苦手な方は注意してください。
プロローグ ベルベットルーム(仮)
ピアノの旋律に、まどろみから起こされる。
うっすらと目を開くと、目の前に広がるのは一面のブルー。深海を思わせる濃い青の空間に、ステンドグラス越しの光が差し込み、幻想的な模様を床に描き出している。
円形の部屋の中央でグランドピアノを弾くのは、これまた深い青のドレスを着た少女。腰まで伸びた銀色の髪が光を浴びて、粒子を纏ったかのようにキラキラと輝いている。
「は……?」
吾郎はぽかんと口を開けた。
なにがどうしてこんなところにいるのか理解できない。
記憶を辿る。真理子と話した後は、自分の部屋に帰って寝たはずだ。
ならこれは夢か? だが、夢というにはあまりに鮮明だ。
──ピアノの音が、ぴたりと止む。
銀髪の少女がピアノを弾いていた手を止めたのだ。
静寂が広がるなか、彼女は青い椅子から軽やかに飛び降り、舞うような足取りで吾郎に近づいてきた。目が合うと、にこりと笑う。
「ようこそ、はじめまして」
金色の大きな瞳に、人形のように整った可憐な顔立ち。年の頃は六、七歳くらいだろうか。
髪の色こそ違えど、正面から見れば──間違いない。
「……真理子ちゃん?」
そう。この小さな少女は、漫画喫茶にいた真理子のシャドウそっくりだった。
この手で引き金を引いて胸を撃ち抜いたはずの相手を見て、吾郎は奇妙な気分になった。
「うん? それは、この身体の持ち主の名前なのかな?」
きょとんと、銀色の髪の少女は首を傾げた。
姿形は真理子そっくりだが、よく聞くと声が違う。
少年と少女の間にいるような中性的なその声音には、聞き覚えがあった。どこでその声を耳にしたのか少し考えてから、地下室に閉じ込められていた時に現れた青い蝶とよく似ていることに思い至る。
この金色の瞳ひとつとっても、まず人間じゃない。
吾郎が静かに警戒心を高める中、彼女は酷くのんきな様子で話しはじめた。
「ボクの名前は……ええっと、あれ? ど忘れしちゃったけれど、とにかく真理子という名前じゃない……はずだ、うん」
煮え切らない答えだった。
「自分の名前も分からないの?」と、吾郎は呆れ半分に聞く。
「ボクの、名前……うーん」
少女はしばらく唸るように考え込んだあと、肩を落とし、しゅんと眉を下げた。
「あ、あ、あー……ダメだ、分からない。そうか、ボクの記憶は損傷してしまったのか」
記憶喪失と言いたいらしい。その真偽はさておき、これでは彼女自身について何を聞いても煙に巻かれるだけだろう。
「じゃあ、ここが何処かは知っている? ようこそっていうからには、君が僕をここに連れてきたんだよね。目的はなに?」
「ああ、それは分かる。ここは、君と一緒にいたあの女の子のパレスの中なんだ」
さらりとそう言って、少女は小さく首を傾げた。
「ボクは帰る場所も、姿形も無くしてしまったから。よく思い出せないけど……どうせ消滅するくらいならって思って、崩れかけの彼女のパレスと、彼女のシャドウの姿を借りてみることにしたんだ。それで命拾いしたってところかな」
「パレス……?」
宮殿のことではないのは明らかだ。吾郎が顎に手を当てて考え込むと、少女が話を続ける。
「うん。君はつい先日、このパレスの主である女の子と、本棚で区切られた道を歩いていただろう?」
本棚の道──。
すぐに情景が思い浮かんだ。真理子と共に歩いていた、あの入り組んだ異世界の漫画喫茶。
それを、真理子が主である“パレス”と呼称しているようだ。
この存在が何者かは分からないが、少なくとも吾郎よりは異世界に詳しそうだった。情報を引き出せる可能性がある以上、無碍にするべきじゃない。
そう計算する吾郎をよそに、彼女は話し続ける。
「本来ならあるべきじゃないところに、突貫工事で作ったからね。キミの精神よりも、もともとパレスの主だった女の子の精神の方が部屋に影響を及したらしい。この音楽室というのは、きっとキミに馴染みがないものなんじゃないかな?」
