「すぐに処置すれば助かるかもしれない」
気絶しそうな様子の真理子に、吾郎はそう声をかけた。
だけど緊急連絡をかけながら、助かる見込みなんてないんじゃないかと、どこまでも冷静な声が脳裏によぎる。
救急車が到着した頃には、啓次の呼吸はとうに止まっていた。
かけつけた救急隊員たちは、地下室に飛び散った黒い血に一時騒然としたが、手際はよかった。啓次の身体を救急車の中のストレッチャーに運ぶと、救命措置を始めた。冷たい死体に向かって、心臓マッサージと電気ショックを懸命に施していく。
付き添いの家族として救急車に同乗した吾郎と真理子は、言葉もなく、その様子を見続けていた。
──それから、数時間後。
白い蛍光灯の光に照らされた病院の廊下。壁際に並ぶベンチの一つに、吾郎は腰掛けていた。隣にある「集中治療室」とプレートの掲げられた扉の上には、いまだ処置が続いていることを示すランプが点灯している。
「……吾郎くん、病院の人は何か言っていましたか?」
そこへ真理子が歩いてきた。足取りが覚束なく、ふらついている。
「まだ、なにも」
吾郎がそう答えると、彼女は安堵と落胆が入り混じったような複雑な表情を浮かべた。
治療が続いていると聞いて希望を持つ気持ちと、いつ悪い知らせが伝えられるかわからない不安。その二つの間で心が揺れて、一時も気が休まらないのだろう。
先ほどから、お手洗いに行くといっては何度も真理子は席を外していた。
たぶん、吐くために。
もうさすがに胃の中は空っぽなんじゃないか、と吾郎は疲れ切った頭でそう考えた。
母の死を皮切りに、いままで凄惨な場面に何度も遭ってきた。だけどあんな死に方をする人間を見たのは初めてだった。
あんなことになった原因は、間違いなく黄色い目のドッペルゲンガーを殺したせいだ。「首を切ってくれてありがとう」と、確かに啓次は死の直前にそう言っていたのだから。
だけど、異世界での非現実的で華々しい戦闘と、現実での惨たらしい啓次の死に様が、どうしても頭の中で繋がらなかった。そのせいか、『啓次を手にかけた』という実感は酷く希薄だった。
だけど、真理子にとっては違うらしい。
吾郎のすぐ隣に腰掛けた彼女は、掠れた声でぽつりと話し始めた。
「耐え難いほど辛い時、いつも真理子の魂はふわふわ浮いて、悲しいことも苦しいことも色を失う。なにも怖いものはなくなる。でも、もう、そんな逃げ方もできない。乗り越えたつもりだったのに、あの力がすぐ惜しく感じるなんて、ダメですよね……」
──君のせいだと決まったわけじゃない。誰にも予想のできないことだった、仕方がなかった。
そんな言葉をかけるのは簡単だが、なんの気休めにもならない。
シャドウを手にかけた責任が自分たちにあるのは動かせない事実だ。
でも、なぜ?
