古いプロジェクターが、三次元ユークリッド空間を研究所の白い壁に映し出していた。検出された認知世界のエネルギーの動きを示すプロットが、0.2秒刻みでカチカチと形を変えていく。
データが示すのは、多少の波があれど、おおむね安定した精神活動だ。
それが一昨日の20時41分にさしかかったとき、グラフ上に巨大なブレが生じ、次の観測では乱雑な点の集まりが出力された。既存のセンサーで正確に感知するには、あまりに膨大な数値だったのだろう。
しばらくの間同じような意味を持たないデータが続いた後──やがて、裏返しにした螺旋状の貝殻のような形が形成された。ディニ曲面だ、と若葉が気づく。
一回目の異常値ともまた違う。まだ一度も認知世界で観測されたことのない現象だ。
「うそ……」
「まさか機材エラーが二度も続いたわけじゃないですよね」
「信じられない、こんなの」
その場に居合わせた十数人の研究員たちは騒然とした後、説明を求めるようにそろって若葉の方を向いた。
「一色先生、これって一体、何があったんでしょうか?」
院生にそう問われ、若葉はニコリと微笑んだ。そして、わざとらしくプロジェクターを見上げてうんうんと頷いてみせる。
「そうですね、これは……」
ゴクリと唾を飲み、身を乗り出して若葉の次の言葉を待つ一同。
「──まったくもってチンプンカンプン、全然分かりません」
両手の人差し指でばつ印を作りながら、若葉はおっとりと答えた。
また揶揄われたのだと気づいた職員たちは「もうっ、先生!」「こんな時にふざけないでくださいよ」と呆れ声をあげる。
でも若葉はなにも冗談を言ってるわけではなかった。今度はもう少し真面目な声音で、言葉を継ぐ。
「なにも分からない。だからこそ解明するのが私たちの仕事です」
真実を知りたいという渇望。この世界の理を解き明かしたいという無限の探究心。それをバネにしなければ、研究者なんて仕事はとてもやっていられない。
認知訶学なんて辺鄙な分野を選んだここの同僚達も、初めて会った時は同じ志を持っていた。
だけど彼らは若葉が功績を積み重ねるたび、段々とつまらなさそうな顔を見せたり、冗談めかして自虐的なことを口にするようになった。そしてついには自分の能力を見限って、すべてを若葉に任せるようになった。
機材のメンテナンスやデータの記録などは申し分なくしてくれるが、何か理解できないことがあればすぐ若葉の意見を仰ぐ。その姿勢は、残念ながら研究者としては三流以下としか言いようがない。
──どこへいっても、同じことの繰り返し。
若葉にはない斬新な発想を持つ人と知り合っても、彼女と接するうちに、やがて「天才のあの人に任せればいい」「若葉ならやってくれるはずだ」などと口を揃えて同じことを言う。
「分からない、かあ」
「若葉さんでもお手上げならダメですね」
と、今も若葉の返事を聞いた同僚たちはすぐに思考を放棄した。
こういう時、世界に一人きりで立っているような気分になる。どうしようもない孤独を感じそうになって、若葉は微苦笑を浮かべた。
最初の異常値の計測から寝ずに作業を押し進めたせいで、弱気になっているのかもしれない。あれだけ熱望していたブレイクスルーはもう目の前、立ち止まっている暇なんてないというのに。
「これだけのことが認知世界であったんです。周辺にいた人たちに何らかの影響が出たと思っていいでしょう。調べはつきましたか?」
そう尋ねると、パソコンの前にいた男性職員が頷いた。
「はい、正確な住所を割り出すことができました。二回目の爆発の中心地は吉祥寺の住宅街の一軒家だったようです」
若葉は勝ち誇った笑みをひっそりと浮かべた。
センサーの感知範囲を限界まで狭めて精度を上げたのは、付け焼き刃の対策だったけどうまくいったらしい。徹夜した甲斐があったというものだ。
「その場所を映せますか?」と若葉は食い気味に頼んだ。
男性職員はマップアプリを開くと、衛星写真モードを選択して、緯度と経度を入力する。
壁に大きく映し出されたのは、ずいぶん立派な石造りの豪邸だ。
これって海外のどこかなんじゃ、と一瞬疑ったけれど、写り込んだ道路標識を見るに日本で合っているらしい。