本来なら吾郎の心象風景になるはずだったこの空間は、無理やり真理子のパレスの上に建てた結果、真理子の記憶が反映された場所になった。
少女の言うことをまとめると、そういうことになる。
しかし、ここの内装なんて限りなく興味がない話題だ。
聞きたいのはそんな話じゃない。もっと根本的な、彼女が何者かということ。
吾郎は、ひとまず少女の問いかけを聞き流して、本題に入ろうとした。
「──それで、何の目的があって僕をここに呼んだの?」
尋ねると、銀髪の少女は頬を膨らませた。
「キミ、よくないなその態度はっ」
言って、どこからか取り出した
「キミは二つ質問をした。ボクはきちんとその両方に答えるつもりだった。それを一つ目の後に、キミが遮って質問を重ねたんだ。人の話は最後まで聞くべきだ、お客人」
こんな幼児同然のガキに偉そうに説教されるとは……。
苦い顔をする吾郎をよそに、彼女はとつぜん、パァッと顔を輝かせた。
「うんっ。今の叱責はよかったな……厳格な案内人って感じだ。威厳がある態度で、姉さんや兄さんにも負けない」
ゴニョゴニョ一人で喋った後、吾郎に冷めた目で見られていることにハッと気がついて、コホンと咳払いを一つする。
「とっ、ともかく! ボクはキミの案内人なんだ。キミを導き、見守る。それがボクの役目だ」
誇らしげに胸を張る少女を、吾郎は鼻でせせら笑った。
「記憶喪失で自分の名前も思い出せない小さな女の子が、僕を導き、見守る、ね……。期待できそうだよ」
だけど彼女は言外の嫌味にも気づかず、はにかんだ笑顔を浮かべる。
「ああ、期待して、頼りにしてくれ! それから、ボクは男だ。言っただろう? この姿は借り物なんだ」
別にそんなの、どちらでも構わないが……。
だんだんと、この子から有益な情報は出て来ないんじゃないかと、吾郎は疑い始めていた。
「ふうん……。真理子の見た目になる前は、オスの蝶だったってこと?」
「いいや、あれもまた、ひとときの姿でしかない」
「じゃあ元々は男だったの?」
「ああ。きっとそうだったはずなんだ。もう自分の元の姿は思い出せないけど」
などと話していた時に、ふいに後方から息を呑む音が聞こえてきた。
「……あっ」
その声に、吾郎はゆっくりと振り向く。
後ろにいたのは──真理子だった。
音楽室の重厚な扉の前に立ち尽くし、彼女にしては珍しい、ぽかんとした表情でこちらを見つめている。
着ているのは、シルクのパジャマだ。普段着慣れた寝巻き姿が、この幻想的な青の世界の中で妙に浮いて見えた。
その姿に、ふと我に帰って、吾郎は自分の姿を確認する。
思った通り、どうやら吾郎もずっとパジャマを着ていたらしい。
荘厳な雰囲気の青い音楽室に対して、二人とも間抜けな格好である。
「吾郎くんっ、それに……私?」
戸惑う真理子を見て、銀髪の少女──もとい少年は、小さくため息をつく。
「ああ、そうか。ここは彼女のパレスが元になっているから、彼女に対して鍵をかけることができないのか。招かれざる客だが、仕方がない」
肩をすくめてそう言った彼の態度に、真理子の眉がわずかに動いた。
吾郎の隣までずんずんと歩いてくると、じっと少年を見下ろす。
「人の顔を見てため息とは、ずいぶん失礼な態度ですね。私の姿を真似ているみたいですが、あなたは一体誰なんですか」
高慢なその態度に、吾郎は少し呆気に取られた。
最近はすっかり気落ちした姿しか見ていなかったせいでつい忘れていたが、そういえば真理子はこういう性格だった。
だが、このまま口論になっても時間の無駄だ。
吾郎は軽く彼女の肩を叩いて、視線を合わせる。
「──真理子さん、ちょっといい?」
そして、少年から聞き出した情報を、手短に伝える。
真理子は黙って聞いた後、頷いた。
「……ここがもともと私の異世界だった。なんとなくだけど、そう言われるとしっくりくる感じがします」
突拍子もない話ではあったが、真理子はあっさりと受け入れた。
