじゃったんだから。パパに殺されたお兄ちゃんと同じ、もう二度と会えないし何かを感じることもできない」

 

「嘘だ、嘘を言うなッ! あれは全て兄のやったことなんだ。一生さえいなければ、お前たちが一生に味方しなければ……」

 

「これを見て」

 

 真理子はそれ以上の反論を許さない声でそういうと、自分の掲げる剣に視線をゆっくりと下ろした。

 

 冷や汗をかきながら、恐る恐る、啓次も剣に映る自分の虚像を見る。

 

 一つの疵もない磨き抜かれた鋼に写っているのは、醜い男だった。

 左には歪んだ笑みを浮かべる卑しい顔、右には自己憐憫に満ちた哀願するような顔、チグハグな表情を浮かべている。でもそのどちらも、間違いなく父の顔だ。

 

 もし若い少年の皮を左半分に被せたら、さっきのバケモノとそっくりになるだろう。

 

「本当は自分の意思でやっているって、自分でも分かってたんだよね。だからシャドウは人の皮を被っていた」

 

 ──そう、あのシャドウの姿は何よりも如実に語っていたのだ。

 誰かのマスクを被っていても、その下で表情を形成しているのは父自身だということに。亡霊に乗っ取られる猿芝居をしているだけだと、そういう自意識があるからこそあの姿になったのだ。

 

 啓次は顔に両手を当てる。

 

「そんな、僕が。僕がみんなを傷つけたなんて、吾郎を殺したなんて……」

 

 真理子は何も言わずに、ただ静かに啓次に自分の姿を見せ続けた。

 

 やがて、そこに映るのが嘘偽りない自分自身だと啓次は悟ったのだろう。ブルリと大きく身震いした後、恐れ慄いたように頭を抱える。そのまま、一人で意味不明なことをぶつぶつと口にしながら震え始めた。

 

 ……言いたいことは全て言葉にした。これで潮時だ。

 

「ねえパパ、私が何をしようとしてるか分かる?」

 

 真理子は両手で剣をしっかり握った。そして、思い切り振り上げる。

 

 啓次は金色の瞳をまん丸にした後、どうしてか、くくっと笑った。ついには腹を抱えて、どんどん激しい笑い方になっていく。

 

「ふっ、はは、くっ……そうか、真理子。きっとそれが正しい」

 

 そうだ、これが正しいやり方なのだ。

 もう決心していた。この黄色い目の父を殺す。そして、この異世界を終わらせる。

 

 正しい現実を父に突きつけるのだ。吾郎が自分にしてくれたように。そうじゃないと、兄も報われない。

 

「もうこんな妄想の世界は終わり。自分がしたことから目を逸らさないで」

 

 最後に一度、静かに見守ってくれていた吾郎と目を合わせて、頷き合う。

 

 啓次は息が切れるまで笑った後、こうべを垂れて、首を差し出した。

 

「ああ、そうだ。ありがとう、真理子。こんな僕じゃ、もう生きていけない。こんな父親を救ってくれるなんて、やっぱりお前は出来が違う。は、はは、ありがとう……」

 

 天国に迎え入れられると聞いた死人のように安堵しきった声。はっきり言って異様だ。その違和感が、真理子の腕を止まらせる。

 

 ──だけど、今ここで立ち止まってしまえば、もう二度と人間の姿をしたものに剣を振り上げられるような気はしなかった。

 

 それでも、きっと吾郎は代わりに撃つと言ってくれただろう。でもこの役目を誰かに押し付けるようなことはしたくない。

 

 真理子は、もう一度覚悟を決めた。

 

「お前は本当によくできた、最高の娘だよ、真理子……」

 

 その父の声とともに剣を振り下ろし、一太刀で首を切り落とす。

 

 ぼとりと、頭が転がった。その首は安らかな表情を浮かべていた。

 

 刀身に血が伝う。刻印された“VANITAS VANITATUM”の文字に鮮血が伝って、赤く染められていた。

 

 人を殺したという生々しい実感が胸を穢す前に、啓次の体は黒い霧となって拡散した。

 

 ──ああ、すべてが終わった。だけど、どうして父はあんなに安堵していたのだろう? まるですべての責務から解放されたみたいに。

 

 ゆっくりと感慨に耽る暇もないまま、ぐらぐらと家が揺れ始める。

 

「また崩れるみたいだ。真理子さん、逃げるよ」

 

 吾郎に促され、走り始める。

 巨大な揺れとともに、家が崩壊し始めていた。前のように落下に巻き込まれるのはゴメンだ。

 

「この世界が消えようとしている……! うまく行ったんですね、全部」

「喜ぶのは後でね」

 

 ただひたすらに走って、走って、リビングまでどうにか崩壊に巻き込まれずに戻ってくることができた。ここは、異世界に入ってきた最初の場所だ。

 

 吾郎はすかさずスマホを取り出す。

 

「メンテナンス終わってる。帰還できるみたいだ。まったく、信用ならないアプリだね」

「よかったです……!」

「だから、喜ぶにはまだ早いよ。外に出たときどんな状況かわからないんだから。覚悟はできてるね、真理子さん」

 

 真理子が頷くと同時に、吾郎は帰還ボタンを押した。

 ぐわんと景色が歪み──二人はまた、あの埃っぽい地下室に帰ってきていた。

 