吾郎だって、あの黄色い目の真理子のシャドウを撃ち殺した。黒い霧になって消えるところを、この目で確かに見た。それでも真理子はこうして生きている。
まさか真理子もああなってしまうのか? 時間がズレただけで、今この瞬間にも、真っ黒な血を吹き出して……。
──心臓が冷えて、吾郎は隣の少女の姿を見た。
すっかり青ざめた顔には血の気がなく、まるで死人のようだ。
衝動的に、吾郎は真理子の手を握った。
力を込めて、ちゃんと体温があること、生の気配がすることを確かめる。
「吾郎くん……!」
それを慰めだと思ったのだろう。真理子は弾かれたようにこちらを見ると、両手で吾郎の手を握り返してきた。
人に触るのも、人の体温を感じるのも、大嫌いだ。
でも今だけは、真理子の手のひらから伝わってくる暖かさに安心した。
「ひとまず容態は安定しました。今はおうちに帰って、ゆっくり休んでください」
どんな奇跡か、啓次は一命を取り留めたらしい。その報せをする医師ですら、信じられないという様子で話していた。
といっても、”生きている”といえる状態にあるのかはわからない。啓次は全身を延命措置の管に繋がれ、意識は底に沈んだまま戻ってきていないという。
病院へ駆けつけていた清水家の秘書の男──森岡が、彼は吾郎と真理子の方を向いた。
「啓次さんが息を吹き返して本当によかった。今夜は二人とも、桜新町の家の方に泊まることにしませんか」
ずり落ちそうになったメガネをかけ直しながら、落ち着かない様子でそう聞いてくる。
年齢は三十半ばといったところか。真理子から話を聞いて想像していたよりずいぶん若い。仕事を抜け出してきたのか、きっちりとスーツを着ていた。
「……おじいちゃんの家は、嫌です」
真理子が暗い声でそう返した。
彼女の心情を思えば当然だ。清水家は、あまりにも啓次の死と結びつきすぎている。あの寝室で啓次の首を切り落とした時のことを、今も思い出し続けているに違いない。
「そう、ですか……。でも、吉祥寺の家はいま警察の人たちが出入りしているから、帰るのは難しくて」
吾郎も真理子も、そう聞いて驚くことはなかった。警察が立ち入ることは予想していた。
誰がどう見てもあれは変死事件。救急隊員は当然他殺の可能性を疑って、警察に連絡したはずだ。
地下室にある本物の明智吾郎の死体もじきに見つかることになるだろう。結果的には、当初の目的が達せられたというわけだ。
だけど森岡の様子を見るに、まだ警察からその情報は届いていないようだった。すっかり吾郎のことを真理子の兄だと勘違いしている。
赤の他人だと自分から教えてもいいが……そうすれば真理子と引き離されることになるに違いない。明日になったら警察に事情聴取を受けることになる。憔悴している彼女には酷だが、その前に話し合う必要があった。
今はまだ自分は真理子の兄ということにしておいたほうがいいと吾郎は判断した。
「じゃあ、僕たちは病院の近くのホテルに泊まってもいいですか? 父がどうなるか心配で、なるべく近くにいたいんです」
それらしい理由を口にすると、森岡は頷いた。
「そうですよね、分かりました。この辺りのホテルに電話してみます。えっと……挨拶が遅くなってしまったけど、吾郎くん、だよね? 初めまして、会えて嬉しいよ。こんな形で会うことになってしまって残念だけど」
軽い会釈を吾郎は返した。
その隣で、真理子は棘のある視線を森岡に向けた。
「ねえ森岡さん、今日も父に会ったのでしょう? 岡倉とかいう男にも」
「えっ……? う、うん、その時は少し疲れ気味のご様子でしたが、健康に問題はなさそうだったので。まさかこんなことになるなんて」
「何を聞いたんですか? 教えてください」
どう答えるべきか迷った後、森岡は気まずそうに視線を落とす。
「……真理子ちゃんと吾郎くんを探すのを手伝ってほしいとお願いされました」
やがて、森岡は観念したように口を割った。
「二人は、よくないお友達の影響を受けて家出してしまったって。探すのに協力してほしいと言われて、了承しました」
「家出中と聞いていた子ども二人が、その日のうちに家に帰ってきていて、死にかけの父親のために救急車を呼んだ。さぞ、驚かれたことでしょうね?」