もともとこのパレスの持ち主だった彼女からすると、何か感覚的に理解できるものがあるのかもしれない。
真理子は静かに腰を落とし、自分のシャドウと瓜二つの少年と目を合わせた。
「つまり……あの時の蝶は、あなた、だったんですね?」
「ああ、そうだ」
少年はどこか得意げに胸を張って答えた。
それを聞いて、ふんわりと、優しい笑みを真理子は浮かべた。
「その節はありがとうございました。あなたに助けて頂いたこと、とても感謝しているんです」
「構わないさ」
真理子は上品に頷く。そして一呼吸置いてから、少し困ったように続けた。
「それなのに、こんなことを言うのは恩知らずみたいで大変心苦しいのですが──ここからお引越しってできます? できればお早めに」
水をかけられた猫のように、銀髪の少年は飛び上がった。
「なっ、なぜだっ!?」
「だって、嫌だもの。ここは私の心の世界なのでしょう? そこに私の姿を真似た正体不明の何かがいるだなんて、正直、あまり気分がよくないです」
ストレートに気味悪がられたのが、相当堪えただったらしい。少年はわなわな震えながら、助けを求めるように吾郎を見る。
しかし、吾郎はそっと目を逸らした。
真理子のいう通り、自分の心の中にわけのわからないものが棲みついているなんて、誰だって遠慮したいはずだ。
「で、でも、ボクはここを出たら、一瞬で消されてしまう……」
潤んだ金色の瞳が、上目遣いで真理子を見つめる。
真理子は少しだけ居心地悪そうに、視線を落とした。
「消されるって、誰にです?」
少年は小さな手で額を押さえ、苦痛を堪えるように表情をゆがめる。
「ヤル……オ……」
「やる夫?」と、真理子が小首をかしげて問い返した。
「いや、駄目だ……すまない、どうしても思い出せない」
少年は眉を寄せ、悔しそうに首を振った。
「でも、ボクを壊したのはそいつだ。それは間違いない」
真理子は困ったような表情で吾郎の方を見る。
「さすがに、”ここを出たら死ぬ”なんて聞いて、追い出すわけにはいきませんね。助けてもらったのは紛れもない事実ですし……どうしましょうか」
「彼の言うとおり、ここが真理子さんの心の世界なら、どうするか決めるのは君自身だと思うよ」
吾郎の言葉に、真理子は目を伏せた。
長い沈黙ののち──ゆっくりと顔を上げた彼女は、落ち着いた声で言った。
「いいでしょう。ひとまず、ここにいることを許可します」
「本当かっ!」
素直な笑顔を浮かべて、少年は真理子を見上げた。同じ顔でも、真理子は決して作らないような表情だ。
「あなたは異世界のことに随分詳しいようですし、何度か助けてもらったことも事実です。私たちにはあなたの助けが必要だと思います」
言って、ふと言葉を切る。真理子の表情に一瞬、影が差した。
「……実際、軽率なことをしたら取り返しがつかないことが分かったばかりですし」
皮肉げにそう言った後、真理子は空気を切り替えるように続けた。
「でも、しばらくお付き合いするとなると、あなたに名前がないのが不便ですね。なんてお呼びすれば?」
「むっ……そう言われても、よく分からない」
困りきった顔で、少年は吾郎を見上げてきた。
「キミに何か案はあるかな?」
「ペットの名付けじゃあるまいし、そう言われてもね」
吾郎はため息をついた。心底どうでもいいという空気を隠そうともしない。
「いいじゃないですか、そのくらいつけてあげれば」と、真理子がなぜかあちらの味方をする。
「ああ、ぜひキミに頼みたい」
真理子と少年がそろってこちらを見た。
二対の瞳に期待するように見られて、吾郎は折れた。
「……じゃあ、銀とか」
髪の色をそのまま言ったら、真理子が呆れ顔になった。
「まるで本当にペットの名付けですね」
「文句があるなら、君が案を出しなよ」
「んー……二文字じゃ寂しいし、それに男の子なんでしょう? 銀太でどうです?」
銀太だのやる夫だの、どうもここの世界観に合ってない気がするのだが……反論するのも面倒なので吾郎は頷いた。
