ペルソナ5 明智兄妹の事件簿   作:かっぱえびせん

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第一章 ペルソナ覚醒編
プロローグ カラスと星


「チッ……しけてやがる」

 

 自販機の返却口に一円も入っていないことを確認して、吾郎は悪態をついた。

 

「もうこの辺りは駄目か」

 

 まったくツイてないが、仕方がない。都会の繁華街には、ホームレスや家出中のガキが多い。既に誰かが辺りを回ったのだろう。

 二日もろくな物を口に入れてないせいで、いよいよ視界がぶれてきた。肩で風を切るように歩く通行人にぶつからないようにするので精いっぱいだ。

 

 不意に、ぼやけたネオンの中に、警官の姿が見えた。

 

 さらなる不運に拳を握りしめ、踵を返す。

 都会の喧騒のなか、痩せぎすの子ども一人がふらふら歩いてても、誰も気にも留めない。そのことは身をもって知っていた。だが、警官だけは未成年を補導するという仕事がある。

 十一歳、それも同世代のなかでも発育不良の吾郎は、誰がどう見ても補導対象である。

 

 捕まってたまるか。

 すばやく裏道へ入ると、大型のゴミ箱の奥に身を隠した。

 

 たいていの場合、未成年の補導は身分証の確認と少年補導票の記入だけで終わるが、おせっかいな警官に当たったときは署に連れていかれ、保護者が迎えに来るのを待たされることもある。

 そうしたら、吾郎の『保護者』がどれだけ怒り狂うかわかったものじゃない。

 

 ただでさえ、笑い方が不気味だの、左利きが矯正されていないだの、難癖をつけて暴力をふるってくるのだ。それでも吾郎に対してほとんど興味がなく、放任されているという点で、いままでの預かり先よりマシだと思っていた。狭い箪笥に閉じ込められたり、夜に部屋へ入られたりしないだけいいと。だが、夏休みになるとほとんど家から閉め出されるせいで飯にありつけないのは盲点だった。

 

 警官が歩き去ったのを確認すると、身体から力が抜けた。ぐったりとゴミ箱にもたれかかる。

 足元のたばこの吸い殻や、アスファルトにこびりついた乾いた吐しゃ物が目に入るが、どうでもいい。五感が脳に送ってくる不快な信号や、それに伴う感情を無視するのは、いつしか得意になっていた。

 

 ゴミ箱から漂うすえた臭いも、耳をつんざくパチンコ店の騒音も、すべて遮断して、目を閉じる。連日の疲労のおかげで、こんな状況でもまどろむことができた。

 

「うわあ、アイツやばくねっ!?」

「バッチぃな~」

 

 うつらうつらしていた吾郎を起こしたのは、大通りをバカ笑いしながら歩く男たちの声だった。

 カッとなって飛び起き、声の主を確認する。

 

「いい年して牛乳一気飲みチャレンジなんてすんなよなァ」

「あいつの好きな後輩ちゃんにこの動画送っちゃう?」

 

 大学生らしき男たちがケータイを見ながら話していただけで、吾郎を笑っていたわけではない。当然だ。ゴミ箱の裏に身を隠しているわけなのだから、向こう側から見られるはずがない。

 

「ハッ……」

 

 馬鹿にされていると決めつけて飛び起きた自分が滑稽で、口を歪めた。

 

 ──どうやら俺は、こんなにどん底でも、クソの役にも立たないプライドだけは立派に持っているらしい。

 

 母が自殺してから三年、生存に必要ない余計な感情はいっさい無視できるようになった。だというのに、見下されることへの怒りや、他人への嫉妬だけは、いつまでも手放すことができない。それどころか、日を追うごとにより鮮明で大きな感情となって腹の中で渦巻いている。

 

 自分をゴミ同然に扱って殴りつける保護者たちが憎い。利用するだけ利用して捨てた大人たちが憎い。厄介な生徒を任されて面倒だと隠しもしない教師が憎い。コイツなら問題にならないと自分をストレス発散の道具にするクラスの男どもが憎い。明らかに貧しく身なりの悪い自分に冷笑を浮かべて遠巻きにする女どもが憎い。当たり前のように親からの愛を享受する他の子どもが憎い。

 