真理子は気が立っていて、詰問するような口調だ。
どう答えるべきか分からず、森岡は口を間抜けに開け閉めさせる。
「八つ当たりしても仕方ないよ」
吾郎が諌めるようにそう言うと、真理子は一瞬こちらをきつく睨む。だけどすぐに柳眉を下げ、泣き出しそうな表情になった。
「……とにかく、森岡さんはホテルの予約が取れたら教えてください。少し外の風に当たってきます」
顔を背けると、真理子は歩き出した。
ビジネスホテルの小さな一室は、シングルベッド二つでほとんどが占められていた。
窓から見える空は、深夜を通り越して明け方に近づいている。
奥のベッドに腰かける真理子の横で、吾郎はコツコツと壁を叩いていた。しっかり防音されてるのか、確認しているのだ。
隣の部屋には森岡が泊まっていた。未成年二人で外泊させるわけにはいかず、付き添いが必要だったのだ。
彼にしてみれば、とんだ災難だったに違いない。真理子の祖父──清水誠一が腎臓病で倒れた翌日、啓次までもが意識不明の重体になって、子ども二人の面倒も見ないといけない。あまりの激務に気が遠くなっていることだろう。
分かっているのだけれど、彼のことを気遣うだけの精神的余裕は真理子にはなかった。
──みんな、役立たず。誰か一人でもいいから、頼れる大人がいればこんなことにはならなかったのに。
もし母がまだ一緒にいたら、祖父がもっと家族の様子を気にかけてくれていたら、父がまともだったら。そしたら、こんなことにはならずに済んだのに。
そう思うのが止められない。
「……パパ、助かると思いますか?」
結局、聞いても仕方がないことだと知りながら、真理子は目の前の吾郎に助けを求めてしまう。
吾郎は静かに「助かる可能性はあるはずだよ」と答えた。
「別にその場限りの気休めを言ってるわけじゃない。正直、僕は啓次さんはもう助からないと思っていた。それが息を吹き返したんだから、目が覚めたって不思議じゃない」
喜ぶべきなのだろう。でも、父がきっと戻ってくるかもしれないと考えても暗澹たる気持ちは消えなかった。頭がぼぅっとして、酷く無感動になっていた。
真理子は否定とも肯定ともつかぬ相槌を返した後、もう一つ確認した。
「森岡さんは、あの家を警察が捜査しているって言ってましたよね」
「そうだね、僕たちも事情を聞かれるかもしれない。異世界のことは触れないで、後はなるべく本当のことを言ったほうがいい」
「……ええ、あの世界のことを人が信じるわけないし、知る手立てもない」
吾郎は、真理子が何を心配しているのか正確に理解したようだ。さらに声を落とすと、
「──大丈夫だよ。僕たちがしたことだって、誰にも証明できるわけがない」
『僕たちがしたこと』と聞いて、真理子は自嘲するような暗い笑みを浮かべずにはいられなかった。
「僕たち? 罪人は一人しかいませんよ。手にかけたのも、シャドウを殺そうと提案したのも、すべて私です」
言ってすぐに後悔した。自己憐憫を吾郎にぶつけたところで何も変わらない。
こんな態度を取られたら、誰だって嫌気がさすに決まっている。
「君と僕のどちらが手にかけていてもおかしくない状況だったんだから、そんなの結果論でしかないよ」
「……そうですね」
本当は全然納得していない。この作戦は真理子が強く主張したものだ。吾郎は、初めから不確定要素が大きすぎると忠告していたのに。
そう自分への苛立ちがこみあげてきても、これ以上余計なことを言わないよう真理子は押し黙った。
二人はしばらくの間、警察から事情聴取を受けた際どう辻褄を合わせるか話し合った。
時間が前後しないよう、証言が矛盾しないよう細かく打ち合わせしていく。話し終えた時には、もう陽が登り始めていた。
「──最後に一つ、確認したいことがあるんだけど」
と吾郎は、酷く真剣な表情で切り出す。
「なんですか?」と気だるい返事をしてしまう。
現金な話だけれど、つい数十分前まで頭を覚醒させていた恐怖や衝撃は、だんだんと「眠い」「疲れた」と言う体の悲鳴によってかき消され始めていた。
「啓次さんのシャドウを殺した時、なにか気がついたことがある? 思い出すのは辛いかもしれないけど、君のシャドウを撃った時との違いがあったなら知りたい」