「じゃあ、銀太で。それで君も構わないね?」
「ああ、素敵な名前をありがとう」
銀髪の少年改め銀太は、満足そうに笑った。
「これからボクはキミたちの助けになってみせる。期待しててくれ」
張り切った声でそういう銀太に、吾郎は胡乱な目を向けた。
記憶喪失の小さな子どもに一体何ができるというのか、正直疑わしい。
「助けになるって、君は具体的には何ができるの?」
冷めた声で水を差すと、銀太は「むむっ」と唸り、後ろのグランドピアノへ目を向けた。
「そうだな……ボクだけでできるのは、たとえばペルソナの記録──“採譜”だな。そして、複数のペルソナを合わせる“編曲”。ひとまず、それくらいかな」
「いえ、待ってください。ペルソナって、一体なんですか?」
同じことを吾郎が聞く前に、真理子が声を上げた。
「すまない、その説明もまだだったか」
銀太はそう言いながら、おもむろに指揮棒を吾郎たちの方へ向けた。その仕草は、妙に芝居がかっていた。
「ペルソナとは──具現化した反逆の意志。人の心から生まれる、形ある力のことだよ。例えばキミたちの、ロビンフッドやエポニーヌのようにね。ボクの役目は、客人のその力の成長を手助けすることだ」
「あれって、スタンドじゃなかったんですね……ちょっとがっかり」とぽつりと真理子が呟く。
まだそれ引きずっていたのか、と吾郎は内心でツッコミを入れた。
「まあ、こうして口で説明するよりも実践した方が早い」
銀太は小さく笑って、指揮棒をくるりと回す。
「まずはペルソナを集めて来てくれ」
──ペルソナを集める?
どうすればそんなことができるのか、吾郎が問い返そうとしたその瞬間だった。
急に、身体がずしりと重くなる。四肢の感覚が遠のき、音楽室の空気までもが揺らぎ始めた。
「まだまだ質問があるって、そういう顔をしているな」
銀太は、どこか慈しむような目で吾郎を見つめた。教師がお気に入りの教え子を見るような、不可解なほど優しい目だ。
「でも、残念ながら時間切れみたいだ。キミの意識が覚醒しようとしている」
視界がゆっくりと色褪せていく。
音楽室が遠のき、音も光も、暗闇へと溶けていった。
「また会おう。キミたち二人がこの家で夢を見る夜……その条件が揃った時、ボクは再びキミの夢に干渉できる」
ベッドの上で目を覚ましても、彼の声は耳に残っていた。
おそらく、あれは夢なんかじゃない。
夢にしては、五感が体験した感覚がすべてが鮮明だった。あの異世界と同じように、現実ではないどこか別の空間なのだろう。
そう考えた時、ふと真理子がどうしているか心配になって、吾郎は二階へと降りた。
静まり返った廊下を歩き、彼女の部屋の前で足を止める。
軽くノックをして──返事がないのを確かめると、少しだけ罪悪感を覚えながらも、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中はまだ暗く、暖房の音だけが微かに響いていた。
中央のクイーンサイズのベッドで、真理子は静かに眠っている。小さな寝息を立てながら、布団にくるまるその姿は、昨日の彼女とは別人のように穏やかだった。
せっかく安眠しているのだから、起こす理由はない。
吾郎はそっとドアを閉め、自室へと戻った。
カーテンを開けると、外はまだ薄暗い。置き時計に目をやると、朝の六時。まだ日も登っていない時間だ。
道理で暗いわけだ……と、ふと窓の外に視線を向ける。
そして、吾郎は思わず目を凝らした。
家の正門の前に、誰かが立っている。
静まり返った街にポツンと浮かぶのは、黒髪の女性の姿だった。
艶やかなボブカットに、白衣の上から厚手のコートを羽織った珍妙な服装。
吾郎の体に警戒が走る。
誰だか知らないが、岡倉が送ってきた人間という可能性も捨てきれない。
そう思った矢先、女がふと顔を上げた。
三階の窓から見下ろす吾郎と、ばっちり目が合う。
彼女は、ニコリと微笑んだ。
そして、唇がわずかに動いた──降りてきて、そう言ったように見えた。