 このまま順当に大人になったら、そのうち、道行く人間の笑い声を聞いて、被害妄想で包丁を振り回しだすんじゃないだろうか。警察に取り押さえられながら、『あいつが、あいつが俺のことを馬鹿にしたんだ!』などと喚くニュースのなかの自分の姿を想像して、声を出して笑う。

 

 が、すぐに痛みを覚えてやめた。

 

 空腹のせいか打撲痕のせいか定かではないが、身体中が軋んだみたいに痛んだ。第一、自分に大人になる未来なんてあるのか、まずはそこから定かじゃない。

 十年後何をしているかなんて、現実的に考えて、自分には縁のない話だ。

 

「母さん……」

 

 気づけば、ぽつりとそう漏らしていた。

 

 ──なぜ、僕を一緒に連れて行かなかったの?

 

 葬式でも、母の墓の前でも、何度もした問いかけだ。

 

 世の中には子どももろとも心中する親も多い。母さんがそうしてくれれば、こんな思いをしないで済んだはずだ。

 もし母が吾郎のことを愛していたのなら、こんな食うか食われるかの世界にひとりで残していかなかった。最初に吾郎を引き取ったあの叔父がどういう目で自分を見ていたかも、母はよく知っていたのだ。邪魔だから、憎いから、だから置いていったんじゃないのか。

 立つ鳥跡を濁さずというように、間違いで生んだ命は、ちゃんと殺していくのが責任ってものだ。

 

 当然、母の返事はない。だからそのたびに、吾郎は自問自答した。

 

 違う。母さんは何も悪くない。一緒に連れて行ってくれなかったのは、俺に使命があるからだ。獅童正義という男に復讐するという使命が。

 

 母にしたように、自分が信じていた者に裏切られる絶望を味わわせてやるのだ。あの男に自らの選択の全てを後悔させ、嘆きながら死なせてやる、吾郎の手によって。

 

 新聞やテレビのなかでしか見たことがないあの男の顔が苦痛に歪むのを想像すると、脳が快楽物質でじんわりと満たされるのを感じた。薬でトリップするみたいな、危険な快感だ。

 

 ──あいつに復讐する為だったら、なんだってできる。

 

 泥水を啜ってでも生き残る。生きてさえいれば、絶対にチャンスはくる。あの男に近づくチャンスが。それを逃さないために、今はどんな理不尽だってじっと息をひそめて耐えてやる。

 

 夏の夜風は生ぬるい。じっとりと額に浮かんできた汗を腕でぬぐい、吾郎は立ち上がった。

 

 迷わずに、寄りかかっていた鉄製のゴミ箱の蓋を開ける。

 飲食店の裏だからか、中に溜まっているのは残飯と思しきものだ。といっても、中身はぐちゃぐちゃである。

 

 かろうじて見て取れるのは、コーヒー豆の残骸やテーブルナプキン、タバコの吸い殻──およそ食べられる見た目ではない。

 ご丁寧に上から仕上げとばかりに段ボールまで入れているのは、ホームレスがむらがってくるのを防ぐためだろう。一日数百万トンの食べ物を無駄に捨てる日本という飽食の国でも、金のない人間に食わせる物はないらしい。

 

 吾郎は腕を伸ばすと、ゴミ箱の中身を手ですくって、じっと見た。灰色の水のなかに白米と野菜の切れ端が浮いている。

 

 つまりこれは、明日をも知れぬ浮浪者でさえ食指が動かないものということだ。

 

 そんなの、知ったことか。

 目を閉じて、手の中の物を口に含んだ。

 

 味はしない。間違いなく吐くほど強烈な味がするのだろうが、ずいぶん前から食べるという行為は味覚じゃなく痛覚ばかりが刺激されるものになっている。

 

 虫歯が多すぎて口腔崩壊を起こしたせいだ。

 小学校の健康検診で指摘され、ネグレクトの疑いで児童相談所が首を突っ込んできたのは、三件目の保護者の時だったか。

 その時のことはよく覚えていない。当時吾郎を預かっていた遠縁の親戚は特に悪質な部類で、児相の介入に逆上した。その後、警察に保護されるほど酷い暴行を受けたのは確かだったが、そのあたりの記憶はあいまいだった。

 

「クソ、いってぇな……歯医者ぐらい、連れてけってんだ」

 

 ぼやきつつ、もう一度、生ごみをあさって口にする。やはり味はしない。

 鈍く痛む歯で咀嚼し、飲み下す。それを事務的に繰り返した。

 

 脳裏に、黒いカラスの姿が浮かんだ。

 ゴミ袋をクチバシでつつく、小さくて弱くて痩せぎすの、醜いカラス。

 

 俺がこうしてゴミを漁っている時、血縁上の父親はいまごろ、銀座の高級料亭で飲み食いしているのかな。

 

 惨めな考えが頭をよぎったが、すぐに頭から掻き消す。

 

 どんなに負けて、負けて、負け続けても、最後に全てひっくり返して勝ってやれば、それは勝ちだ。そうだろう?