若葉は心の中で「ここで一体どんなとんでもないことが何があったのかしら?」と、恋する少女のようにため息をついた。知的好奇心の光が、彼女の眼鏡の奥の瞳を若々しく輝かせる。
「へえー、いいおうちですね」
「お城? こんな家いくらぐらいするんでしょう」
「ははっ、ここの給料じゃまず縁のない話ですよ」
周りの若い職員たちが口々に囁き合う。いつも研究所に缶詰なせいで、職員たちはルームメイトみたいに気やすい関係だった。
「少し調べたところ、近隣住民のブログや地元紹介の記事でこの家が紹介されていました。ここはあのピアニストの明智真理子さんが住んでる家だそうです」
と、パソコンの前にいる男性職員が説明する。
その名を知ってて当然という態度に、若葉はちょっと気まずく思いながらも「明智真理子?」と首をひねる。
「えっ、知らないんですか? 若葉さん」
「ほらあの、すっごく可愛いくてすっごくピアノが上手な、おませな感じの子ですよ」
「でも最近は見ないですよね……怪我してピアノはやめちゃったんでしたっけ?」
「ああ、そういえばそうだったかも。もったいないですよね。今はもう中学生なのかな」
芸能人の類には興味がない若葉だったけれど、誰かが言った中学生という言葉には反応した。
「ここに住んでいるのは、中学生の子どもなの?」
研究者としての高揚は一気に冷えた。
少し考えれば当たり前の話だった。認知世界の爆発があった場所に住んでいるのはもちろん生きた人間で、そこには当然子どもだっている。
何があったのだろうなんて浮ついていた自分を、若葉は酷く恥じた。研究に没頭して視野が狭まるのは、間違いなく自分の悪癖だった。
その女の子のことが心配でたまらない。
双葉と同い年ぐらいの少女が、不安で怖い思いをしていないだろうか。ちゃんと誰か大人がついてあげているのだろうか。身体に悪影響は出てないだろうか。一刻も早く確認したかった。
しかし、困りものだ。認知世界のことを研究所外の人間に話しても信じてはもらえないだろうし、この異常なエネルギーの影響が分かりやすく肉体に現れるとは限らない。きちんと検査できるのは、結局のところ若葉だけだ。
「私、その子が無事かどうか様子を見てきます」
迷いなくそう言う彼女に、周囲の職員たちは驚いた声をあげる。
「えっ!? いやいやいや! いきなり突撃しても不審に思われちゃいますよ」
「何かあったのなら、病院に行ってるんじゃないでしょうか」
「若葉さん倒れちゃいますよ。徹夜続きだし、さすがに寝た方がいいですって」
慌てて引き留める彼らに、若葉は微笑みを返した。
「いってきます。機材のクールダウンは任せましたよ」
その顔に浮かぶのは優しい表情だけれど、どこか有無を言わせない迫力がある。
まったく、うちの天才博士の気まぐれには困ったものだ。そんな風に職員たちは息をつくと、止めることを諦めて各々仕事へ戻っていった。
外へ出た若葉は、数日ぶりに浴びる外のしんと冷えた空気に震える。
寒さから逃れるようにポケットに手を突っ込むと、コートに入れっぱなしになっていたケータイに当たった。
まずい、そういえば全然チェックしていなかった。慌てて若葉はメッセージアプリを開く。
双葉からの連絡が数件あった。安全確認のため、若葉が家にいない時には一日二回連絡するよう頼んでいたものである。返事できなかったのに律儀に送られてきているメッセージを見て、胸を締めつけられる。
昨日の夜、双葉は外食していたらしい。「寿司うま!」というメッセージとともに、回転寿司のボックス席に惣治郎と一緒に座っている写真が送られてきていた。
カメラに向けてピースサインを作って、双葉は満面の笑みを浮かべている。若葉が仕事で忙しいのを見越して、惣治郎が連れ出してくれたのだろう。あとでお礼を言わないとなと、心に留めておく。
そのほか無視してしまっていたメッセージの山の中には、大事な取引相手であり古い知人でもある獅童正義からのものがあった。
送られてきた内容は、週末のディナーの予定をキャンセルしたいという簡潔なものだった。はて、いつそんな約束をしたんだっけ? と若葉はちょっと焦る。
獅童と最後に会ったのはずいぶん前だった。多分その時に約束したのだろうけど、全然思い出せない。