真理子は鈍くなってきた思考を巡らせる。思い出そうにも、啓次のシャドウの首を落とした時のことは、脳が思い返すのを激しく拒否したみたいに記憶に蓋がかかっていた。
結局、真理子は最初に思いついたことを口にした。
「……吾郎くんはシャドウを撃ったけれど、私は斬首しました」
「まあ、一番明らかな違いはそれだよね」
他には? と吾郎は視線を投げてくる。見ていただけでも分かるような間違い探しは求めていないのだろう。
吾郎の気迫に押されて、真理子は熟考する。
自分にしか分からない差異──実は、ひとつ思い当たる節があった。
「あと考えられるのは、殺意の有無でしょうか」
まったく予想していなかった答えなのか、吾郎は赤色の瞳を大きくさせた。
「君が啓次さんに殺意を抱いていたかもしれないっていうこと?」
「……正直にいうと、自分でも確信が持てないんです」
真理子は深く息を吐く。
「異世界で使っていた私の剣、覚えていますか? あれには特徴があったんです。両刃で、切先が尖ってない。そして、刃にはラテン語で刻印がありました」
「すべて死刑執行に使われる剣の特徴だね」
吾郎の言葉に、確信が深まった。
やはりあれは斬首刑に用いられる特殊な形状の剣だったのだ。博物館で昔見て、印象に残っていた通り。
「それに加えて、私の衣服はまるで喪服。あれが私の望んだ力を具現化させたものだとしたら、殺意がなかったという方が無理があります」
真理子が死んでほしいと望んで首を切ったから、父は廃人になってしまった。
最初は小さな火種のように心に燻っていた疑心だったけれど、今やそれは確信に近い大きさにまで育っていた。
自分が何を思いながら剣を振り下ろしたのか、もはや正確に思い出すことができない。でも混濁した感情の中に、一欠片の憎しみも害意もなかったかと問われれば否定はできなかった。
情報を整理するように考え込む吾郎を見て、真理子は聞く。
「──吾郎くんは、廃人にしたい相手がいるんですか?」
吾郎の態度から、彼が知りたいのは「心を治す方法」よりも「廃人にする方法」の方なんじゃないかと、真理子は気づき始めていたのだ。
吾郎は感情のない冷ややかな瞳でこちらを見た。
確信を抱いた真理子の顔を見て、ごまかせないと判断を下したのだろう。にべもなく、「君には関係のない話だ」とだけ返す。
そういえば、前にも同じことを言われた。あの時と同じ。今もまだ、真理子は吾郎のことを何も知らない。
焦燥感を抱いて、真理子は言葉を重ねる。
「あなたが探している人は、自由共栄党の関係者なんでしょう?」
これには、吾郎は意表を突かれた顔をした。
「どうして、そう思うの?」
「前におじいちゃんの新年会へ行きたがっていたから、きっと何か事情があるのだろうと思っていたんです。それにあなた、議会の中継なんてつまらないものよく見ているし」
ふっと吾郎は少し面白がるみたいに笑った後、すぐに真顔に戻った。
「……今日は長すぎる一日だった。続きは起きてから話そう」
会話を打ち切る合図だ。
明日になったらきっと誤魔化されると分かっていても、そう言われれば休むしかない。
限界まで頭も体も疲労していた。
でも真理子は横になっても寝ることができず、締め切られた遮光カーテンを穴が空くほど見ていた。
目を閉じようとしては、父の異様な最期が浮かんできてまぶたを開く。
でも、寝つけない理由はそれだけじゃなかった。
どん底にいて母しか支えがいないと感じていた時、母は寝ている真理子を置いていなくなってしまった。 同じように吾郎がどこかへ行ってしまうんじゃないかと思うと、少しも休まらない。
理性では、彼が自分に対してなんの義理もないのだと分かっていた。
二人は血のつながらない他人で、友人とすら呼べない関係で、真理子は吾郎のことを何も知らない。抱えているものを打ち明けてもらえるような信頼もない。
今まで行動を共にしていたのは、状況に迫られただけのこと。例えば吾郎が今日明日に何も言わずにいなくなったとしても、真理子はそれを受け入れるしかないのだ。
諦めるしかないと理解していても、もし吾郎がいなくなってしまったらと思うと──それがなによりも怖かった。