 


 

 スポットライトに目を細め、観客の万雷の拍手を浴びる。

 オーケストラを背に圧倒的な演奏を終えた真理子を、興奮冷めやらぬ様子で数百の観客が見つめた。

 彼らの感動を少しでも共有できたらと、そう思っても、この瞬間に心ひとつ揺さぶられなかった。

 

 明智真理子は、ピアノを弾いていて、楽しいと思ったことはない。

 コンクールで審査員に絶賛された時も、国内外のテレビで天才少女として取り上げられた時も、史上最年少でCDデビューが決まった時も、アメリカの名門音楽大学院への留学が決まった時も、全て無感動に受け止めていた。

 

 どれだけの称賛を浴びようと、それが真理子の力で得たものには思えなかったからだ。

 ピアノの天才少女や天才少年なんてものは、毎年、世界中でいくらでも生まれる。そのほとんどは、みんな同じ、子どもの頃から親の熱烈な期待に応えるために、死に物狂いで練習してきたピアニストたちだ。

 真理子も同じ口で、三歳の頃から有名な講師たちのレッスンを受けてきた。

 

 そんな彼らと、圧倒的な知名度を得た真理子の間になんの差があるのかと聞かれて、果たしてそれが努力や才能かどうかは分からなかった。

 

 著名な音楽家たちからの推薦状に前評判、抜きん出た家柄、ピアノリサイタルでお色直しの度に着替える豪奢なオーダーメイドのドレス、テレビや新聞でもてはやされる美しい容姿、これだけ厚底の下駄を履いていれば勝って当たり前だ。

「彗星のように現れた天才ピアノ少女」として誉めそやされた初めてのコンクールでも、審査員たちは真理子と面識があったし、演奏前から勝つのはあなたになると思うと宣言されていた。

 

 約束された勝利を収め、周囲が熱狂するたび、ピアノへの情熱は冷や水をかけられるように冷めていった。

 

 ではなんのために真理子がピアノを練習していたのかといえば、それは現実逃避だった。

 

「真理子ちゃんは他の子達とはやっぱり違いますね。子どもとは思えない表現力や技術もそうだけど、集中力がすごい。まるで生死をかけたみたいに練習するんですよ。一日十時間も集中して弾いていられる子どもは他にいないです」

 

 八歳の時、講師にそう褒められ、母はさすが真理子だと喜んでいた。

 しかし、なにも驚くべきことじゃない。文字通り、真理子は命懸けでピアノを弾いていたのだから。

 

「ただいま。お兄ちゃん」

 

 コンサートを終えて帰ってきた真理子は、ソファで寝る兄に声をかけた。

 

「おかえり、真理子」

 

 こもった声でそう返す兄の姿を見て、真理子は息を呑んだ。

 

 兄の顔の左側は完全に包帯によって覆われていた。それ自体は、よくあることだった。

 しかし、形がおかしい。真理子とよく似た顔立ちであるはずの兄の輪郭は、不自然に陥没していた。腫れあがっているならいざ知らず、どうやったら頬が落ちくぼむのか理解できなかった。

 

「コンサート、どうだった?」

 

 真理子の明らかな動揺を無視して、兄──吾郎は聞いてきた。

 

「……どうって、いつも通り。演奏して帰ってきた」

「そっか、ニュースでもやってたよ。すごいよな、真理子は。家族の誇りだ」

 

 ケガのせいか喋りにくそうにそう吾郎は言って、卑屈な目で真理子を見る。けれど、すぐに視線を下に落とした。兄妹と言っても、ここ数年、二人はまともな会話をしたことがない。

 

「ありがとう。もう疲れたから、寝てくるね」

 

 兄が自虐するように笑うのを見ているのが辛くて、真理子は逃げ出した。それも、いつも通りのことだった。

 