──でも、これはよくない兆候だ。
この研究所に科研費が下りたのも、獅童の人脈と根回しがあってのことだった。認知訶学に彼は関心を寄せてくれて、空き時間に若葉の書いた論文を読んでくれたほどだった。それが最近は完全に興味を失っているらしい。
驚きはない。打算的な人だから、いつかはそうなると思っていた。自分に何かうまみがあるかもしれないと思ったから若葉に協力したけど、これまでの成果は期待外れだったというところかもしれない。
とはいえ、科研費はこの研究所の生命線。これがなくては立ち行かない。
若葉は急いで文字を打ちはじめた。週末に会えなくなるのはとても残念で、予定を合わせるからまた話したいと、そう返事を書く。
そして少し考えてから、「近々認知訶学に大きな発見がある予定だから、そのことについても話したい」という旨を付け加えて、送信ボタンを押した。
呼び出し音の後、「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」という音声が返ってくる。
少しずつ時間を空けて試したけれど、もうこれで五回目。吾郎のケータイ電話には一向に繋がらない。
里奈は公衆電話の受話器をガチャンと降ろすと、ため息をついた。
「ダメ。電話、まだ繋がらない」
「そうか」
良太は苦しそうに目を伏せた後、駅構内の時計をサッと見る。
「もう時間がない。アイツらが帰ってくる前に家に戻らないと」
「だけど」
「吾郎なら、絶対大丈夫だよ。ああ見えてしぶといし、頭の回転早いし、きっと逃げ切ったんだ」
「……うん。きっとそうだよね」
頷きながらも、里奈は納得しきれずにいた。
慈愛の翼が大騒ぎになったあの日、二人は吾郎を地下室から逃がそうとしたのだ。
里奈は家のマスターキーを盗み出して、良太はこっそりケータイを回収した。メッセージを書いた紙をケータイと一緒に地下室に落とすところまではスムーズにいったのだ。あとは大人たちがいないタイミングを見計らって、窓を開錠するだけでよかったはずだった。
でも次に様子を見に行ったときには、地下室には誰もいなかった。
あそこから出るには、カードキー認証が必要なエレベーターを動かすか、窓までよじ登るしかない。そのどちらも、中に閉じ込められている吾郎では無理だったはずだ。
里奈たちが助けに行く前に、吾郎はおじいちゃんの手によってどこかへ連れ去られてしまったのかもしれない。前にも、いきなりいなくなる子達がいた。海外に送られたらもう終わりだ。
お気に入りの吾郎なら大丈夫だと信じたい。でも、もう手遅れな可能性だってある……。
そう考えると、指先がスッと冷えていく。怖くてしかたなかった。でも、これ以上里奈にできることはない。
後ろ髪引かれる思いで公衆電話を見ながらも、里奈は歩き出した。年下の良太だって我慢してるんだから、と自分に言い聞かせながら。
こっそり家に帰ってからすぐに、おじいちゃんが帰ってきた。
本当にギリギリのタイミングだ。あと少しでも遅れていたら、抜け出したことがバレてしまっていたかもしれない。
良太と一緒に、一階の待合室のソファで漫画を読んでいるふりをする。そうしていると、玄関から話し声が聞こえてきた。
「お義父さん、やっと帰ってきたの……! 全て私に押し付けていいご身分ね」
一階に降りてきたお母さんが、金切り声で怒っている。
その声を聞いただけで心臓がバクバクとして、汗がふき出てくる。もし目の前にお母さんがいたら、また耳がキーンとして何も聞こえなくなっていたかもしれない。
「今日もクソ客から苦情が来たけどどうするつもり? 欲張って政治家の家に貸しを作ろうなんてするからこんなことになったのよ。もう終わりだわ!」
「警察に通報する」と、あの綺麗なピアニストの子が宣言して以来、この家の空気は張り詰めていた。お客さんの出入りは全然なくなって、おじいちゃんはあちこちに電話をかけたり出かけたりで忙しくしていた。
家中が大混乱しているからこそ、里奈たちも人目を盗んで自由に行動できたのだ。
怒り狂うお母さんに対して、いつも通りの優しい声音でおじいちゃんは返事する。