 前と違って、派手に空中落下する羽目にはならなかった。だから、誰かがいたとしてもまだ気づかれていないはずだ。

 

 二人は目を見合わせ、息を殺す。もし上の階に誰かがいたら悟られるわけにはいかない。

 

「うっ……う……」

 

 微かな泣き声が、地下室の扉越しに聞こえてくる。

 

「ごめん、吾郎。ごめん、真理子。ごめん、アリア……僕が悪かった」

 

 繰り返し謝罪を口にするのは、紛れもなく啓次の声だ。

 

 ──ちゃんとうまくいったのだ。あの異世界が消えて、父は現実と向き合った。

 

 表情を明るくした真理子の肩を、諌めるように吾郎がつかんだ。

 赤い瞳で鋭く真理子のことを見つめると、まだはやい、と音なくくちびるで言葉を紡ぐ。

 

「ああああああッッ! でももう取り返しがつかない。どうしたらいいんだッ」

 

 裂けるような叫び声を上げた後、足音が激しく響き渡る。段々とこちらに近づいてきているようだ。

 ついには、ガチャリと階段の上で扉を開ける音もした。

 

「吾郎、吾郎……」

 

 罪悪感に耐えかねた父が、兄の遺体に縋ろうとここへ来ようとしているのだろう。

 

 隠れられるところはない。だけど、心に焦りはなかった。

 

「きっと大丈夫、父は変わったはずです」

 

 真理子はそう言うと、階段の方へと歩み寄っていく。その後ろに吾郎もついてきた。

 

「ま、真理子……!」

 

 悲痛な顔で、啓次は階段を駆け降りてくる。そのままひれ伏して、頭を地面に擦り付けた。

 

「すまない! 本当に、すまなかった! もう二度とお前を傷つけたりしない、約束するっ」

「……吾郎くんにも、ちゃんと謝ってください」

 

 いまだ警戒を解かずにいる吾郎の顔を、啓次は見た。

 

「ああ、君にも本当に悪いことをした。すべて償うと、約束する。ああ、でも、これだけのこと、どうやって償えばっ、つつ、つつつつつつ!!!」

 

 こうべを垂らすと、啓次は尋常ではない様子で震え出す。

 

「パパ……?」

 

「──つ、ツツつツツツツ、償エばァ?」

 

 とつぜん、電流が走ったようにバチンと震えて、啓次は顔を上げた。

 

 そこには、不自然なほどの喜色満面の笑みが浮かんでいる。

 

「は、ははは、はははははははっ!!」

 

 ぶしゅっと音を立てて、視界に黒い飛沫が飛び散った。

 

 ──血? いや違う。体液だ。

 

 啓次の目から、鼻から、口から、おびただしいまでに体液が流れ出てくる。

 ぶるぶるぶるぶると、まるで骨のない肉の塊のように震え、あらゆる穴から黒い液をあふれさせ続ける。

 

「ははははははっ!」

 

 啓次が突然立ち上がる。

 

 少し身体を動かすたび、関節がうまく曲がらず、体の節々がバキバキと音を立てていた。

 その動きには、関節のない人形を無理やり折って遊んでいるかのような不自然さがあった。

 

「真理子ォ、首を切っテくレテ、アリがとォオオオオオッ!!」

 

 そして、両腕を広げて、抱擁を求めるかのように真理子に向かって飛びかかってきた。

 

 目を背け、真理子は叫び声をあげて後ずさる。

 それを庇うよう、吾郎が前に出た。身体を捻って、全力の蹴りを加える。

 

 避ける気があるのかも定かではない啓次に蹴りは直撃し、そのまま床に崩れ落ちる。

 

 その間も、啓次は笑い転げ続けていた。

 

「あはははははああああっ!!!」

 

 その異様な声が、歓喜の笑いなのか断末魔の叫びなのか、完全に振り切れていて判断がつかない。

 

 四肢を異常な形で振り回して笑う啓次の姿に圧倒され、吾郎も真理子も距離をとりながら見ていることしかできなかった。

 

 そのまま数十秒間、啓次は生命の全てを使い果たしそうな勢いで、激しく床のうえをのたうちまわっていた。

 

 そんな恐慌は、けれど唐突に終わりを迎える。

 

 啓次の体は、電流を流されたように跳ねた後、プツリと動きを止めた──強制的にシャットダウンされた機械のように。

 

 ピチャピチャと水音だけが地下室に響いていた。

 ぴくりとも動かなくなった啓次の身体の下に、黒い血溜まりが溜まっていく。

 まるで肉の切れ端から血が滴るみたいに、その姿からは生命を感じない。

 

「なんだ、これ……」

 

 さすがの吾郎の声も、恐怖に濡れていた。

 

「ど、どうして……」

 

 ──どうして? 真理子がパパをこんな風にしてしまったの? このまま、パパは死んでしまうの?

 

 続きは喉に貼りついたように、言葉にすることができなかった。

 

 真理子はガクンと床に崩れ落ち、自分を守るように抱きながら、無惨な父の姿を見る。

 

 どんなに目を逸らしたくても、逸らすことができなかった。

 

 ただ一つだけ確かなのは、もはや父に生命と呼べるものが宿っていないことだった。

 





いつも感想やここ好きや評価ありがとうございます。全部楽しく見てます!
来週は日曜更新です。
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