 小さい頃は違った。

 先を歩いていく兄に置いていかれたくなくて、いつも追いかけて。光を受けてキラキラ輝く蜜色の髪が羨ましくて。

 兄はそんな真理子にいつでも優しくて、甘やかしてくれた。

 ピアノレッスンで疲れきった真理子を、気晴らしだといってよく外に連れて行ってくれた。大好きな兄の漕ぐ自転車の後ろに乗せてもらう時間が、なにより好きだった。

 

 ベッドで横になって、子どもの頃の思い出に浸る。そうしていると、次第にまどろんできた。

 

 しかし、そう長くは休んでいられなかった。

 下の階の大きな物音に起こされたのだ。皿の割れる音と、完全に感情のコントロールを失った怒鳴り声。

 

 ──またあのバケモノが現れたんだ、この家に。

 

 いつ、どうして、現れるのかはわからない。でもあのバケモノはとつぜん現れて、家族をめちゃくちゃにして帰っていく。

 

 ベッドから飛び起きて、廊下に出る。

 真理子の部屋の外で、母が膝を抱えてうなだれていた。

 

「よかった! ママ、帰ってたんだ」

「……真理子、音楽室に行ってなさい」

 

 いつも言われた通りにしていた。でも、今日はとてつもなく嫌な予感がした。

 

「今日ね、お兄ちゃん、すごい怪我してた」

 

 懇願するような声が出て、すぐに後悔した。

 案の定、母の涙に濡れた弱々しい目が、危ういほどの険しさを帯びて、真理子を睨みつけた。

 

「私にどうしろって言うの!? あなたを守るので、私は精一杯なのッ」

 

 この恩知らず、と母は吐き捨てるように続け、金切り声で叫んだ。憎悪をありありと含んだ、喉が潰れそうなほどの大声。

 でもそれは、すぐに止まった。

 

「あっ……!」

 

 母はびくりと震えて、体を縮こませる。

 

 自分の怒声に自分ですくみ上がったみたいで、滑稽だった。

 もし全然知らない人が同じことをやったら、真理子は思わず笑ってしまったかもしれない。だけど自分の母が狂人のように振舞うのは、ただただ恐ろしかった。

 

「いきなり怒鳴ってごめんなさい……」

 

 全身を縮こまらせてカタカタ震える母は頼りなくて、手酷く叱りつけられた幼い子どもみたいに哀れな姿だった。

 

「でも、お願いだから分かって、真理子。あなたが大事だから守りたいの。あなたを守るためなの。全部、あなたのため。お兄ちゃんは男の子だから大丈夫」

 

 頭のどこかで、めちゃくちゃなことを母が言っていることはわかっていた。

 

 それでも母の言葉に頷くと、真理子は廊下を歩いていった。

 

 

 言いつけ通り音楽室に行って、ピアノの前の椅子に腰掛ける。

 

 うちの車よりもずっとしたんだ──そう誇らしげに父がくれたグランドピアノの蓋を開くと、思うがままにピアノを弾き始めた。

 

 そうして、家中に響き渡るいやなもの──涙をすする声、人のものとは思えない狂った罵声、痛みに喘ぐ悲痛な声、すべてをかき消すために真理子はピアノに没頭する。

 

 真理子のために用意された音楽室は、家の中で唯一内側から完全に鍵がかけられる部屋だった。そこにいれば安全だった。真理子の練習を邪魔しないのは、誰も破らない家族のルールだったから。

 

 これがお兄ちゃんのためになるんだ、と心のどこかで言い訳した。

 

 真理子は誰よりも特別な子どもなのだと父は言った。

 真理子みたいに美しくて優しい女の子がいつも欲しかったのだと母は言った。

 

 真理子はすごい子、この世界でいっとう特別な子。

 コンクールで優勝するたび、テレビに出るたび、日本中が喜んでくれる。真理子は全てを照らす星だから。そうならなきゃいけないから。

 

 もっと頑張れば、もっと成功すれば、きっとこの家族を幸せにできる。そうすればお兄ちゃんだって助かる。

 

 繰り返し繰り返しそう唱えて、外の悲鳴は聞こえないふりをして、世界にはこのピアノの音しかないのだと言い聞かせて、そして……。

 

 そうして今日も、彼女は全てを無視してピアノを弾いていたのだった。

 

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