「そうだね。僕も今度ばかりは参っちゃったよ。あてにしていた啓次くんもおかしなことになってしまったみたいだし。でもね、もう大丈夫。面白いものを手に入れたんだ」
「面白いものって……やだ、何、その汚い箱?」
「後で説明する。でもこれが僕の思った通りのものなら、交渉に使えるかもしれない」
穏やかな笑い声とともに、おじいちゃんは続ける。
「──大丈夫。吾郎くんにも真理子ちゃんにも、ちゃあんと仕返しするから」
どくんと、里奈の心臓が音を立てた。
またすごく嫌なことをおじいちゃんが考えている。どうしよう? 早く吾郎くんとあの子に知らせないと……。
玄関での会話を終えると、二人は「大切な交渉道具」を倉庫へ隠すために、一緒にどこかへ出かけて行ってしまった。
車がいなくなる音がして、やっと息が吸えた。知らないうちに呼吸を止めてしまっていたらしい。
気を落ち着ける里奈の横で、良太はなぜか少し嬉しそうな顔をしていた。
「やっぱり吾郎、無事だったんだな。あんなに焦ってるアイツら初めてだ」
「うん、本当によかった。でも、おじいちゃんたちがまた何かしようとしているみたい」
「だな。早く知らせないと」
「でも電話は繋がらないし、どうやって……?」
良太は自信ありげにニヤリとした。
「また抜け出すんだよ。あのピアニストの子のうち、カーナビに登録されてたから分かるんだ」
「すごっ……! 覚えてるの?」
「おう。この前、丸暗記した」
里奈はくすくす笑う。
こっそり悪巧みしていると、良太と吾郎が一緒にいた時のことを思い出す。
ここから抜け出そうと、来たばかりの小学生の男の子二人に誘われて、里奈は最初意味が分からなかった。家から出ていくなんて、夢の中で考えたことすらなかったから。今でも正直、ここから離れた自分なんて想像がつかない。
でも、それが他の子達の望みならうまくいってほしいと思った。だから協力した。
あの時は、毎日がすごく楽しかった。みんなと一緒になって作戦会議をしたり、リーダーを投票したり。その日あった辛かったことを聞いてくれる仲間がいるだけで、世界が全然違って見えた。
だけど結局、脱走計画は最悪の結果に終わってしまった。
警察にもまるで取り合ってもらえず、集めた証拠はすべて取り上げられて捨てられてしまった。それどころか、警察はおじいちゃんに頼まれるままに、里奈たちを慈愛の翼に送り返したのだ。
それだけなら、まだ里奈たちは希望は捨てずに頑張れたのかもしれない。本当に最悪だったのは、その後だった。
事件の後、おじいちゃんは計画に参加した子を一人ずつ部屋に呼びつけて話を聞いた。
そこで計画の中心にいたと判断された子は、お母さんからひどい折檻を受けた。中でも良太は、「扇動者」だったとおじいちゃんは言って、一番酷い目に合わされた。
それなのに、リーダーだったはずの吾郎にはなんの罰もなかった。それどころか、一人部屋や自由時間というご褒美をもらったのだ。
優遇されたのは吾郎だけじゃない。計画に参加した他の子どもたちの間でも、目に見えて分かるくらいに受けた罰には差があった。
すぐにみんな疑心暗鬼になった。裏切って計画をバラした子だけが助かったのだと思ったのだ。
仲間割れして、散々にお互いを罵り合った。先に裏切られることが怖くなって、どんな小さなことでも大人に告げ口し合うようになった。一緒に頑張ろうなんてもう二度と思えないほどに、絆は壊れてしまった。
今にして思うと、それはきっとおじいちゃんたちの思惑通りだったのだ。
リーダーだったからこそ、誰も吾郎を信じられない状況にした。そしてみんなの間にも、わざと見せつけるように扱いに差をつけた。疑いの種を植え付けるために。
一度だけ吾郎は弁解しようとしたけれど、うまくいかなかった。その一回きりで、吾郎は見限りをつけたのだろう。疑いを晴らすことを諦めると、里奈たちと一切口を利かなくなった。
里奈は他の子を説得しようとしたけれど、その前に吾郎が引き取られて去ることが決まってしまった。
もう二度と仲直りはできないのだと諦めていた。あのお別れで永遠に終わりなのだと。
それが、この間の事件で変わり始めたのだ。
──大丈夫、まだやり直せる。そう思うと心に温かいものが灯った。